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カテゴリー: 日本史(戦国)

天地に燦たり

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 川越 宗一 、 出版  文芸春秋
大変なスケールの話であり、著者の博識に圧倒されてしまいました。
舞台は秀吉による朝鮮侵攻戦です。それに従事する島津家の重臣が主人公の一人。対する朝鮮にも、もう一人の主人公がいます。両班(ヤンバン)の師匠をもつ白丁(ペクチョン)ですが、戦乱のドサクサで両班だと詐称します。さらに、もう一人は琉球国の密偵です。
それぞれの国情がきめ細やかに描かれ、話がからみあいながら進行していく様子は、さすが職業作家の筆力は違います。自称モノカキの私ですが、桁違いの博識には唸るばかりでした。
朝鮮の両班の話は、先に両班の日記の復刻版を紹介しましたが、著者も、それを読んでいたのかなと、つい思ってしまいました。日本からの侵略軍が来る前後に、朝鮮国では科挙の試験が実施されていたのです。文を尊び、武を軽んじていたこと。両班たちを含め、上層部で党派抗争が激しかったことなどもきちんと紹介されています。
そして、琉球国です。島津と日本との関係をどうするか、いや、その前に中国との関係をどうするのか・・・。ついに島津軍が沖縄に上陸し、琉球国も戦わざるをえません。しかし、歴戦の兵士ぞろいの島津軍の前に、あえなく敗退・・・。
島津軍は、朝鮮で明の大軍に攻められながらも、ついに撃破してしまいます。どうして、そんなことが可能だったのか・・・。
「人にして礼なければ、よく言うといえども、また禽獣の心ならずや」(『礼記』らいき)
さすが松本清張賞をとっただけのことはある、時代小説でした。
(2018年7月刊。1500円+税)

星夜航行(上巻)

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  飯嶋 和一 、 出版  新潮社
 この著者に初めて出会ったのは『神無き月、十番目の夜』でした。読むにつれ息を呑むほど圧倒されてしまいました。20年も前のことです。すぐに読書好きの弁護士に教えてやりました。次は『出星前夜』です。大佛次郎賞をもらったそうですが、島原の乱、原城攻防戦を描いていて、ぐんぐんと惹きずられました。もちろんストーリー展開も見事なのですが、人物と戦場をふくむ情景描写がすごくて、思わず我を忘れて没入してしまいます。この本も見事です。たとえば、こんなのは、どうですか・・・。
この若衆は、覚了の姿を確かめると片膝立ちとなり、まず笠緒を解いた。ひどく落ち着いた動作だった。前髪を残して頭上の真ん中を剃り上げ、茶筅(ちゃせん)に結いあげた髪の様から武家に奉公する身であることは分かった。簔も脱いで、総門の庇下にそれらを丁寧に置いた。表に着付けていたのは柿染めの古袷と麻袴の野良着だったか、襟元からは不釣り合いな繻子の小袖がのぞいていた。足まわりは、山家暮らしの山葡萄蔓(ぶどうづる)を編んだ脛巾(はばき)と草鞋(わらじ)だった。草鞋の下にも不釣り合いな革足袋を履いているのが分かった。
いやはや、見事な描写ですよね。これが、この本の主人公の沢瀬甚五郎の様子です。甚五郎は、徳川家康の跡継ぎの本命とみられていた徳永信康の小姓に取り立てられたものの、信康が甲斐の武田勝頼と意を通じていることが発覚して、信長と家康から切腹を申し付けられます。小姓だった甚五郎が、危機を脱出していく過程の冒頭が先ほどの描写なのです。
やがて、信長は本能寺の変で倒れ、秀吉の時代になります。すると、秀吉は何を血迷ったか、中国(明)を倒すといって無謀にも朝鮮侵略戦争を始めます。
この上巻は、朝鮮侵略戦争の前半の経緯を詳しく描いた途中までです。その詳細さには、思わず息をひそめて、これってみんな歴史上の真実なのかな、それとも作家の想像力の産物なのだろうか・・・、そんな真剣な問いかけを、ついつい自らにしてしまいました。これって、それほど真に迫った歴史小説だと、絶賛しているのですよ。
東京の内田雅敏弁護士が面白かったとメールで書いていましたので、私も読んでみましたが、たしかに期待を裏切ることはありませんでした。上巻だけで533頁もある長編です。ぜひ図書館で借りてでも、お読みください。歴史小説の面白さに、あなたもはまることを保障します。
(2018年6月刊。2000円+税)

安土唐獅子画狂伝

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 谷津 矢車 、 出版  徳間書店
織田信長の安土城の天守閣に描いた画師は狩野永徳。その狩野永徳が主人公の物語です。ついつい画師の世界に引きずり込まれてしまいました。
本能寺の変で信長が亡くなったあと、狩野永徳は秀吉の依頼によって信長を描きます。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)に身を包み、大小を差したまま座る老人。立ち上がった絵には実物と見紛(みまが)うほどの生々しさがある。肩をいからせるように座る男の像には、見る者を吞まんという気が満ち満ちている。
永徳は弟子に太筆と最上級の紙を買ってこさせた。一畳では収まらない大きな紙を、普段は空けてある大作(たいさく)用の画室に並べさせた。
永徳は気を張りめぐらせながら墨を磨った。清冽(せいれつ)な高音があたりに響き渡る。己の魂を切り刻んで溶け込ませるような気持ちで硯に向かう、そのうちに弟子の一人が用意の終わった旨を告げた。永徳は乗り板の上に座り、筆を墨に浸した。まっさらの筆は吸いが悪い。それゆえ、いつもよりも丁寧に穂先を墨にくぐらせた。
気を吐く。天地に己しかいない。そう言い聞かせる。織田信長・羽柴秀吉・千宋易・長谷川信春(等伯)。そんなものは紙の上にはいない。あるのは、ただ己の画の意のみ。そう思いを定めて筆を落とす。永徳にとって、絵を描くことは、筆先で新たな三世を紙の上に開闢(かいびゃく)するがごときこと。紙の上に広がるものに実体はなく、どこまでいっても、所詮は嘘だ。だが、内奥に迫れば迫るほど、現(まこと)と幻(まぼろし)の区別がつかなくなっていく。筆一本で、この世の秘密に迫ることができる。そのことが楽しくて仕方がなかった。
安土城の天守閣に永徳の描いた絵が残っていたら、どんなに素晴らしかったことでしょう・・・。残念です。画師として信長に対等に生きようとした永徳の苦闘の日々が「再現」されていて、一気に読ませます。
私は安土城の天守閣の跡地に2度だけ立ちました。昔ここに信長が立っていたのだと思うと感慨深いものがありました。近くに狩野永徳の描いた壁画が再現されています。
(2018年3月刊。1600円+税)

琑尾録 (上)

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 呉 希文 、 出版  日朝協会愛知県連合会
秀吉の侵略を受けた朝鮮側の一文化人の記録です。
上巻だけで480頁ほどもある大部な日記なのですが、朝鮮半島で平和に暮らしていた人々が突然、日本の武装兵に襲われ逃げまどっている状況が刻明に記録されています。
1592年4月、日本軍(「倭賊」と表記されています)が侵入してきて、1601年2月末にソウルに戻るまでの9年間の日記です。山中の岩かげで風雨をしのぎながらも記し続けた日記です。著者は両班(やんばん)で男性なので、ハングルではなく漢文で書かれています。
日本軍は戦国時代に戦争に明け暮れていたので、いわば歴戦の勇士です。これに対して朝鮮のほうは、1392年に朝鮮王朝が成立して以来、200年続いた平和の国でしたから、日本軍の侵入は、まさに青天の霹靂、何の備えもありませんでした。ずるずると後退していったのも当然です。そして、明軍が入ってくるのですが、明軍の接待も食糧の供出など、朝鮮の人々にとっては大きな苦労を余儀なくされました。
著者はソウルに住む名門の両班。本人は科挙に合格できなかったので、在野にいて、高い人格と学問ある人として周囲から尊敬されていた。その息子の一人が科挙に極隠し、日本への訪問団の一人となるなど、活躍した。
タイトルの「琑尾」とは、中国の古典、四書五終のなかの詩経に出てくる言葉、「琑たり尾たり流離の子」(うらぶれおとろうたさすらい人よ)からきている。したがって、「流離記」という意味。
1592年4月16日。倭船数隻が釜山に現れたというしらせが届く。夕方には釜山が陥落したというしらせ。驚愕する。城主が堅く守らなかったのだろうか。
4月19日。賊(日本軍のこと)は兵を三路に分け、まっすぐ京城に向かい、山を超え、大河を渡り、無人の野を行くようだという。哀れな民衆は、ことごとく賊の槍の餌食になったという。王がはかりごとも立てず、まず自分から逃げるとは、深く深く残念なことだ。わかほうの軍務長官は、軍の威厳を示そうとして大きな枝をふるって、あちこちで厳刑を加えるので、ムチ打たれて倒れる者も多く、人々の怨みはつのり、いっそ敵に攻めこられる方がよいと考えるほどになっていた。
たのみとするところは、今は義兵の旗揚げだけだ。聞くところでは、倭賊侵入後、嶺南の人は投降し、敵の手引きをする者が非常に多く、また徒党を組んで倭賊の声をまねて村に侵入し、村人が逃げ散ったあと、財産を略奪していく者も多いという。噂では、倭賊は、嶺南で両班女性のみ麗しい者を選んで5隻の船に満船して先に自分の国に送り、厚化粧させて売り飛ばしたという。
デマも記録されています。
琉球国人が日本全国の軍備が空になっているのに乗じて、平秀吉(豊臣秀吉のことです)を刺殺した・・・。
8月、明軍が来て、平安道の士気が上がる。
8月。三国時代以来、戦火のわざわいは何度も受けたが、島夷によるこのように酷い侵略は未曾有のことだ。今は、八道すべてが賊に躁躙されるという。わが国はじまって以来の大変事だ。
11月。村内の若者たちが集まって、すごろくをしている。負けた者は、両眼のまわりに墨を塗られてみんなの大笑いのタネにされる。
戦火のなかでも、このような余裕はあったのでした。
12月。大臣たちは心を合わせて回復しようとするのではなく、いまも東西の派閥に分かれて攻撃しあっている。国王の政庁と王世子の政庁との間に不和をかもしだしている。
1593年7月。倭賊は、南部の海岸地帯に倭城を築いて居すわり、周辺で耕作したり略奪しながら、日明平和交渉というだましあいを続けている。
11月。することもないので、末娘と碁石遊びで日を過ごし、流浪の寂しさを紛らわす。
1594年4月。最近、乞食が減った。ここ数カ月でみな飢え死にしてしまったので、村の中を乞食して歩く者がなくなったのだ。嶺南や幾内では人肉を食っているとささやかれている。遠い親戚など殺して食うというのだ。倭賊の投降者が続々と上京していき、少しでも気に入らないことがあると怒鳴りつけ、剣を振りまわしたりする。
1596年7月。李夢鶴の乱が起きたときの状況も日記に詳しく記録されています。
慶長元年閏(うるう)7月に日本の幾内で大地震が起きたとことも9月2日の日記に登場しています。情報伝達の早さ、確実さにおどろかされます。
噂では、日本国で去る8月、和泉県で地震があり、家があっという間に倒壊し、関内の兵士数万人が圧死した。
いやはや、かくも詳細な日記を戦火に追われるなか漢語で書き続けていた知識人(両班)がいたとは、驚きです。当時の知的水準の高さを如実に示しています。
日本文にするのには大変な苦労があったと思いますが、貴重な労作です。多くの人に読まれることを願っています。下巻が楽しみです。
(2018年6月刊。3000円+税)

バテレンの世紀

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 渡辺 京二 、 出版  新潮社
日本にキリスト教が入ってきて、それなりに普及し、キリスト教が弾圧されたとき、少なからぬ日本人が宣教師とともに拷問に耐え、殉教していきました。
なぜ、キリスト教が一部的ではあっても広く熱狂的に普及したのか、そして、仏教を捨てて殉教までする多くの日本人を生みだした理由は何だったのか、島原の乱は百姓一揆と同じものなのか、違うものなのか・・・。それらの疑問について、深く掘り下げている本です。
イエズス会の宣教師は、たとえ奴隷であろうとも、キリスト教徒でありさえすれば、異教徒にとどまるよりははるかに幸福なのだとする観念をもっていた。つまり、キリスト教徒のみが真に人間の名に値する存在であって、それ以外のイスラム教徒と異教徒(この二者は異なるもの)は、悪魔を信じる外道である以上、世界支配者なるべきキリスト教徒化され支配されるしか救いの道はない。西洋人は主人であり、非西洋人は潜在的な奴隷なのである。
イエズス会は、従来の修道会とは、著しく相貌を異にしていた。終日、修道院に籠って祈りに明け暮れることを望まない。また、合唱祈祷や苦行に日時のほとんどを費やすことより、黙想や研学、さらに伝道活動を重視した。これは、まったく新しいスタイルの戦闘的な修道会だった。
日本を訪れたことのあるポルトガル船の船長は、日本人は知識欲が強いので、キリスト教の教理に耳を傾けるだろうとザビエルに語った。
日本人は気前が良く、ポルトガル人を家に招いて宿泊させる。好奇心が強くて、ヨーロッパについて知りたがる。
ザビエルが鹿児島に着いたのは1549年8月10日、日本を離れたのは2年3ヶ月後の1551年11月15日。滞日したのはわずか2年3ヶ月でしかない。しかも、ザビエルは最後まで日本語を習得しなかったし、布教の点では、ほとんど成果をあげていない。
ザビエルにとって日本人は、好奇心の強い、うるさい人々だった。相当うぬぼれの強い人々でもある。武器の使用と馬術にかけては、自分たちに及ぶ国民はいないと信じていて、好戦的だ。
日本人は、鎌倉新仏教の諸宗派の出現以来、新奇な分派には慣れっこだった。新奇な教えに対して、当時の日本人の大多数は、免疫をもっていた。日本人のうちキリスト教に入信したのは、貧民だった。都市部には町衆が存在していたし、町衆は神社仏閣を中心とする信仰共同体だったから、異教キリスト教の侵入をはね返す壁となった。
山口での布教が比較的に順調だったのは、まず武士層が入信したからでは・・・。九州の諸大名は、海外との貿易の利にひかれてキリスト教に近づいた。幾内の小領主層は、苛烈な、一切の秩序は失われる、カオスに似た状況だった。それは、頼れるものは自分しかいないという過激な孤独の心情を生み出した。キリスト教は、彼らの孤独な魂によほど訴えるものがあった。
信者であっても、キリシタンとして救済を得ることと、神仏に祈って御利益(ごりやく)を受けることは、まったく矛盾していなかった。つまり、日本人のキリスト教信者たちは、神々には、それぞれの特技に応じた使い道があると考えたのだ。こんなのは宣教師としては絶対に許されない考えである。
キリスト教徒の追放令が出たときの信者は全国に4万人。1598年3月、まだ日本にはキリスト教の宣教師が114名も残っていた。
家康はキリスト教への嫌悪を、貿易を促進したい一心で匿した。家康がキリスト教を黙認したところ、信者は37万人に達した。この当時の宣教師は34人いた。
雲仙の地獄での拷問は、殺さずに棄教させようとすることから続けられたもの。残虐を好んで宣教師や信者を拷問したのではない。殺さずに棄教させようとしたからこそ拷問という手段に訴えたのである。
堂々と460頁もある大作です。大変勉強になりました。さすが深さが違います。
(2018年3月刊。3200円+税)

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