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カテゴリー: 日本史(戦国)

武田信玄のすべて

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 磯貝 正義 、 出版 新人物往来社
 武田信玄は、数え年21歳のとき、臣下とともに父信虎を今川義元のもとに追放した。今川義元は、このとき23歳。そして、北条氏康は27歳。
 信虎の追放は、親今川派に対する親北条派のクーデターとする説がある。
今川義元は、信玄や氏康に比べて武将としての素質に劣るものがあった。その子の氏真は、戦国大名としての資質をまったく欠いていた。
 信玄の臣下への所領の宛行(あてがい)は、本領・本給・重恩・神恩の4つの段階があった。
 信玄は地頭の領主化を防ぎ、地頭をいわゆる寄親とする同心衆の普遍化をはかった。
信玄は、心機一転するかのように出家得度し、強力な宗教政策をもって部下の結合を促し、内部矛盾の暴発を防いだ。
信玄の領国支配の具体的統治内容は「甲州法度(はっと)之次第」という99ヶ条の家法に明文化されている。これには権力構造の頂点にいる信玄自身の刑事責任の規定を設けているという特色がある。99条の下巻は、内容が法秩序ではなく、社会秩序を狙いとした法令で、倫理規定が主になっている。つまり、家臣団の倫理綱領の制定ということ。
 信玄は、郷村の統制と経営にとりわけ力をそそいでいた。家臣団の郷村の基礎が深刻な経済的危機にさらされていることをふまえている。
 戦国時代は、実際にすぐに役立つ学問、つまり農学や医学、兵学などの実学が好まれた。信玄は山国・甲斐の資源を根本的に研究し、その開発にのり出した。そして、治水面では、盆地の急流に真っ向から取り組む意欲をみせ、その代表と言われる龍王の信玄堤は今も活用され続けている。
 従来から砂金の摂取量も多く、金鉱石に恵まれていた山国の甲斐は、産金の全盛時代を迎えた。
武田氏は伝馬の制の育成につとめた。そして、要所に関を設けて関税を徴収し、その収入は莫大となった。中央の商人をすすんで受け入れ、さらに辺境の商売の興隆につとめた。
信玄の父・信虎は14歳のとき18代の武田氏の後継者となった。
 信虎は、自分にそむいた敉将を一人も殺さなかった。後年、信玄の有力なブレ―ことして活躍する武将の多くは信虎の下でしごかれた一騎当千のつわものだった。
信虎の戦法は、いつも奇襲攻撃だった。とくに敵陣が油断している深夜を狙っての夜襲攻撃が絶妙だった。「兵糧攻め」のような気長な戦法を嫌い、奇襲をかけた。視界のきくところでの野戦を避け、変化に富んだ山林を背にして一気に攻撃する戦術を得意とした。
 信虎の駿府行きは、世継ぎの信玄と反信虎派の重臣がひそかに仕組んだ無血クーデターだった。信虎を駿府に送り込んだあと、信玄たちはすぐにバリケードを張りめぐらして信虎の帰路をさえぎった。これは、信虎がいる限り、泥沼の合戦は絶えることがない。戦争を早く終結させたいハト派の共通の願いがクーデターをもたらした。
 信虎は、隠居の身を楽しんで過ごしたが、今川義元の死後は、孫になる氏真が信虎を冷たく扱ったので、信虎は怒った。信虎は、結局、53歳で死んだ信玄の死後、53歳で病没した。
 武田信玄と、その父・信虎の一生をいろんな角度から紹介した本です。
(1987年9月刊。2100円+税)

検証・川中島の戦い

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 村石 正行 、 出版 吉川弘文館
 川中島の現地には、私も一度だけ行ったことがあります。とは言っても、タクシーを飛ばして行ったというだけですので、現地ガイドの説明でも聞けたら良かったとは思いますが、まったく全体状況は何も分からず、残念でした。
 関ヶ原合戦上には2度行きましたが、このときは史料館にも行きましたので、少しは理解できました。次には、武田勝頼の率いる武田軍が織田・徳川軍の鉄砲「三段撃ち」で惨敗したという長篠(ながしの)合戦場の現地に行ってみたいと考えています。
 川中島の戦いとは、甲斐国(山梨県)の武田信玄(晴信)と越後国(新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)が信濃国川中島(長野市川中島町)で、北信濃(長野県北部)の領有をめぐって、何回か対戦した合戦をさします。
 この戦いは、1553(天文22)年から1564(永禄7)年までの12年間にあり、主な対戦だけでも5回あったとされている。そのうち、もっとも激しい合戦は「5度目」の1561(永禄4)年9月10日に、両雄が一騎打ちしたというもの。現地には、この「両雄の一騎打ち」が銅像になって「再現」されています。ところが、実は、合戦が何回あったのか、今に至るまで確定していないというのです。驚きました。
 永禄(1560年)ころは、今より寒冷で、大飢饉(ききん)で人々が苦しんでいたらしいのです。甲斐は作物が不作で、戦争は食糧獲得のためだったとのこと。なるほど、それだったら、切実ですよね…。生き抜くためには戦かわねばならないというのですからね。
 古文書(「甲陽文書」)によると、武田軍八頭が敵方と対戦したとなっている(天文22(1553)年)。頭とは士(さむらい)大将のこと。騎馬武者5隊で小組、これが5小組で一組の単位となる。2組で「備(そなえ)」となって、士大将の指揮下に置いた。「備」の編成を500人ほどだとすると、八頭で4000人前後になる。
 武田信玄(晴信)の隣国への出兵は春から夏にかけてが多い。異常気象による食糧不足を、他国での乱取り(略奪)、人取りによって補う目的があったのだろう。武田信玄は調略(切り崩し)をすすめた。
 「和与」とは、当事者間の紛争解決の方法の一つ。もともとは、親族以外への贈与を意味する中世の法律用語である。
 長尾景虎にとっても、長期の在陣は越後の国衆の負担となり、また統制を乱された。自立性の高い国衆とのあいだの「あつれき」に悩まされ続けていた。永禄4年の合戦では、短期的戦術としては、上杉側の優勢だった。上杉側の名だたる武将の戦死はない。
 そして、武田家内紛も始まったうえ、双方ともに、大きな代償を払った(永禄4(1561)年)。
(2024年5月刊。1870円)

関白秀吉の九州一統

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館
 織田信長が本能寺の変で倒れたあと、天下人となった秀吉はその実力(軍事力)だけで全国を統一したのではなかったことがよく分かる本でした。
 九州における戦闘を止めるように秀吉が促すとき、それは「叡慮(えいりょ)」、つまり天皇の意向だからとするのです。
秀吉は、くどいほど天皇の存在に言及する。関白となった羽柴秀吉は、天皇の権威に依拠しつつ、国内静謐(せいひつ)を実現しようとした。
 秀吉は、九州において頑強に抵抗する薩摩の島津勢に対して自らが総大将となって九州にやってきて、ついに島津義久の降伏によって、「九州平定」を達した。ところが、これで「九州仕置き」が完了したのではなかった。肥後や日向そして肥前などで反乱や内紛が起きて、それを片付けるのにも苦労した。
そのうえ、秀吉は、その前から「唐(から)入り」を宣言していて、対馬藩を通じて朝鮮国王に服従を迫っていた。国内では、「伴天連追放令」を発し、また、「刀狩り」も発している。
この本では、「九州統一」ではなく「九州一統」となっています。「統一」というと、どこかの国に一つにまとめられたというイメージですが、強固な島津勢がいる一方で、それに反対する大友などの勢力もいるわけなので、「統一」というのはふさわしくないのでしょうね…。
 秀吉による「九州平定」作戦が遂行されていくときに見落とせないのが、イエズス会の軍事力と、九州各地のキリシタン大名の動きです。イエズス会は、長崎港と茂木港を大村純忠(バルトロメオ)から寄進を受けました。そして、この二つの港を軍事要塞化していったのです。
 この本によると、秀吉は石川数正の調略(引き込み)に成功したあと、家康討伐を決意したとのこと。たしかに、徳川家康にとって、長年の忠臣が突然、秀吉のほうに寝返りするなんて、とても信じられない思いだったと思います。自らの手の内が全部、「敵」に筒抜けになるという恐怖はきわめて大きかったことでしょう。
 ところが、秀吉が家康討伐を決意した直後の天正14年11月29日夜、大地震が発生して、それどころではなくなって、信長と家康の激突は避けられたのです。
 秀吉は文書を発行するとき、「判物」と「朱印状」とを使い分けている。判物は、大友義統や龍造寺政家そして、上杉景勝や徳川家康など…。そうでない人々は、朱印状ではなく、花押をすえた判物を発給している。私には、この使い分けの意味が理解できませんでした。
 秀吉が島津勢を討伐するために九州に大軍を率いて実際にやってきたのを「九州御動座」と呼ぶのですね…。
 秀吉は島津勢の領域としては、川内(せんだい)の泰平寺までで、それ以上は南下しませんでした。
 秀吉の「伴天連」追放令は、伴天連による仏法・排撃を禁じたもので、無条件に退去せよというものではなかった。
 秀吉から肥後をまかされた佐々成政は結局、切腹させられた。
 島津勢といっても、決して一枚岩ではなく、秀吉に屈服しないとして抵抗を続けた勢力もいたのです。島津にとっても領国運営は大変だったのです。大変勉強になる本でした。
(2024年3月刊。2500円+税)

世界史の中の戦国大名

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 鹿毛 敏夫 、 出版 講談社現代新書
 知らないことがたくさん書かれていました。
 日本の西国大名の姿勢は、表裏を使い分け、形式より実刑を追い求める二枚舌外交だった。たしかに少なくない大名が切支丹になったのも、純粋に信仰にして、というより貿易の利益を確実にするためだったとも言われていますよね…。
 16世紀半ば、日本にポルトガル人が鉄砲を伝えたこと自体は事実。しかし、ポルトガル船に乗って来たのではなく、戦国大名が派遣した遣明船と結んだ中国人倭寇・王直のジャンクに乗って日本にたどり着いた。ええっ、そうだったのですか…。
日本は、当時、膨大な量の日本銅を海外に輸出していた。同時に、硫黄も大量に輸出していた。
 宋の中国では、火薬を兵器として利用していて、黒色火薬の原料として、硫黄、硝石、木炭の需要が急増していた。
 豊後や薩摩の日本産硫黄は、10世紀から17世紀初めまでの長いあいだ、主要な輸出品目だった。そして、豊後(大分)の遺構から出土した鉛玉(鉄砲の弾丸)は30%がタイ南部のソントー鉱山産だった。
 日本から銀や硫黄を輸出し、東南アジア諸国からは壺を容器として硝石や鉛、そして蜂ろう(ロウソクや口紅の原料)を輸出していた。
肥後国伊倉(玉名市)には、17世紀はじめころに活動していた「唐人」の痕跡が唐人墓として残っている。そして伊倉には、現在も「唐人町」の地名がある。福岡の地下鉄の駅名にもなっていますよね。
 文禄1年(1592年)ころ、久留米周辺のキリシタンは300人だった。それが慶長5(1600)年ころになると、久留米にレジデンシアが開設され、パードレとイルマンが常駐して、教会堂と寺院が建てられた。1900人が集団受洗した。久留米では、最盛期に7000人の信者がいて、パードレ1人、イルマン2人が駐在した。関ヶ原合戦に敗北したあと、毛利秀包(ひでかね)・引地夫妻は撤退し、キリシタンも離散してしまった。
 天正年間には、商人仲屋宗越は、カンボジア交易を手がける明の貿易商人と取引関係を結び、東南アジア方面の物資を入手していた。
戦国大名たちは実利を求めて、東南アジアの国々と積極に交易を進めていたことがよく分かりました。
 やはり、視線は外に、昔も今も国際的な視野をもつことの大切さを教えられました。
(2023年10月刊。1100円+税)

「伊賀越之」

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版 淡交社
 本能寺の変が起きたのは1582(天正10年)6月2日未明のこと。そのとき、徳川家康たちは堺で何をしていたのか、何のためにこのとき堺にいたのか…。もちろん、このとき秀吉は毛利勢と対峙して岡山あたりにいたのです。
 家康は織田信長の死を知ると、一時は自分も京都に行って光秀と戦って死のうとしたそうです。それは止めてと家来が必死に止めたのでした。そこで、家康主従250人は堺を出て伊賀越えして尾張・岡崎の自分の領地に戻ることにします。
 でも、途中で光秀の軍勢に襲われたら、ひとたまりもありません。なにしろ総勢わずか250人、そして、ろくな武器も持っていないからです。どのルートを通るのか、250人が一団となって逃げるのか、いろいろと考えなくてはいけませんでした。
 この本は、現在の京都府京田辺市で「草内(くさじ)・飯岡の戦い」があったという新説を提起しています。
 完全武装の明智軍1000人ほどと、弓も鉄砲も持たない徳川の兵200人が戦い、徳川方はほぼ全滅したというのです。でも、この戦いによって徳川家康たち50人は無事に岡崎に帰りつくことができたとしています。
 全滅した200人を率いていたのは穴山梅雪など。明智軍がこのとき徳川方に勝利できなかったのは、総大将が行方不明になっていたから。その総大将とは誰のことか…。
 家康が安土に参勤し、京都へ上洛した真の目的は、「織田・徳川同盟」の正常化と修復にあった。
 家康主従が上洛するにあたっての安土城での接待について、信長と光秀の間に軋轢(あつれき)があったという話は有名ですが、それは一体どれほどのものだったのでしょうか…。
 著者は、光秀について、織田政権の畿内統治の要だとみています。
 そして、織田政権の畿内統治は、直接統治ではなく、あくまで光秀を主体とする間接統治だというのです。それほど織田信長は光秀の存在を重くみていたのです。
 信長は、秀吉の注進を受けて、「西国出陣」に明智軍を動員して厄介払いすることにした。信長にとっての意外は反乱が起きないようにしながら起きてしまったこと。
 光秀は、当初から、その間隙(かんげき)を狙っていた。
 この本では、本能寺への襲撃と同時に家康主従へも襲撃するというのが光秀の作戦だったとしています。そして、この家康主従への襲撃部隊の総大将を長岡(細川)藤孝だとするのです。
 徳川主従と別行動をとった200人はオトリの役目を果たして明智軍からたちまちせん滅されてしまいました。この200人を率いていた穴山梅雪は家康のふりをしていたというのです。したがって、穴山梅雪の犠牲なくして徳川幕府は成立しなかった。それで、家康は影武者を引き受けた穴山梅雪の遺族を丁重に扱った。
 穴山梅雪が家康の影武者の役割を果たしたなどという新説を裏付ける資料が、本書のなかに今ひとつ見えてきませんでした。
 そして、信長と同時に光秀が家康も倒そうとしたという点についても、資料による裏付が足りない気がしました。
それでも、新説ですし、従来の通説とは明らかに異なっていますので、面白く読み通しました。
 ところで、「かかわらず」を「関わらず」とする初歩的な誤りが再三目について困りました。「関」ではなく、「拘」です。編集者の校正段階で是正されなかったのが残念です。
 著者より贈呈いただきました。ありがとうございます。
(2024年5月刊。2500円+税)

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