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カテゴリー: 日本史(戦前)

沖縄県知事・島田叡と沖縄戦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 川満 彰 ・ 林 博史 、 出版 沖縄タイムス社
 1945年、日本敗戦の直前、沖縄では本土の捨て石とされて、日本軍がアメリカ軍と死闘を展開していました。そのとき、沖縄県知事と警察部長は沖縄県民を必死で守ろうとしていたという「美談」がほぼ定着しています。でも果たして、「美談」は本当に成り立つものなのか、冷静に分析した本です。これまで、つくられた「美談」に乗せられていた私は大いに反省させられました。
 沖縄戦当時の県知事・島田叡と県の警察部長・荒井退造は、2人とも内務省から任命された官選の知事であり、警察部長だった。
この本では、2人とも特高警察の幹部だったという経歴も明らかにしています。昭和の特高は小林多喜二をはじめとして、多くの罪なき人々を拷問にかけ殺し、また精神的に追い詰め変調をきたした人々を数多く生み出した官許の犯罪者集団でもあります。
 島田叡と荒井退造が沖縄の苛酷な戦場において、人間味を失わず、勇猛果敢に住民を保護したとして英雄視される「物語」は、沖縄戦の実相を知らない人々に誤った沖縄戦後を植え付けるものだ。人々が戦争の本質を見えなくなったとき、再び戦争は歩みよる。著者たちは、このように警告しています。
沖縄戦で亡くなった人は少なくとも20万人。沖縄県民が13万人近くいる。
 沖縄戦は日本軍(第32軍)が地上戦で持久戦を遂行したことから、住民はさまざまな戦場で、さまざまな戦没のありようで犠牲となった。
「集団自決」は、日本軍による強制された集団死だった。
 当時の沖縄の人口は60万人。食糧は3ヶ月分しかなかった。住民の一般疎開は、軍隊のための食糧確保が目的だった。8月22日、学童や一般人を九州に疎開するため航行中の対馬丸がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、1484人が亡くなった。
 日本政府は沖縄県民10万人を県外へ疎開させるという方針を立てた。これに対して、当時の県知事らは反対していた。
大阪府内政部長だった島田叡が沖縄県知事として着任したのは1945年1月末のこと。
 このころ沖縄県民を北部へ疎開させようとしていたが、これは戦えない住民の棄民政策(北部に十分な食糧は確保されていなかった)、また戦場に残された「可動力ある」住民は、「根こそぎ動員」の対象者だった。
 荒井警察部長は、アメリカ軍が沖縄に上陸したあと、沖縄の人々がアメリカ軍の捕虜となって日本軍の動向をスパイすることを恐れていた。島田知事も荒井警察部長も二人とも、住民が捕虜となってアメリカ軍に機密情報を漏らすことを恐れていた。そのため、島田知事は、アメリカ軍に対する敵意と恐怖心をあおった。そして、国民義勇隊なるものを創設して、アメリカ軍と戦わせようとした。これは、男女を問わず、50歳以下の人は全員招集させられ、前線での弾薬運びなどに使役させられるものであった。
 島田県知事と荒井警察部長は日本軍の要請に応じて県民(この時点では避難民)を戦場に駆り出し続けていた。島田県知事も荒井警察部長も、捕虜になって生きのびることは認めず、アメリカ軍への恐怖心を煽り、竹槍でも鎌でも、何でも武器にして最後まで戦うことを求めた。この二人は、「恥ずかしくない死に方」を一般県民に指導した。その責任を不問に付してはならない。
島田叡の経歴は、1925年から1945年までの20年間のうち15年間は警察官僚だった。
 荒井退造は、東京の警察署長を歴任したあと、満州でも警察の幹部となって、日本に戻ってからは特高警察の幹部であった。この経歴から、当然、二人とも、見図史観、「団体護持」思想を受け入れていたと思われる。
 島田知事の人柄は良かったようだが、そこからは沖縄戦の実相は見えてこない。
 沖縄戦において、アメリカ軍が上陸したあと、県民の生命を本気で守る気があったのなら、戦場への県民駆り出しなどやるべきではなかったし、アメリカ軍への恐怖心を煽って、最後まで戦えと指示することなんてするべきではなかった。そうではなく、アメリカ軍は民間人を殺さないから安心して捕まるべきで、それは恥ではないと、もっと早くから呼びかけるべきだったとしています。
 なるほど、まったくもって、ごもっともです。いやあ、目の覚める思いのする大変刺激的な本でした。
(2024年4月刊。1650円)

検証・学徒出陣

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 西山 伸 、 出版 吉川弘文館
 『きけわだつみのこえ』が初めて発刊されたのは1949年10月のこと。戦後まもなくです。初めは東大協同組合出版部からで、今は岩波書店から「新版」が刊行されています。もちろん私も読みました。心を打たれる遺稿集です。みていませんが、映画にもなったようですね。
 学徒兵は、「真実を見る目をふさがれ、虐げられ、酷使され、そして殺されていった」のです。昨年(2023年)は、学徒の一斉入隊から80年ということで学徒出陣が少し話題となったとのこと。
戦争意欲が煽られるなか、戦場に勇んで赴いた学徒兵もいたことでしょう。しかし、戦場の現実は悲惨なものでした。餓死者のほうが銃弾にあたって死傷した兵士よりはるかに多かったのです。
学徒出身の予備士官が自らの足場を確保するため、軍隊の非合理性に過剰に適応し、かえって暴力的になった例も少なくないようです。学徒兵は、軍隊における非合理性の一方的な被害者ではなかったのです。学徒出身兵が戦場で捕虜を虐待したとして、戦後、戦犯となって処刑された例もあります。
 人間にとって、生まれ育った時代がどういうものであったかというのは、かなり人間(人格)形成に大きな意味をもっています。学徒兵として一斉入隊した学生たちは1920年から1922年のあいだに生まれました。小学生のころに満州事変が起こり、中学生時代には日中全面戦争が始まり、高校や大学専門学校生のとき、米英との戦争に突入したのです。いやあ、戦意高揚の時代そのものですよね。それを免れた人がいたのが不思議なくらいです。
政府と軍にとって、兵の指揮にあたる仕官の大量確保が必要だったので、学徒兵の確保が急がれた。うむむ、そういうことだったのですね。
今日の世態はまことに奇態なり。戦争を学んだ軍人は銃後にあって政治・経済に従事しているのに、政治・経済を勉強した学生が前線に出て交戦に従事している。これが本当に総力戦の姿なのか…。
 これは近藤文麿首相の側近だった細川護貞が1944年4月15日の日記に書いた内容です。ホント、おかしな日本でしたね。こんなおかしなことに日本が再びならないように、私たちは目を大きく見開いておく必要があります。「中台紛争」の危機とやらに、煽り立てられ、日本も軍備を増強すべきだなんて、そんな嘘というかデマに流されないようにしましょう。
(2024年8月刊。1700円+税)
 川崎セツルメントのOS会(オールドセツラーの会)が川崎市内であり、参加してきました。50年ぶりに再会する人もいて、この人、誰だっけ…と戸惑う人もいましたが、やがて思い出し、旧交を温めることができました。
 「それなりの大学」(東大)を出て大会社に入社したけれど、さっぱり出世しなかったという人がいました。私の尊敬していた先輩です。企業の論理からはじき出されてしまったようです。本人にとっても会社にとっても残念なことだと思いました。
 私は高校の先輩に誘われ大学1年生の4月にセツルメントに入り、3年間もどっぷりセツルメントに浸っていました。本当に温かい仲間たちで、居心地が良かったのです。そして、そのなかで、人生のターニングポイント、生まれ変わった気がしています。

満州事変、ある日本人兵士の日記

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 森下 明有 ・ 笠原 十九司 、 出版 新日本出版社
 著者の森下明有(あきあり)は、明治43(1910)年生まれですので、私の亡父(明治42年生)と同世代です。著者は(森下)は北海道に開拓農民の四男として生まれました。召集され、戦前の満州事変に従軍し、中国で負傷して日本に護送され、命は助かり、2001年に91歳で亡くなったのでした。
 森下は1933(昭和8)年4月12日、戦場で左胸部貫通銃創を受け、野戦病院を転々としたあと、日本に護送された。要するに敵兵(中国兵)から左胸を撃ち抜かれたけれど、生命だけは助かったということです。それでも北海道で農作業に従事できるほどの体力に戻らなかったようです。
森下の日記は1932(昭和7)年9月18日から、翌1933(昭和8)年5月31日までのものですが、ともかく戦闘状況をふくめて、びっくりするほど詳細です。
 ただし、原本は雨や雪で文字がにじんだ部分も多く、解読にあたったスタッフはかなり苦労したようです。それでも、こうやって、きちんと文章化して、戦場の様子を生々しく知ることができるのですから、ありがたいことです。
 森下は20歳で徴兵検査を受け、甲種合格となり、翌1931年9月に志願兵として入営した。一等兵への進級は部隊で11番目、上等兵へは6番目で進級した。真面目に「寸暇を惜しんで勉強した」ようです。
 1932年10月7日の日記に森下は、こう書いた。
 「自分は兵士である。戦争するのが最大の目的である。けれども、私は彼ら無知の匪賊を殺すに忍びない。あまりにも堪えられない。彼らとの戦闘においては、その戦力をそぐということは、彼らを殺すよりほかに道がない。ああ、やるときには断然やるのだ。けれど、無知なる彼らをあわれむ情において、ただ涙あるのみ。彼らの冥福を祈ろう」
 10月19日。「支那人の農家たちの生活の一端をみると、実際、単調そのものである。何の娯楽も趣味もないらしい。このような単調の境遇にある彼ら支那農民の若者らが馬賊のごとき気合のかかる仕事に加わるのは、あるいは自然の勢いではなかろうか。満州の匪賊をなくすには、彼らに働き甲斐あらしむのが一番早道だろう」
 1933(昭和8)年3月18日。「支那兵の戦死しているのを見る。彼らは敗戦だから、屍(しかばね)を収容する者もいない。いたずらに屍を野辺にさらしている。その死に方も無惨だ。彼らの死顔を見ていると、憎らしいという感じはなく、哀れみの感情が起きて来る。彼にも肉親の者はいるのだろう。だのに、彼はこうして、何処(いずこ)とも知らぬ野辺(のべ)の巣に屍となって犬や豚や鳥などに食われてしまうのだ。哀れといえば、まことに哀れな彼らである」
 森下らが対峙した「敵」は国民政府軍でもある張学良軍で、機関銃や砲兵など近代的な武器を展開した。高地など有利な地形に兵士が身を隠せる1メートル前後の塹壕(ざんごう)を掘り、陣地を攻撃してくる日本軍を狙い撃ちする戦闘だった。そのため、昼間の戦闘では、堅固な陣地を攻撃する日本軍には圧倒的に不利で、犠牲者も出るから日本軍は夜襲攻撃作戦、つまり夜間に敵陣地を包囲し、夜明け、それもまだ薄暗いときに総攻撃をかけて敵陣地に躍に込んでいくという戦法をとった。
 森下は機関銃兵であり、ある日の戦闘で使用した弾数は3月10日は39連(1170発)、11日は15連(450発)、12日は38連(1140発)、13日は52連(1560発)というほど撃ち込んだ。ついに日本軍は銃弾の補給が困難となり、銃剣で敵の陣中に突撃して陣地を占領した。
 森下は、中国兵を「匪賊」とはみなしてはいなかった。中国人を差別、蔑視していなかった。しかし、これは日本兵の中では例外的であったと解説されています。
戦後も、森下は、差別しない、理不尽な言動はしない、子どもたちへの心配もさりげなく見守るという人間性をみせていたということです。
 ともかく、よくもこんなに詳細な日記を書いていたということに驚嘆しました。いかにも貴重な資料です。
(2024年7月刊。3500円+税)

チャップリンが見たファシズム

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 大野 裕之 、 出版 中央公論新社
 著者は日本チャップリン協会の会長です。これまでチャップリンに関する本を何冊も書いています。チャップリン家が所蔵する膨大な第一次資料を丹念に掘り起こしてチャップリンの足跡そして、その偉大な作品の形成過程を明らかにしています。
 今回は、サイレント映画の最大傑作『街の灯』を公開したあと、気分を一新するために世界一周旅行に出かけたチャップリンの旅先での出来事が実に詳細に描かれています。
 旅行に出かけたとき、チャップリンはまだ41歳です。独身男性でもありましたから、旅行の行先では何人もの女性と親密な関係にもなっています。
 日本にもやってきて、1932(昭和7)年の五・一五事件に危く巻き込まれるところでした。幸い、チャップリンの気まぐれもあって、5月15日は首相官邸には行かず、大相撲を見物して、難を逃れました。危機一発でした。事件のあと、殺された犬養首相の息子に弔問もしています。
 チャップリンは歌舞伎なども鑑賞していますし、銀座で天ぷらを食べています。なんと、エビの天ぷらを30匹、キスを4匹も平らげたとのこと。すごい食欲です。若かったのですね。
 小菅(こすげ)の刑務所も訪問しています。雑居房、独居房そして工場、炊事場、病舎など見学したそうで、日本の刑務所の明るさ、清潔さに感銘を受けたとのこと。治安維持法違反で逮捕された被疑者・被告人もたくさんいたと思いますが…。
チャップリンは三越百貨店で「キモノ・スーツ」をつくって、着たようです。そして、「どじょうすくい」を踊ってみせたとか。日本の芸人が踊ったのを見て、それをすぐに再現できるというのは、やはり天才ですね。
 チャップリンの秘書として世界一周旅行に同行したのは広島生まれの高野虎市。チャップリンに誠実に尽くして大変気に入られ、一時期チャップリン邸に働く使用人17人全員が日本人だったとのこと。すばらしいことです。
1932年5月14日夜、東京駅にチャップリンが到着したとき、そこに詰めかけた日本人は、なんと8万人…。いやはや、ものすごい大群衆です。この日の入場券は8000枚も売れたというのですから、信じられない熱狂ぶりです。
 地下道に降りて、改札に向かう階段でチャップリンは仰向けになって、群衆に持ち上げられ、宙を泳ぎながら移動した。ハンカチ、ベルト、ボタンはすべてむしり取られた。自動車までわずか30メートルを10分かけて到着。いやあ、すさまじい…。これも歓迎のうちなんですよね。
 日本ではありませんが、ボタンやベルトが盗られてチャップリンのズボンがずり下がってしまったところもあるそうです。
ロサンゼルスで「街の灯」を上映するときには、2万5千人が詰めかけたそうです。これまた大変な熱狂ぶりです。アインシュタインがチャップリンの隣でみていて、「ああ、素敵だ!美しい!」と感嘆したことも紹介されています。
チャップリンという天才の素顔を少しばかり垣間見ることも出来て、休日の午前中、喫茶店でカフェラテを味わいながら心豊かなひとときを大いに楽しむことができました。
(2024年7月刊。2200円+税)

宮本常一と土佐源氏の真実

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 井出 幸男 、 出版 新泉社
 有名な民族学者である宮本常一の代表作「忘れられた日本人」におさめられた「土佐源氏」はまことに衝撃的な内容です。昔から言われていることですけれど、日本人は古来、とても性に開放的でした。それを裏づける貴重な聞き書きの一つとして扱われてきました。
 しかし、この「聞き取り」には、事実に反するところがあり、これは実は聞き取りにもとづく宮本常一による文学作品ではないか、著者はそのことを実証しています。
 まず、「盲目の老人」は乞食ではなく、「橋の下」にも住んでいません。また、年齢も「80歳以上」ではなく、「72歳」でした。そして、何より、「土佐乞食のいろざんげ」という原作があったのです。
 宮本常一は、貴重な取材ノートを戦災にあって焼失したので、十数年たって、記憶で再現したと語っていました。
 「老人」は「橋の下」ではなく、「橋のたもと」に住んでいて、「乞食」ではなく、妻子とともに水車で精米・製粉業を営んでいた。緑内障で失明したが、その前は、腕ききの博労(ばくろう)であった(運営業ということ)。
 宮本常一自身が妻とは別の女性と一緒に旅を続けていた。
 「老人」のコトバに「土佐弁」ではなく、宮本の出身地である周防(すおう)大島の方言が入っている。たとえば、「ランプをかねる」というのは、「ランプを頭で突き上げて落とす」という意味。これは土佐弁にはないコトバ。
 宮本常一の聞いた相手の「老人」の本名は、「山本槌造(つちぞう)」。子どもも男2人、女3人を育てあげた。その孫が取材に応じて、祖父のことを語っている。
祖父の「槌造」は昭和22年に「76歳」で亡くなっているので、宮本常一が取材したときには「72歳」であって、「80歳以上」ではなかった。
「強盗亀」の正体も判明している。そして、山の中に「落し宿」という「盗人宿」があったのは事実のようだ。盗っ人が持ち込み、誰かが安く買い取って、売りさばいていた、そんな仲継ぎをする「旅館」が山中にあった。
 「強盗亀」は捕まって、41歳のとき死刑(処刑)されていますが、ずっと最後まで行動を共にしていた妻が3人いたというのも事実のようで、驚かされます。よほど、生命力、行動力があったのでしょう。
 したがって、宮本常一の書いた「土佐源氏」は純然たるルポタージュというものではなく、虚構(フィクション)をまじえた「文学作品」として捉えるべきだというのが著者の主張です。なるほど、そうなんでしょうね…。
 宮本常一にまつわる伝説をえりわけて真実を探ろうとする真摯(しんし)な姿勢に学ばされました。
(2016年5月刊。2500円+税)

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