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カテゴリー: 日本史(戦前)

戦後の特高官僚

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 柳河瀬 精 、 出版 日本機関紙出版
 戦前、特高警察が治安維持法なる悪法を武器として、心ある人々をさんざん拷問してきたことは広く知られています。しかし、彼らが戦後、実は罪に問われることがないどころか、立身出世を重ねていたことは、ほとんど知られていません。私も詳しいことは知りませんでした。
 その典型は、作家の小林多喜二に対する拷問を直接手がけた中川成夫です。この中川成夫は、戦後、東映に入って取締役興行部長となり、「警視庁物語」シリーズに関わりました。そして、東京都北区で教育委員、ついには教育委員長に就任しています。信じられません。
 特高警察官たちは国会議員になって国政を動かしました。増田甲子七、増原恵吉、ほかです。衆議院議員に29人、参議院議員に11人もいます。熊本県知事もつとめた寺本広作、東京知事選にも出た原文兵衛もそうです。
 警察の中枢にも多くの特高官僚だった連中がのさばっています。そのなかには3人も警視総監になっています。
 初代の警視庁特高部長であり、警視総監にもなった安倍源基は国家公安委員にもなっています。
 共産党対策を専門とする公安調査庁にも、特高官僚たちが次々に採用されています。その数はあまりに多く、この本で6頁にわたって紹介されています。
 防衛庁でもまた、その中枢に特高官僚たちが採用されました。悪法として有名な治安維持法によって投獄された犠牲者は十数万人にのぼり、警察の留置場で虐殺された人が80人、獄死した人は1617人。
 いやあ、すごい本でした。丹念に地道に記録にあたって収集していてつくられた貴重な記録です。
 読み終えたとき、その空恐ろしさに、思わず身がぶるっと震えてしまいました。どうぞご一読してみて下さい。
(2005年4月刊。1714円+税)

永遠の都1(夏の海辺)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 加賀 乙彦 、 出版 新潮文庫
 1998(平成9)年5月に発刊された文庫です。この時代の雰囲気を知りたいと思って、ネットで注文しました。というのも、私の父は1927(昭和2)年4月、17歳のときに大川市から上京し、東京で苦学生を始めたのです。逓信省で働きながら法政大学の国語漢文科(夜間)に通いはじめました。そこを卒業し、法学部に移って、司法試験を受験しました(不合格)。合格したら何になるつもりだったのかと私が問うと、検察官がいいかなと思っていたとの答えが返ってきたので驚いてしまいました。なんで弁護士を目指さなかったのだろうと不思議に思ったのですが、その当時の社会状況を少し調べると、すぐに理由が分かりました。
 弁護士が法廷で3.15や4.16で捕まった共産党員の弁護をすると、それ自体が治安維持法違反にひっかけられたのでした。布施辰治は東京弁護士会から除名されていますが、それは弁護士会による懲戒手続で決まったのではありません。裁判所に置かれた懲戒裁判所が除名相当と判断したのです。弁護士会は当時、裁判所検事局の監督下にあり、検事正が弁護士会の運営にまでいちいち口をはさんでいました。いやはや…、です。
 この第1巻では陸軍省内での相沢中佐による永田鉄山少将の斬殺事件が話題になっています。それは陸軍対海軍の争いでもありました。主人公の父親の医師は、日本海海戦のとき従軍医師だったので、もちろん海軍派なのです。
 この医師は、病院内で妾(めかけ)がいることを高言していました。妻は、そのことに大いに不満なのですが、離婚する気は夫婦ともありません。
 上流階級で浮気・不倫があたり前に横行していた状況が、小説の大きな背景事情として語られています。
女は生活の保障のために結婚する。子どもを産み育てる単なる牝(めす)になる。すると、夫は女郎買いを始め、女は単なる牝に終わりたくないから恋人を探して不倫の関係を結ぶ。
 こう断言したのは、帝大セツルメントで子ども会をしている夏江。すると、「何だか主義者みたい」と夏江は言われてしまうのでした。「主義者」とは、何らかの思想を持った人のことです。今なら高く評価されるはずのものが、危険思想の持ち主だと周囲からみられていたのでした。
 著者は1929年生まれの精神科医師であり、作家です。戦前・戦後のセツルメント活動にも深く関わっていますので、同じくセツラーだった私にとっては大先輩にあたります。
(1998年5月刊。552円+税)

南京事件と新聞報道

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 上丸 洋一 、 出版 朝日新聞出版
 「東京にいると、いつの間にか、みんな聖戦という言葉の魔術にかかっていた。ところが、中国の現地に来てみると、戦場とは、殺人、強盗、強姦、放火…、あらゆる凶悪犯罪が集団的に行われている恐ろしいところだった」
 これは、読売新聞上海支局の小俣行男記者が戦後(1967年)に出版した本で書いている文章です。
 「いちど残虐な行為が始まると、自然に残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐(しぎゃく)的心理になるらしい。荷物を市民に運ばせて、用がすむと、『ご苦労さん』という代わりに射ち殺してしまう。不感症になっていて、そんなことには驚かない有り様だった」
 これは、南京の日本大使館参事官だった日高信六郎の1966年に刊行された本のなかの文章。
 大阪毎日新聞の記者・五島広作は中国へ従軍記者として出発する前に師団の情報参謀から次のように申し渡された(1937年7月末)。
 「軍に不利な情報は、原則として一切書いてはいかん。戦地では、許された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は、即時、内地送還。記事は検閲が原則。軍機の秘密事項を書き送った奴は、戦時陸軍刑法で銃殺だ」
 従軍記者の使命は何か…。架空の武勇伝を書くこと。つまり、神話づくりが従軍記者の任務だった。新聞記者は、事実をも真実をも伝えるものでなく、軍の発表にしたがって、国民を鼓舞する「ペンの兵士」であることが使命であった。
 日本軍は上海戦で大変な苦戦をした。中国兵が予想外に強かったのです。中国の16歳から20歳までの青少年兵は、徹底した排(抗)日教育の結果、学生が銃をもって参戦している。最後の一兵まで一歩も退かず、銃剣で突き刺しても平然たるものだった。
 祖国に対する非常な愛国心から、抗日の精神が強く教育されているので士気は日本軍に比べてはるかに高い。「支那(中国)軍は予想以上に非常に強い」。これが日本軍の現地上層部の共通認識だった。
 日本軍の幹部は、新聞を読みながら戦争していた。記者の使命は、郷土出身の兵士と銃後の双方を励まして、国家に貢献すること、国策である戦争の遂行に役立つことだった。記者は、「報道報国」と呼び、自らを「報道戦士」と呼んだ。
 武器をもたない中国民衆にとって、日の丸を掲げることは日本軍に襲われないための窮余の一策だった。敵意のないことを示して、せめて命だけは助かりたい、ということ。それを日本の新聞は、日本軍に都合よく、中国民衆が日本軍を歓迎している光景と読みかえて報道した。
 ところが、現実には、そのような日の丸を掲げた中国人青年を日本軍は次々に殺害していった。こんなことをする「皇軍」が中国を永く支配できるはずもありません。
 日本軍は、右手で「東洋平和」の大義を掲げ、左手で中国の村々を放火して焼いた。
 中国の農民と兵士は、外見からは見分けがつかない。なので、怪しいと見れば、十分に確かめることなく、すべて殺した。
 南京への途上、「百人斬り競争」をしていた向井敏明と野田毅は、戦後、南京で開かれた軍事法廷で裁かれ、1948年1月、死刑に処せられた。この2人が、実際に最前線で突撃して白兵戦の中で斬ったのは、せいぜい4人から5人。あとは、捕虜を並ばせておいて斬ったのがほとんど。これは、まさしく戦時刑法でも捕虜虐待にあたるもの。
 戦後、作家として高名な石川達三は、1935年に芥川賞を受賞したあと、南京へ行き、日本に帰ってから「生きている兵隊」を書いた。これは中央公論1938年3月号に載せられ、すぐに発禁となった。そして、1938年9月、有罪判決(禁錮4ヶ月、執行猶予3年)を受けた。この本は戦後(1945年12月)に発刊されると、初版5万部を2ヶ月で売りつくした、まさにベストセラーとなった。それほど戦争の真実を知りたい日本人もいたわけです。
 戦場に出向いて、戦争の実際を見聞しながらも、戦後になってからも沈然し続けた記者がほとんど。なぜなのか…。
 「戦場のむごたらしさは妻や子には話せない。聞いたらショックでメシが食えなくなる」
 「語りたくない、忘れたい。どうせ理解してもらえないなら、いっそ何も見えなかったことにしたい。そこにいなかったことにしたい。何も起きなかったことにしたい」
 そして、「戦前の多くの知識人は、日本型ファシズムの体制には批判的であったが、始めた戦争には勝たなければならない。したがって、戦争努力には協力しなければならない、そう考えた」。これは、評論家の加藤周一の指摘です。
 真実から目をふさいでいいはずがありません。それを「自虐史観」だなんて決めつけるのは大きな間違いです。それにしても、南京事件という日本軍の大虐殺をまだ疑っている人がいるようなのが、本当に残念です。
(2023年10月刊。2600円+税)

小畑哲雄が語る戦中・戦後の体験

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 小畑 哲雄 、 出版 京都・114番平和委員会
 95歳になっても反戦・平和のため自らの戦中・戦後の体験を話せるというのは実に素晴らしいことです。
 1937(昭和12)年12月、日本軍は南京を占領しました。悪名高い南京大虐殺を日本軍が敢行したときのことです。このとき、日本では、南京が陥落したので、これで戦争は終わりだ、万々歳だとして提灯行列をして喜びました。著者は10歳でした。
 日本軍が真珠湾を攻撃して開戦した12月8日は、日本で月曜日なので、アメリカ・ハワイは日曜日、安息日でみんな休んでいたところに日本は奇襲攻撃をかけたのです。
 日本軍による南京攻略のとき、日本軍の若い将校2人が「百人斬り競争」というのをして、日本の新聞で連日、大きく報道されました。これは戦場で斬り込んでいって何十人も敵兵を斬ったというのではありません。すでに「捕虜」となっていた中国人(兵隊も民間人も)を並べて首を斬ったというものです。典型的な捕虜虐待ですから、国際法違反は明らかです。戦後、この2人は中国で戦犯として裁かれ、死刑になっています。
 著者は陸軍経理学校に入ります。建前としては、日本の軍隊も私的制裁は禁止されていたそうです。初めて知りました。私的制裁が公認されているとばかり思っていました。ただ、なかには本当に私的制裁をしない上官もいたようです。
 荒川さんという区隊長は、「指揮官は部下を殺したらいけない。その部下が、将来、将校になるかもしれない」「指揮官がしっかりしていなかったら、部下を殺すことになる。ようく考えて、やり方を間違えないようにしないと、組織を壊してしまう。部下を殺してしまう」と言って、著者を戒(いまし)めたそうです。この荒川さんはレーニンの本も読んでいたそうですから、たいしたものです。
この本を読んで、「召集」と「招集」の違いを認識しました。
 「召集令状」というのは、召(め)し集めるもの。「招き集める」ものではない。
 「注記」(ちゅうき)とは、兵隊になって一番先にすることは、全部の持ち物に自分の名前を書くこと。
 「上衣(じょうい)」とは、上着のこと。
「一装」は、正式な儀式のときの制服。「二装」は儀式や外出のとき着るもの、「三装」は普段着。
8月15日の終戦を告げる玉音放送では、最後に、「朕(ちん)は、ここに国体を護持し得て」と続く。「国体」、つまり国の体制、天皇制はちゃんと残ることを日本国民に伝えた。これが一番の眼目だった。
いやあ、すごい講演録でした。高齢になっても自分の体験を客観的事実も踏まえて話せるというのは素晴らしいことです。
(2023年11月刊。500円+税)

ちっちゃな捕虜

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 リーセ・クリステンセン 、 出版 高文研
 第二次大戦中の日本軍の抑留所を生きのびたノルウェー人少女の話です。いったい北欧のノルウェー人がどうして日本軍の収容所にいたのか不思議でしたが、舞台がインドネシアだと分かって納得できました。日本軍はインドシナ半島を制圧したあとインドネシアまで占領したのです。それも他と同じように凶暴な圧制を敷いたのでした。
 日本軍によって、ジャカルタ(当時はバタビア)に住んでいたノルウェー人一家である著者たちも「捕虜収容所」に入れられたのです。
 日本軍がしたことは「点呼」(テンコー)で、まず人員確認。炎天下に飲まず食わずに並ばせ立たせておいても平気です。そして若い女性を見つけるとひっ立てて行き、小屋へ連れていきます。日本兵の慰安のためと言ってはばかりません。寝るところは不潔そのもの。ネズミがいて、ゴキブリがいて、蚊がいて…。そして、とにかく臭い。悪臭のなかでの生活。
 食べ物もろくに与えられず、病気になっても薬なんか全然なし。
 次々に死者が出て、外へ運び出し、山積み状態…。本当に、日本軍(皇軍と呼んでいました)って残虐なことをしたんですね。これでもか、これでもかって、読み進めるのが辛くなります。
 日本軍が東南アジアの民衆のために解放してやったんだという言説がいかにインチキで、真実に反しているか、嫌というほど思い知らされます。
子どもたちのために秘密の教室が開かれ、そこで教えていた若い女性は日本軍に発見されると残虐なやり方で死に至ります。
 著者は「天使の死」と名づけていますが、どんなに無念だったことでしょう。
 著者はまだ10歳の、好奇心いっぱいの少女でした。よくぞ苛酷な「収容所」生活を生きのびたものです。生きるためには、少々の「泥棒」もしています。
 日本敗戦でインドネシアに平和が戻ったかというと、簡単ではありませんでした。でも、そこはまだ少女には分かりません。そして、ノルウェーに無事に帰国したあと、両親の不仲は解消されず離婚に至ったことなど、戦争の傷跡はあとあとまで家族の心のうちに深く深く残っていたことが語られます。
 そして、ドイツとは違って日本政府が責任を認めず、学校で侵略と虐殺の歴史的事実を教えていないことを厳しく糾弾しています。本当に、そのとおりです。
 過去の事実をなかったことのようにしてしまうのは、将来また大きな間違いをする可能性があるということです。大軍拡予算がまかり通ろうとしている今、読まれるべき本の一つだと思いました。
(2023年10月刊。2700円+税)

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