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カテゴリー: 日本史(戦前)

「抵抗の新聞人、桐生悠々」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 井出 孫六 、 出版 岩波新書
 1933(昭和8)年8月、きびしい報道管制下に行われた関東防空大演習について、桐生悠々は、信濃毎日新聞の社説で鋭く批判しました。
 そのタイトルは「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」。
 この「嗤う」というコトバは、「面と向かって、さげすみ笑う」という意味。なんで、さげすみ笑ったかと言うと、首都(帝都)東京の上空に敵機がやって来て、爆弾を落としたときに、その防災対策を訓練するというのだけど、そんな事態は、まさに日本軍が敗北しているということではないのか。それに敵機が多数やってきて、そのうちの1機でも撃ち落とせずに東京上空から爆弾を落としたら、木造家屋の多い東京市街は一挙に焼土となり、阿鼻叫喚の一大修羅場となること必至ではないか、と指摘したのです。そんなとき、バケツ・リレーで消火作業にあたるなんて防火対策は意味のあろうはずがないと批判したのでした。
 もちろん、その後10年して、桐生悠々の指摘(予言)したとおり、アメリカ軍のB29の大編隊による焼い弾投下によって東京は焦土と化してしまいました。恐るべき先見の明があったわけです。
 先日、アメリカ映画「オッペンハイマー」をみました。ヒトラー・ナチスより先に原爆をつくろうとした科学者と、それを政治的判断で運用・利用した当局との葛藤、さらにはアカ狩りのなかでのオッペンハイマーへの糾弾で生々しく描かれています。広島、長崎への原爆投下の惨状が描かれていないことが批判されていますが、なるほどと思う反面、原爆そして水爆の恐ろしさの一端は、それなりに紹介されていますし、大いに意義のある映画だと私は思いました。
 イスラエルのガザ侵攻で3万人もの市民が亡くなっていること、餓死の危険が迫っていることを知ると、いてもたってもおれない心境です。イスラエルに対して、即時停戦・撤退を強く求めます。
(1980年6月刊。380円)

枢密院議長の日記

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 佐野 眞一 、 出版 講談社現代新書
 倉富勇三郎といっても、今は誰も知らない無名の人物だと思います。
 でも、その肩書はすごい人です。東京控訴院検事長、朝鮮総監府司法部長官、貴族院勅撰議員、帝室会計審査局長官、そして最後に枢密院議長をつとめました。司法官僚そして宮内(くない)官僚として位(くらい)人臣(じんしん)をきわめたのです。
 久留米出身であり、背景に何もないなかで、これだけ出世したのは、野心のない人間だとみられていたからのようです。能力があって、他を押しのけて得た地位というのではありません。きっと運が良かったのでしょう。
 著者は倉富を優柔不断な男だったと酷評しています。
 枢密院の建物が今も皇居内に残っているというのには驚きました。老朽化したけれど、本格的に修繕したそうです。
 倉富の先祖は佐賀の竜造寺で、竜造寺が落ちぶれたあと佐賀から田主丸に移り住み、倉富に改姓した。
 兄の倉富勇三郎は、福岡で自由民権運動の闘士となり、福岡毎日新聞の刊行者の一人となり、戦後、社長をつとめている。
 倉富勇三郎は、刻明な日記を26年間つけ、それが保有されている。ただし、ミミズがのたうったような文字で大変読みにくい。そこで、著者は有志をつのって集団で解読していったのです。その成果がこの本に反映されています。
 日記は297冊にもなる。ひと目にノート1冊分というペース。全部を本にしたら、50冊をこえる。世界最大最長級の日記。この日記は原敬日記と違って、死後公開されることを前提としたものではない。したがって、記録として大変意義のあるもの。そこで2年分の日記を解読するのに、6人で5年間かかった。いやあ、これは大変な作業でしたね。
 著者は倉富について、超人でもスーパーマンでもなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だったとしています。
 倉富は寸暇を惜しんで日記を書き続けた。そして暇さえあれば読み返し、日記に追記し、訂正している。
 この本を読んでもっとも驚いたことは、昭和7(1932)年当時、学習院に子どもを通わせている家の全部に電話がひかれていたということです。学習院の遠足会の連絡のために子弟の住む全戸の電話網が活躍していたというのです。いやあ、これは驚きでした。このころ電話は超高級品であり、一家に一台というのはまったく考えられません。さすがに、上流華族の家庭生活はレベルが違います。私が大学生のころは下宿先の大家さんの黒電話にかかってきたのを取り次いでもらっていました。
 倉富勇三郎が、かくも膨大な日記を残してくれたことを深く感謝したいです。
(2007年10月刊。950円+税)

「東京の下町」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 吉村 昭 、 出版 文春文庫
 昭和の初めころの東京の下町の様子がよく描かれています。
 先日、90歳を過ぎた山田洋次監督が寅さん映画がつくられたころと今の時代との違いを説明していました。映画が撮影されたころはみんなそこそこ貧しかったけれど、まじわりあいがありました。今では、富める人はタワーマンションにこもっていて、貧しい人は死ぬほどこき使われたり、バラバラにされていて交流がありません。昔の下町にあった長屋的な交流の場は失われてしまいました。本当に残念です。
 若者が未来に夢をもてず、結婚せず、子どもが産まれない(少子化)状況が深刻化するばかりです。そんな今こそ、寅さん的笑いが必要なんじゃないかと山田監督は訴えています(と私は理解しました)。
 たとえば映画です。かつて浅草6区には映画街がありました。両側にずらりと映画館が並ぶ長いストリートがあったのです。
 江川劇場、遊楽館、万成座、三友館、千代田館、電気館、金竜館、富士館、帝国館、大都劇場、東京倶楽部、大勝館などなどです。そして、当時の写真をみると、映画街のメインストリートが歩く人々で見事に埋め尽くされています。呼び込みする係員もいたそうですが、呼び込みなんてするまでもありませんでした。また、エノケン一座が公演し、歌手の淡谷のり子が「雨のブルース」を歌った松竹座、「あきれたぼういず」が出演していた花月劇場もありました。
 私の生まれ育った町にも、小さな映画館がたくさんありましたし、旅役者が劇を演じる芝居小屋もありました。
 嵐寛寿朗の「鞍馬(くらま)天狗」の映画のなかで、主人公が馬に乗って悪漢どもから杉作少年を救出に駆けつける場面では、館内が総立ちとなり、騒然とした雰囲気のなか、「早く、早く」と声がかかり、拍手が鳴り、主人公が悪漢どもを次々に切り倒していくのです。そのシーンはまさしくクライマックスでした。
 大人も子どもも、館内一丸となっていました。この一体感のなかで、少年は助かったという満足感に浸りながら家路に着いたのです。こんな感動を今の子どもたちに味わせたいものだと本当に思います。
 1927(昭和2)年に東京に生まれた著者による東京の下町情景は、戦後生まれの私にもまだ十分に体験として分かるところがあり、うれしくなりました。
(2018年6月刊。770円+税)

楡家の人びと(第1部)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 北 杜夫 、 出版 新潮文庫
 いま昭和初期の日本とはどんな時代だったのか調べていますので、そのころの状況を描いている、この本を読んでみました。
第1部の主人公・楡(にれ)喜一郎は、第1部の終わりに63歳の若さで亡くなります。大正天皇が大正15年12月末に亡くなったころのことです。直ちに改元があって、昭和となり、昭和1年は7日間だけで、1月1日を迎えて昭和2年となりました。
 楡基一郎は楡病院の院長先生。そして、この病院で働く医師・看護師そして事務職員のさまざまな生態が描かれるのです。この文庫本は第1部で主人公は死んでしまいますが、第3部まであります。
 もう一つ、私が読んでいる加賀乙彦の『永遠の都』は同じ新潮文庫で、7冊シリーズです。どちらも明治から昭和初めのころが舞台であり、主人公が医者で、その経営する病院が危機に直面していること、関東大震災が起きて被害をこうむったことなど、なかに細かい違いはいくらでもありますが、大筋としてよくよく似た状況なのには驚かされます。
 『永遠の都』の時田利平院長は病院に勤めている看護師・薬剤師など、身近な女性に次々に手を出していきます。そして子どもが出来ると、認知をしなくても、一定の援助をしていました。
 そして、体のきつさを克服するため、こっそりモルヒネを注射していたのが、ついに中毒となり、娘たちが入院して治療するように泣いて頼まれたのでした。
 楡病院の話に戻ると、入院患者の多くは精神病の人たちが占めている。
 楡基一郎が発明狂であることも時田利平医師とよく似ています。利平医師のほうも自分で発明・考案に長けていると自負し、そこそこ金銭的な収入をあげているのでした。
 このころ映画は活動写真と呼び、トーキー(音声が出るもの)ではなく、無声映画。なので、活弁(活動写真の弁士)が楽士の演奏(伴奏)とともに口上(こうじょう)を述べ立てる。
 活弁は大正時代のフロックコート姿で登場し、上映の前に「前説(まえせつ)」をやった。要するに、これから上映する映画の概要を紹介するのです。
 どちらのストーリーにも関東大震災の被災状況が登場します。そして、民衆の一部が警察のデマ(放言)に踊らされて罪なき朝鮮人を惨殺するシーンも登場してきます。本当にやり切れない話です。
 当時の民衆の生活が、どちらも実にことこまかく描写されていて、昭和前期の日本の様子が手にとるように理解できます。
(2022年11月刊。670円+税)

「昭和の恐慌」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 中村 政則 、 出版 小学館
 いま、昭和初期のことを勉強しています。
1930(昭和5)年3月、ロンドンで軍縮条約が成立しました。このとき、岡田啓介軍事参議官(海軍大将)は軍縮に賛成して、次のように考えていました。
 「だいたい軍備というものは、きりのないもので、どんなに軍備をやったところで、これでもう大丈夫だという、そんな軍備なんてありゃせん。いくらやってもまだ足らん、まだ足らんというものだ」
 まさしく正論ですね。今日の「抑止力」論と同じです。だいたい日本が中国に対して「抑止力」をもてるはずがありません。国土の広さがまるで違ううえに、軍事予算も軍人の人数も日本の何倍もあるのですから、かなうはずがありません。
 この軍縮条約について、反対する軍人と右翼は統帥権(とうすいけん)干犯(かんぱん)だと主張しました。要するに、天皇の専権事項だから、政府は決める権限がないというのです。またもや天皇をダシに使ったのでした。
 それにもかかわらず、なぜ政府が条約を締結できたのかというと、軍部の一部が強硬に反対しても圧倒的多数の国民が軍縮条約を支持したからです。
 6月18日、大任を果たして半年ぶりに日本に帰国した若槻礼次郎全権大使を東京駅でなんと十数万の群衆が熱狂的歓声をもって出迎えました。この本には、そのときの様子をうつした写真が紹介されています。東京駅頭に大群衆がノボリ旗を立てて熱狂的に出迎えた様子がよく分かります。
 軍縮条約の締結は、不景気な時代に、少しばかりの希望を民衆に与えるものでした。それほど、民衆は戦争ではなく平和を望んでいたのです。
 そうは言っても民衆がいつも正しく判断するとは限りません。金解禁に対して、その最大の被害者となった民衆は、幻想に踊らされて、これまた熱狂的に金解禁を支持したのです。
 ひき続く不況にあえいでいた民衆は、窮状打開の突破口として、金解禁にむなしい期待をつないだ。これには当時の大新聞がこぞって全解禁を支持し、あおり立てていたこと、金解禁したら、すぐにも好景気がやってくるかのような幻想を振りまいたのです。つまり、民衆は金解禁に世直し的幻想を抱いて(抱かされて)いました。
 同じようなことが今もありますよね。権力側のキャンペーンに乗っかかって、自分の頭で考えなくなると、とんでもない結果が待ち受けているのです。
 戦前の日本を知ることは、戦後の今を生きる私たちにとっても意味がないどころか、大いに役に立つことなのです。さあ、勉強を続けましょう。
(1982年6月刊。1200円)

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