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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

「太平洋の巨鷲」山本五十六

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 角川新書
父親が56歳のときにさずかった子なので、五十六(いそろく)と名付けた。
なーんだ、そういうことだったのか…。
「五十六少年は、おとなしくて、本当に黙りっ子だった」
言葉を尽くすのを億劫(おっくう)がる人物だった。話が通じないと思った相手には、言わなければならないことまでも言わないと評された。そして、本人は、この「沈黙」をある種の知恵と考えていたようだ。でも、これって、部下は困りますよね。
1919(大正8)年4月、山本はアメリカ駐在を命じられた。アメリカ駐在中に、山本は航空機の威力に注目した。そして、アメリカの巨大な石油施設を眼にしてアメリカの力を実感しただろう。山本は、大艦巨砲主義から航空主兵論に乗りかえた。そして、山本は、自ら飛行機の操縦を習得した。山本は航空本部長となり、航空機産業の調整に努力し、大量生産体制を整えるのに奮闘した。ただ、山本は先見的な航空主兵論を力説しながらも、それは不徹底だった。
北支事変、日華事変、支那事変と日本が呼んだのは、アメリカとの関係で「戦争」と呼べなかったということ。アメリカは1935年に中立法を制定していて、戦争していると大統領が認定した国に対しては、兵器や軍需物資の輸出を禁じていた。なので、もし、日本が中国に宣戦布告し、国際法上の戦争をはじめてしまえば、日本はアメリカから石油や鉄を輸入できなくなってしまう。
南京への無差別爆撃は日本軍が世界史上初めてなした蛮行だとされているが、これは山本の発案によるものという有力説がある。山本は、このとき海軍次官の中将だった。大都市への無差別爆撃は、そこに住む住民を恐怖のドン底に陥れて戦意を喪失させることを狙ったもの。しかし、現実は、身内を殺された人々は、戦意喪失どころか、ますます戦意を高揚させた。
これはヨーロッパでも同じ。ドイツのロケット攻撃を受けたロンドン市民、イギリス軍による無差別攻撃にさらされたドイツの都市住民はますます戦意を高揚させた。日本の本土大空襲を指揮したアメリカ軍のカーチス・ルメイ将軍も同じように間違った執念の持ち主でした。
山本は、日独同盟に強く反対していた。それは、アメリカとの戦争につながりかねないとの判断からだった。
1940年9月の時点で、山本は対アメリカ戦で勝算がない、自信のもてる軍備ができるはずがないと考えていた。真珠湾攻撃において第二撃を断念するのもやむなしと山本たちは判断していた。燃料も爆撃も欠如していた。
山本は1943年4月18日、搭乗していた一式陸攻機が、日本の暗号を解読していたアメリカ軍の戦闘機によって撃墜されて死亡した。要は、アメリカ軍は日本軍の暗号を全部解読していて、日本軍の行動をすべて認識し、予想していたということです。これは科学・技術の発達をアメリカ軍は取り入れていたこと、日本軍は相変わらず古臭い精神主義にとらわれていたことを意味しています。皇軍の優位性を今なお誇大妄想的に言いつのる一部の日本人は、この客観的事実に目をつぶって、自己満足しているにすぎません。
(2021年8月刊。税込1012円)

幻の村

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 手塚 孝典 、 出版 早稲田新書
満蒙開拓団の悲惨な歴史をたどった新書です。
満蒙開拓団は、1931年の満州事変、翌年の満州建国のあと、1936年に閣議決定されて日本の国策となった、現在の中国東北部へ日本人500万人を移住させる計画によるもの。
「満州に行けば地主になれる」
こんな政府のコトバをうかつにも信じて、農業の担い手としての成人男性とその家族が海を渡った。その真実は、日本の公設企業が現地の農民から安く買いたたいた農作地と家屋を与えられ、中国人をよそへ追いやる入植だった。そして、それはソ連国境の防衛と、植民地支配が目的だった。また、日本の軍事を担う、陸軍の関東軍への食糧供給など兵站(へいたん)の役割も担っていた。
この本は、長野県にすむ胡桃澤盛(さわもり)を主人公としている。彼は36歳のとき、旧・河野村の村長に就き、総勢95人の河野村開拓団を満州に送り出した。ところが戦後の日本に無事に戻ってきたのは22人のみ。73人が死亡した。翌年、この村長は42歳の若さで自死した。
河野村開拓団には敗戦時の8月15日に76人がいて、男性は4人のみ。7割が子ども。中国人の村人から取り囲まれた。そして、団長は暴力を受けて虫の息となり、日本人の手で殺された。そのあと、開拓団は集団自決をはじめた。まず、自分の子どもを首を絞めて殺した。そして、生き残った人々が長野県に戻ってきたときには、村をあげて送り出したはずなのに、厄介者扱いされた。
「好き勝手に満州に行って死んだ奴ら…」と、さげすまれた。戦死者とは違う扱いだった。
中国人が耕作していた土地を、日本人がタダ同然で追い出したところに開拓団は入植した。開拓団のほうは、先輩たちが開拓した土地だと信じていた。開拓団の生活は軍隊式で、日課には軍事訓練もあった。
日本敗戦後、関東軍は逃げるときに時間かせぎのため、橋を落としていった。そのため開拓団は逃げるのに苦労させられた。
満蒙開拓団青少年義勇軍は全国で8万5千人。そのうち3万人が命を落とした。
国策として満州へ送り出したにもかかわらず、日本政府は残留孤児の帰国について、「家族の問題」として、介入しない方針をとった。そして、公的な支援策はとらず、家族まかせにした。
満蒙開拓団がたどった苦難の歴史が教えるものは、政府(国)や当局(村)の言っていることをうかつに信用してしまう(うのみにする)と、生命も財産も失うことがあるし、自己責任として、信じたほうが悪いとされることがあるということです。
それにしても、今の自民党(自民・公明)政権のひどさ(無責任さ)は、あまりにもひどすぎますよね。アベノマスクにしても8千万枚が配られずに倉庫に眠っていて、倉庫代がかさんでいる。1千万枚が不良品であり、その検品代に21億円もかけたうえ、廃棄処分する。これから子どもに配られる10万円の半分をクーポン券にして、その配布のための事務手数料に1千億円近くかけようとする…。信じられないムダづかいです。私は絶対に許せません。プンプンプン…。投票率が5割ほどでしかない状況がすべてを許しているのです。
(2021年7月刊。税込990円)
 12月25日、天神でアメリカ映画『ダーク・ウォーターズ』をみました。デュポン社(化学製品のメーカー)がテフロンには生物への重大な健康被害を与えることを実験して知悉していながら消費者に対しては安全・便利だとウソを言って莫大な利益をあげていたのを企業側の弁護士がデュポン社とたたかうことになり、大変な苦労の末に勝訴したという実話にもとづく映画です。
 日本でも水俣病やイタイイタイ病裁判があるわけですが、わずかな弁護士が大企業と裁判して勝てた背景には情報開示制度が生きていることがよく分かりました。
 また、クラスアクション(集団訴訟)を活用し、大々的な疫学調査を国にさせたところも注目すべきところがあり、大変勉強になりました。
 残念なことに観客はわずか5人だったようです。

第七師団と戦争の時代

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 渡辺 浩平 、 出版 白水社
北海道にあった第七師団の生い立ちから敗戦のときに解放するまでを追跡した労作です。
北鎮という言葉を初めて知り(聞き)ました。北方の脅威から自らを護るという意味だそうです。北とはロシア(ソ連)を指します。
第七師団は屯田兵を前身とし、中国・満州に渡ってノモンハンで戦い、また沖縄でも戦っています。師団というのは1万人あまりの兵力をもち、聯隊(れんたい)は2千人ほどの将兵がいる。師団長は中将があたる。
第七師団の歩兵第二十五聯隊は屯田兵を母体とし、1896(明治29)年に札幌の東の月寒(つきさむ)の地で誕生した。そして、この第二十五聯隊は、1945年8月17日に樺太の逢坂で聯隊旗が焼かれて消滅した。
第七師団の本来的任務は一貫して北方の護り。
屯田兵は、正式名称は屯田憲兵。ええっ、これまた初めて知りました。憲兵だったのですか…。屯田兵は、シベリアのコサック兵を模して、黒田清隆が進言してできた制度。
第七師団の用地は540万坪。そこに3個の歩兵聯隊(26、27、28)と騎兵、工兵、野戦砲兵、輜重(しちょう)兵がそれぞれ1個聯隊、師団司令部、病院、監獄、憲兵隊、兵器廠や官舎、それに火力発電所もあった。もちろん、練兵場や演習場も。
日露戦争のときの旅順港を見おろす203高地の攻略戦にも第二十五聯隊は出動しています。このとき、63人のアイヌ兵がいて、うち51人が戦功により勲章を授与された。この戦闘で、第七師団は、3割強、6206人の死傷者を出した。
ロシア(ソ連)の二コラエフスク市(尼港)における日本人虐殺事件にも第七師団は関わっている。1917年にロシアで革命が起こり、ソビエト政府が誕生した。そこへ、英仏、米日がシベリアに出兵して内政干渉を試みた。その名目は、チェコ軍団の救出ということだった。1918年8月に第七師団がシベリアに派兵された。
尼港事件は、1920(大正9)年5月24日に発生した。
尼港の日本軍守備隊はわずか300人。包囲するパルチザンは2000人。日本軍の救援は遅れ、日本の将兵と市民はパルチザンに処刑された。このころの日本人居留民は500人。うち、天草・島原出身者を主体とする娼妓が90人いた。また、パルチザンのリーダーは、直後の7月に赤軍によって処刑されている。
シベリア出兵したのは、当時21個師団のうちの10個師団。24万の兵力を送り出し、死者5千人、負傷者2600人、戦費は9億円にのぼった。日本はシベリアの資源を開拓して得ようとしていた。
ノモンハン事件のときにも、1939(昭和14)年5月から9月にかけて、満州(チチハル)にいた第七師団が出動した。
その第26聯隊長だった須見新一郎は、火焔瓶によってソ連軍の戦車と戦った考案者として名高いが、ノモンハン戦記のなかで、「御粗末なる作戦屋」として日本軍高官たちを痛烈に批判している。関東軍の植田謙吉司令官、辻政信らの参謀、そして小松原道太郎・第23師団長らを激しく非難した。
ノモンハン事件では、ソ連軍も莫大な被害を出したことが今では判明していますが、ジューコフ将軍が最大限の物量を集中させて日本軍を圧倒したこと自体は事実です。この戦果によってジューコフ将軍はスターリンに認められて、ソ連赤軍のトップにのぼりつめました。
そして、第七師団は沖縄に渡ってアメリカ軍と戦い、また樺太ではソ連軍と8月15日のあとまで戦ったのでした。
第七師団の歩みは、日本軍の歩みでもあることがよく分かる貴重な労作だと思いました。
(2021年11月刊。税込2750円)

靖国神社と聖戦史観

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 内田 雅敏 、 出版 藤田印刷エクセレントブックス
第二次大戦中に、非業・無念の死を強いられた死者たちに対しては、ひたすら追悼あるのみで、決して、彼らに感謝したり、彼らを称(たた)えたりしてはならない。称えた瞬間に死者の政治利用が始まり、死者を産み出した者の責任があいまいにされる。
これが著者の主張の根幹にあり、私もなるほどそうですねと共感します。
第二次大戦中に亡くなった日本人兵士の多くは餓死であり、戦病死でした。誰がそんな状況に前途有為な青年たちを追いやったのか…。もちろん、日本軍のトップであり、天皇と支配層です。
A級戦犯こそ靖國神社にふさわしい。靖國神社がA級戦犯を分祀することは絶対にありえない。なぜなら、分祀した瞬間に、「聖戦」思想を根幹とする靖國神社の歴史観が崩壊し、「靖國神社」でなくなってしまうから…。
中国や韓国からいくら抗議されても靖国神社は平気で無視しますが、アメリカから批判されると直ちに訂正するという、日本政府と同じ卑屈な対応をします。これまた、嫌ですよね…。信念があるようで、ないことがよく分かります。
私も靖国神社には一度行きました。悪名高い遊就館も見学しました。まさしく、「聖戦」のオンパレードで、日本はアジアの人々の解放のために戦ったと言わんばかりの展示ばかりでした。
1978年に靖國神社がA級戦犯を合祀したあと、昭和天皇は靖國神社への参拝はしていないし、明仁平成天皇にいたっては在任中、一度も靖國神社に参拝しなかった。
平成天皇は2015年に南太平洋のペリュリュー島にまで行って戦死した日本平兵士たちを慰霊しました(これで、私もペリュリュー島に関心をもち、マンガ本も読みました)。靖國神社は、ペリュリュー島よりも遠いのか…と、呪詛した人たちがいるそうです。本当に残念です。
この本を読んで、軍人恩給(遺族年金)が、「天皇の軍隊」の階級をそのまま生かしていることを知り、怒りを覚えました。大勢の兵士を戦場で餓死させた「戦犯」である「大将」の年金は年間761万円。それに対して、一般の兵士は、104万円にすぎず、7倍もの差があるというのです。ひどいものです。
著者は前に『靖国参拝の何が問題か』(平凡社新書)も刊行していて、この分野のエキスパートの弁護士です。改めて、大変勉強になりました。今後ますますのご活躍、ご健筆を祈念します。
(2021年10月刊。税込990円)

戦争と軍隊の政治社会史

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 吉田 裕(編) 、 出版 大月書店
一橋大学で長く軍事史を教えていた吉田裕教授が退職するのを機に、退職記念論文集として発刊された本です。
日本では軍事史研究というと、戦後まもなくは、戦争を正当化するもの、戦争に奉仕する学問と捉えられ、皮膚感覚のレベルで忌避する傾向があった。そして、防衛研究所にあった戦史室は、旧軍エリート将校、それも陸軍中心の集団であり、侵略戦争だったことについての根本的な反省が欠如していた。
日本で、戦争・軍事のリアリティーが隠蔽・忌避されてきた結果、日本の若者たちが戦前の軍服を着てサバイバルゲームに撃ち興じるのを許す風潮を生じた。いやあ、これってまずいですよね。戦争が、いかに残虐なことをするものなのかという本質を語らないと、そうなるのでしょう…。
戦前の日本軍将兵が戦場での体験でショックを受けて精神的な病いにかかって日本内地に送還されたとき、公務起因とはされず、わずかな一時金が支払われるだけで恩給はもらえなかった。さらに、傷痍(しょうい)軍人の世界では、戦傷者は優者であり、戦病者は弱者という雰囲気があった。
日本軍将兵(軍属ふくむ)の死者は230万人とされ、そのうち戦死よりも餓死・栄養失調による死のほうが多かった。そして、陸軍の准士官以上は7割が生還しているのに対して、兵士の生還率は1割8分にすぎなかった。
初年兵は「慰安所」行きは男らしさの証(あかし)とされ、そこに行かないと、「男」であることを疑われた。また、古参兵は初年兵を「女役」つまり「慰安婦代役」をつとめさせられていたところもあった。しかし、なかなか日の目を見ない話として埋もれていた。
「慰安婦」は戦場につきものだった。女性の「性」を軍需品扱いにして平気でいられる日本人の異常さが、日本の豊かな経済成長を遂げさせたとするのなら、それはやがて日本の破滅の原因にもなるだろう…。まったく同感です。
日本人戦犯が敗戦後の新しい中国の収容所で加害者だったことを、いかに認識していったかを検証している論稿があります。
収容直後は、日本人将兵たちは、戦犯と扱われたことに対して、激しい反発や抵抗をしていた。ところが、看守らの対応が予想外に丁寧で、食事や監房の環境がきわめて人道的であったことから、戦犯たちは、次第に安心し、やがて、自ら学習の機会を求めた。
新中国は、いかに日本人戦犯たちが中国人に対して残虐な加害行為をしたことが明らかになっても死刑も無期刑も課すことはなかった。寛大な措置がとられたのです。
日本軍将兵が戦争中、罪なき中国人の少年や農民に対して、「実的刺突」をさせ、虐殺した。また、荷物運搬夫として連行した農民を「地雷よけ」として先頭を歩かせ、死に至らしめた。
日本国内に、このような日本軍の残虐な加害行為が広く知れわたっていない現実があるなかで、日本軍はアジアの解放者だったなどという誤った戦争史観がはびこっているのだと思います。とても残念なことです。その状況を克服するためにも本書が広く読まれることを願います。
(2021年7月刊。税込4950円)

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