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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

奄美・喜界島の沖縄戦

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 大倉 忠夫 、 出版 高文研
著者は横須賀で活動してきた弁護士ですが、父親が喜界島からの出稼ぎ労働者で、戦前(1939年7月)、父とともに喜界島に渡り、8歳から戦後(1949年3月)17歳まで喜界島で生活していました。
沖縄戦がたたかわれたときには、喜界島にいて危ない目にもあっています。その自分の体験をふまえて喜界島と沖縄におけるアメリカ軍との戦闘を刻明に調査し、再現しています。580頁もある大作ですが、著者の執念深い調査によって本当に詳しく沖縄戦の実情を追体験することができます。
喜界島ではアメリカ軍の飛行機が墜落し、逮捕・連行された2人のアメリカ兵を日本軍が斬首してしまうという事件も起きています。戦後、そのことが明るみに出て、2人の日本兵がアメリカの軍事法廷で死刑判決を受け、1人は処刑されています。もう1人はなぜか減軽されて、やがて釈放されました。
戦前の喜界島の人口は1万5千人。小学校(国民学校)は6校あった。
喜界島に日本兵が3千人もいて、島民は軍の対空砲火は集落を守るためにも使われると信じていた。しかし、日本軍が島民を守ってくれるというのは、アメリカ軍の空爆が始まるとたちまち幻想でしかなかったことが明らかになった。
アメリカ軍による空爆が激しくなって、著者たちはムヤ(喪屋)に潜り込んだ。これは先祖が掘った古い横穴式の風葬跡である。
宇垣まとい将軍は敗戦が決まったあと、部下22人(11機)を自らの自殺につきあわせた。これは本当にひどい話です。うち3機は途中で不時着していますので、結局16人が無理心中のようにして亡くなったのでした。
喜界島の全戸数4千戸のうち半分近くが空爆のため焼失してしまった。
8月15日のあとも沖縄の兵士は戦闘を続けたようです。9月5日に日本軍は降伏式にのぞみ、ようやく戦争が終わりました。
喜界島のアメリカ兵捕虜斬殺事件では、一番の責任者である伊藤三郎大尉が戦後いち早く行方をくらましてしまい、アメリカ軍は裁判にかけることができなかった。そこで、裁判のストーリーには、伊藤大尉は出てこないように検察官は苦労した。
この横浜で開かれた軍事法廷は、ともかく十分な弁護権が行使できなかったようです。
91歳にもなる著者が長年の調査・研究の成果を1冊の本にまとめたことに心より敬意を表します。私が45年前に横浜弁護士会(現・神奈川県弁護士会)に所属していたとき、著者と面識がありました。お元気であること、かつ、大著をまとめあげられたことに驚いてもいます。喜界島から見た沖縄戦、とくに日本軍の特攻作戦の実際がよく分かる本です。
(2021年11月刊。税込3300円)

蓬莱の海へ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 青山 惠昭 、 出版 ボーダーインク
台湾で戦後まもなく起きた蒋介石の国府軍による大量虐殺事件、二・二八事件の被害者には日本人もいたというのです。日本敗戦時まで日本は台湾を支配していたのですから、戦後まもなくの出来事として日本人が虐殺被害に巻き込まれたのは不思議なことではありませんでした。
台湾へ中国本土で共産党軍に負けていた蒋介石の軍隊が渡りつつあるなかで、台湾支配政治のひどさに台湾民衆が怒って立ち上がったのを蒋介石は軍隊をつかって大々的に弾圧したのです。それが1947年2月28日に起きたことから、二・二八事件と呼ばれました。
台湾は1987年まで戒厳令のもとにあり、政府批判なんてとんでもないということから、軍によるこの大量虐殺事件は、いわば台湾のタブーとして、語られることもなかったのでした。今でも、その犠牲者がどれだけなのか明確ではありません。当局の公式発表でも2万人前後とされていて、いや5万人、10万人という説もあるほどです。
3月8日、台湾の基隆(キールン)に国府軍の8千人と警察官2千人が中国本土から上陸し、たちまち無差別の住民殺戮(さつりく)が始まった。そのなかで著者の父・青山惠先(えさき)も殺害された。父親は与論島出身で、著者自身は台湾の基隆で生まれたので、湾生という。
与論島出身者が大牟田に移住し、三池炭鉱で働いていたのは知っていました。与論長屋があって、固まって生活していたようです。コトバと生活習慣が少し違うので、「ヨーロン、ヨーロン」と地元も子どもたちからはやしたてられ、差別扱いされていたと聞いています。大牟田には、与論島出身者の親睦団体があります。
そして、与論島から満州へも移民団体635人が渡っていたことを本書で初めて知りました。日本敗戦後、その移民団は日本の悪行を一身に背負って、地元住民から襲撃され、多くの移民が命を奪われ、また59人も自死していったというのです。政府の言いなりになって、国策に乗せられて行動すると、とんでもない目にあってしまうという悲劇が起きたのでした。
著者の父・青山惠先は明治41(1908)年生まれ。実は、私の父は明治42年生まれですので、ほぼ同世代なのです。
著者は父・惠先が二・二八事件で殺されたことに確信をもつと、まずは家裁へ失踪宣告の申立をした。それが認められて、父は戸籍上も死亡した。
そして、次に二・二八事件における殺害で死亡したことで台湾政府に賠償請求した。これに対して台湾当局は、いったんは請求を認めないと決定した。あとになって、これは政府当局の指示によるものだと判明した。そこで、台湾の人権派弁護士に依頼して台湾で裁判を起こしたところ、ついに請求が認められた。すごい執念ですね。
二・二八事件の被害者は当局の認定だけでも2万人前後はいるのに、このうち賠償が認められたのは、わずか900人ほどでしかない。あとの多くは、病死したことにして、遺族は当局を恐れて申立自体をしなかった。
日本人が二・二八事件で賠償を認められることについては、台湾の内部にも、日本政府は台湾出身の慰安婦に対する賠償すらしていない現実があるから、なんで、日本人にまで二・二八事件の賠償をする必要があるのか…という反対意見もあったようです。
日本政府の対応は本当にひどいと思いますが、かといって、二・二八事件に巻き込まれて虐殺された日本人の存在が判明した以上、それなりの賠償があって当然だと思います。なかなか難しいところですね…。大牟田の堀栄吉さんという、与論島出身者の子であり、三池炭鉱で働いていたという好人物も案内人として登場します。私もよく知る、思わず年齢を忘れさせる活発な人です。
大変苦労しながら父親が軍による虐殺にまき込まれて殺害された状況を掘り起こしたという執念の固まりのような本です。
(2021年11月刊。税込2420円)

第32軍司令部壕

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 牛島 貞満 、 出版 高文研
沖縄戦司令官・牛島満中将(死後、大将)の孫である著者が沖縄戦の実相に迫っている本です。
なにより私が驚いたのは、先日、焼失してしまった首里城の近くに長さ1キロメートルに及ぶ第32軍首里司令部壕があったということです。何回か調査され、米軍も沖縄占領直後に調査したようですが、現在は途中で崩落したりして、立入できない状態です。坑道は1050メートルの長さで、1000人がいたとのこと。司令官室があり、浴場もありました。
沖縄の第32軍は1944年に創設されたが、大本営から下達された命令は、「沖縄の土地や沖縄県民の防衛」ではなく、本土決戦準備のための時間稼ぎ、すなわち持久戦だった。この目的を知っていたのは、第32軍の将校たちだけで、沖縄県民は知らされなかった。
そして、アメリカ軍が沖縄に上陸して、すぐに2つの飛行場を占領したことを知った大本営は、持久戦の方針を撤回し、飛行場奪回と、敵の出血強要を命じた。
持久戦から攻勢へと変更されたが、この大本営の攻勢命令はその後、撤回されることはなかった。その結果、日本軍は6万4千人が戦死し、兵力の3分の2を喪った。アメリカ軍の戦死者は5千人だった。
アメリカの軍事専門家は、この多大な犠牲者を出した沖縄戦の推移について疑問を投げかけています。つまり、沖縄に籠って抵抗する日本軍を放っておいて、先に九州か房総など、本土を叩いたほうがよほど犠牲者が少なく、目的を達成できたはずだ、というのです。なるほど、そうかもしれないと思いました。
そして、第32軍が南部へ移動(撤退)せずに、首里にそのままとどまっていたら、住民の犠牲がもっと少なくてすんだはずだと、著者は批判しています。というのも、南部への撤退が始まった6月に、70%の人が亡くなっているからです。
6月22日に、牛島司令官が自死したあと、終戦の8月15日を過ぎてからも9月5日にまで日本兵の戦死者が出ている。降伏調印式は9月7日のこと。
ところで、牛島司令官が自死したのは、6月20日、22日、23日のどれが正しいのか議論があるようです。著者は6月22日説です。戸籍は6月22日死亡になっているのです。6月22日の日付で、牛島司令官を陸軍大将に任命して大本営は沖縄の兵士たちの士気をあげようとした。しかし、実際には士気は上からなかった。大将への昇進は牛島司令官は生前に知ることはできなかったし、ありえなかった。
1キロメートルもある司令部壕の中央辺に司令官室が位置していたようですが、酸素欠乏で苦しかったとのことです。攻めたアメリカ軍は、首里城の地下に日本軍が洞窟陣地を築いていることを知っていました。
壕の写真もたくさんあり、よく調べてあると驚嘆しています。
(2021年12月刊。税込1650円)

戦略爆撃の思想

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 前田 哲男 、 出版 朝日新聞社
日本の敗戦後、アメリカ軍は日本全土に対して焼土作戦を敢行しました。軍需工場を狙うのではなく、都市を狙い、大人も子どもも、女性も老人も戦闘員がどうか関係なく無差別に爆撃の対象としたのです。これって戦争に関する国際法に違反していると思います。ところが勝者のアメリカ軍の蛮行は何ら問題とされませんでした。原爆投下と同じです。
しかしながら、都市を狙って無差別爆弾を世界で最初に始めたのは、なんと日本軍でした。中国の重慶を狙ったのです。もちろん、その目的は都市住民の戦意を喪失させることでした。しかし、結果は逆でした。重慶の市民は戦意喪失どころか、ますます抗日意欲に燃えて立ち上がったのでした。
そして、アメリカ軍から派遣されて日本軍による爆撃を観察していたカーチス・ルメイは、あとで、日本の本土空襲の先頭に立ったのです。なんという歴史の皮肉でしょうか。
1939年5月。日本軍の重慶爆撃は、「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された。それは、組織的・継続的な軍事作戦だった。ドイツ空軍のゲルニカ(スペイン)攻撃より1年あとだったが、1日限りではなく、3年間、218次の攻撃回数を記録した。
空襲による直接の死者だけで中国側集計によると1万2千人近い。
重慶は、世界どこの首都より早く、また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都市である。重慶爆撃は、東京空襲に先立つ無差別都市爆発の先例だった。
重慶爆撃では、加害者の人影は地上にはなかった。一方的な機械化された殺戮の世界だった。1万人以上の人々が、侵略者がどんな顔つきをしているのか、知る機会もなく死んでいった。日本軍は、重慶において、「工業期戦争の虐殺」と形容すべき、機械化された殺戮の戦術に先鞭をつけた。やがて、その悪夢の世界は、東京、大阪、名古屋をはじめ、日本全土主要都市の住民に追体験されることになる。
空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感触の消滅」という要素は、同時に、行為者の回心の機会をも閉ざしてしまう作用をもつ。
日本軍は、南京占領のあと武漢を攻略したが、これ以上の地上進攻はありえないという点で、政府も軍中央も現地の派遣軍も、三者の認識は一致していた。
敵の継戦意思を挫折させるという空からの爆撃作戦はヨーロッパ渡りではなく、日本独自のものだった。日本軍は協力を誓わない中国人をすべて潜在的な敵とみなした。
重慶の爆撃目標地点は、市内中心部の中央公園と定められた。
都市に対する爆撃でもっと威力を発揮するのが焼夷爆弾であることは既に証明ずみであったから、3000発の製造命令を出していた。
蒋介石の航空顧問として重慶に滞在していたアメリカ人のシエンノートは、日本軍による重慶爆撃を観察した体験をふまえて、アメリカ政府に対して、対日戦用として焼夷弾の開発をすすめるよう提言した。
日本軍は、5月3日に45機、5月4日に27機、計72機(1機7人、のべ504人)で、わずか2日間のうちに重慶市民5千人を上回る大殺戮を遂行した。
このとき重慶にいた、アメリカ人のエドカー・スノーは、重慶市民が精神的な破壊から免れていて大衆の抗戦意欲はますます強化されていることを理解した。むしろ、病労し、崩壊したのは、侵略者(日本軍)のほうだった。
ところが、日本軍首脳は、重慶の上空を制圧していれば、中国は屈服すると信じきっていた。1939年に海軍が失った機数は26機にのぼった。年間生産機数が38機だったかたら、損害許容率をはるかに超えてきた。
日本軍は1940年に「百一号作戦」を遂行した。井上成美少将が計画立案したもので、112日間、32回の無差別爆撃を遂行した。ところが、爆撃に必要な石油は、その大半がアメリカからの輸入に頼っていた。
ゼロ戦(零戦)が8月19日に護衛任務で同行した。ゼロ戦の航続力は3500キロで、重慶まで往復で960キロだった。9月13日、ゼロ戦と中国機が交戦したが、中国機27機が文字どおり「殲滅」されてしまった。1941年に日本軍は「102号作戦」を発動した。
1988年に発行された古い本ですが、歴史書でもあるので、記述されている内容な古臭くなってはいません。「敵基地攻撃論」に惑わされている人も少なくないようですが、戦略爆撃は罪なき人々を空から大量虐殺しただけで、日本軍にとって何のプラス面もありませんでした。そして、これを注意深く観察していたアメリカ軍将校によって日本は手ひどくしっぺ返しされたのです。大変勉強になりました。
(1988年8刊。税込2750円)

五・一五事件

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 小山 俊樹 、 出版 中公新書
久しぶりに五・一五事件について書かれたものを読んで、いくつも新鮮な驚きがありました。五・一五事件が起きたのは1932(昭和7)年。「イクサになるか、五・一五」として年号を暗記しました。二・二六事件は1936(昭和11)年。「ひどく寒い日の二・二六」です。
五・一五事件には海軍将校グループと陸軍士官候補生だけで、陸軍の青年将校は一人も参加していないのですね。
五・一五事件のとき、チャーリー・チャップリンが来日中であり、首相官邸にチャップリンが訪問する予定だったのに、チャップリンが急に気が変わって遭難を免れたというのは知っていました。この本によると、首相官邸を襲撃するのを5月15日に設定したのは、チャップリンがこの日、首相官邸での歓迎会に出席するとの新聞記事を読んだからとのこと。15日は日曜日なので、休日に海軍将校が外出しても怪しまれないからだったのです。
なぜ犬養(いぬかい)毅首相が狙われたのか。それは、犬養首相個人の言動から来る個人的な怨恨ではなく、あくまで権力の象徴として打倒された。この計画は犬養首相が誕生する前からあったことから明らか。
首相官邸にいた犬養首相は銃を向ける海軍将校たちに向かって、「そう騒がんでも、静かに話せばわかるじゃないか」と言った。そして「話せばわかる。話せばわかる」と繰り返した。そして座って「まあ、話を聞こう」と言った。これに対して、「問答無益、撃て」と叫んで、黒岩と三上の二人が犬養首相の頭を狙って銃弾を撃ち込んだ。犬養首相は即死したのではなく、夜、容態が急変して死亡した。
五・一五事件の犯人たちの裁判は日本中から注目され、減軽嘆願書が殺到した。
被告人となった海軍将校たちは、海軍服を新調してもらって法廷にのぞんだ。逆に襲撃を受けた被害者であるはずの犬養家が、かえって世間から糾弾された。
被告人たちは「英雄」となり、事件は「義挙」となり、人々は被告人の供述に「涙」した。
報道はそのようにエスカレートしていった。犯人の海軍中尉たちは死刑を求刑されたのに、判決では禁固15年。そして、実際には、6年で仮出所している。
軍法会議における被告たちの主張は、「私心なき青年の純真」というイメージとして流された。「政党による軍部の圧迫」、「政党・財閥ら支配層の腐敗」、「農村の窮乏」。いわば軍を圧迫する腐敗した支配層、政党・財閥などの既得権益層に向けた「欠席裁判」として、軍法会議が利用されたのでした。
今の自衛隊の上層部と同じで、昔の陸海軍の上層部は、まさしく腐敗した支配層・既得権益層を構成していたのですが、そこには、もちろんメスが入りませんでした。
他にも、なぜ五・一五事件のあと政党政治がほろびたのか、など大切な視点があり、とても勉強になりました。
(2020年4月刊。税込990円)

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