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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

満洲国グランドホテル

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 平山 周吉 、 出版 芸術新聞社
満洲のことを今、調べています。叔父(父の弟)が25歳で応召して満洲に渡り、工兵(2等兵)としてトンネル掘りなどしていました。日本敗戦後はソ連軍の下で使われたあと、八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)の求めに応じて技術員となり、紡績工場で働き、ついでに新工場をたちあげ、指導員として8年ほど働いていたのでした。今、それはどういう状況だったのかを調べているのです。知らないことだらけなので、古い写真もあり、調べれば調べるほど、ワクワクしてきます。
1931(昭和6)年9月に始まった満洲事変のとき、日本人が満州に23万人いた。日本敗戦時には、その7倍近い155万人の日本人がいた。開拓団や青少年義勇団が増えていたのです。「王道楽土」を夢見て内地を出て満州にたどり着いたとたん、開拓団員たちはとんでもない悲惨な現実に直面させられるのでした。
満洲では、日本人が米、朝鮮人が米と高梁(コーリャン)、中国人は高梁が主食として配給されていた。まさしく、目に見えた差別が公然と横行していたのです。これで「五族協和」だと、笑わせます。
錦州は張学良の本拠地だった。石原莞彌が空から爆撃した。
岸信介は、満州国に入って、40歳で実業部の次長となって、実業部の実権を握った。
河本大作・大佐と甘粕正彦大尉の二人は、「一ヒコ一サク」として、ペアを組み、組まされた。河本大作は、日本敗戦後の1953(昭和18)年に拘置所で死去した(71歳)。
満洲には、日露戦争の「成果」としての満鉄付属地があった。ここは、治外法権の地で、日本軍の介入を許さなかった。この満鉄付属地の存在は、日露戦争の勝利によって日本が得た重要な権益だった。したがって、軍部と財務省の協議は難航した。
日本軍は、匪族と良民の分離工作をしたが、これは完全な失敗だった。
日本支配下の満州の各都市には多くの「密吸煙館」があった。そこでは公然とアヘンの吸飲を許した。アヘンについては、専売制を敷いたことから、「専売益金」を担保として借金し、満州国を国営した。
昭和天皇は、将軍に対して、「満州事変は、関東軍の謀略だったとの噂を聞いたが、どうなのか」と質問した。その模範回答は、謀略の存在をはっきり認めつつ、関東軍の所為ではないとするものだった。昭和天皇は、それにうまうま乗せられた。いや、真相を知っていて、「乗せられた」ふりをしただけなのかもしれない。
関東軍は莫大な機密費をもっていた。お金をもっていたのは、陸軍と満鉄。それぞれ3000万円ほど持っていた。
四平街は奉天と新京の中間にある。この四平街には満鉄の図書館もあった。四平街には戦車学校があった。
1935(昭和25)年の秋、満鉄育成学校に入ったが、ここは完全自治の寄宿舎だった。
満洲国立大学ハルピン学院に転院した。少数精鋭なので、1学年100人(うち日本人60人)だった。
ノモンハン事件の前、天皇は国境の不明確なものを、無理することはない、としていた。
知らないこと、オンパレードの本でした。
(2022年4月刊。税込3850円)

太平洋の試練(上)―レイテから終戦まで

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 イアン・トール 、 出版 文芸春秋
日米の太平洋戦争を詳細に明らかにしている戦史です。マッカーサー将軍が、いかに自分のことしか考えない、嘘つき放題の人物であったか、いやになるほど暴露されています。
そして、それは、台湾を攻めるのか、フィリピンを攻めるのか、その二者択一の選択に関わっていました。
続いて、地獄のペリリュー攻防戦が詳しく紹介されます。平成天皇がわざわざ足を運んで一躍有名となった小島です。よく出来たマンガ本もシリーズで出版されました。
フィリピンではレイテ島をめぐる攻防戦、例の栗田艦隊の謎のUターンも迫ります。どれもこれも見逃せない戦史です。ところで、私は、この600頁ほどもある部厚い戦史・上巻の巻末の記述に目を奪われてしまいました。紹介します。
日米両軍がレイテ島で死闘を繰り広げたあとの1944年12月。アメリカの艦隊のあらゆる艦内では毎晩、新しい映画が上映された。映画交換艦に指定された駆逐艦には何百本という映画、何千巻というフィルムのライブラリーを管理し、発表された予定表にしたがって艦隊内を巡回した。そして、米軍慰問協会のミュージカル・レビューが艦から艦へとまわり、芸能人は1日に4回から5回も同じ出し物を演じた。
風光明媚な島モグモグには、ピクニック場、テニスコート、バレーボールコート、ボクシングリング、野球場、バーベキュー場、ビアガーデンがあった。そして、水兵たちには、ひとり2缶のビールが配給された。賄賂をつかうと、もっと強い酒も手に入れることができた。毎晩1万から1万5千の下士官兵と、5百から1千の士官で大いににぎわっていた。
いやあ、これって、わが日本帝国陸海軍の兵士さんには考えられないことですよね。せいぜい、軍公認の慰安婦施設があるだけでしたから…(今でも自民党は認めたがりませんが、争いようのない歴史的事実です)。
マッカーサー将軍は、ひたすらアメリカ本国で人気を得て、アメリカの大統領選挙に出ることしか念頭になかった。マッカーサーの配下の下士官兵には、自分さえよければいいというマッカーサー将軍はまったく不人気だった。
マッカーサー将軍は、フィリピンから脱出するときも、レイテ島に再上陸するときも、決して「我々」とは言わず、必ず「私」という一人称をつかった。いやあ、これは、ひどい、ひどすぎますよね…。
この本は、マッカーサー将軍について、「連続作話魔」だと決めつけています。しかし、この本を読むと、それは誇張でもなんでもないことが分かります。日本にマッカーサー将軍とともにやって来たホイットニーは、「作り話とでっちあげた会話だらけの聖人マッカーサー伝」を出版したとしています。その本の内容は、嘘つきが、別の嘘つきから聞いた話を焼き直したものだとしているのです。
いやはや、マッカーサーもホイットニーも、とんだくわせ者だったんですね…。
そして、8月9日のソ連の満州進攻にアメリカが期待していた事実も明らかにされます。つまり、東京にいる現人神(あらひとがみ)である天皇が降伏して停戦命令を出したとしても、満州にいる100万の日本軍は従わないかもしれない、そんな日本軍をソ連軍が撃滅してくれることをアメリカは期待していたというのです。
なーるほど、ですね。中国にいる100万以上の日本軍が天皇の1回の放送でたちまち武器を使わなくなるなんて、アメリカ政府と軍には信じられなかったのです。たしかに、ごく一部でしたが、終戦後も戦おうとして日本軍将兵がいましたからね…。でも、日本兵の大勢は停戦命令を喜んで受け入れたのでした。
ペリリュー島の日本軍兵士は、バンザイ突撃方式で向こう見ずに押し寄せてくるのではなく、物陰から物陰へと横切った、抜け目なく戦い、立場が逆なら、アメリカ海兵隊員たちがそうしたのとまったく同じやり方で攻撃した。
なので、せいぜい4日から5日かで終わるはずの戦闘が、なんとも続いた。
兵力1万1千の日本軍守備隊は、満州にいた関東軍の精鋭第14師団から選抜されていた。
アメリカ海兵連隊は、ペリリュー島の戦闘の最初の8日間で1749人の損害を蒙った。攻撃部隊は56%の死傷者を出し、第一大隊は71%もの驚異的な損害を蒙った。第1海兵師団は67786人の損害を蒙り、そのうち1300人以上が戦死した。多くの生存者もPTSDに悩まされた。
1949年9月15日の上陸から2ヶ月後の11月24日、日本軍のトップ・中川大佐の最期まで戦いは続き、さらに、1947年3月、33人もの日本軍元兵士が投降してきた。
ペリリュー島で戦った2万8千人のアメリカ海兵隊員と陸軍将兵のうち、死傷者は40%、うち戦死者1800人、負傷者は8千人。これに対し、日本軍守備隊1万1千人のほぼ全員が死亡。
レイテ沖海戦において日本艦隊は決定的に敗北した。このとき、栗田は疲れ切っていた。3日前から、一睡もしてしなかった。しかも、旗艦を撃沈され、55歳の海軍中将は海中を命がけで泳がざるをえなかった。
日本軍将兵は軍艦は軍艦と戦うものだと訓練されていたから、上陸中のアメリカ艦船を襲撃するという発想はなかった。
約束された航空支援は影も形もなかった。連合艦隊司令部の愚かさと硬直性について現場には憤満やるかたなかった。栗田は臆病からではなく、司令部への不満、部下の志気の低下によって行動しただけ…。
この本では、アメリカのイルガー提督の美名も、その実像をあばいています。要するに、マッカーサーと同じ虚像だったということです。
私は、前に、沖縄の熾烈な攻防戦について、アメリカの戦史研究家が、アメリカ軍は沖縄で日本軍と死闘をくり広げる必要なんてなかったのだという指摘を読んだことがあります。それよりむしろ、防備のうすい九州、いや本土を直接に攻撃したほうが、終戦は早まったはずだというのです。なーるほど、これも一理あるかなと思います。いかがでしょうか…。
人間ドックで泊ったホテルで一心に読みふけりました。
(2022年3月刊。税込2970円)

ボマーマフィアと東京大空襲

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 マルコム・グラッドウェル 、 出版 光文社
アメリカ軍による大空襲によって、東京では一夜にして10万人以上の罪なき市民が殺されました。B29が、大量の焼夷弾を投下したからです。
アメリカは、東京への無差別爆撃を世界で初めて敢行したのは日本。中国の重慶へ無差別爆撃を繰り返したのです。
大都市への無差別爆撃を敢行する前に、日本家屋をアメリカで再現して、ナパーム爆弾の効果を検証していたのです。本書を読んで、初めて知りました。
日本家屋は2戸ずつの棟が12棟、計24戸建設された。仕切りの障子、日本式の雨戸まで完璧に再現された。日本家屋に特徴的な厚さ5センチのわらの敷物(畳のこと)が重要。爆弾が階下に貫通するときの主な抵抗になるから。ナパーム弾を使うと、6分以内に制御不能になる等級Aの火災を日本家屋に68%の成功率でひきおこす。試算すると、ロンドン市内の可燃率が15%なのに対して、大阪中心部では80%、これは都市のほぼ全域。ナパーム弾は、燃えさかる粘着性ゲルの大きな塊をまき散らす爆弾。
粘着性のあるものを使うと、効果がずっと高い。何にでも付着して、輻射(ふくしゃ)熱を直接伝えるから。ナパーム弾は非常に威力が高い。カーチス・ルメイは、B29に最大限のナパームを搭載するため、防御手段は尾部機銃のみとし、余分な装備をすべて撤去した。要するに、日本人を効率よく殺戮することを最優先にしたのです。
3時間の攻撃のなかで1665トンものナパーム弾が投下され、41平方キロにわたって、すべてが焼き尽くされ、10万人をこえる人々が亡くなった。
作戦を遂行したB29の乗員は、基地に帰還したとき、ひどく動揺していた。地獄の入り口をのぞきこんでいる気がしたからだ。
この東京大空襲を敢行したカーチス・ルメイに対して、日本政府は1964年に勲一等旭日大緩章を授与した。よくぞ大量の「不要」な日本人を殺してくれました…というに等しい勲章の授与ではありませんか…。自民党政府が、ここまでアメリカに従属し、奴隷根性そのものであることに怒りとともに涙が抑えきれません。
この本は、精密爆撃が無差別爆撃かという論争が、アメリカとイギリス軍部であったことを明らかにしています。
精密爆撃は口でいうほど簡単なことではない。なにしろ、最大時速800キロで飛んでいて、高度9000メートルの飛行機から、爆弾を投下する。地上に落ちるまで30秒ほどかかる。これは大変な計算を必要とする。そこで、ノルデン爆撃照準器が開発された。
ナチス・ドイツのボールベアリング産業(工場)を連合軍の飛行機が爆撃した。ボールベアリンクは軍需産業の基礎をなしている。ところが、作戦に参加した乗員の4人に1人が帰らぬ人となった。あまりに高率が悪いとして中止された。ところが、ナチス・ドイツ側では、もし連合軍がボールベアリング工場への爆撃を続けていたら、まもなく、息の根が止まっただろうとみていた。いやあ、歴史では、そんなことも起こるのですね。
そこで市民の戦争意欲をくじくために都市への無差別爆撃が敢行された。しかし、攻撃が市民の士気をくじくことはなかった。かえって戦意を高めた。しかし、イギリスはそれを知っても、なお、ドイツは違うはずだと、ドイツの大都市への無差別爆撃を敢行した。
戦争というのが、いかに非人間的であり、非論理的なものであるが、今のロシアによるウクライナ侵略戦争のリアルな映像を見ても、つくづくそう思います。
(2022年5月刊。税込1870円)

731部隊全史

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 常石 敬一 、 出版 高文研
南京大虐殺なんてなかったという嘘を信じたい人は、戦前の日本軍が虐殺なんかするはずがないと思い込んでもいます。でも、七三一部隊が満州(中国の東北部)で大勢の罪なき人々を人体実験の材料としつつ、殺害していったのは歴史的事実です。そして、この本を読むと、この七三一部隊の所業が戦後日本の現在に至るまで受け継がれていることがよく分かります。
その一つが、結核ワクチンである乾燥BCG。陸軍の石井機関が乾燥BCGを研究・開発したことを隠し、BCGを結核予防法の中心にすえ、日本は結核対策に取り組んだ。しかし、それは失敗だった。
現在、日本は結核の中まん延国になっている。2019年、日本の結核患者数は10万人あたり11.5人。これはフランスが8.7人、イギリスが8.0人に比べて、明らかに高い。にもかかわらず日本の結核対策は成功したという誤解・幻想が今なおはびこっている。うむむ、これは知りませんでした。
その二は、医学界です。東大そして京大教授が石井機関の嘱託となって、石井の求めに応じて弟子たちを七三一部隊に送りこんだ。そして、そのことを戦後は口をつぐみ、反省していない。嘱託をつとめた研究者は自分の手を汚すことなく、七三一部隊での研究は弟子たちの責任だとした。そして、戦後に発足した予防衛生研究所の初代、次いで二代目所長に就任した。この二人、慶大教授の小林六造と東大教授の小島三郎の名前を冠した医学賞が今に続いている。
七三一部隊がやったことの主要な問題点は、人体実験を実施したこと、そして細菌戦の試行。日本の敗戦直前の8月9日にソ連が攻め込んできたとき、日本陸軍は七三一部隊の即時全面撤退を決め、本部にいた4千人の部隊員のほぼ全員が8月末までに家族ともども日本に帰り着いた。そして、帰国する前、4日間かけて建物を爆破し、収容していた数百人を殺害した。
石井機関の予算は、7年間で1262万円。1931年の5.2万円、1935年の108.8万円。そして1937年の911万円と、ずば抜けて高額だった。
軍医にとって、七三一部隊は名誉、それに死なずにすむというメリットがあった。軍医にとって、戦場に出る危険性が少ない部隊で研究ができ、論文が書け、学位を得るのは大変好都合なことだった。
七三一部隊では人体実験の対象となった人々を「マルタ」と呼んだ。人と見ていない、まさに使い捨ての材料としか考えていなかった。被験者を生きた状態で解剖し、臓器を取り出していた(もちろん、その人は死に至る)。人体実験をふまえた論文のなかでは、被験者を「サル」としているが、それが虚偽であることは、サルが「頭痛を訴えた」とも書いていることから明らかだ。たしかに、「サルが頭痛を訴える」なんて、考えられません。
石井部隊が細菌戦を中国現地で敢行したとき(1942年の淅贛(ズイガン)作戦)、日本軍は七三一部隊の細菌爆弾によって、1万人がコレラにかかり、1700人もの死者を出した。このことは、七三一部隊による細菌戦は決してうまくいかないことを実地で疑う余地なく証明した。
戦前の七三一部隊の亡霊が現代日本でものさぼっていることを知ると、背中に冷や水が流れます。
(2022年4月刊。税込3850円)
 日曜日の午後、フジバカマ4株を植えつけました。前に1株すでに植えていますので、これで5株です。秋に花が咲いてアサギマダラがやってくることを願っています。
 いま、庭にはまだチューリップが咲いています。3月半ばからですから1ヶ月間はチューリップに癒されました。最後は純白の花でしめてくれます。オレンジ色の小さな花を咲かせるヒオウギ、紫色の矢車菊、うす紫色のシラー、そしてアイリスです。ジャーマンアイリスも、つぼみがふくらんできました。5月に入る前に花が咲きそうです。
 春は三寒四温といいますが、春の気配から、ときに初夏を思わせることもあります。
 ロシアの無法な戦争が2ヶ月近くも続いています。長期化しそうな気配もあり、本当に心配です。一日も早くロシアによる戦争をやめさせなければいけません。核兵器なんて、とんでもないことです。

「経済戦士」の父との対話

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 大川 真郎 、 出版 浪速社
1942(昭和17)年5月、広島の宇品港を出航して3日後、大洋丸は鹿児島の男女群島沖でアメリカの潜水艦の魚雷により撃沈された。犠牲者は著者の父をふくむ800人余。亡父の遺体は遠く韓国の済州島に打ち上げられた。亡父は、今の武田薬品の社員15人の1人として、インドネシアへマラリヤの予防薬キニーネの原料であるキナ皮の確保に行こうとしていた。
大洋丸には、陸軍が選んだ百社のエリート社員・技術者千人が乗船していた。彼らは戦場でたたかう戦士と区別して、経済戦士、企業戦士あるいは産業戦士と呼ばれていた。
大洋丸は敵潜水艦に対する十分な備えのない、まるはだかの状態で進んでいた。
陸軍本部は想定外の被害に仰天し、国民の戦意喪失をおそれて事件を隠蔽した。真相が広く明らかになったのは戦後のこと。
亡父死亡のとき、著者は1歳2ヶ月。当然のことながら、亡父の記憶は何もない。母は当時27歳で、その死は86歳のとき。亡父は、1年間の志願兵をつとめたあと武田製薬に入社した。亡父は武田製薬に会社員として勤めながら、俳人として活動するようになった。いわば二つの顔をもっていた。
亡父が俳句をはじめたのは18歳のとき、新宮中学校に在学中のころ。
亡父は大阪薬専に入ると、松瀬青々の主宰する俳句誌『倦島』に出稿しはじめた。
松瀬青々は、俳句にリアリズムを求め、俳句を「自然界の妙に触れるとともに、人間生活の浄化をはかるにある」という「自然讃仰」の立場をとっていて、亡父はこれに共鳴した。青々の門下である西村白雲郷が句誌『鳥雲』を創刊すると、22歳の亡父は、その同人となった。
亡父は軍務として、1941(昭和16)年5月、中国大陸の上海や南京に行っています。南京大虐殺のことは知らされていなかったようですが、紫金山麓の野中に日本と中国の戦没者の墓標が並んでいるのを見て一句を読んでいます。
墓標二つ 怨讐とほく 風薫る 
怨讐とは、恨んで仇とすることです。
亡父の会社員のときの写真が紹介されています。著者に似ているというより、はるかに精悍な印象です。会社員として、かなり出来る人だったのではないでしょうか…。
亡父の日記を紹介し、著者は次のように亡父を評価しています。
「父は、自分を客観的にみつめ、きちんと自己評価しようと心がけた人だったようだ。自己を過大評価したり、自信過剰に陥ることを恐れていたようにも思われる」
さらに、亡父について、著者はこう評しています。
「父が為政者、マスコミにいささかも疑問をもたなかったのは残念であり、その意味で父は普通の人だったと思う」
反戦、反権力の弁護士として活躍し、大阪で生きてきた著者は、亡父の俳句や日記を整理するなかで、自分とよく似た性格、感性、心情などを見出し、喜び、親子の絆を強く感じたとのこと。同時に、この作業は、父の思想に疑問を投げかける無言の「対話」でもあったという。
そして、最後に、著者は亡父をしのびつつ、感性豊かで詩情にあふれ、文才のある人が、早々に生を終えざるをえなかったことを無念に思い、あらためて許しがたい戦争であり、為政者だったと結んでいる。
著者から贈呈していただきました。貴重な労作です。ありがとうございました。
(2022年4月刊。税込1650円)

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