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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

人びとはなぜ満州へ渡ったのか

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 小林 信介   出版 世界思想社
 
戦前の満州(現在の中国東北部)には、100万人をこえる日本人がいた。その3分の1は農業移民だった。そして、長野県は満州移民をもっとも多く送り出した。
満州への農業移民には、3つのパターンがあった。
自由移民・・・個人単位で満州に渡った。
分村移民・・・ひとつの村が送り出しの母体となって移民を送り出す。
分郷移民・・・近隣町村が合同してひとつの開拓団を組織した。
戦前の恐慌は1934年が底で、その後は長野県の経済は回復傾向にあった。そして、徴兵・徴用が相次いだことから、農村は労働力不足の状況となった。そこで、農家の過剰人口を前提とする大量の移民送出は困難になったが、大陸政策上の理由から、満州移民は要求され続けた。
一般開拓団が行き詰まりをみせはじめると、多くの青少年が義勇軍として満州へ送られた。関東軍の予備兵力である。
1945年8月9日、ソ連軍は満州へ侵攻を始めた。このとき、関東軍は主力が南方に派遣されており、また、関東軍による「根こそぎ動員」によって満州各地の開拓村には壮年男子はおらず、老人、女性、子どもが残されていた。
満州開拓は、日本の大陸侵略を前提としたものであり、満州の大地に根をおろしていなかった。現地の中国人は、開拓民をうらんでおり、日本人を歓迎するどころではなかった。
長野県が送り出した開拓民2万6000人のうち、日本に帰還したのは1万1000人ほど。半数以上が日本に帰国していない。帰国できなかった。
この本は、阿智村の長岳寺の住職・山本慈昭氏の活動を紹介しています。私も先日、映画『望郷の鐘』をみました。山本慈昭氏ら開拓民の悲惨な体験を身近に実感できる内容の映画です。泣けて仕方がありませんでした。2013年4月には、満蒙開拓平和記念館が開館しています。
長野県が青少年を満州へ義勇軍として送り出すのが多かった原因の一つに、教師が農家の二・三男をそそのかしたことがあげられる。それは、前段に長野県では「教員赤化」事件で138人という、大量の意欲的な教師が特高警察から逮捕されたこと、このとき信濃教育会も当局からにらまれたことによる。そこで、信濃教育会は、「海外発展」を打ち出すことによって信濃教育会への風当たりを援和させようとしたのだろう。
国の政策(国策)は、コロコロ変わる。その犠牲(しわ寄せ)は国民にかぶってくる。
このことを改めて実感させられる本でした。アベ政権にだまされてはいけません。「国を守るため」というのは、「国民を守る」ことに直結しておらず、矛盾することが多いことを学ぶべきだと痛感させられました。
(2015年8月刊。2500円+税)
 

朝鮮王公族

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  新城 道彦 、 出版  中公新書
 1910年、日本が韓国を併合したとき、天皇は詔書を発して「王族」、「公族」を創設した。大韓帝国皇室の人々についての身分である。これは、戦後の1947年まで存続した。
 日本が1910年に韓国を併合して以降、補助金が不要だったのは1919年の1年のみで、あとは、ずっと赤字だった。台湾は、日本の編入からわずか10年で補助金を辞退するまでに経済的に発展し、宗主国(日本)に金銭的な利益をもたらした。韓国とは、まったく対照的だ。日本の財界や言論界では、韓国併合による財政負担増を非難する声が少なくなかった。
 それでも、経済性を度外視して日本が韓国帝国を支配下に置こうとした目的は、国防にあった。危機意識があった。とくに北方にはロシアという明確な仮想敵国が存在していたので、朝鮮半島の確保は急を要する課題だと考えられていた。
 大韓帝国では、1903年ころ経済支出の43%を軍事費が占めていて、財政紊乱(びんらん)の原因となっていた。そのうえ、兵員は1万人にみたなかった。
 朝鮮貴族令が定められ、朝鮮貴族には日本の華族と同一の礼遇が保障された。ただし、朝鮮貴族のなかに、公爵になった者はいない。
 日本の皇族が朝鮮の王公族に嫁いでも、めとることはできなかった。朝鮮人の血を皇族に入れないという考えが宮内省にあった・・・。
 日本の首相として韓国併合を成立させた桂太郎が国葬にならなかったのに、併合された側の李太正が国葬になった。なぜか? この答えは単純であり、朝鮮人を懐柔するためだった。
 李太正の国葬のとき、寂寞たる国葬に比べて、内葬は盛況だった。1万5000人以上の人々が集まった。国葬の会場では、朝鮮人のほとんどがボイコットしたため、会席は空席だらけになった。国葬を押しつけたのは失敗だった。
 どこの国だって、他民族から支配されたとき、独立を目ざしてがんばるものですよね。生半可な日本の懐柔策は朝鮮の人々を完全におさえこむことは出来なかったわけです。そりゃあ、そうですよね。
 帝国日本に準皇族の身分が存続していたなんて、ちっとも知りませんでした。
(2015年3月刊。840円+税)

テキヤと社会主義

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  猪野 健治 、 出版  筑摩書房
 
 テキヤのなかに社会主義者がいただなんて、信じられませんよね。
 この本は、テキヤの生態を紹介するとともに、社会主義者やアナキストとの関わりを教えてくれます。
 なかでも私が注目したのは三宅正太郎判事の行動です。今の時代にはとても考えられない行動を裁判官がとったのでした。
香具師(やし。てきや)の社会は、今や崩壊の危機にある。トランク一つをぶら下げて、どこにでも行く、「寅さん」のような自由な空間は存在しない。香具師の社会には、次の厳守事項があり、これを破ると「破門」される。それは全国の同業者に回状がまわされ、業界から締め出される。
 バヒハルナ・・・おカネをごまかすな。
 タレコムナ・・・警察そして部外者に身内や内輪のことを漏らすな。
 バシタトルナ・・・仲間の妻女や交際相手に手を出すな。
 香具師の社会は閉鎖社会なため、内部のことは部外者にはうかがい知れない。
 バイネタ・・・商品。ロクマ・・・特殊な才覚、技術がないとできないもの(街頭易者)
 大ジメ・・・口上で人を多数集めて商売すること。
 ギシュウ・・・主義者。社会主義者や無政府主義のこと。
 香具師の稼業は、毎日が修行なのだ。その積みかさねで、不退転の度胸と根性が磨きあげられていく。警察との駆け引きも自然に上達する。
 香具師の世界には、「メンツウ」の習慣がある。面通。初対面の挨拶。
 「寅さん」のような純粋な一匹狼は、実は存在しない。どこかの一家に所属していないと、香具師としての商売はできない。
 てきやは一家とか組を名乗っているが、それはヤクザ組織を意味するのではない。本来は単なる稼業名であって、商売の「屋号」のようなもの。
 「友だちは5本の指」という言葉が香具師の世界にある。同じ青天井の下で商売をやっているのだから、みんな仲間だという意味。同類意識は非常に強い。ただ、そこでも、兄弟分の関係や親分子分関係は重視される。
 昭和61年に91歳でなくなった高嶋三治は、アナキストであり、香具師の世界に君臨した大御所である。アナキストたちは、関東大震災のさなかに軍部によって虐殺された大杉栄夫婦と一緒に殺された橘宗一少年までもが軍によって殺害され、古井戸に遺体が投げ込まれたことに激昴した。その復讐戦にたち上がったのが、アナキスト団体ギロチン社だった。
 ギロチン社のテロ行動がことごとく失敗するなかで、高嶋三治は、いきなり警察に逮捕された。強盗殺人島の罪で・・・。まったく自分の身には覚えがない高嶋は真相を究明しようとした。一審の名古屋地裁は無罪。検察控訴がなされ、高裁の審理が始まる前、突然、三宅正太郎・裁判官が高嶋の独房にやってきた。
 「私は、高裁の三宅正太郎だ。きみは間違いなく無罪だと思う。しかし、私がきみを無罪で釈放しても、警察は、次々と新しい手をつかって、きみを逮捕するだろう。一生を鉄格子のなかで過ごしていいものか・・・。やたら若い命をそんなに、空しく燃やし尽くしていいのか・・・。私が生きている間だけでも、アナーキストであることを読みとどまってほしい。シャバで自由に生きてみろ。必ず世の中の人のために役立つ男になれる。私は、きみに賭けてみたい」
 三宅正太郎は、高嶋の過去の調書を見て、この男は骨がある。ぜひ会ってみようと思ったのだろう。そして、高嶋を博徒(ばくと)である本願寺一家の高瀬総裁に預け入れた。
 昔の裁判官のなかには、このように留置場のなかにいる被告人のところへ押しかけ、将来展望を語ったというのです。今では、とてもそんなことは考えられませんね。この三宅正太郎は、「裁判の書」という、昔から有名な本を書いています。
(2015年2月刊。2000円+税)

日米開戦の正体

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  孫崎 享 、 出版  祥伝社
 著者は、集団的自衛権の行使容認に反対しています。私も同感です。そして、今の安倍政権のやっていることは、戦前の日本が犯した間違いをくり返そうとしていると鋭い口調で警告しています。
 「真珠湾攻撃の愚」と、今日の「原発、TPP、消費税、集団的自衛権の愚」とを比較すると、驚くべき共通性がある。
 ①本質論が議論されない。
 ②詭弁(きべん)、嘘で重要な政策がどんどん進められる。
 ③本質論を説いて邪魔な人間とみなされた人は次々に排除されていく。
 本当に、そのとおりです。安倍政権は怖いです。絶対に、そのうしろからついて行きたくはありません。そこに待っているのは「死」です。
 戦前、日本の軍部と結びついていながら、戦後になると一転してアメリカと結びついた一群の人々がいる。その一人が牛場信彦。外務次官そして駐米大使を歴任した。もう一人が吉田茂。田中義一首相のもとで、満州での軍の使用を主張していた。戦後は首相となって、アメリカにべったり。
 主義主張よりは、勢力の最強のものと一体になることを重視するという日本人の行動の悪い側面を体現している。
新聞で戦争報道が一番の「娯楽」となってしまうと、どうしても強硬な意見を吐く人たちがヒーローになっていく。戦争に批判的な人たちは、「腰抜け」とか「卑怯者」と叩かれる。
 今まさに、現代日本がそのようになりつつあるのが怖いです・・・。
 陸軍はロシア(ソ連)との戦争は考えていたが、アメリカと戦うなんてまったく考えていなかった。だから、対米戦略はない。ところが、その陸軍が「アメリカと戦うべし」と主張したのだから、状況は倒錯していた。
 昭和天皇と側近の木戸幸一がもっとも恐れたのは、内乱、そして昭和天皇排除に動くことだった。この指摘には、強くなるほど、そうだったのか・・・、と思いました。
 昭和天皇といえども、単なる掌中の玉でしかなく、絶対専制君主ではなかったのです。ですから、軍部は、もっと使い勝手のいい天皇をうみ出すのではないかと心配していたのです・・・。
 木戸幸一は内乱を恐れたが、戦争は恐れなかった。自己一身の生命に対する危険は恐れたが、国家の生命に対する危険は、いささかも恐れなかった。日露戦争のあと、日本の国家予算の30%が国債費で、さらに30%が軍事費である。このような状況では、社会不安が出てくるのは当然。
 日露戦争が真珠湾攻撃につながっていった大きい理由は、経済問題と、それに起因する社会不安だ。政府は、増税し、物価は高騰する、国民の不満が高まり、現状変革を望む。この不満から、左翼運動が活発化し、それを抑える弾圧が強まる。急進的な勢力が「革新」を求める。その代表が軍部の「革新」グループ。
 戦前の吉田茂は、中国への派兵を先頭切って論じていた。戦後には「反軍の代表」だったかのような顔をしているが、実は正反対のことを提唱し、軍部にとり入っていた。
 軍にとって、統帥権とは、軍に反対するものがいたときに遣う言葉であって、天皇の意向を最大限に尊重して動くのではないことを、熱河作戦が示している。天皇といえども、その一線をこえたときには、「大なる紛擾と政変」を覚悟せざるをえない。熱河作戦は、天皇でも軍の意向に逆らえないことを示した。
 いま、戦後70年の平和が、安倍政権によって「強制終了」させられようとしています。とんでもないことです。昨日と同じ平和な明日が保障されない日本になりそうです。戦争反対の声を、みんなが国会に向けて突き上げるときです。
(2015年5月刊。1750円+税)

戦艦大和講義

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

                                (霧山昴)
著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  人文書院
 戦艦大和は、世界一の威力ある主砲を積んで、1941年に就役し、1945年4月、沖縄へ来襲したアメリカに渡航して沈没された。このとき、乗組員2700人が艦とともに死亡した。
 日本人は、「大和」の物語を通じて、「あの戦争」の記憶を自分の都合にあうようにつくり直してきた。
 「宇宙戦艦ヤマト」は、日本人が地球を救う話だ。1970年代につくられたのは、高度成長を終えた日本人の優越感と劣等感が背景にある。完膚なきまでに負けた戦争を、空想の世界でやり直すことによって、心の傷の回復を試みたのだ。
 私も、幼かった息子と一緒に、この「宇宙戦艦ヤマト」に夢中になったことがあります(もちろん、息子ほどではありませんでしたが・・・)。
なぜ、「大和」は沖縄へ出撃したのか?
 沖縄にたどり着く前に、米空母機に撃沈される可能性が高いことは、その前にレイテ沖開戦で沈められた「武蔵」で実証ずみだった。だから、「大和」への出撃命令は、軍事的合理性を欠いていた。
 海軍にとって、「大和」などの戦力を沖縄で使い切ることによって、「海軍には、もう戦力がないのだから、戦争は止めるべきだ」という発言権が得られることになるという考えがあったのではないか・・・。これって、恐ろしい官僚的発想です。人命軽視そのものです。
 「大和」は、4月7日、九州沖で米機動部隊の放った攻撃機300機から攻撃され、撃沈されてしまった。3056人が死に、276人が生還した。
 「大和」は、最後まで日本国民に名前を公表されることがなかった。
 「大和」の艦長も乗組員も、一億国民が後に続いて死ぬと思ったからこそ、先に死地へ向かったのだ。そのとき、内地の日本人の命や安逸な生活を守ることは念頭になかった。すなわち、死の平等性が特攻の推進力となっていた。これを現代日本人は、すっかり忘れ去っている。
 その余の日本人は、特攻せず、敵国アメリカに降伏して生きのびた。広島・長崎に落とされた原子爆弾が、それまでの「1億総特攻」という強がりを止め、生きのびるための格好の口実となった。
 「大和」の生存者には、生き残ってしまったことへの罪悪感をかかえながら、戦後を生きていった。
 「大和」とは、日本にとって、そして日本人にとって何だったのか、戦後それはどう変容したのか、面白い視点で考え直してみた画期的な本です。
(2014年10月刊。860円+税)

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