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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

寒い国のラーゲリで父は死んだ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山本 顕一 、 出版 バジリコ
 映画『ラーゲリより愛を込めて』には本当に心うたれました。映画の主人公・山本幡男の息子たちが戦後の日本を母親とともにどう生きてきたのかを知りたくて読みました。
 山本幡男の遺書を同じラーゲリにいた仲間6人が完全に丸暗記して日本に帰り、家族に伝えるシーンは思い出すだけでも涙が出てきます。そして、その遺言の内容が、これまた泣かせます。
 「子どもたちへ、君たちに会えずに死ぬことが一番悲しい。成長した姿を写真ではなく、実際に一目みたかった。………きみたちは、どんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏頗で驕傲な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道にもとづく自由、博愛、幸福、正義の道を進んでくれ」
 「4人の子どもたちよ、お互いに団結し、協力せよ。とくに顕一は、一番才能に恵まれているから、長男ではあるし、3人の弟妹をよく指導してくれよ」
 この本の著者は、その長男です。山本幡男がシベリア送りになったとき10歳。戦後、島根県の松江高校に入り、島根県一番の成績で東大に入り、フランス文学を学びます。渡辺一夫という高名なフランス文学者に師事し、立教大学で教授として学生を教えます。ですから、客観的には父の遺書にあった「人類の文化創造に参加し」ているのですが、著者本人は、父の遺言を果たせなかったかのような思いです。
 二男は東京芸大の建築科に入り、今も新建築家集団の代表として活躍しているとのこと。
 三男は2浪して東大の経済学部に入り、大学院まで行ったものの、精神的な病いをかかえ、大学講師で人生を終えた。
 著者と同じときの東大仏文科には、私も名前を知る人が何人もいます。まず何より、大江健三郎です。そして、高畑勲の名前があって驚きます。小中陽太郎や蓮実重彦も同じころのメンバーです。
 父の山本幡男は、少年の著者にとって「まったく恐ろしい存在」、「父が家にいるだけで、絶えず緊張でビクビクしていた」。
 1940年当時、32歳の若さで父は満鉄社員として、妻子をかかえるほか、母親と妹2人も同居して生活の面倒をみていた。
 東京外国語大学の学生のとき、3.15で共産主義者として逮捕されて大学を中退して満州に渡り、満鉄調査部で働いていた父は、酒が入って酔いが悪く回ると、大声で軍部の悪口を言って、家族を心配させた。
 家の中に神棚はないし、日の丸を掲揚することもなかったので、子どもたちを困惑させた。
 そして、ついには包丁の刃を小学生である著者の首に押し当てた。いやあ、たしかに、これは怖いですね…。
 山本幡男がソ連に抑留されて生きていることが初めて日本の家族に知らされたのは1947年の暮れのこと。翌1948年11月にもシベリアから帰ってきた人が生存を知らせてくれた。
 そして、1952年11月に4ヶ月かかって手紙(往復葉書)が届いた。1953年5月からは1ヶ月に1回、往復葉書が届くようになった。ついに1955年4月、帰国の知らせがあったかと思うと、実は、1954年8月に死亡していたという電報が届いた。
 著者の母モジミは1992年10月に83歳で死亡。
 立派な父をもち、すばらしい遺書を前にして、子どもとして生きることの重圧がひしひしと伝わってくる本でもありました。
(2022年12月刊。税込1980円)

転生

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 牧 久 、 出版 小学館
 愛新覚羅溥儀は、清朝最後の皇帝「宣統帝」そして日本がつくり関東軍が支えた満州国の皇帝「康徳帝」となり、日本敗戦後は、中国共産党による思想改造教育を受けて植物園で働く北京市民として過ごした。その弟・薄傑は日本の貴族である嵯峨侯爵家の娘・浩(ひろ)と結婚し、二人の娘をもうけた。長女は学習院大学で学び、天城山で日本人青年と心中したことで有名。
 この二人の一生を詳しく明らかにした本です。「転生」というのは、溥儀が三つの人生を生きたことを指しています。
 日本は溥儀と密約を結んでいた。
 「皇帝溥儀に男子が生まれないときは、日本国天皇の叡慮によって関東軍司令官の同意を得て、後継者を決定する」
 溥儀の皇后はアヘン中毒で、側室には寄りつかないので、溥儀に子どもができないことを知る関東軍は、弟の溥傑の子どもを次の皇帝にするつもりがあり、ともかく後継者の決定権は関東軍が握っていた。
 袁世凱(えんせいがい)には自らが皇帝になるという野望があり、ついに1916年1月に皇帝となった(洪憲皇帝)。しかし、内外の反発が大きく、わずか83日間の在位で退任。同年6月、56歳で病死した。
 溥儀は快活で理解も早かったが、その気質には、真面目な面と軽薄な面があった。常に分裂したものがあり、二つの人格が存在した。心の中で、思っていることと、口に出していう言葉が正反対なことがしばしばあった。
 溥儀は、もともと女性に関心がなかった。それは、幼年のころ、周囲の女官たちからもてあそばれたことにもよる。
 溥儀は北京から天津に行き、そこで日本の庇護を受けて生活するなかで、日本が清朝を復活させるには第一の援護勢力であることを実感していった。
 1932年2月に発足した満州国は民主共和制であり、国主は執政となっていた。3月9日に溥儀の執政就任式が長春(新京)で開かれた。
 3月10日、関東軍司令官(本庄繁)と満州国執政(溥儀)、国務総理(鄭孝胥)とのあいだで秘密協定が結ばれた。
 満州国は日本に国防と治安維持を委任する。日本人を満州国の参議、そして各官署に任用し、その選任・解職は関東軍司令官の同意を必要とする。いやあ、これでは満州国とは日本のカイライ国家だというのは間違いありませんよね。
 このあと、満州国の中央と地方の官庁に日本人官僚を送り込む作業がすすめられた。
 満州国の建国が宣言されたのは3月1日で、その前日の2月29日に国際連盟が派遣したリットン調査団が東京に到着した。関東軍は植民地経営に精通したリットン調査団が満州に入る前に既成事実をつくりあげようとした。
 溥儀は弟の溥傑の妻となった浩を関東軍が送り込んできた特務(スパイ)だと思いこみ、毒殺される危険すら本気で心配した。
 日本敗戦後の8月19日、溥儀たちは日本に亡命するつもりで飛行機に乗り、通化から奉天へ行ったところ、ソ連軍に捕まった。関東軍総司令部がソ連軍に溥儀一行の奉天到着を知らせ、身柄を引き渡したとみるのが自然。
 溥儀たちはソ連内の高級捕虜収容所で優遇されて過ごした。元日本兵のシベリア抑留の過酷な生活とは別世界だった。1950年7月に中国に移され、撫順戦犯管理書に入った。朝鮮戦争が始まると、ハルピンに移ったが、1954年3月には再び撫順に戻った。
 そして、1959年12月4日、溥儀は釈放された。そして周恩来総理の斡旋で「北京植物園」の一作業員として働きはじめた。花のとりこになった。
 満州の皇帝となった溥儀が転変はなはだしい波乱にみちた人生を送ったことがよく分かりました。
(2022年12月刊。税込3300円)

ソ満国境15歳の夏

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 田原 和夫 、 出版 築地書館
 日本の敗戦も間近の1945年5月、新京第一中学校の生徒たちが勤労動員として、ソ連領のウラジオストックからも遠くない報国農場へ送り出され、8月9日からのソ連軍侵攻にあい、命からがら脱出・避難していった状況が刻明にレポートされている本です。
 新京は満州国の首都であり、今の長春です。満州国は中国東北部に日本がデッチ上げたカイライ国家です。
 勤労動員の対象となった中学3年生230人のうち、東寧(とうねい)の農場へ行かされたのは130人。奇跡的にもそのほとんどが生還できました(ただし、4人は病死)。
 この農場はソ連との国境間近にあり、目の前にはソ連領の丘があり、そこにソ連軍のトーチカがあった。午前4時の起床ラッパで起き、畑や水田で農作業し、夜9時には消灯ラッパが鳴って就寝。都会の中学生には慣れない農作業で大変。粗末な食事で、いつも空腹だった。6月には除草、7月は麦刈り。そして、農作業のあいまには軍事訓練。対戦車地雷攻撃。なんと、戦車に見たてたのは大八車。もちろん、実戦で役に立つことはなかった。7月末に勤労動員は終わるはずだったのが、延期になった。
 そもそも、なぜ中学生がソ満国境の農場へ勤労動員されたのか…。
 関東軍70万の精鋭というのは、今や昔の話であって、ソ連軍は当面攻めてこないと判断した日本軍首脳(大本営)は、関東軍の精鋭師団を次々に引き抜いて南方の戦場に送り出していたので、いわば「張り子の虎」になっていた。それをソ連やアメリカにバレないように秘匿したうえ、満州の大半は捨てて、朝鮮半島に近いところだけを守ることにしていた。それもバレたら困るので、員数あわせで「猫の手」ではないけれど、15歳の中学生まで動員したということ。
 そして、一般開拓民を早々に避難させるべきではなかったかと批判されたとき、そんなことをしたら関東軍の後退を敵(ソ連)に察知されるからできないと関東軍の元参謀は開き直った。つまり、軍隊は国民を守るためのものではないということです。そうなんです。軍隊というものの本質は、昔も今も変わりません。
 8月9日のソ連軍の進攻は、まさしく寝耳に水のこと。あわただしく避難行進が始まります。必死の思いでたどり着いた駅につくと、避難列車は出たあと。実は、軍の関係者を乗せる列車はあったけれど、生徒たちを乗せる余地はなかったというもの。何事も軍人優先なのです。
 100人以上の生徒たちは集団となって新京を目ざしますが、結局、徒歩。水も食糧もなく、ひたすら歩く。ボウフラのわいている水たまりでも夢中になって、ごくごくと飲む。もう生水でお腹をこわすこともない。道中では塩とマッチがもっとも大切な貴重品。マッチを油紙で包み、ふところ深く保管して歩く。
 夜通し歩き続ける。まっくらやみの中でも、水につかりながらも…。足は完全にふやけ、足の裏には1センチほどの深いシワというか溝ができていて、ところどころ皮が赤くむけている。
 8月15日の天皇の放送はもちろん聞くこともなかったけれど、16日ころから敗戦を伝えられる。当初は謀略放送かもしれないという受けとめ方があった。やがてソ連軍に出会い、捕虜となり、収容所に入れられる。
 この本では、スターリンによる日本軍将兵のシベリア送りは、北海道の半分占領をスターリンは考えていて、アメリカが賛成しなかったから方針を変更してシベリア移送を始めたとしていますが、史実にあっているのでしょうか…、スターリンはアメリカから干島占領の同意を取りつけ、さらにあわよくば北海度の半分占領も考えていたということでしょう。日本軍将兵のシベリア送り、労働力の活用は北海道の占領についてのアメリカとの駆け引きとは関係なく考えられ、推進されたのだと私は考えています。スターリンが1週間ほどの間に方針を180度変更して日本軍捕虜をシベリアへ移送して強制労働に従事させたというのは考えられないと私は思います。
 生徒隊はソ連軍の収容所のなかで、青少年義勇軍の少年たちと一緒になりましたが、義勇軍の少年たちは、暴力・いじめリンチがひどかったようで、たちまち生徒隊もその支配下に組み込まれたのでした。
 まあ、なんとか新京の親たちのもとにほとんどの生徒が戻れたのですが、本当に悲惨な体験をさせられたのです。戦争のむごさと不条理さ、そして軍隊というものの本質的な無責任さを痛いほど感じました。
(2017年9月刊。税込2640円)

満州事変から日中戦争へ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 加藤 陽子 、 出版 岩波新書
 1930年ころ、石川県小松町の時局講演会で陸軍少佐が演説した。
 「満蒙の沃野(よくや)を見よ。他人のものを失敬するのはほめたことではないけれど、生きるか死ぬかというときには、背に腹はかえられない。あの満蒙の沃野をちょうだいしようではないか」
 日本の国を守るために、海外に進出して植民地をつくろうと呼びかけたのです。
「国を守る」ため、アメリカからトマホークを500発も買いましょう。5年間で43兆円を軍事予算に使いましょう。こんなことが現代日本に、いま、大手をふってまかり通っています。恐ろしい現実です。今や日本は戦争をしかけていく軍事大国を目ざしているのです。すべては「日本という国を守るため」というのです。本当に、恐ろしいインチキです。戦前も同じ論理で、多くの日本人を海外へ送り出し、残虐・非道なことをやりました。そして日本に戻ってきたら、かの地で残虐なことをしていた日本兵は、いつのまにか聖人君子…。加害者は忘れても被害者と遺族は忘れるはずがありません。
 五・一五事件のあった1932年1月に上海事変が始まった。日本軍は、海軍特別陸戦隊ほかで1830人しかいない。中国側は、抗日意識の強い第一九路軍3万3500人。日本軍は劣勢だったが、2個師団が追加されたので、ようやく日本軍が勝利した。死傷者は中国側が1万4千人あまり、日本側は3千人ほど。
 国際連盟はリットン調査団を派遣した。そのリットンの書いた手紙。
 「日本は軍事力で満州を制圧できたかもしれないが、市場を支配することはできない。日本は中国の混乱状態に不満を訴えているが、その大部分は日本自身がつくったもの。満州国とは、明らかに欺瞞だと思う」
そのとおり、満州国は欺瞞そのものだったのです。
日本が国際連盟から脱退した1933年にそれを国連で主張し、実行した松岡本人は、国際連盟を脱退するのは日本のためにならないと考えていた。
アメリカは、1932年11月にローズヴェルト大統領は、孤立主義的な色添を強め、恐慌克服のため保護主義的な産業貿易政策を展開していった。
関東軍は、1934年4月以降は、ソ連軍対応の配置とし、諜報活動も治安回復第一主義ではなく、対ソ諜報に重点を置いた。
1934年10月は、蒋介石が共産党との内戦に勝ったため、中国共産党の軍隊は、長征の途についた。長征の始まりですが、共産党の軍隊は追われて逃亡するばかりでした。
毛沢東は西安事件が起きたことを知って、蒋介石を人民裁判にかけることを提起した。ところが、コミンテルンは毛沢東に対して毛沢東に対して蒋介石と戦うな、解放せよと指示した。そして、結局、国共合作が成立し、八路軍と呼ばれる軍隊が誕生した。
中国戦線に出動させられた日本兵の4割が後備兵だった。それは犯罪率の高さに直結していた。
満州事変について勉強していますが、いろいろ考え直させられました。
(2022年5月刊。税込946円)

満蒙開拓青少年義勇軍

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 上 笙一郎 、 出版 中公新書
 私にとって、まさしく衝撃そのものの本でした。うひゃあ、そ、そうだったのか…。ついつい叫んでしまいました。
 新たに獲得した治安不良の植民地へ少年だけを武装入植させた例は、満蒙開拓少年義勇軍だけ。ほかに例がない。あのヒトラー・ナチスもそんなことはしていない。13世紀の少年十字軍という悲惨な前例があるだけ。
 この少年義勇軍をリードした二人の大人(日本人)がいます。その一人、東宮鉄男は軍人で、張作霖爆殺の実行犯でもあったが、1937年11月に戦死した。もう一人の加藤完治は戦後まで反省することもなく、生き永らえている。
 驚きの第一は、青少年義勇軍は日本での呼び方であって、満州では使われなかったということ。「軍」とすると、中国人が本物の軍隊だと誤解するに違いないので、満州では「隊」としたというのです。日本人にとっては、軍隊としての実体がなくても、勇ましいものという意味で「軍」と使うことがあるわけです(「強行軍」とか…)し、現にいくらか武装していたのですが、軍隊と呼ぶにはほど遠いので、「軍隊」とは思われないよう、「隊」としたというのです。
 驚きの第二は、屯懇病には二つあるということです。ホームシックにかかった青少年は、自閉型だけでなく、攻撃型もある(あった)とのこと。自閉型は自殺などに至りますが、攻撃型は、後輩いじめ、中国人虐待などをひき起こします。後輩いじめは、集団抗争事件に発展してしまったのでした。
 「昌図事件」の詳細が紹介されています。1939(昭和14)年5月上旬に四平街に近い訓練所で発生した武装抗争事件で、死者3人、負傷者5人を出し、37人の青少年が裁判にかけられ有罪(執行猶予つき)となっています。外部から攻撃を受けたのではなく、新旧の義勇軍が抗争したのです。
 第1中隊170人が小銃や短刀をもって突撃ラッパを吹き鳴らして第22中隊の宿舎を包囲して銃撃し、石とレンガを窓ガラスに投げかけた。もちろん第22中隊も直ちに反撃して銃撃戦となり、結局3人が死亡し、多くの負傷者を出した。
 この事件について、著者は劣悪な社会環境におかれた青少年のハケ口が、新旧訓練隊の衝突につながったとみています。まさしく悲惨そのものの「大事件」です。
 驚きの第三は、青少年義勇軍開拓団は昭和16年の第一次から昭和20年の第五次まで、総計251団あり、内地訓練所が送り出した青少年2万2千人のうち4千人以上、つまり5人に1人、20%も脱落したということ。しかも、すべての訓練所と開拓団がソ連との国境線にそって散在していたということは、関東軍の盾(たて)になれということです。もちろん見殺しの対象です。ひどいものです。
 驚きの第四は、義勇軍開拓団の青年たちの結婚相手に中国人を考えることはなく、日本から「花嫁」を送り出したこと。そして、その「花嫁」たちは、貧困に加えて、孤児・片親・私生児など、日本にいたら「うしろ指」を差されるような若い女性であったこと。なるほど、満州の新天地なら、個人的な事情は消え去るわけです。
 そして、驚きの第五は、義勇軍開拓団も「根こそぎ召集」の対象となったということ。その召集が、あっけにとられるほど、ひどいのです。まさしく「根こそぎ」。「清渓開拓団」は200人の団員のうち190人、「阿武隈開拓団」は181人の団員全員が召集された。開拓団員は皆、若いので、兵隊にぴったりなのです。残されたのはそれこそ老人と女性、子ども。それで8月9日のソ連進攻にあうのですから、ひとたまりもありません。まさしく悲惨です。そして、そのとき、土地を取りあげられた中国人農民の積年の怨嗟・反感が日本人開拓団襲撃につながるのです。
 いやあ、とても深い洞察です。声も出ないほどのショックを受けてしまいました。
(1973年72月刊。古本)

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