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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

戦争まで

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 加藤 陽子、 出版  朝日出版社
 30人ほどの中高年に向けて、大学教授が日本が対米戦争に踏み切るまでの経緯を問答形式をとり入れながら語っている面白い本です。心と頭の若くて柔らかい中高生時代をとっくに過ぎた私ですが、最後まで面白く読み通しました。
話を聴いていて、ときにある著者からの問いかけに対する中高生の答えの素晴らしさは声も出ませんでした。これって、ヤラセじゃないのと、つい頭の固いおじさんは疑いたくなるほど見事な回答なのです。
戦争とは、相手方の権力の正統性原理である憲法を攻撃目標とする。
戦争は、相手国と自国とのあいだで、必ず不退転の決意で守らなければならないような原則をめぐって争われている。相手国の社会の基本を成り立たせてる基本的な秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ。
天皇は2015年8月15日の全国戦没者追悼式の式辞において、戦後の日本の平和と繁栄を築いたものは、「平和の存続を切望する」国民意識と国民の努力によると語った。
この点、私もまったく同感です。安倍首相の言葉には、まったく欠落している視点です。
1931年9月の満州事変のあと、国際連盟は現地にリットン調査団を派遣した。そして、翌1932年10月にリットン報告を発表した。
日本側は、中国国内の国共対立、日本製品ボイコットの実情をリットン調査団に見せようとした。必ずしも日本の不利になるとは考えていなかった。
リットン報告書は、日本軍の軍事行為は自衛の措置とは認められない。満州国は日本のカイライ国家であり、現地の人々の支持を受けていない。日本製品ボイコットは国民党政府が組織したもの。この三つが持論だった。
リットン報告書は、十分過ぎるほど、日本側に配慮していた。そして、中国側はこの報告書に不満だった。つまり、リットン報告書は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざま工夫したものだった。
戦前の日本の外交・軍事の暗号がアメリカ軍にあって解読されていたことは、有名です。山本五十六元帥も、そのため撃墜されてしまいました。ところが、この本によると、日本側もアメリカの外交電報の9割は解読していたというのです。
アメリカほどではないにしても、かなり高い解読能力を有していた。これは、ちっとも知りませんでした。
戦争が、相手国の権力の正統性原理への攻撃であったとすれば、その攻撃の為に敗北し、憲法を書き換えられることとなった当事者である日本人として、戦争それ自体の全貌をちゃんと分かっていなければならない。しかし、沖縄を例外として、戦場が主として海外であったこと、戦争の最終盤があまりにも悲惨だったことで、日本人は戦争を正視するのが、なかなか難しかった。
飛耳長目の道。あたかも耳に翼が生え、遠くに飛んでいって聞いているように、自国にいながら他国のことを理解することであり、また、あたかも望遠鏡のように遠くを見通せる「長い目」で眺めるように、現在に生きながら昔のことを理解できること、という意味。つまり、自国にいながら他国にことを理解し、現在に生きながら昔のことを理解するのが学問であり、その極めつけが歴史なのだ。
中高生を目の前にして戦前の日本を振り返ると、話すほうにも得られるものが大きい。このように書かれています。なるほど、そのとおりだろうと、この本を読んで思いました。
巻末に参加した中高生全員の氏名が学校名とともに紹介されています。すごい子たちです。日本も、まだまだ見捨てたものではありません。
(2016年8月刊。1700円+税)

大本営発表

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  辻田 真佐憲 、 出版  幻冬舎新書
 いい加減な政府当局の発表を今でも大本営発表と言いますよね。安倍首相は、いくつも大本営発表しています。たとえば、オリンピックを東京に誘致するとき、原発事故は完全にコントロールしていますなんて、真っ赤な大嘘を高言しました。また、アベノミクスで国民生活が豊かになる(なっている)かのような幻想を今なお振りまいています。
 この本を読んで、堂々たる嘘を戦争中ずっと高言してきた大本営発表の本質を知ることができました。それは、一言でいうと、軍部と報道機関の一体化にある。でしたら、今の日本のマスコミも、NHKをはじめとして、権力にすり寄ってアベノミクス礼賛がほとんどですから、似たような状況にあるってことじゃないですか・・・。恐ろしいです。
 大本営発表は1941年12月8日からと一般に言われ、846回の発表がなされた。しかし、実は、その前の1937年12月の南京攻略のときにもあった。
昭和の大本営は、敗戦の年まで首相の参加を認めていなかった。その実態は陸海軍の寄合所帯にすぎなかった。参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営海軍部と名乗っていた。統合されたのは、1945年5月のこと。敗戦の3ヶ月前だった。
 当初は陸軍が熱心で、海軍将校は報道を無用なおしゃべりとみなし、チンドン屋と呼んでバカにしていた。
当初は、軍当局は新聞をよくコントロールできていなかった。それは新聞各社の部数拡大をめぐる熾烈な競争があったから。そして、報道合戦に勝ち抜くためには、軍部との協力が不可欠だった。
新聞はジャーナリズムの使命感というより、単なる時局便乗ビジネスに乗っていただけ。これは毒まんじゅうだった。軍の報道部と新聞は、いつのまにか持ちつ持たれつの関係になっていた。
 1941年12月8日からの大本営発表は戦争報道を一変させた。新聞に代わってラジオが全国に速報する役目を担った。聴く大本営発表の時代が到来した。同時に軍歌が流された。
「ソロモン海戦に関する大本営発表は実にでたらめであり、ねつぞう記事である」
これは、昭和天皇の弟である高松宮(海軍中佐)が日記にかいた文章。
日本軍は情報を軽視していた。事実を確認することなく(確認できず)、戦果を誇張して発表し、それに自ら騙され、しばられていった。
 ミッドウェーでの敗北を発表すると、国民の士気が衰えることを心配した。大本営は国民を騙しただけでなく、海軍にも正確な情報を伝えなかった。
サボ島沖海戦で手痛い敗北を受けると、作戦そのものをなかったことにしてしまった。
国民は三重に目隠しされた。日本軍の情報軽視により、戦果の誇張がおきる。そして、損害の隠蔽が起きる。さらに、ジャーナリズムの機能不全に陥る。
軍部の感覚はマヒしていた。前回もやったことだから、今回も損害を隠蔽してしまおう。これも士気高揚のためだ。いまさら嘘を覆すわけにもいかない。マスコミは自由自在に動かせるから、どうせ国民にばれることもない。
「玉砕」という言葉は、大本営から反省する機会を奪った。ただし、「玉砕」という言葉のごまかしは1年間のみ。戦局があまりに悪化したため、美辞麗句ではもうごまかせず、「全員戦死」とストレートに表現されるようになった。
 ジャーナリズムが軍部当局、ときの権力にすり寄り、一体化してしまうと大変な不幸を日本にもたらすのですね。最近、アメリカのF35戦闘機を購入するというニュース映像が流れましたが、一機いくらするのか、何のために日本がこんな戦闘機を購入するのか、欠陥があるとの指摘はまったくありませんでした。ひどいニュースは、もう始まっています。
(2016年8月刊。860円+税)

わが少年記

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  中野 孝次 、 出版  彌生書房
 日本敗戦時に20歳。戦前に生まれ、小学校高等科を卒業したものの中学校には進学できず、父親の下で大工見習いをした。しかし、独学で勉強して、高校(熊本の五高)に入り、勉強の途中で召集令状によって兵隊にとられたという体験が小説化されています。
 ここでは、わずか4ヶ月間ではあったけれど、苛酷な軍隊生活について紹介します。
 軍隊という特殊な閉鎖社会にいた120日の体験は、ただ陰惨な奴隷の日々以外の何物でもなかった。みずからの意思も判断力もない一個の単位として、古兵たちの命じるままに動き、古兵の脚にとびついてゲートルをとらせてもらい、ひたすらその気まぐれを怖れる存在でしかなかった。そこには、一切の「私」の時間がないばかりか、「私」というものは許されなかった。
軍隊教育とは何か・・・。それは、人間の個性、個体差、感情、自主判断、思考力など、あらゆる「私」の部分を削りとって、人間を命令どおり均一に行動する戦闘動物に仕立てる教育である。そこでは、個人の尊厳などは一切認められず、いわば、人間を戦う奴隷に仕立て直す教育である。
 日本陸軍には、「しごかなければいい兵隊にならない」という奇妙な教育観が伝統的にあって、陰湿なイビリが黙認されていた。殴れば殴るほど、兵隊はよくなるという、暗黙の了解が軍隊にはあった。
 軍隊とは、兵隊の中の「私」を徹底的に摩滅せしめ、規格的な戦闘員に仕立てる組織であった。そのことを可能とする根拠として、絶対的な階級制度と命令系統とがあり、それを貫く精神的原理として「天皇の股肱」たる軍隊という考え方があった。
 敗戦後、きのうまで天皇の軍隊と称し、すべて天皇からの賜りものといっていた将兵たちが、敗戦と聞いたとたんに、軍の物資を略奪しはじめた。個にかえった兵とは、こんなにも醜いものだったのか・・・。
戦前に多感な思春期を過ごした著者の無念さ、やるせなさが惻々と伝わってくる本でした。本棚の奥にあった古い本を探し出して読んでみたのです。
(1997年3月刊。1553円+税)

昭和史のかたち

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(霧山昴)
著者  保阪 正康 、 出版  岩波新書
 昭和という時代は、62年と2週間のあいだ続いた。明治は45年までですからね。
 東條英機は陸軍士学校出身の高級軍人、吉田茂は東京帝大法学部出身の外交官、
田中角栄は自らの力でのし上がっていった庶民。この三人の総理大臣の共通点は何か…。三人とも獄につながれた経験があるということ。
 東條は巣鴨プリズンに収容され、絞首刑となった。吉田は敗戦の年(1945年)4月に陸軍憲兵隊から逮捕された。目黒区の小学校の教室が牢獄代わりになっていた。田中は、戦後まもなく逮捕されたのは、一審有罪、二審無罪になったが、ロッキード事件で逮捕され、その裁判の途中で亡くなった。
なぜ特攻を、海軍兵学校や、陸軍士官学校で軍事教育を受けた軍人たちが、行わなかったのか…。
1人の軍人を育てるために、国がどれだけのお金を使うか。一般の給料が40円とか50円の時代に、軍の学校では一人1,000円とか2,000円を使っていた。そうして育てた軍人を、なんで特攻なんかで死なせることができるものか…。軍事のためにどれだけ役に立つか、それこそが戦時下における「人間の価値」であり、「値段」なのだ。つまり、軍事的な価値のない者から先に死んでいけというのが日本軍国主義の考え方なのだ。学徒兵や少年兵には、国はお金を使っていない。
軍部は天皇に対して真実を伝えないようにしていた。「統師権の独立」というのは、天皇からも「独立」していた実態がある。
 陸軍当局は、エリート意識に凝り固まって、戦争とは自分たちの面子(メンツ)を賭けた国策であるとし、そのために「天皇の名において」国民の生命と財産を恣意的に用いて戦争を続けた。戦争とは高級軍人の存在を確かめるための愚劣な政治行為でしかなかった。
 太平洋戦争が進められていた3年8ヶ月のあいだに、大本営発表は、846回あった。1941年(昭和16年)12月には、88回の発表があった。しかし、戦況が不利になっていくにつれ、虚偽、誇大、日本の被害を逆にする捏造などに、変化していき、最終的には、まったく発表せず、沈黙に逃げ込んだ。
 戦争という国策を選択したのは、議会でも国民でもなく、軍官僚とその一派だった。
 憲法上に明記されていない大本営政府連絡会議が決定し、それを御前会議が追認するという形の決定だった。
 東亜新秩序をつくるという意味は、ヒットラーや、ムッソリーニと共に世界新秩序を作る戦いであり、「東亜解放」など、露ほども目的とされていなかった。
 特攻作戦を国家のシステムとして採用した国は第二次世界大戦では日本だけ。
 天皇に戦争責任はあるか…。責任はあると考えるのは、当たり前のこと。なにより昭和天皇自身がそう考えていた。責任があるということを否定すること自体、昭和天皇に非礼なのである。
よくよく考え抜かれた新書だと思いました。
(2015年10月刊。780円+税)

父の遺言

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(霧山昴)
著者  伊東 秀子 、 出版  花伝社
 北海道で現役の弁護士として活動している著者は衆議院議員を2期つとめています。孫を可愛がっていた優しい父は、1987年に85歳で亡くなりました。その遺言書には次のように書かれていたのです。
 「子どもたちよ、ありがとう。日本に帰ってからの私の人生は、本当に幸せでした。兄弟仲良く過ごしなさい。絶対に戦争を起こさないように、日中友好のために、力を尽くしなさい。父より」
 明治35年に鹿児島県に生まれ、陸軍士官学校から憲兵隊に入って、満州に渡り、憲兵隊長(憲兵中佐)として活動した。日本の敗戦後、シベリアに送られ5年間すごしたあと、中国の撫順戦犯管理所に入れられた(1950年7月)。そして、1956年7月に特別軍事法廷で、禁固12年の刑に処せられた。その犯罪事実のなかには、731部隊に中国人22名を送ったということもあげられていた。
 731部隊とは、陸軍(関東軍)の秘密部隊であり、中国人などを生体実験の「材料」とし、残虐なかたちで死に至らしめた。少なくとも3000名以上もの人々が名前を奪われ「マルタ」と呼ばれ、全員殺害された。
 著者の父親は憲兵部隊長として44名もの中国人を731部隊に送ったことを認めた。中国から帰国したあとは、家族のために一所懸命に働き、子や孫にあり余るほどの愛情を注いでいた父親が、軍人時代に、中国で凄惨な生体実験にこんなにも多くの中国人を送り込んでいたとは・・・。
「戦争は、人間を獣にし、狂気にする」
「戦局が悪くなると、ますます指揮官も兵隊も狂っていく。そして歯止めが利かない」
ごくごく普通の人間が、同じ人間なのに、虫ケラとしか思わないようになり、むごたらしく殺して平気になる。それが戦争の狂気です。そんな世の中に再び逆戻りさせようとする自民・公明のアベ政権を許しておくわけにはいきません。それを実感させてくれる本でした。
(2016年6月刊。1700円+税)

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