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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

通州事件

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 広中 一成 、 出版  星海社新書
通州事件が起きたのは、1937年7月29日。通州は北京市の東側にある。
通州に駐屯していた保安隊が反乱を起こし、日本軍通州守備隊の動きを封じたうえで、逃げまどう日本居留民を次々に捕まえて殺害した。通州事件で亡くなった日本居留民は日本人114人、朝鮮人111人のあわせて225人。
通州事件発生の一報はすぐに日本に伝わり、日中戦争の緒戦の勝利に熱狂していた日本国民に大きな衝撃を与えた。
この通州事件の起きる3週間前の1937年7月7日、北京市郊外の盧溝橋で日中両軍が軍事衝突を起こした。この戦いをきっかけとして、日本軍は本格的に中国侵略を開始し、1945年8月まで、8年に及ぶ泥沼の日中戦争に突入した。
通州は、日本のカイライ政権である冀東(冀東)防共自治政府が支配していた都市であり、その治安維持部隊である保安隊が日本軍に反乱して日本人居留民の多くを殺害したわけですので、ショックが多かったのは当然です。
では、なぜ保安隊は反乱を起こしたのか。そして、兵隊ではない日本人居留民を200人以上も殺害したのか・・・・。
この通州事件というのは、私はこの本を読むまで詳細を知りませんでしたが、漫画家の小林よしのりが1998年に『戦争論』で通州事件を描いたことから広く知られるようになったものです。
小林よしのりは、この事件によって、日本国内の中国に対する怒りの世論がまきおこり、戦争支持の国内世論を形成したと論じた。
通州は、今では北京市通州区となっていて、多くのマンションや商店の立ち並ぶベッドタウンである。北京市の中心から東へ20キロのところにある。
日本軍の通州守備隊に反旗を翻したのは、保守隊7000人だった。事件を起こしたのは保安隊であり、通州の中国人住民は日本居留民の殺害に加わってはいない。
通州事件は周到な準備のうえに実行された。その背景には、保安隊員がもともと抱いていた抗日意識、そして軍統や中国共産党による謀略工作が大きく影響したと考えられる。
通州事件のあと、日本軍に救出された居留民は、日本人73人、朝鮮人58人の、あわせて131人だった。つまり、通州にいた日本居留民の半数以上が通州事件によって亡くなった。これら日本居留民は、密輸品や麻薬などの禁制品を取り扱う者が少なくなかった。ヘロインを取り扱っていた日本居留民が通州には存在していた。
日本軍が中国でヘロインの密売買に手を出して、大もうけしていたことが今では判明しています。日中戦争は高級軍人たちの金もうけに利用されてもいたのです。となれば、ヘロインを取り扱う日本居留民とそれを公認している日本軍に対して怒りを燃やす中国人がいても不思議ではなくなります。
つまり、日本軍と日本人が事件のタネをまいていたことになるのではないでしょうか・・・。
(2016年12月刊。880円+税)

忘れられた人類学者

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 田中 一彦 、 出版 忘羊社
『須恵村の女たち』(御茶の水書房)は、日本という国がどんな社会なのかを生き生きと描いた古典的名著だと私は考えています。まだ読んでいない人は、インターネットで注文して買うか、図書館で借り出して、ぜひ読んでみてください。
日本の女性のたくましさについては、戦国時代の日本にやって来た宣教師たちの報告書に何回も驚きとともに報告されていますが、戦前の熊本の農村地帯もまるで同じ状況でした。本書では「困難な中にも奔放に生きる女たち」と評されていますが、そのことをひしひしと実感させられます。
この本は『須恵村の女たち』を書きあげた若いアメリカ人学者夫婦を丹念に紹介しています。
ジョン・フィ・エンブリー、27歳。妻のエラは26歳。2歳の娘クレアを連れて、1935年(昭和10年)11月から1年間、須恵村に住み込んで日本農村調査をした。
須恵村は、現在は町村合併で、球磨郡あさぎり町となっていて、あさぎり駅で降りる。
当時の須恵村は285戸のうち農家が215戸、75%を占めた。昭和10年の須恵村には、自転車は160台、時計は各戸にあり、ラジオは5台、オート三輪車が1台、バスは通っていた。電話は村役場に1台あった。
夫・エンブリーは、アメリカに戻って、42歳のとき交通事故で娘クレアとともに亡くなった。
妻・エラは、2005年に96歳で亡くなった。
エンブリー夫妻は、瓦ぶき2階建ての貸家に生活した。風呂が室内にあった。
エラは、エンブリーと違って日本語が達者で、通訳はいらなかった。娘クレアもアメリカに戻るまで日本語で生活していた。
戦前なので、エンブリー夫妻は警察からスパイ視された。しかし、須恵村の人々はエンブリー夫妻を受け容れた。村人は好奇心に満ち、自由に、何でも話した。
シカゴ大学からエンブリーがもらった調査費は3000ドル(3000万円)。アメリカの大学は偉いです。たいしたものですね。
村人そして女性たちの冗談や猥談は、酒の席だけでなく、つらい労働の気散じんなっていた。須恵村の女たち、とりわけ年寄りの女性は、自由で、開けっ広げで、積極的で、生き生きとしている。酒宴では、いつもエロチックな歌と踊りが披露され、煙草、酒、性に楽しみを見いだしていた。
女性は、おへそを比べあい、性器や陰毛の生え方の形を見せあったりしていた。
須恵村の宴会で、人々は踊り、唄い、食べ、鮭を大量に飲み、ほとんど例外なく、かなりの性的な冗談や戯れがみられた。ついには、みんなが酔っ払って、踊りまくり、下品な歌をうたいまくらない宴会はほとんどない。性交の行為を表すような踊りをおどった。
エンブリーは、性生活の不満を晴らすために、宴会の女の踊りに性的な性質があると分析した。
これだけ開けっ広げだったのに、出産の場にエラがついに立会うことはできなかったというのも不思議なことです。
須恵村では離婚と再婚はひんぱんであり珍しいものではなかった。そして、女性の方から結婚生活に終止符をうつことも少なくなかった。
10回も結婚した女性がいた。結婚式は簡単で、婚礼は5円ですませることが出来た。
須恵村の女性は、しばしば夫とは別の男をもっている。
須恵村では、数人の異性との性愛を不純とみない、むしろ、性が人間としてのやさしさやあたたかさの源であることを確認しあうような素朴なすがたがある。ここでは、家父長的な性道徳や貞操観念は、無縁だ。
女性主導の離婚が多かった背景には、別の夫を見つけることがきわめて容易だということがあった。
まずは『須恵村の女たち』を読んでから、この本を読むことを強くおすすめします。
(2017年3月刊。2000円+税)

東京を愛したスパイたち

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 アレクサンドル・クラーノフ 、 出版  藤原書店
戦前・戦後の東京を舞台として暗躍していたスパイの足跡をたどった本です。
私の知らないスパイが何人も出てきますが、やはり、なんといってもリヒャルト・ゾルゲに注目せざるをえません。ソ連のスパイでありながら、在日ドイツ大使館の中枢に入りこんでいた有能な人物です。日本軍が北進する可能性があるのかは、独ソ戦の勝敗もかかった大問題でした。それをゾルゲは、尾崎秀実から日本軍の北進なしと情報を受けとって、ソ連へ打電したのです。
ところが、スターリンは、ゾルゲ情報をあまり重視していなかったようです。独裁者は何でも疑うのですね。そして間違うのです・・・。まあ、それでも日本軍の南侵説を信じて、極東にいたソ連軍を対ドイツ戦へ振り向け、ようやくソ連は窮地を脱することができました。
日本政府のトップシークレットを入手していたゾルゲは「酒と女」に入り浸っていたようです。それがスパイをカムフラージュする目くらまし戦法だったのか、スパイの重責のストレスからきていたのか、単なる好きな逸脱だったのか、いろいろ説があります。ともかく、ゾルゲがスパイとして超一流の腕前を発揮したこと自体は間違いありません。
著者は、ゾルゲが出入りしていたビアホール店にまで足を運んでいます。そこで、ゾルゲは石井花子という日本人女性と親しくなったのです。
ゾルゲは、1943年4月に裁判が始まり、1944年1月に上告が棄却されて死刑が確定した。そして、この年の11月7日に絞首刑に処せられた。
ゾルゲは3年間の獄中で100冊以上の本を読んだ。
石井花子がゾルゲの死刑を知ったのは、戦後のこと。1945年11月、石井花子は雑司ヶ谷墓地にあったゾルゲの遺体を発見した。
身元不明の死体が投げ込まれる穴の中に棺があった。青色のぼろぼろの小片がゾルゲの上着の残留物であることを花子は見抜いた。そして骨のサイズからして、外国人の体格だった。大きな頭骨、近の歯冠・・・。
石井花子は、のちに彼女を訪れたソ連のジャーナリストに向かってこう言った。
「私はあなたがおいでになるまで20年も待ち続けました。ゾルゲのことを語るために、です」
花子は、ゾルゲの遺体に残っていた金の歯冠で婚約指輪をつくり、生涯それを指から離さなかった。石井花子が亡くなったのは200年7月4日、89歳だった。
ゾルゲのグループで逮捕されたのは35人だった。尾崎秀実がゾルゲと同じ日にゾルゲに先立って処刑されている。
ソ連とロシアのスパイは、こうやって明らかにされていますが、アメリカのCIAなどのスパイ行為はまったく報道されませんよね。スノーデンの世界だとは思うのですが、日本が果たしてアメリカとの関係で独立国と言えるのか、私はかなり疑問を感じています。
(2017年1月刊。3600円+税)

父母(ちちはは)の記

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 渡辺 京二 、 出版  平凡社
1930年(昭和5年)生まれの著者が両親について語った本です。
著者の両親について紹介する前に、私の両親を先に紹介しておきます。私の父は明治42年に百姓(中農です)の長男として生まれましたが、百姓は腰が痛くなるから嫌だといって上京し、逓信省にアルバイトとして働きながら法政大学の夜間部に学びます。やがて昼間部の法学部に転入して司法試験を目ざしましたが、あえなく敗退します。父のとき、法政大学でも大学全体を揺るがすような学生の抗議運動が起きたようで、「法政大学百年史」に書いてあります。法政大学を優秀な成績で卒業した(ようです)ものの、「大学は出たけれど・・・」の時代で就職できませんでした。たとえば、天下の三井に入るにはたとえ法政大学を一番で卒業してもかなわなかったの(よう)です。それで父は、いったん筑豊の小学校で代用教員となり、やがて伝手をたどって三井の青年学校の教員となり、ようやく天下の三井に入ることが出来たのでした。
私の母は大正2年生まれ。久留米の高良内に生まれ育ちましたが、父は村長をつとめるほどの人望家でした。異母兄の夫に秋山好古の副官をしていたこともある中村次喜蔵という人がいます。第一次世界大戦中、ドイツ軍の青島要塞を攻略したときに華々しい戦華をあげて天皇の前で2回も講釈したといいます。
それぞれ、私が亡くなった両親から聞いたことを手がかりとして、図書館で調べたり、偕行社に問い合わせしたりしました。
このような作業を通じて、私にとって近代日本史はごくごく身近なものになりました。そして、亡母の異母姉の夫である中村次喜蔵の孫が、私と同じ学年に東大に入り、同じく司法試験に受かっていたなんて、つい先日知ったばかりですが、世の中は本当に狭いというか、巡り合わせは恐ろしいものだと思いました。いま彼は東京で弁護士ではなく、社長業をやっていますが、それを知らせたのも、実は、このコラムなのです。彼の友人が偶々ネットで検索したら、私のコラムにひっかかったというのです。すごいですね。インターネットの威力は・・・。
ようやく著者の両親の話に戻ります。父親は明治31年に熊本県菊池郡に生まれ、朝鮮で育った。日活専属の活動弁士として活動していた。当時は、無声映画ですから、弁士は、一種のスターだったのです。なかなかの美男子だったとのことです。
大正11年に父は美人の母と結婚した。ところが、母は手に負えない辛辣な頭の持ち主だった。
むかしの人は、今の人間よりよほど自己本位に、勝手気ままに生きていたのではないか・・・。著者の書いているのを全部そのまま信じると、40年も弁護士をしている私からしても、すごい型破りの夫婦だったように思います。なんか、みんな、いつのまにか大人しくなってしまったのでしょうね・・・。これも、例の「戦後の民主教育のせい」なのでしょうか。
著者は終戦時まで満州にいて、戦後、熊本に戻って五高に入り、共産党に入ります。共産党員としての活動やら、その後の活動の記録にも興味深いものがありますが、私にとっては、なんといっても戦前の日本と満州・大連での生活の詳細な描写に心が惹かれました。
それにしても記憶力がよいというか、よくぞここまで昔のことを再現できるものかと驚嘆してしまいます。やはり、自分という存在を知るためには、父と母のことを真正面から語らなくてはいけないのですよね。
(2016年8月刊。2200円+税)

青春の柩

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 岡村 治信 、 出版  光人社
 あまりにも過酷な戦争体験記です。よくぞ戦後まで生きのびたものだと驚嘆せざるをえません。戦後は裁判官として活躍しました。
 この本で印象に残った言葉をいくつか紹介します。まずは艦長の言葉です。
 「主計長(著者のことです)は司法官だそうだね。そして一人息子か。ご両親は、きみのことを本当に心配しているだろうね。戦争が終わったら、立派な仕事につけるのは、うらやましい。せいぜい命を大切にするんだね」
これが海軍の将校(川井大佐)の言葉なのです。いかにも命が粗末に扱われる戦場(海域)での言葉ですから、重味があります。
 次は著者の言葉です。
 「いのちの家である『木曽』(著者の乗っている巡洋艦)は、いったい、いつここを脱出できるだろうか。なるものなら、ぶじに故国の土を踏みたい。そして、もう二度と、こんなラバウルになど来るものか、という、いわば厭戦的な気持ちなのである。こういう気持ちは開戦いらい抱いたことはなかったのに、こんどの作戦中だけは終始、ぬぐうことができなかった。なぜであるか、自分でも分からない。おそらく、戦中2年に近い海上生活に疲れたのだろう。そんな弱いことでどうするのだと、心に苛責を感じながらも、やはり生きたいのであろう。結局は、捨てきれぬ小さな命にひきずられて思い迷う自分なのである。
 そうだ、この現実がある以上、私はなお生き続けなければならない。この抜きがたい刻印が胸の中にいっぱいに醗酵しながら、私に厳然と命令する、お前は生き続けなければならない。絶対に彼らの様に負傷したり、死んだりしてはならないと」
 著者は駆遂艦「追風」の庶務主任、巡洋艦「木曽」の主計長として、いくつもの海上作戦に参加しました。南洋のウェーク島占領作戦、ラバウル・ソロモン海戦、ガダルカナル救援作戦、そして北方のアッツ島攻略作戦、キスカ撤収作戦などです。まさに歴戦の海軍将校でした。生きのびたのは不思議、奇跡としか言いようがありません。
 もともと軍艦における死傷の様の残酷なことは、陸戦の場合とは比較にならない。艦上は四周みな鉄であって、一個の爆弾の破裂によって、そのことごとくが、同時に、残酷、凶悪の化身となって飛散する。その断片、鉄片がひとたび人体に振れれば、たちまち肉を裂き、骨を砕き、文字どおりの肝脳地にまみれしめねばやまない。
 海軍主計中佐だった著者は、戦後裁判官になり、東京高裁の判事をつとめました。前に紹介した原田國男元判事の著書(『裁判の非情と人情』)に紹介されていたので、ネットで注文して読んだ本です。その記憶力のすごさにも感嘆させられます。相当詳しい日記をつけていたのでしょうね。
(昭和54年12月刊。980円+税)
金・土・日と桜の花が満開でした。例年より一週間ほど遅れましたが、ちょうど入学式に間にあって喜んだ家族も多かったと思います。わが家の庭のチューリップもようやく全開となりました。朝、雨戸を開けるのが楽しみです。赤や黄そして白など、その華やかさは心を浮きたたせます。ハナズオウの小さな豆粒のような紫色の花も咲きました。アイリスの花が出番を待っているのに気がつきました。春、本番です。

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