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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

日中戦争全史(上)

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版  高文研
日本が戦前に中国大陸で何をしたのか、日本人は忘れてはならないことだと思います。
私の父も中国戦線にかり出され、病気のため内地送還になって終戦を迎えて私が生まれました。その父が中国大陸で何をしていたのか、改めて考えさせられました。
日中戦争は、徴兵制によって召集された日本の成年男子が中国戦場に駆り出され、中国の軍民を大量殺害した侵略戦争であった。日本国内では人に危害を与えたこともない善良な市民であった日本兵を中国戦場においては殺人者に仕立てる巧妙な日本軍隊の仕組みがあった。
いったい、どんな巧妙な仕掛けがあったというのでしょうか・・・。
戦争とは、国家あるいは民族の名において、敵とみなした相手国の兵士さらには民衆を殺害する、それも大規模、大量に殺害すること。ところが、日本人の多くには、戦争とは、人を殺すこと、それも大量殺人をする行為であるという認識や想像力が欠けている。そのため、膨大な日本軍が中国大陸において長期にわたって膨大な中国兵と民衆を殺害した戦争であったという本質を知らないでいる。
その根本的な理由は、日中戦争の戦場は、すべて中国であり、日本兵が中国兵や民衆を殺害する場面を目撃していないことによる。また、中国戦線から帰還した日本兵の多くが日本国内において中国大陸で自らのした殺害体験を語らなかったことによる。
それは、フランスやドイツのように国民が身近に殺し、殺される現場を目撃したのとは決定的に異なっています。
日本兵の新兵教育では、「刺突訓練」と呼ばれた、無抵抗な捕虜や民間人の両手をしばって杭にしばりつけ、それを三八式歩兵銃の銃剣で刺殺させた。この刺突を拒否した新兵はどうなるか。すさまじいリンチにあう。上官から、また新兵仲間からリンチの連続であった。ほぼ100%の兵士が目をつぶって最初の殺人を体験した。
私の父も病気になる前には前線で戦ったことがあり、「戦争ちゃ、えすかばい」と私に語ってくれました。「えすか」(怖い)というのは、自らも「刺突」したことも含んでいたんじゃないかと今になって私は思います。
朝鮮人を「鮮人」「チョン」と呼び、中国人を「シナ人」「チャン」などと蔑称して見下す差別・蔑視意識が日本の朝鮮植民地支配と、中国侵略戦争に加担していく日本人の国民意識を助長していた。
ひところ「バカチョン」カメラと言っていたことがありました。これも差別語を前提していたことを知ってから使われなくなりました。「ジャップ」と同じですよね。
映画「猿の惑星」の「猿」は日本人をイメージしているというのを聞いて、差別意識は諸国に普遍的に存在していることを知りました。それでもダメなものはダメなのです。
張作霖爆殺事件が起きたのは1928年(昭和3年)6月4日のこと。日本軍による謀略作戦であることは、当初から明らかだった。これを知った27歳の昭和天皇は怒って首相の田中義一に辞表を出せと迫った。そのショックから田中義一は辞職して2ヶ月後には狭心症で死んだ。
同じ1928年に治安維持法が強化され、日本は戦争「前史」から戦争「前夜」に転換した。捕虜の待遇に関するジュネーブ条約を日本は調印したものの、軍部の反対にあって批准しなかった。日本の軍部が反対したのは、日本軍兵士が捕虜は保護されることを知ったら、すすんで投降して捕虜になるのではないかと心配したからだった。
「捕虜をつくるな」という作戦方針は、日本兵の自決・玉砕となって捕虜となるなということの反面で、投降した中国人軍将兵を虐殺することになった。これこそ天皇の軍隊の一枚のコインの両面である。
南京戦に至る日本軍は補給を無視した強行軍を余儀なくされていた。
日本軍は現地調達主義をとった。その現実は、通過する地域の住民から食糧を奪って食べることであった。これは、戦時国際法に違反した略奪行為だった。
上巻だけで300頁あまりある大部な本ですが、日本人が、戦前、何をしていたのかを直視するための絶好のテキストだと思いました。
この本は、戦前の実際を知るうえで必須不可欠だと思います。とりわけ若い皆さんに一読を強く強くおすすめします。
(2017年7月刊。2300円+税)

「天皇機関説」事件

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版  集英社新書
東京帝国大学で、長年にわたって憲法学を教えていた美濃部達吉をはじめとする当時の憲法学者が正統的な憲法学説として唱えていた天皇機関説とは、まず日本という国家を「法人」とみなし、天皇はその法人に属する「最高機関」に位置するという解釈だった。天皇のもつさまざまな権限(権力)は、個人としての天皇に属するものではなく、あくまで大日本帝国憲法という諸規則の範囲内で、天皇が「国の最高代表者」として行使するものだという考え方である。
天皇という絶対的な存在を、国の基盤である憲法と密接につなげておくことで、誰かが天皇の権威を勝手に悪用して、自分や自分の組織に都合のいい方向へと日本の政治を誘導するという事態が避けられると考えられていた。
天皇機関説事件のあと、昭和天皇が権力を握る「支配者」として暴走することはなかった。しかし、「軍部」が天皇の名において、あるいは天皇の名を借りて、事実上の「最高権力者の代行人」として、国の舵取りという「権力」を我が物顔でふりまわし始めたとき、もはやだれもそれを止めることはできなかった。
文部省が美濃部を公然と攻撃したとき、当時の学者の多くは沈黙し、また政府を追従するという態度をとった。
昭和天皇は果たして、どう考えていたのか・・・。実は、昭和天皇は、天皇機関説について、おおむね妥当な解釈であると認め、排撃する動きに不快感を抱いていた。
その政治目的のために、自分の存在をむやみに絶対化し、神格化するのはけしからんことだと考えていたのです。
昭和天皇は、自分と国の主権との関係について、日本だけでしか通用しないような「主観」の認識だけでなく、諸外国の目にどう映るかという「客観」の認識も有していた。
昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して、こう言った。
「今日、美濃部ほどの人がいったい何人、日本におるか。ああいう学者を葬ることは、すこぶる惜しいもんだ」
天皇機関説の排撃により、日本における立憲主義は、実質的にその機能を停止し、歯止めを失った権力の暴走が日本を新たな戦争へと引きずりこんでいった。
今の日本でも、自衛隊の幹部連中が政治の表舞台に出てきて、のさばり始めたら、日本という国は破滅するしかないということですね。
福田元首相が、最近、官僚制度をダメにしたら、日本は先がないということを言ったようですが、まったくそのとおりだと私も思います。その点、前川文科省の前事務次官は偉いものです。集団的自衛権行使容認は憲法違反だと公言した最高裁の元長官に匹敵する功績があると思います。
(2017年5月刊。760円+税)

宮沢賢治の真実

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 今野 勉 、 出版  新潮社
宮沢賢治と妹トシについて、丹念に事実を発掘していて、その苦労の成果にしばし言葉が出ないほど圧倒されました。
賢治の妹、とし子は、小学生のときから学業成績が抜きんでていて、花巻高等女学校では、生徒総代として送辞、卒業生総代として答辞を読んだ。そして、日本女子大の家政学部では、最終学年では、病気のため3学期の授業をすべて欠席したが、卒業が認められた。艶(つや)めいた話もないまま病気のために24歳で亡くなった。私も、そう思っていたのですが、この本を読むと、それが、とんでもないのです。地元新聞に独身の音楽教師との仲を連載で書きたてられていたというんです。うひゃあ、本当なんですか・・・。
大正4年3月20日、岩手民報は、「音楽教師と二美人の初恋」と題する記事の連載を始めた。教師や女生徒は仮名だったが、H学校が花巻高等女学校を指しているのは明らかだった。卒業式前日までの3日間の記事は、とし子の心に致命傷を負わせた。このことを、賢治は、あとになって知るのでした。
そして、賢治自身は、同性の友人・保阪を「恋して」いたというのです。
この本は、賢治の本の一節、そして、詩を抜き書きして解説するだけでなく、その舞台となった現地に自ら行って、そこで考えていることに大きな特徴があります。
400頁にも及ぶ大著です。宮沢賢治をめぐる世界をさらに深く認識することが出来た気がします。著者は私より20年も年長です。読む前は、警察小説の著者かと錯覚していました。
宮沢賢治の深読み本の一つとして、賢治に関心ある人には一読を強くおすすめします。
(2017年6月刊。2000円+税)

満蒙開拓団

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 加藤 聖文 、 出版 岩波書店
「五族協和」、「王道楽土」、こんな美しい掛け声で、多くの貧しい日本人が夢をみて戦前の満州に渡り、悲運に泣いたのでした。もちろん、騙した政府当局者が悪いのですが、騙されたほうも、時勢に流されてしまった結果だった。やはり、みるべきことは見ておかないといけない、言うべきときには言わないと、もっと悪くなるということなのですよね。今のアベ政権のデタラメきわまりない政治のあり方を黙過していたら、戦前の悲劇を再びもっと大規模に繰り返すことになってしまいます。
長野県は満州へ送り出した開拓移民が4万人近くで、日本一多かった。二位の山形県は半分の1万7千人。そして、満州開拓政策に重要な役割を演じた人物も、なぜか長野県出身者が多い。
満州事変を起こした関東軍は、早くから日本人移民に積極的だった。それは、満州を日本の領土とするうえで、日本人があまりにも少ないという認識から。ところが、陸軍中央は消極的だった。あまりに露骨に日本領土化を進めることによる国際社会からの猛反発を買うのを恐れた。関東軍は、満州が独立国家という建前をとる以上、国家内での日本人の人口比率があまりにも低いのは問題だと考えた。
満州移民に対して、陸軍は一枚岩で積極的ではなかった。陸軍中央には懐疑的な人が少なくなかった。満州移民は、それぞれの個人や組織の政治的思惑が異なるなかで、関東軍と拓務省が連携し、それを陸軍中央が追認した。それを在郷軍人会が積極的に後押しして、軍事色の強い武装移民となった。
満州の土地所有制度は複雑で、権利関係が入り組んでいたから、日本による強引な土地買収は、現地を混乱させた。
開拓民は、月給100円という宣伝文句につられてやってきたのに、現実は、食費として1ヶ月5円しか支払われなかった。そこで、故郷から送金してもらっていた。召集を免れられるという風評を信じて開拓民に応募した人もいたが、現実には、あとで日本の敗色が濃いなかで兵士とされ、家族と引き離された。
満州に侵入してきたソ連軍は174万人(日本軍は60万人)、火砲・戦車・航空機の数量では25倍以上と、日本軍を圧倒した。
当時の国際的通年からすると、開拓団は軍事組織と見なされていた。ところが、当事者は、日本国内にいくつもある「村」としてしか認識しておらず、関東軍が守ってくれる以上、軍事攻撃にさらされるなどとは露ほども思っていなかった。
満州に渡った開拓団は928団、24万人。これに対して、戦後、無事に日本に帰国できたのは14万人でしかない。
満蒙開拓団の実際を冷静に、多面的かつ深く掘り下げた本でした。
(2017年3月刊。2200円+税)

軍が警察に勝った日

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(霧山昴)
著者 山田 邦紀 、 出版  現代書館
昭和8年、大阪でゴーストップ事件が起きました。ほんのささいな交通違反が、みるまに大事件になってしまったのです。そして、それは、日本を軍人(軍隊)がのさばる暗い世の中に変えるのを加速しました。オビのセリフを私なりに改変すると、次のようになります。
戦争は軍人の怒声ではなく、正論の沈黙で始まった。もの言わぬ多数の日本人は、戦争へひきずられていき、それを後悔する前に死んでいった。大阪の交差点での信号機無視をめぐる兵士と警官の口論は、日本を戦争に導いていくターニング・ポイントになった。
ことは昭和8年(1933年)6月17日(土)午前11時半ころ、大阪市内の「天六」(てんろく)交差点で起きた。1人の一等兵(22歳)が制服姿で赤信号を無視して市電の軌道を横断した。通行人が警察官に注意を促したので、巡査(27歳)がメガホンで注意した。しかし、一等兵が無視したので、巡査は一等兵の襟首をつかまえて近く(10メートルしか離れていない)の天六巡出所へ連行した。
やがて憲兵が出てきて、一等兵を連れて帰った。その間に、巡出所内で暴行があった、どちらが仕掛けたのか、一方は抵抗しなかったのか、いろいろ調べられた。
ところが、この件が警察対憲兵隊、そして大阪師団(第四師団)対大阪府庁(警察)の対立となり、ついには陸軍省対内務省のメンツをかけた争いにまで発展した。事件がこのように拡大した最大の要因は、軍(第四師団)が徹底的に横車を押したことにある。
最終的には天皇のツルの一声でようやく和解が成立した。その和解の内容は今なお公表されていない。しかし、結局のところ警察が軍に譲歩した。軍が力で警察をねじ伏せた。
軍が勝ったころから、もはや日本国内に軍の意向に逆らうものはいなくなってしまった。官僚もマスコミも軍の言いなり、軍に従う存在と化してしまった。それが戦争への道に直結した。
こうなると、いまのアベ政権のやっていることをますます軽視できなくなるわけです。言うべきときに反対の声をあげておかないと、あのとき反対しておけばよかったと悔やんでも遅いのです。
その意味で84年も前の日本で起きてきたことですが、十分に今日的意義のある本だと思いました。
なぜ、「ゴー・ストップ」というのか・・・。
まだ信号機が設置されてまもなかったのです。ですから、戦争のため中国などの外地(外国)へ遅られて日本に帰ってきた兵士たちは信号無視するのも当然でした。要するに、信号に従うとか、信号の色の意味するところを理解していなかったのです・・・。
そして、この巡査は、実は、ほんの少し前までは兵士で、しかも下士官(伍長)だったのでした。年齢(とし)下の一等兵が自分の注意をきかないのにカチンときたに違いありません。
警察の側で対応した粟屋(あわや)は、東京帝大法学部卒業のエリートコースに乗っていた人物(40歳)で、腹のすわった人物だった。のちに広島市長として原爆で亡くなった。だから、軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官だと言い放ったのです。この言葉によって、軍はますます態度を硬化させました。
それでも、昭和天皇が、あの件はどうなっているかと尋ねたことから和解へ進みます。そして、結局のところ、警察が軍部に屈服させられるのでした。
昭和8年というのは、もはや後戻りできなくなった年で、その分水嶺となったのがゴー・ストップ事件。軍部は、この事件で公務外の「統帥権」も確立し、暴走に拍車がかかった。
大阪の一軍人のささいな交通違反をきっかけに軍部全体が「赤信号」を無視し、やがて日中戦争から太平洋戦争になだれ込んでいく。
ファシズムは、ある日いきなり私たちを襲ってくるわけではない。何気ない日常生活のあちこちでポツリ・ポツリと芽吹き、放置しておくと、あっというまに手に負えなくなる。ばかばかしさの裏に制御機能が外れた軍部の不気味さ、危険性をはらんでいることを新聞はもっと早い段階で警告すべきだった。
首相の機関紙を自認するようになったヨミウリはともかくとして、NHKをふくめたマスコミにはもっと権力を監視する任務があることを自覚してほしいものです。タイムリーな本です。
(2017年5月刊。2200円+税)

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