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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

治安維持法小史

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  奥平 康弘 、 出版  岩波現代文庫
 アベ政権の下で、現代日本の法体系と政治の運営が、戦前の暗黒政治と似てきていると心配しているのは私だけではないと思います。
 秘密保護法や安保法制法が制定され、モリ・カケ事件では開示すべき情報は秘匿されたまま、アベの仲間だけが特別に優遇されて暴利をむさぼっている、そして軍事予算が肥大化していく反面、福祉・教育予算は削減される一方。ところが、国民はあきらめ感が強くて投票率はやっと過半数・・・。
それでも、まだ戦前にあったきわめつけの悪法である治安維持法がないだけ現代日本はましです。なにしろ治安維持法なるものは、ときの政権が好き勝手に政府にタテつく人々をブタ箱に送り込むことができたのです。ひどすぎます。
治安維持法が制定されたのは1925年(大正14年)。1928年に緊急勅令で大きく改正され、さらに1941年(昭和16年)に、大改正された。
治安維持法は、刑事法というよりも警察や検察にとっての行政運営法というべきものだった。その運用実態に着目しなければ、治安維持法を語ったことにはならない。
治安維持法をつかって容疑者を逮捕はするけれど、起訴して裁判にかけるという正式手続きにはすすめずに、身柄を拘束しつづけるだけというのが、圧倒的に多かった。
特別要視察人制度なるものがつくられた。これはプライバシーの侵害体系だった。警察にとって意味のあるすべての動向が把握され、要視察人は、政治上は丸裸にされたも同然となった。
「国体」というコトバが法律上の文言として採用されたのは、治安維持法がほとんど最初である。
京都学連事件では、検事も禁固刑を求刑していた。ところが、その後、国体変革を目的とする思想犯について、裁判所は破廉恥罪の一種と判断して懲役刑を適用するようになった。
1926年12月に、日本共産党は山形県の五色温泉で再建大会を開いた。1928年3月15日、警察は1000人もの人々を検挙した(3.15事件)が、3分の2はまもなく釈放された。このころ、党員は全国に400人ほどしかいなかった。この3.15をきっかけとして特高警察が強化された。特高警察が全国化され、専任警視40人、警部150人、特高専門の刑事1500人を増員した。特高警察だけで追加予算200万円が承認された。司法省の思想係検事の追加予算は32万円だった。
「目的遂行のためにする行為」なるものが付加された。目的遂行罪である。
1929年3月5日、山本宣治代議士が暗殺(刺殺)された。治安維持法に反対を主張することが、どんなに危険なものを示した。3.15で検挙されたうち、起訴されたのは480人ほど。逮捕されたもののほとんどが不起訴となっている。3.15そして4.16事件の弁護をしていた弁護士20人が目的遂行罪で一斉に検挙された。1941年以降は、弁護人は司法大臣があらかじめ指名した弁護士のなかからしか選任できないこととされた。弁護権の実質的な剥奪である。これらの検挙された弁護士たちは布施辰治をのぞいて、全員が転向を表明している。
1938年10月から1939年11月にかけての企画院事件は、体制内部の抗争を反映するものであったが、権力者が政治目的をもって治安維持法を利用しようと思えば、いかようにでも利用できる、便利な法律だということを実証した。
自由にモノを言えない社会になりつつあるのが本当に怖いですね。何かというと、フェイクニュースを信じ込んだ人が「弱者たたき」に走るという現実があります。先日、辺野古の基地建設反対で座り込みしている人は、みな日当2万円もらっている「外人部隊」だと信じ込んでサウナで声高に話している男性がいたというのをネットニュースで知りました。嘘も百回言えば本当になるというヒトラーばりの手法が現代日本で堂々と通用している風潮を早くなくしたいと思います。
(2017年6月刊。1360円+税)

皇軍兵士、シベリア抑留、撫順戦犯管理所

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 絵鳩 毅 、 出版  花伝社
著者は28歳のとき補充兵として召集され、4年間の中国戦線での軍隊経験を経て、シベリアに5年間の抑留のあと、中国で戦犯管理所に6年間も収容されました。日本に帰国したのは、1956年9月、43歳のときでした。
その著者は東大でカントの道徳哲学を学び、文部省に入って検閲業務に嫌気がさして退職して高校教師になったのです。ところが、徴兵され兵士になって初年兵のときに受けた私的制裁(リンチ)はすさまじいものでした。
初年兵は、四六時中、私的制裁の恐怖にさらされていた。それに反抗できるのは脱走か自殺しかなかった。そして、それぞれ1人ずつ実行する初年兵がいた。
軍隊とは、人格を物体に変えようとする、あるいは人間を殺人鬼に変えようとする、無謀な軍需工場ではないのか・・・。初年兵は、次第に精神を荒廃させていった。
軍隊では要領が尊ばれる。「奴隷の仮面」をかぶって、相手の暴力をやわらげる。それは、自分が二重人格に落ちることを意味する。
苦力(中国人の労働者。クーリー)を横一線に並べ、その後を着剣した日本兵が追い立てる。八路軍の仕かけた地雷をいや応なしに自らの生死を賭けた「人間地雷探知機」にしたのだ。おかげで日本兵は一人も死傷者を出さず、中国人には死傷者が出たものの、そのまま放置して日本軍は前進した。
初年兵を迎え入れて、捕虜の「実的刺突」を実施した。生きた中国人を突き殺すのだ。30人ほどの中国人捕虜は、みな逃げ遅れた農民たちだった。
「戦争に非道はつきものだ」
「戦争だ、やむをえない」
このように自分に言いきかせて自己弁護した。
「これでお前たちもやっと一人前の兵隊になれたなあ、おめでとう」
と初年兵を励ました。
シベリアで食うや食わずの生活から中国の戦犯管理所に入ると、十分な食事が与えられ、著者たちは驚き、感謝するのでした。
管理所の職員が一日に2食の高梁飯(コーリャンメシ)しか食べていないのに、日本人戦犯は白米飯を一日3食とっていた。さらには、おはぎ、寿司、モチ、かまぼこまでも食べていた。人間の食事だった。そして、週に1回は、大きな湯舟で風呂に入ることができた。月に1回は理髪室で調髪してもらった。このように中国では日本人戦犯を人間として扱ってくれた。
部屋では連日の遊び合戦が展開された。囲碁・将棋・マージャン・トランプ・花札。
戦前、中国人をチャンコロと軽蔑し、殴る、蹴る、犯す、焼く、殺すと、非業の限りを尽くした日本人戦犯に対して、被害者の中国人は殴りもしなければ、声を荒げることさえしなかった。この一貫した中国当局の人道主義的待遇、管理所職員たちの人間的偉大さの前に、戦犯たちは、ついに頭を下げざるをえなかった。そして、反省と自己批判の立場に移ることができた。
これは決して洗脳ではありませんよね。人間的処遇のなかで十分な時間をかけて、到達した考えを「洗脳」なんて言葉で片付けてほしくはありません。
ところが、日本に帰った元日本兵に対して、日本社会は「中国帰り」として冷遇したのでした。
著者は97歳のときに講話をしたあとの質疑応答のとき、「もしもまた同じような状況になったら、どうしますか?」と問われ、「私はまた、同じようにするでしょう。皆さんだって、そうです。それが戦争です」と答えた。実に重たい答えです。じっくり考えさせられる、価値ある本です。
(2017年8月刊。2000円+税)

「飽食した悪魔」の戦後

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 加藤 哲郎 、 出版  花伝社
七三一部隊の中心部分は石井四郎をはじめとして終戦直前に満州から大量のデータと資材・金員とともに日本へ帰国し、部隊として存続していた。このことを初めて知りました。
そして末端の隊員には厳重な箝口令を敷いて軍人恩給も受けられないようにしながら、自分たちは大金をもとにのうのうと暮らし、多額の年金をもらっていたのです。そのうえ、アメリカ占領軍と裏取引して、人体実験のデータをアメリカに提供するかわりに戦犯として訴追されないという免責保証を得ていました。
こんな「悪」が栄えていいものでしょうか・・・。本当に疑問です。
1936年、軍令により関東軍防疫給水部(大日本帝国陸軍731部隊)が設立された。飛行場、神社、プールまである巨大な施設で、冷暖房完備の近代的施設をもち、監獄を付設して、少なくとも3000人を「実験」により殺した。1940年当時、年間予算1000万円(現在の90億円)が会計監査なしで支給されていた。
日本軍に抵抗したとして捕えた中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人などを人体実験のために収容し、囚人はマルタと呼んだ。憲兵・警察が容疑者を七三一部隊に移送してくるのを特移(特別移送扱い)と呼び、憲兵は特移を増やせば出世していった。その一人が伊東静子弁護士の父親で、44人を七三一部隊に特移扱いで送ったのです。
終戦時、残っていた400人の囚人を全員殺して遺体は燃やし、その灰は川に投げこんだ。
戦後、石井四郎は戦犯として追及されるのを恐れて、故郷の千葉では病死したとして偽の葬式までした。実際には、自宅をアメリカ兵相手の売春宿にして、ひっそり暮らしていたが1959年に67歳でガンによって死亡した。
七三一部隊が人体実験そして細菌戦を実際にやっていた事実が明るみに出ると、ジュネーブ議定書違反で問題となるだけでなく、七三一部隊を設立し動かしていた陸軍中央、それを承認していた昭和天皇の戦争責任問題にまで及ぶ危険があった。
七三一部隊について、関東軍参謀の担当は昭和天皇のいとこである竹田宮恒徳王であり、天皇の弟である秩父宮や三笠宮も視察に来ていた。昭和天皇は七三一部隊の存在を知り、中国での細菌戦を承認していたとみるのが自然である。
七三一部隊は終戦のころには、一方でペストノミを増産して最後の手段として「貧者の核兵器」を準備していたが、他方では敗戦時の証拠隠滅・部隊解体の準備もすすめていた。
七三一部隊の本部勤務員1300人の大部分は8月15日の前に満州から姿を消した。そして、日本本土で七三一部隊はよみがえることになった。七三一部隊の仮本部が置かれたのは金沢市の野間神社だった。
七三一部隊は満州から日本へ膨大な物資を運び込んだ。武器・弾薬や医薬品・実験機器・データ・研究書籍、そして現金・貴金属・証券類・・・。数千人分の寝具・夏冬衣料・携帯食料・工具・日用品もあった。
いったい、それらはどこへ行ったのでしょうか・・・。
七三一部隊は8月15日のあとに命からがら日本へ逃げ帰ってきたと考えていたのですが、まったく違いました。幹部連中は日本に戻ってからも引き続き給料までもらっていたとのこと、信じられません。
細菌戦の各種病原体による200人以上の症例から作成された顕微鏡用標本が8000枚も日本に持ち帰ってきていて、寺に隠したり、山中に埋められた。アメリカは、そのような貴重なデータを25万円(今日の2500万円相当)で買い取り、また、七三一部隊員の戦争責任を免除した。
石井四郎の隠匿資金は年間2000万円(現在の価値で20億円)とみられている。
七三一部隊の出身者たちが日本ブラッドバンクを設立し、のちにミドリ十字社となった。薬害エイズをひきおこした製薬会社である。
法曹界(とりわけ裁判所)で戦争責任が厳しく追及されているわけではありませんが、医学界ではもっと重大な戦争責任を問われるべき医師・医学者たちが出世していき、医師の世界に君臨していたようです。ひどいものです。
400頁もある貴重な大作です。戦前の日本人が中国大陸で実際に何をしたのか、忘れてよいはずがありません。これに「自虐史観」なんていう下劣なレッテルを貼るのはやめてください。
(2017年5月刊。3500円+税)

日中戦争全史(下)

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版  高文研
1938年1月の大本営政府連絡会議において、陸軍の参謀本部は中国との長期泥沼戦に突入するのを阻止しようとした。なぜか・・・。
このころ日本陸軍は、3ヶ月に及んだ上海戦に19万人を投入し、戦死傷者4万人という大損害を蒙っていた。それ以上に戦病者も膨大だった。南京攻略戦に20万人の陸軍を投入し、「首都南京を占領すれば中国は屈服する」はずだったのに、失敗してしまった。ゴールの見えない長期戦・消耗戦に、陸軍はこれ以上の負担と犠牲を蒙るのを回避しようとしたのである。
これに対して海軍首脳は、日本という国の運命より、日中戦争に乗じて海軍臨時軍事費を存分につかって、仮想敵のアメリカ海軍・空軍に勝てる艦隊戦力と航空兵力をいかに構築するのかばかりが関心事だった。本当に無責任きわまりありません。海軍は平和派なんて、真っ赤なウソなのです。
1938年末、日本の動員兵力は陸軍で113万人、海軍で16万人、合計129万人。このうち中国に派遣されたのは関東軍をふくめて96万人に達していた。
1939年7月のノモンハン戦争において日本軍は圧倒的な近代兵器を大量に駆使するソ連赤軍に惨敗してしまった。戦死傷者は2万人近い。
敗戦の責任をとって関東軍のトップは更迭された。ところが強硬論によって関東軍を泥沼の苦戦に引きずり込んだ作戦参謀の服部卓四郎中佐や辻政信少佐は、やがて東京の参謀本部の作戦課長、作戦班長に就任し、アジア太平洋戦争開戦の推進者となった。
まことに無責任な軍幹部たちです。そして、服部卓四郎は戦後は戦史研究者として長生きしています。この服部史観は海軍を擁護する俗説を広めました。
1940年8月、八路軍が百団大戦を開始した。このころ、八路軍・新四軍は60万人、民兵は200万人。解放区の人口は4000万人に達していた。日本軍は八路軍の戦力を軽視し、分隊単位で高度分散配置していたので、八路軍は、道路・鉄道の各所を破壊して分断したうえで奇襲攻撃をかけた。
百団大戦は、日本軍(北支那方面軍)の八路軍に対する認識を一変させ、その作戦方針を転換させる契機となった。主敵が国民政府軍から共産党軍に移っただけでなく、軍隊を相手にすることから、抗日民衆を相手にする戦闘に変化していった。
百団大戦後、日本軍は「正面戦場(国民政府軍戦場)」と「後方戦場」(敵後戦場)(共産党軍戦場)という二つの戦場での戦闘を強いられるようになった。
1943年2月のガタルカナル作戦を立案した参謀本部の主役は田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦班長だった。
「海軍は陸軍にひきずられて太平洋戦争に突入した」という俗説があるが、真実は、その逆だ。海軍は日中戦争を利用して仮想敵である対米決戦に勝利するために軍備と戦力を強化し、南進政策に備えた。
日中戦争のおぞましい実態、軍部指導部の無責任さが如実に描写・分析されている労作です。広く読まれることを願います。
(2017年7月刊。)

父の遺言

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 伊東 秀子 、 出版  花伝社
規律正しく、仁慈の心をもつ日本人が中国大陸で虐殺したなんて真っ赤な嘘、だと真顔で言い張る日本人がいます。そんな人と、それを聞いてそうかもしれないと思っている人にはぜひ読んでほしい本です。
日本内地では善良な夫であり、優しい父親だった日本人が中国大陸に渡ると、罪なき中国の人々を殺害し、女性を強姦しても何とも思わない「日本鬼子」に変貌してしまうのです。恐ろしいことです。戦争が人間を殺人鬼に変えてしまいます。そこには、殺さなければ、自分が殺されるという論理しかないのです。
著者は国会議員になったこともある北海道の女性弁護士です。私より先輩ですが、今も元気に現役弁護士として活動しています。その父親が憲兵隊に所属していて、かの悪名高い七三一細菌部隊へ44人もの中国人を送ったのでした。その全員が石井四郎中将の率いる七三一部隊で人体実験の材料とされ、なぶり殺されてしまいました。
「日本鬼子」の非道さには言葉も出ません。戦後、父親は中国軍に収容され裁判にかけられます。しかし、死刑にならず数年の刑務所生活を経て日本へ帰国してきます。そして、日本では、昔のように好々爺として孫たちと接するのです。同時に、罪の償いをしなければいけないと子どもたちに伝えたのです。
著者は、その父親の思いをしっかり受けとめて生きてきました。
著者の父親は、満州にあった憲兵隊司令部に勤務し、満州各地で憲兵隊長をつとめた。著者の母親は、満州での特権的な暮らしに否定的だった。「よその国を占領し、中国の人たちを『満人』と呼んで奴隷のようにこき使い、特権的な生活をするなど、日本のやっていることはどこかおかしいといつも思っていた」
父親は中国で禁錮12年の刑期を終えて、1956年に日本へ帰国した。56歳だった。
父親は著者に対して、中国で裁判を受けた45人は、みな死刑になって当然のような残虐非道な戦争を指揮した者ばかりだったのに、誰も死刑・無期刑を受けなかったと語った。
大和民族の優秀さを示すために、中国人はダメだ、朝鮮人は下等だと、いつも民族に序列をつけていた。
中国人の1人や2人を殺したって、どうってことはない。どうせチャンコロだ。そんな大それた考えをもっていた。
中国では、日本に帰って共産主義を広めろと言われたことはない。そうではなくて、日本に帰ったら、平和な家庭を営んでください、それだけだった。すごいですね。泣けてきますよね・・・。
「戦争は、あっという間に起こり、起こったら誰も止められない。それが戦争というものだ」
「どんな真面目な人間でも、戦地では平然と人を殺し、他人の物資を奪い、女を見れば強姦する」
「戦局が不利になると、指揮官も兵隊もますます狂っていく。強気一辺倒になる。いま思えば、自分もそうだった」
Jアラートが鳴り響くなかで、恐怖心があおられ、「無暴なことをする北朝鮮なんか、やっつけろ」の大合唱が起こりつつあります。まさしく権力者による戦争誘導が今の日本で起きて、進行中です。私たちはもっと冷静になって、足元を見つめ直すべきではないでしょうか。
この本は、そんなカッカしている頭を冷ます力をもっています。ぜひ、ご一読ください。
(2016年8月刊。1700円+税)

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