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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

二つの山河

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 中村 彰彦 、 出版  文春文庫
第一次世界大戦がはじまり、日本はイギリスの要請にこたえてドイツに宣戦を布告してドイツの租借地である中国の青島(チンタオ)の攻略を目指した。1914年9月、日本軍は中国に上陸し、10月末から総攻撃を開始し、11月初にドイツ軍要塞を降落させた。その結果、ドイツ軍の将兵4700余が俘虜となった。
彼らは日本全国12ヶ所に分散して収容された。その一つが福岡であり、久留米であった。福岡の収容所からは5人の将校が脱走した。久留米の収容所は悪名高かった。所長は真崎甚三郎中佐。あとで、二・二六事件で問題となる人物である。この真崎所長が、自らドイツ俘虜を精神的・肉体的に抑圧すべき対象とみなしていた。
ところが、徳島俘虜収容所はまったく違った。ここでは、松江所長が、警備兵に対して俘虜への暴行は許さない、人道的に接するように指示していた。
徳島では、俘虜が木工所で働き、また、収容所内に肉屋、パン屋、印刷所が次々にうまれていった。徳島の俘虜たちは、ここで得たお金をもって週に一度、のちには必要なたびに日本兵ひとりに付き添われて、市内に買物に出ることが許された。
また、徳島の収容所では、スポーツにも熱心だった。サッカーを日本人の子どもたちに教えた。さらに、オーケストラの音楽活動を許した。
松山・丸亀・徳島の三つの収容所が統合されて、坂東(バンドー)俘虜収容所となった。収容者は約1000人。松江所長は、この収容所内に専門店の開設を認めた。家具製造・仕立業・靴屋・理容・レストラン・製パン・・・。そして図書館には6千冊の蔵書があり、印刷所もあった。収容所新聞「バラッゲ」が発行された。印刷所は、収容所内だけで通用する紙幣や切手も発行した。
45人から成る徳島オーケストラも健在だった。合唱団も二つあった。
ドイツ人俘虜は地元民とも交流し、農業指導や植物標本のつくり方まで教えた。家畜の飼育を教え、ソーセージのつくり方も日本人は学ぶことができた。
実は松江所長は朝敵とされ、差別された会津藩の出身だった。そこで貧しい会津の子弟はこぞって軍人をめざした。
大正7年3月、俘虜作品展示会が開かれた。徳島の人々が5万人以上も押し寄せた。
ドイツ人俘虜たちはドイツに帰国したあとも、このバンドーでの生活を思い出として大切にした。
ドイツ人俘虜が日本でそれなりに人道的な処遇を受けていたことは知っていましたが、その実際、そして所長の背景については、この本で初めて知ることができました。
(2017年8月刊。550円+税)

八甲田山、消された真実

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 伊藤 薫 、 出版  山と渓谷社
日清戦争(1894年)で日本が勝ち、日露戦争(1904年)が始まる2年前の明治35年(1902年)1月、雪中訓練のために八甲田山に向かった歩兵第5連隊第2大隊は山中で遭難し、将兵199人が亡くなった。
この事件については、新田次郎『八甲田山、死の彷徨』が書かれ、映画「八甲田山」になりました。
この本の著者は元自衛隊員で、八甲田演習に10回ほど参加した経験がありますので、説得力があります。
遭難後の事故報告は、都合の悪いことは陰蔽あるいは捏造し、ちょっとした成果は誇張するのが常のとおりだった。
予行行軍と予備行軍の違い・・・。予行行軍は、本番とほとんど同じ編成・装備で田代まで行軍し、露営すること。予備行軍は、編成・装備・距離等に関係なく、たとえば本番のために1個小隊40名が10キロ行軍するようなこと。
行軍計画と軍命令の違いは何か・・・。紙に書いたものが計画、それを下達すれば命令となる。
行軍計画で一番重要なのは、時間計画である。陸軍の夕食は17時。だから、遅くとも15時には露営地に到着していないと17時に給食はできない。
八甲田山に向かった将兵は、温泉に入って一杯やろうと考えていた。
当時の日本軍には、防寒・凍傷に関する教育不足があった。それは軍の防寒に対する未熟さと制度の問題があった。下士官以下の兵士には下着は支給品で木綿だった。ところが綿は汗を吸収すると肌にぴったりとへばりついて身体を冷やすので、冬には不向き。毛にすると、汗をかいても身体に密着することなく、かつ保温性もあった。
そして、兵士はワラ靴をはいて行軍した。ワラ靴は、歩くときにはあたたかいけれど、運動止めると、それに付着した雪塊でかえって凍傷を起こしていた。さらにワラ靴を長くはいていると、編み目に入り込んだ雪がヒトの体温で溶けてワラが濡れ、じわじわと広がってワラ靴のなかがびちゃびちゃになる。気温が低いときには、そのまま凍ってしまう。
目的地の田代を知らず、計画と準備は不十分なまま、二大隊は悲劇へと突き進んでいった。このとき救出された将兵は、じっと同じ場所でほとんど動いていないことが判明した。
八甲田山事件は血気盛んな日本軍の将校が準備不足のまま成果を上げようとして起きた悲劇だった。そして、功名心にはやる福島の冒険を師団長が評価した。このことのもつ意味は大きい。通説や新田次郎の本とは違った視点から事件の真相を究明している本です。
(2018年2月刊。1700円+税)

戦争とトラウマ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 中村 江里 、 出版  吉川弘文館
戦争中、日本軍兵士には戦争神経症患者は少なかった。それは、戦死がこのうえない名誉と考えられていたうえ、生物として有する生命維持への恐怖を最小にし、結果として欲求不満を最小にする状況であったからだ。
こんなバカげた意見を2002年に発表した自衛隊員(研究者)がいたそうです。これって、まったく観念論の極致です。戦場と戦病死の実際を完全に無視した観念的精神論者の筆法でしかありません。
この本は、病院に残された資料をもとに戦争神経症患者の実態に迫っています。終戦直後、軍部は一斉に証拠隠滅を図りました。それは満州にあった七三一部隊だけではなかったのです。病院でも次々に資料が焼却されていきました。日本軍そして今の自衛隊の真相隠しは悪しき伝統なのです。
アフガニスタン・イラク戦争に派遣されたアメリカ軍兵士のなかでは、戦死した兵士よりもアメリカ国内に戻って自殺した帰還兵のほうが多い。
戦争では、加害者が被害者意識をもち、被害者がむしろ加害者意識や生き残ったことへの罪悪感を抱いてしまうという転倒現象がみられる。
日本兵士については、加害者としての一面があると同時に、国によって戦場へ駆り出されたという被害者の一面もあった。
戦時中、中国において上官の命令で罪のない市民を殺してしまったことによるトラウマを戦後の日本でずっとかかえ、慢性の統合失調症患者と扱われてきた男性がいる。
「人を殺せる」兵士こそが「正常」だという圧倒的な価値体系のもとで生きなければならなかった元兵士のなかには、個人の良心や戦後の市民社会における加害行為を否定する論理とのギャップに苦しみながら戦後を生きた人々が間違いなくいる。
トラウマを負った人は「二つの時計」をもっている。一つは、現在その人が生きている時間であり、もう一つは時間がたっても色あせず、瞬間冷凍されたかのように保存されている過去の心的外傷体験に関わる時間である。「戦場」という空間から離れ、「戦時」という時間が終わってもなお、傷が心身に刻み込まれて残っている。
戦争は狂気。敵も味方も、恐怖と憎悪にゆがんだものすごい形相でにらみあい、黙ったまま突き殺し、切殺し、逃げまどい、追いすがる。こんな白兵戦を経験したら、どんな人間でも鬼になってしまう・・・。
戦時中、兵士の欠乏に悩んだ当局は、不合格としていた知的障がい者たちも徴集し、軍務を担わせた。しかし、それは「帯患入隊」ということなので、恩給や傷痍(しょうい)軍人としての恩典は与えられなかった。
ええっ、これはひどいですね、ひどすぎます。
今ではかなり知られていることですが、日本軍は兵士が人を殺すことへの抵抗感をなくすため「実的刺突」を実施していた。これは、初年兵教育のなかで、生きている中国人を標的として、銃剣で刺し殺すというものです。その中国人は、たまたま日本軍に捕まったというだけで、殺人犯として死刑宣告になったとか、スパイとして潜入した中国兵とかいうものではありません。刺し殺すことに何の大義名分もなかったのです。
「なに、相手は中国人、チャンコロじゃねえか。オレは世界一優秀な大和民族なんだ。まして天皇陛下と同じ上官の命令じゃないか。一人や二人、いや、国のためなら、もっと殺せる」
こう考え、納得させて、日本兵は鬼と化していくのです。これでトラウマにならないほうが人間として不思議です。
日本兵に戦争神経症患者が少なかったというのは、肝心な記録が焼却処分されているなかで、自分に都合の良い資料だけをもとに、ヘイトスピーチと同じ精神構造でやっつけた妄想にすぎません。戦争の現実は直視する必要があります。
(2018年3月刊。4600円+税)

日本の戦争、歴史認識と戦争責任

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版  新日本出版社
大変勉強になる本でした。司馬遼太郎の『坂の上の雲』がまず批判されています。なるほど、と思いました。日露戦争は、成功の頂点、アジア太平洋戦争は失敗の頂点と、司馬は単純に二分してとらえている。しかし、実のところ、近代日本の失敗の典型であるアジア太平洋戦争の種は、すべての日露戦争でまかれている。
日露戦争で日本が勝利したことによって、日本陸海軍が軍部として、つまり政治勢力として登場するようになった。軍の立場は、日露戦争を終わることで強められ、かつ一つの官僚制度として確立した。
日露戦争において、日英同盟の存在は、日本が日露戦争を遂行できた最大の前提だった。日露戦争の戦費は18億円。これは当時の国家予算の6倍にあたる。そしてその4割は外国からの借金で、これがなかったら日本は戦争できなかった。そのお金を貸してくれたのは、イギリスとアメリカだった。
日本海軍の主力戦艦6隻すべてがイギリス製だった。装甲巡洋艦8隻のうち4隻も、やはりイギリス製で、しかも最新鋭のものだった。このように、イギリスが全面的にテコ入れしたため、日本海軍は世界でもっとも水準の高い軍艦を保有していた。
日本軍は、大陸での戦いでロシア軍に徹底的な打撃を与えることが常にできなかった。その最大の要因は、日本軍の鉄砲弾の不足にあった。
「満州国」のかかげた「五族協和」でいう「五族」とは、漢・満・蒙・回・蔵の五族ではない。日・朝・漢・満・蒙の五族だった。
満州国には、憲法も国籍法も成立しなかった。日本は国籍法によって二重国籍を認めていない。満州国に国籍法ができると、満州国に居住する日本人は、満州国民となるのを恐れた。というのは、日本国籍を有しているのに、「満州国」に国籍法ができると、満州国に居住する日本人は「満州国民」になってしまう。
アベ首相がハワイの真珠湾を訪問したときのスピーチ(2016年12月27日)についても厳しく批判しています。日本軍が戦争を始めたのは、ハワイの真珠湾攻撃ではなかった。それより70分も前に、日本軍はマレーシアで戦争を始めていた。日本軍にとって、ハワイは主作戦ではなかった。つまり、マレーやフィリピンへの南方侵攻作戦が主作戦だった。ハワイ作戦は、あくまでも支作戦だった。
日本が韓国・朝鮮を植民地した当時に良いことをしたのは、あくまでも植民地支配のために必要だったから。統治を円滑におこなうためにすぎない。単なる弾圧と搾取だけでは支配・統治は成り立たない。地域振興とか住民福祉を目的とした政策ではない。そして、アジア「解放」のためという宣伝をやりすぎてはならないというしばりが同時に軍部当局から発せられていた。
戦後の日本と日本軍がアジアで何をしたのか、正確な歴史認識が必要だと、本書を読みながら改めて思ったことでした。
(2018年1月刊。1600円+税)

不死身の特攻兵

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  鴻上 尚史 、 出版  講談社現代新書
 1944年11月の第1回の特攻作戦から、9回の出撃。陸軍参謀に「必ず死んでこい」と言われながら、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた。とても信じられない実話です。
 しかも、この本の主人公の佐々木友次さんは、戦後の日本で長生きされて、2016年2月に92歳で亡くなられたのです。佐々木さんは北海道出身で、札幌の病院での死亡でした。
佐々木さんは、航空機乗員養成隊の出身ですが、同期の一人に日本航空のパイロットになり、よど号ハイジャック事件のときの石田真二機長がいます。
日本軍の飛行機がアメリカ軍の艦船に体当たりしても、卵をコンクリートにたたきつけるようなもの。卵はこわれるけれど、コンクリートは汚れるだけ。というのも、飛行機は身軽にするために軽金属を使って作られる。これに対して空母の甲板は鋼鉄。アメリカ艦船の装甲甲板を貫くには、800キロの撤甲爆弾を高度3千メートルで投下する必要があった。日本軍の飛行機が急降下したくらいでは、とても貫通するだけの落下速度にはならない。
 日本軍のトップは「一機一艦」を目標として体当たりすると豪語した。しかし、現実には、艦船を爆撃で沈めるのは、とても難しいことだった。
 陸軍参謀本部は、なにがなんでも1回目の体当たり攻撃を成功させる必要があった。そのために、技術優秀なパイロットたちを選んで特攻隊員に仕立あげた。
 参謀本部は、爆弾を飛行機にしばりつけた。もし、操縦者が「卑怯未練」な気持ちになっても、爆弾を落とせず、体当たりするしかないように改装した。 これは操縦者を人間とは思わない冷酷無比であり、作戦にもなっていない作戦である。
司令官は死地に赴く特攻隊員に対して、きみたちだけを体当たりさせて死なせることはない、最後の一機には、この自分が乗って体当たりする決心だと言い切った。ところが実際には、早々に台湾を経由して日本本土へ帰っていった。
 佐々木さんは、上官に向かってこう言った。
「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」
生きて帰ってきた佐々木さんに対して、司令官は次のように激しく罵倒した。
「貴様、それほど命が惜しいのか、腰抜けめ!」
佐々木さんが特攻に行ったとき、まさか生きて還ってくるとは思わなかったので、陸軍は戦死扱いした。それで故郷では葬式がおこなわれ、その位牌に供物をささげられた。そこで、佐々木さんは故郷の親に手紙を書くとき、死んでないとは書けないので、生きているとも書けなかったから、マニラに行って春が来たと書いた。
 特攻兵の置かれた状況、そして日本軍の無謀かつ人命軽視の体質が実感として分かる本でした。
(2017年11月刊。880円+税)

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