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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

海軍機関学校8人のパイロット

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 碇 義明 、 出版  光人社
戦争の主役が軍艦から飛行機に移ってからは、航空部隊の中堅となる若手士官不足に悩んだ海軍は、エンジニアリング・オフィサーの中からもパイロットを採用することにした。機関学校50期を卒業した76人のなかから最初の8人が選ばれた。彼らは出撃したものの、わずか1ヶ月半のあいだに7人が相次いで戦死した。
そのうちの1人に杉野一郎がいる。大正8年9月に三池郡銀水村(現・大牟田市)で生まれ、昭和19年10月12日に鹿屋基地を発進して戦死した。25歳だった。中尉だったのが死後2階級特進して中佐となっている。
元市長の息子だった親友が一高、東大に進んだため、本人も一高進学を希望したものの、親がお金がないとして拒絶したため、海軍機関学校に進学した。
杉野一郎の写真も紹介されています。フィアンセがいたようで、並んでうつっています。「死と隣り合わせの搭乗員にとって、切ない逢瀬であった」というのがキャプションです。
杉野一郎は9人兄弟、農家の長男として生まれ、一高受験をあきらめて農作業のかたわら猛勉強にいどみ、海軍機関学校に進んだ。機関学校50期76人は昭和16年3月に卒業した。昭和13年4月に入学したときは80人だったのが、病気などで4人が減っていった。
この年(1941年)12月に日本はアメリカの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。杉野一郎は機関整備学生時代から、友人の妹の上津原ツヤ子という女性と交際し、結婚の約束まで交わしながら、ついに結ばれることはなかった。死ぬ確率の高い飛行将校としてためらいがあったのか、あるいは適当な時期を考えていたのか、いずれにしても結論を出す前に杉野は戦死してしまった。
杉野一郎中尉 ら165人の第39期飛行学生が第一線から離れていた昭和18年は4月18日の山本連合艦隊司令長官の戦死をはじめ、連合軍側の本格的な反攻によって、多数の航空機や艦艇が失われたことから、戦死者が激増した。
杉野は昭和19年6月末、内地に帰ったとき、親友にこう語った。「オレは、あと1ヶ月ぐらいで死ぬかもしれん。死ぬごたる・・・」一度、三池の家に帰ったが、そのとき、「明日、この上空を飛ぶから待っていてくれ」と言った。翌日、三機編隊の双発機が編隊から離れると、顔が見えるほどの低空に降り、旋回しながら翼を振った。それが家族への快別の挨拶だった。
「もう帰らんかも知れん、あとを頼む」と言った一郎の言葉を弟は忘れられない。
星をながめながら、後輩に杉野はこう言った。
「おまえなあ、馬鹿にならなければいかんよ。人間は馬鹿でなければ、本当の仕事はできんのだぞ」
この言葉は、杉野のやり切れない思いをぶつけたものとも受けとれる。
この杉野一郎は、私の事務所につとめる事務職員の祖母の兄にあたります。その縁から本書を読んで紹介させていただきました。
(1991年2月刊。2000円+税)

1937年の日本人

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版  朝日新聞出版
15年戦争とも言われていますが、一般には、1937年7月7日に中国の北京郊外で起きた蘆溝橋事件をきっかけとして日本は日中戦争に突入していったのでした。
北支事変、のちの支那事変の始まりです。事変とは戦争のことなのですが、宣戦布告されていないので、事変とごまかしたのです。
それは、ある日、突然に「平和の時代」から「戦争の時代」に激変したというものではなかった。むしろ、ゆるやかなグラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、戦争という特別なものに染まっていった。
この本は、少しずつ戦争への道に突きすすんでいった戦前の日本の状況を浮きぼりにしています。
2・26の起きた1936年は、国民が既成政党へ強い不信を抱き、また、軍部が政治的発言力を増大させていた。軍部は、軍事予算を拡張したいという思惑のもとで、「非常時」とか「準戦時」、「国難」というコトバで国民の危機感を煽るべく多用していた。
満州事変の1931年度の決算と、1937年度の予算を比較すると、予算総額は倍加し、陸海軍省費は3倍となった。
1937年5月、日本帝国政府としては支那に対し、侵略的な意図などないと発表した。そして、1940年に東京オリンピックの開催に向けて準備がすすんでいた。
北支事変において、紛争の原因は、あくまで中国側にあり、日本軍の対応は受け身であると日本側は発表した。
1937年の時点で、中国にいる日本人居留民は7万4千人。上海に2万6千人、青島の1万3千人。天津の1万1千人。北京は4千人でしかなかった。
中国の民衆からすると、日本軍はなにかと理由をつけては自国の領土に勝手に入りこんでくる外国軍だった。日本軍が「自衛」という名目で繰り返し行っている武力行使は、中国市民の目には「侵略」だった。
日本の財界人は、「北支事変」を、まさに天佑である」と信じ込んだ。
先の見通しが立たないまま拡大の一途をたどる日中戦争の長期化は、「挙国一致」という立派な大義名分の影で、じわじわと国民の生活を圧迫していった。
盧溝橋事件から、わずか3ヶ月で1万人ほどの日本軍が戦死した。おそるべき数字だ。中国側の死傷者数は42万人に達した。
1937年12月に検挙された人民戦線事件は、日本ですでに少数派になっていた政府批判者に決定的な打撃を与えた。戦争に反対したり、疑問を表明するものは、自動的に「国家への反逆者」とみなされ、社会的制裁の対象となった。
こうやって戦前の動きを振り返ってみると、まさしくアベ政権は日本の戦前の過ちを繰り返しつつあることがよく分かります。
(2018年4月刊。1800円+税)

沖縄からの本土爆撃

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版  吉川 弘文館
アメリカ軍は日本に対して、都市も村も島も、無差別攻撃を繰り返しました。
そのあげくにヒロシマ・ナガサキへの原爆投下があります。都市への無差別爆撃を初めておこなったのは日本軍による南京爆撃です。これに対して、アメリカは戦犯調査の対象とはしませんでした。日本軍との戦争で無差別攻撃をアメリカ軍もしていたことが問題になるとまずいと判断したのです。
1945年6月の時点で、日本本土への侵攻作戦(コロネット)をはじめた。このコロネット作戦とあわせて、日本の突然の降伏に備えてのこと。ブラックリスト作戦と呼び、二つの作戦計画が同時並行ですすむことになった。
アメリカ軍の大佐は、次のように言った。
「日本の全住民は適切な軍事目標である。日本には民間人はいない。我々は戦争しており、アメリカ人の命を救い、永続的な平和をもたらすべき、そしてもたらすように追求している戦争の苦しみを短縮するような総力戦という方法でおこなっている。我々は、可能な限り短い時間で、男であろうと女であろうと最大限可能な人数の敵を殺し出し破壊するつもりである」
アメリカ軍が無差別爆撃したことについて、戦前の日本政府は国際法に違反すると、はっきり抗議した。これについて、アメリカ政府は、民間人を爆撃することを繰り返し非難してきたので、無差別爆撃を国際法違反ではないと主張したら、これまでの見解と矛盾することになる。また、国際法違反だと認めると、日本に捕まった航空機の搭乗員たちが戦争犯罪人として扱われる危険性もある。つまり、アメリカ政府は答えようがなくなって答弁しなかった、出来なかった。
沖縄に航空基地をつくって日本本土を無差別爆撃していたことをアメリカ側の資料も発掘して明らかにした貴重な労作でした。
(2018年6月刊。1800円+税)

96歳、元海軍兵の「遺言」

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 瀧本 邦慶 、 出版  朝日新聞出版
他国から攻められたら、どうする。よく、そう聞かれる。そうならんように努力するのが政府やないか。それが政府の仕事やろと言いますねん。そのために、びっくりするような給料をもろとるんやろ。戦争さけるために大臣やっとんのやろ、攻められたらどうすると、のんきんなこと言うとる暇ないやろ。やることやれ。そんなに国を守りたいのなら、そんなに国がだいじなら、まずは、おまえが行け。そう言いますね。
戦争にならんためには、どうすればいいのか。とにかく大きな声をあげないけません。沈黙は国をほろぼします。
戦争に行って何度も死線をくぐり抜けた96歳の元海軍兵の心底からの叫びです。
著者が海軍に志願したのは、17歳のとき、1939年(昭和14年)だった。佐世保の海兵団に四等水兵として入団した。
海軍に入ったその日から、すべてが競争の日々。新兵の仕事は、なぐられること。面白半分に上官から殴られる。海軍では、下っ端の兵卒は人間ではなく、物。そこらへんの備品あつかい。死んでもいくらでも補充できる物。
著者は真珠湾攻撃にも参加しています。ただし、著者の乗った「飛龍」は真珠湾から300キロ以上も離れていて、攻撃の様子はまったく分からなかった。ペリリュー島に行き、ミッドウェー海戦にも参加します。このとき日本軍は大敗北したのに、大本営発表は勝ったかのような内容でした。命からから助かった著者たちは口封じのため南方戦線に追いやられるのです。
こうして下っぱの軍人をだましていたんやなと気づかされた。国民をだますにもほどがある。ときの政府、ときの軍隊は嘘をつくんだな、そう思った。
著者たちはトラック諸島に追いやられた。ここでは毎日のように死者が出た。ほとんどが栄養失調。多くの兵が餓死した。栄養失調がすすんで身体に浮腫(むくみ)が出た。
下っぱの兵士が木の葉っぱを食べているときに、士官は銀飯(お米)を食べていた。いざとなったら、国は兵士を見殺しにする。見殺しは朝飯前(あさめしまえ)。
ここで死ぬことが、なんで国のためか。こんな馬鹿な話があるか。こんな死にかたがあるか。なにが国のためじゃ。なんぼ戦争じゃいうても、こんな、みんなが餓死するような死にかたに得心できるものか。敵とたたかって死ぬなら分かる。のたれ死にのどこが国のためか。
ここで考えが180度変わった。これは国にだまされたと気がついた。わたしが一番なさけないのは、だまされておったこと。いつまでもくやしいですやん。
日本軍に見捨てられて南方の孤島で餓死寸前までいたった著者は戦争はしてはいけない、国にだまされるなと叫んでいます。苛酷な戦場を体験したことにもとづく叫びですので、強い説得力があります。
(2018年12月刊。1400円+税)

父の遺した「シベリア日記」

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 大森 一壽郎 、 出版  司法協会
私と同じ団塊世代の著者がシベリアに抑留されて生還してきた亡父の日記を整理して出版したものです。
20代前半の青年がソ連に捕虜として連行され、シベリアの苛酷な環境の下で働かされていたときのことを亡父が400字詰め原稿用紙200枚に書きしるしたのです。いわば、生きた証(あかし)だったのではないでしょうか・・・。
亡父が日本に帰国したのは昭和22年4月27日。例によって舞鶴港。当時、26歳だった。この日記は、35年後に書きあげられた。
亡父は大正11年生まれで、工業高校を卒業して、海軍に就職したものの、昭和18年、22歳のときに召集された。満州のチチハルで終戦を迎え、シベリアに送られた。
収容所では、2割から3割の兵隊が死んだ。だいたいが栄養失調のため。作業も苦しいが食糧の悪いのが原因の一つ。戦勝国のソ連の国民にもひどい服装の人がいるので、捕虜に十分な食糧を与えられるはずもない。
腹痛や頭痛だと病気とは認めてもらえない。熱が出て、はじめて病人と判定してくれる。
外気温は、マイナス50度。まさしく酷寒。
ロシア人は戦争のため男性が極端に少ない。男ひでりの未婚の娘が、若い日本人捕虜の男性を放っておくわけがない。
蛙も蛇も野ネズミも、何でも食べた。2メートルもある蛇は皮をはぐと身がきれいで、焼いて食べると蛙より美味しい。野ネズミはあまり美味しくはなかった(ようだ)。著者はさすがに食べられなかったのです。
こんな苦労して日本に帰ってきた元日本兵に対して、日本社会は「シベリア帰り」として冷たくあたったのでした。捕虜になりながら、おめおめと生きて日本に帰ってきたこと、しかもソ連で赤く洗脳されて帰ってきた危険人物として・・・。
亡父が20代前半だったから、酷寒のシベリアを生き抜けたのだと思います。
私も亡父から生前に聞きとりしてその歩みを小冊子にまとめました。親たちの人生がどうだったのか、やはり次世代に語り伝える必要があると私は考えています。お疲れさまでした。
(2018年1月刊。900円+税)

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