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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

戦慄の記録・インパール

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版  岩波書店
インパール作戦に参加した日本軍将兵は9万人、その3分の1の3万人が亡くなりました。悪名高い、日本軍による無謀な戦役をNHKが特集したものが本になりました。
1944年3月に始まり、本格的な雨期の到来する前にインパールを攻略するとしていた。川幅600メートル、2000メートル級の山と深い谷の連なる密林地帯で、貧弱な道しかない。
悪路のため、武器・弾薬も背負って運ぶため、携行できる食糧は、わずか3週間分。
第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将は、少し前は「実行困難」として反対していたのに、いつのまにか積極策に転じていた。
東條英機首相は、ガダルカナルでの敗退をインド侵攻で逆転させようとしていた。
ビルマでのインパール作戦は、インド侵攻作戦の一環だった。
東條英機は、インドの独立運動家のチャンドラ・ボースを支援していた。
この作戦は補給等の点から無謀だと参謀の多くが反対したが、彼らはことごとく他へ転出させられていった。
インパール作戦が中止になったのは、発動から4ヶ月後のこと。そして、撤退中に多くの日本軍将兵が命を落とした。インパールに向けて進撃中に戦死した人よりも、撤退するさなかに亡くなった人のほうが多かった。NHK取材班は地図の上でそれを明らかにしています。戦没者名簿にのっている1万3千人余の死者のうち、6割の人々が作戦が中止された7月以降に亡くなっている。そのほとんどは「病死」だが、実は餓死が多数ふくまれている。
日本軍が攻略目標としていたインパールには、イギリス軍20万人が駐留していた。たっぷりの武器・弾薬が備蓄されていて、飛行機も戦車もあった。イギリス軍はビルマを日本から取り戻すつもりでのぞんでいた。にもかかわらず日本軍はイギリス軍を甘く見くびっていた。インパール作戦中止後の撤退中に、イギリス軍の飛行機から日本軍は散々な目にあった。
牟田口中将は早々にビルマから日本に舞い戻り、陸軍予科士官学校長に任命されている。日本軍の無責任体制も、ここまでするか・・・というほどのひどさです。ノモンハン事件でもそうでしたが、責任ある軍トップは誰も責任追及されず、かえって栄転・出世していくのです。こんな日本軍の実体を知ると、「昔は良かった」なんて言って欲しくないと、つくづく思います。
NHKも、いい番組をつくりますね。がんばってください。
(2018年9月刊。2000円+税)

日本憲兵史

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  荻野 富士夫 、 出版  日本経済評論社
 トッコーとケンペーが戦前の日本で支配階級の尖兵(せんぺい)でした。その憲兵が何をしたのか、詳細に暴いた大作です。本文370頁、6500円ですから容易には読めません。でも、全国の図書館に備え付けて多くの人にぜひ読んでもらいたい本です。歴史の事実を知るのは大切です。
憲兵に関する資料が乏しいのは、日本の敗戦と同時に憲兵自身によって徹底的に資料が焼却されてしまったからです。これは、特高警察についても同じことが言えます。それでも焼け残った資料が中国軍に押収されて残ったものがあります。著者はそんな資料まで丹念に拾い集めているのです。敬服します。
日本の憲兵は、海軍内ではほとんど活動していない。なぜ、何でしょうか…。
憲兵の重要な任務の一つに徴兵忌避の取締りがあった。1913年6月の大阪憲兵隊の報告文書には、兵庫県城山稲荷へ徴兵忌避の目的で祈祷を依頼した参詣者が970人もいた。
1915年の本に「憲兵は嫌兵か」という項目があった。そこには、今日の憲兵は帝国陸軍の憲兵というよりも、むしろ軍闘の爪牙(そうが)、懲罰の走狗(そうく)であると指摘されている。
憲兵隊は特高警察と絶えずはりあっていた。
1930年代に入って憲兵は政党政治のなかの「反軍的」言動を抑え込むことに成功した。その次のターゲットは、文化だった。たとえば、志賀直哉、そして菊池寛を狙った。さらにキリスト教も圧迫した。
日本国内にいる憲兵は、1920年代から30年代末まで1500人ほどの規模で推移していた。ところが1945年8月の敗戦時には、1万人をこえる憲兵がいた。東条英機首相を強力に支えたのが憲兵だった。東条は、憲兵の威力と情報を最大限に活用して反東条勢力を抑え込む「憲兵政治」を推し進めた。ただし、暗黒の憲兵政治は、東条政権の下のみであったというのではない。
一般兵士から憲兵は敬遠されていた。捕虜となったイギリス人兵士に対して、こう言った。「憲兵なんてケダモノです。我々みんなが憲兵みたいな人間だと思われてはたまりません」
関東憲兵隊の一員になるためには、難関の試験を突破する必要があった。1933年(昭和8年)の倍率は5倍強だった。憲兵なら最前線は出ないので、戦死の危険は小さい。そして高給取り。補助憲兵で50円に近く、正規の憲兵だったら120円。これは一般兵科の上等兵が10円だったのに比べて格段の違い。そのうえ、給料以外にもいろいろの実入りがあって、羽振りのいい暮らしができた。
ノモンハン事件でソ連軍の捕虜となり交換で戻ってきた将兵350人について、関東憲兵隊は、軍の特設軍法会議で将校30人に対して死刑判決を下して、直ちに処刑した。
欧米の将兵は、すすんで捕虜となり、また本国で元気に復帰するよう勧められていましたが、日本軍は捕虜となったら生きて帰ってきても銃殺されたのでした。これは、スターリンのソ連軍でも同じでした。
チチハル(満州)の憲兵隊は中国人の抵抗組織を摘発し、拷問に明け暮れた。そして、「特移扱」(とくいあつかい)とした中国人は七三一部隊に送られ、細菌兵器研究の実験材料にされたうえで全員が殺害された。「マルタ」と称され、3000人以上が殺されている。
また、憲兵隊は「軍慰安所」を直接管理していた。1940年6月末、南寧・鉄州方面に「軍慰安所」は43戸あり、「従業婦」は361人いた。
このように日本軍の最悪の部隊ともいうべき憲兵たちが、戦後再び公安調査庁に勤務するようになったという事実は驚きというより、呆れてしまいます。
日本憲兵の実体が詳細に掘り起こされている画期的な労作です。
(2018年3月刊。650円+税)

陸軍中野学校

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山本 武利 、 出版  筑摩選書
陸軍中野学校が発足したのは1940年。その前身は1938年に開校した防諜研究所であり、その後、後方勤務要員養成所と改称し、さらに陸軍中野学校となった。だから、1945年の終戦まで、わずか7年ないし5年という短命だった。
開所のときは19人しか入学しなかったが、最大7年間で2300人余の学生を世に送り出した。
独立勤務者としての秘密工作員、特務機関員そしてゲリラ工作員へと中野学校での教育内容は激変した。
終戦から29年もたってフィリピンのルパング島から帰還した小野田寛郎は、1944年春に静岡県二俣に設立された二俣分校の第1期生である。
小野田寛郎によれば、「どんな生き恥をさらしてもいいから、できる限り生きのびて、ゲリラ戦を続けろ。・・・・。捕虜になってもかまわないと教えられた」という。
中野学校は語学を重視した。英語250時間、ロシア語220時間、中国語190時間となっている。
授業を受けるとき、ノートをとるのは、いささか軽蔑されていた。話を聞く、質問をする。その一刻一刻が勝負なのだ。
一般人の取り調べには、常套手段として暴力・脅迫が横行していたが、中野学校では、その使用は仲間うちなので、ご法度(はっと)、禁止されていて、この規則はよく守られていた。
中野学校の卒業生はハルピンの情報部に多くつとめた。
中野学校の実体、とくにその教育システムについて、深く知ることができました。
(2017年11月刊。1700円+税)

玉砕の島・ペリリュー

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 平塚 柾緒 、 出版  PHP
天皇夫妻が2015年のペリリュー島まで戦没者の慰霊のために出かけなければ、日本人のほとんどが、その存在すら知らなかったと思われるのが、このペリリュー島です。もちろん、私も聞いたことはありませんでした。
今では、ペリリュー島の戦闘を描いたマンガ本もあり、かなり想像することが出来ます。
著者はペリリュー島からの生還兵の取材を1970年(昭和45年)から始めていて、すでに8回、ペリリュー島にわたっています。
ペリリュー島にいた日本軍1万人のうち、部隊が全滅したあと2年半ものあいだ洞窟に潜んでゲリラ戦を続けていた34人の日本兵がいた。このほか生還できた日本軍将兵は302人のみ。
昭和19年、パラオ諸島には軍人以外の日本人が2万5千人、朝鮮人250人、現地住民も3万2千人が住んでいた。
ペリリュー島は、パラオ諸島の中心地コロール島から南に50キロの地点のある、リーフ(珊瑚礁)に囲まれた孤島。南北9キロ、東西3キロ。島には、昭和14年に完成した飛行場があり、1200メートルの滑走路が2本あって、東洋一の飛行場とも言われていた。
ペリリュー島の日本軍は、水際の防禦陣地と山岳部の自然壕を拡大した地下要塞を構築した。ただ、珊瑚礁とリン鉱石で固まった島の土壌は、鉄筋コンクリートよりも固く、シャベルやつるはしでは歯が立たない。1日にわずか20センチとか30センチを掘るのが、やっと。
日本軍守備隊は、アメリカ軍の砲爆撃がつづく日中は、堅固な陣地や珊瑚の洞窟陣地内にじっと身を潜め、砲爆撃の止む夜間に準備を続けた。日本軍守備隊の中心は、満州で徹底的に訓練された若い20代の現役兵で構成されていた。その頑強な抵抗ぶりは、アメリカ軍がそれまでに味わったことない粘り強さがあった。
アメリカ軍が行った艦砲射撃は、上陸開始前に3490トン、上陸後に3359トン、合計6849トンも打ち込んだ。そのうえでアメリカ軍は、上陸迂回作戦を実施した。そのおかげで本来もっとも死亡率の高くなるはずのアメリカ軍上陸地点の日本軍守備兵が生き残った。
昭和22年4月22日、最後の日本兵34人全員が投降した。27歳から32歳の若者たちだった。よくぞ34人もの日本兵集団が投降したものです。その過程自体もスリルに満ちていて、興味深いものがあります。
(2018年7月刊。1900円+税)

空気の検閲

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 辻田 真佐憲 、 出版  光文社新書
現代日本では忖度(そんたく)があまりにも横行していて、マスコミの自粛がひどすぎます。もっと自由にのびのびとマスコミは嘘つきアベ首相を堂々と批判すべきです。少なくとも、批判的コメントなしで、首相や官房長官の開き直りの発言をタレ流してはいけません。
この本は、戦前の日本でやられていた検閲の実際を紹介しています。
本を発行するときには、発行日の3日前までに内務省に完成品2部を納めなければいけなかった。これに違反すると刑事責任を問われた。
当時の新聞記者は検閲に慣らされていた。世間が戦争を支持し、検閲官が言論規制を強化すると、新聞記者は、それに簡単に引きずられた。検閲官は100人をこえていた。
たとえば、1930年10月に台湾で霧社事件(現地の高山族が学校を襲撃して運動会に参加していた日本人134人を殺害)について、51件もの新聞記事が事前に抹消された。
石川達三が『中央公論』1938年3月号に南京戦直後の中国を訪問し、日本兵の婦女暴行、一般市民殺害のレポートを書いたところ、発禁処分とされた。そして、石川達三は、刑事裁判に付され、禁錮4ヶ月、執行猶予の有罪判決を受けた。新聞紙法違反だった。石川達三は、冒頭にわざわざ「自由な創作」、「仮想」と書いていたのに・・・。
言えるとき、言うべきときに、きちんとモノを言っておかないと、何も言えなくなるということを示した本だと思いました。
(2018年3月刊。880円+税)

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