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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

多喜二・百合子・プロレタリア文学

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 多喜二・百合子研究会 、 出版  龍書房
小林多喜二の『蟹工船』が突如ブームとなったのは何年前のことでしょうか。日比谷公園での「年越し派遣村」と同じころだったでしょうか・・・。そのころは、連帯だとか友愛というのが言葉だけでなく実体があると実感していました。ところが、今ではヘイトスピーチのほうが、ひょっとしたら実体があるのかも・・・と心配になってくる雰囲気があります。残念です。
『蟹工船』って、わざとあいまいにしているのがあるんですね。初めて知りました。まず、労働時間です。船内では何時から何時まで働いたのか、明示されていません。朝3時から夜10時までの可能性もありますが、はっきりとは書かれていません。
漁夫と雑夫の違いも明確ではありません。そもそも、この船に何人乗っているのかも、あいまいです。「200人」とか、「3,400人」とか「400人に近い」というだけです。
『蟹工船』は、書かれていない空白部分があることによって、時代と国境を越えた普遍的なアピールを獲得した。
ふうん、そういう見方もできるんだねと思ったことでした。
監督の浅川については、血も涙もない残虐な監督というイメージが強い。しかし、浅川が直接的に肉体的暴力を振るった場面はほとんどない。むしろ、「人命よりはお金」という合理的な行動が認められる。
多喜二は「ノート稿」をつくっていました。まず大学ノートに書いて推敲したのです。そして、最後に原稿用紙に清書しました。かなりの「ノート稿」が残っているそうです。一度、現物を見てみたいものです。小樽の多喜二資料館に行けば見れるでしょうか・・・。
多喜二は、とても明るく、茶目っけがあって、楽しい人だったとのこと。
「中央公論」に『不在地主』が掲載されたことから、多喜二は拓殖銀行を解雇された。
多喜二は、1930年に『蟹工船』で不敬罪に問われ、治安維持法違反で起訴され、豊多摩刑務所に入れられた。1931年1月に保釈されたあと、7月にプロレタリア作家同盟の書記長となり、10月に日本共産党への入党が認められた。同年9月には中国で柳条湖事件が起きて、中国への侵略戦争が始まっている。
1932年春、文化団体への大弾圧が始まり、活動家は地下に潜った。
1933年(昭和8年)1月、多喜二は最後の小説『地区の人々』を書きあげた。同年2月20日正午過ぎ、スパイの手引で築地署の特高に逮捕され、その日のうちに拷問で虐殺された。ちょうど今から86年前の出来事です。
多喜二に関する論評のあと百合子の小説が論じられ、さらにプロレタリア文学の批評があります。黒島伝治というプロレタリア作家がいるとのことですが、その小説を私のセツラー仲間だった三浦光則氏がコメントしています。
戦前の日本が、あっというまに戦争に突き進んでいったプロセスを失敗の教訓として学ぶことには大きな意義があると、この本を読んで、つくづく思いました。ベース(三浦氏のセツラーネームです)、ありがとう。さらなる健筆を期待しています。
(2019年2月刊。1500円+税)

パール・ハーバー(上)

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 クレイグ・ネルソン 、 出版  白水社
真珠湾攻撃について、アメリカ側は日本側の動きを知っていながら日本軍の攻撃を許したという説が今なお一部にくすぶっていますが、本書は、アメリカ軍が文字どおり馬鹿にしていた日本軍から不意打ちをくらった状況をあますところなく明らかにしています。
その根底には、日本軍なんて言葉だけ勇ましがっているだけの恐れるに足りる存在なんかではないという蔑視観がありました。しかし、それは、日本軍にとっても同じでした。アメリカ軍なんて、ちょっと攻撃したら、たちまち尻尾を巻いて逃げだすに決まっているという尊大な考えに取りつかれていたのです。
もちろん、どちらも誤りでした。双方とも死力を尽くして戦い、結局、圧倒的な物量の差で帝国日本軍はみじめな敗退を重ねていったのです。
開戦当時ハワイにいたアメリカ艦隊は戦争に向けて完璧な状態とは言えなかった。給油艦も不足していたし、兵士も上官も自覚が足りず、早く家に帰りたい、家族に会いたいとばかり考えていた。ハワイには十分な燃料保管施設がなく、偵察機も足りなかった。ハワイのアメリカ軍は午前中だけ働き、午後はゆったり過ごしていた。
当時のアメリカ人の日本人に対する評価は、きわめて低かった。
日本人は、頭の回転が鈍く、合理的な発想ができず、幼稚で、非現実的で、脅迫観念にとらわれ、内耳の欠陥、極度の近視、そして出っ歯、すなわち劣等人種だ。そんな日本に、アメリカ攻撃がうまくやれるわけがない。臆病な日本人がアメリカを攻撃してくるなんて、金輪際ない。
日本人のほうは、映画によって、アメリカ人をギャングであり、浮浪者であり、売春婦であるとみていた。また、アメリカは金持ちの、金持ちによる、金持ちのための国家だとみていた。アメリカ人は商人であり、ゆえに利益を生まない戦争はそう長くは続けないとみていた。
長年におよぶ経済的苦境と党利党略政治の結果、アメリカの防衛力は相当に劣化していた。司令部の最上層部を占めるのは、1898年の米西戦争の生き残りばかりだった。
徴集兵は1940年時点で、わずか24万3500人のみ。兵士が手にする銃は1903年設計の年代物のスプリング・フィールド銃だった。1941年1月から2月にかけて、日本軍が真珠湾に大規模な奇襲攻撃を敢行することを計画しているという情報がアメリカ当局に寄せられていた。しかし、これについて、「にわかに信じがたい」とか、「この噂については何ら信頼していない」というコメントがついていた。
2月末、アメリカのスターク海軍作戦司令は、日本には十分な人員と戦艦がないため、インドシナ・フィリピンなどへの同時侵攻は不可能だと断定していた。
日本軍も、1936年以降、アメリカの外交電報の多くを解読していた。
しかし、ワシントンも東京も、互いの軍事暗号だけは解読できていなかった。
アメリカ側がレーダーと暗号解読という秘密兵器を有していたのに対して、日本はハワイにスパイを置いていた。
1941年時点でのハワイ在住民間人のうち、4割の15万8千人は日本人を祖先にもっていた。ハワイのレストラン、食料雑貨店の半分、建設労働者の大半、自動車工の大半、商店の売り子のほぼ全員、そして農民の100%は日本人か日系人だった。
上巻のみで380頁もある大作です。じっくり読みたいという人におすすめの本でした。
(2018年8月刊。3800円+税)

骨が語る兵士の最期

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 橧崎 修一郎 、 出版  筑摩書房
第二次大戦(太平洋戦争)による日本人戦没者は310万人。このうち海外での戦没者は240万人。収骨開始以来、127万人分の兵士の遺骨が収骨された。したがって、まだ海外には113万人分の遺骨が未収骨のまま眠っている。このうち、飛行機や船で海没したため収骨が困難な数は30万人。中国など相手国の事情から収骨が困難な数が23万人。結局、現在の遺骨収集の対象は60万人。
アメリカは、国家の責任で、国防総省が最後の一兵まで発見することに全力を注いでいる。日本では遺骨収集の主体は防衛省ではなく、厚労省となっている。
日本人と鑑定された遺骨は、検疫法により、基本的に現地で火葬して焼骨(しょうこつ)として持ち帰る。ただし、DNA鑑定にかける歯や完全な四肢骨については、検体として焼かずに持ち帰る。そうしないと、歯や骨にふくまれるDNAが破壊されてしまうから。
著者は太平洋の島々で、旧日本軍兵と民間人のあわせて500体を鑑定してきました。
人骨は、生まれたばかりの新生児では350個ある。ところが、成人は206個に減る。このほか、歯は乳歯が20本、永久歯が32本。
遺骨の状況をふまえて、著者は次のような状況を想定した。並んで立たされた日本人兵士3人は、うしろから銃殺された。このとき、「天皇陛下万歳!」と叫び、両手をあげた。うちの一人は、まだ虫の息があり、伸ばした両手を前の方に引き寄せているところを、うしろから拳銃で後頭部にとどめの一発を撃たれて絶命した。
いやはや、遺体の状況を見て、そこまで推測できるのですね、さすがはプロです。まいりました。
民間人が多く出土するのは、サイパン島とテニアン島のみ。
遺骨収集に関わっていると、現地で不思議なことを経験する。チョウチョがたくさん飛んでいる。袖をひっぱられる感触がした。焼骨のとき、ピーッとなる。
遺骨は決して土に還ってはいない。遺骨が70年で土に還るということはない。
本当にご苦労さまとしか言いようのない地道な作業です。頭が下がります。
2015年4月9日に、天皇夫妻がペリュリュー島を訪問しました。それまで私をふくめて一般の日本人にはなじみのなかった太平洋の孤島に大勢の日本人が兵士として送られ、そこで戦病死・餓死していったのでした。まったく知りませんでした。
日本国の象徴の訪問は、戦前の日本が何をしていたのか、その結果がどうだったのかを問い返すきっかけをつくったのです。私は、そのことを高く評価したいと思います。
ところで遺骨収集に熱心なのはアメリカと日本だけで、ドイツはやっていないとのこと、これまた驚きました。世の中、まさしく知らないことだらけです。
(2018年7月刊。1500円+税)

本土空襲全記録

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(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版  角川書店
日本の敗戦前に、日本全国がB29爆撃機による大空襲の被害にあいました。
その空襲の状況をアメリカ側の資料によって丹念に掘り起こしています。その典型が専用機に取り付けられていた「ガンカメラ」と呼ばれる特殊なムービーカメラです。ガンカメラが記録した映像は、被害にあった日本の都市や逃げまどう人々を生々しく描いているのです。
大分県宇佐市を拠点として活動する市民団体「豊(とよ)の国、宇佐市塾」が映像の収集・分析をしている。
九州はアメリカ軍による空襲被害が大きい。なぜか・・・。アメリカ軍のオリンピック作戦は九州南方の3地点から強襲上陸作戦を考えていたから。
アメリカ軍による本土空襲の被害者は46万人。
アメリカ軍は、軍関連施設と生産関連施設の両方を狙った「精密爆撃」を早くから緻密に計画していた。しかし、現実には「精密爆撃」というより「地域爆撃」、「無差別爆撃」が実施された。それは、都市労働者の能力に打撃を与えること、住民の戦意・抗戦意思を破壊するためのテロ(恐怖)効果を狙った。
しかし、実際にはドイツへの大空襲もロンドン大空襲も、狙われた住民の戦意喪失どころか、戦意の高揚を大々的にあおるものでしかなかった。都市への無差別攻撃を始めたのは、実は日本とドイツだった。日本軍は、中国の重慶を狙って壊滅させた。
アメリカ軍のF-13写真偵察機は、B-29を改造したもので、1回の飛行で7000枚ものネガを持ち帰った。17回の偵察旅行を繰り返し、写真撮影と気象観察を徹底して行った。
アメリカ軍の飛行機は、日本軍の迎撃を避けるため1万メートルの高度から爆撃を仕掛けていた。ところが、日本の上空は天候が不安定で、いつも嵐が吹き荒れていた。
東京大空襲を指揮したのはカーチス・ルメイ将軍。
「もしジャップが戦争を続ける気なら、奴らにはすべての都市が完全に破壊される未来しかない」
一連の爆撃で投下された焼夷弾は192万発。1944年11月からの4ヶ月間でアメリカ軍が失ったB-29は105機。兵員の死者・行方不明者は864人にのぼった。
実は、それまでアメリカ空軍は存在しておらず、アメリカ陸軍航空軍でしかなかった。陸軍の地上軍17万人、海軍14万人に対して、航空軍は2万人しかいなかった。航空軍にとって、太平洋戦争は、組織の独立戦争でもあった。
当時、前線での指揮権をもたない航空軍が手柄を立てるには、B-29をつかった日本への直接攻撃しかなかった。ルメイ将軍は、日本式の家には低空用の対空砲火がなかったことを知り、焼夷弾を有効活用することにした。
アメリカ航空軍は、1939年は最新型爆撃機を14機もっていた。ところが1944年には10万機、戦前の20倍も持つに至った。
カーチス・ルメイが当時38歳だったとは知りませんでした。道理でベトナム戦争でも悪役になれたわけです。それなのに、日本は戦後何十年もたってからルメイへ勲章を授与しているのです。呆れてしまいます。市民を大量無差別虐待していただいたことに敗戦国政府として感謝します、そんな意思表示したと同じです。私は許すことが出来ません。
いずれにしても、この本を読んでいろいろ貴重な情報を得ることができました。
(2018年8月刊。1500円+税)

戦地巡歴、わが祖父の声を聴く

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 井上 佳子 、 出版  弦書房
熊本放送の記者をしている著者が、中国大陸で戦死した著者の祖父が遺した日記をたどり、ついに30分のテレビ番組にしたものを本にまとめたのです。
祖父は中国に出征して、わずか47日で戦死しています。第六師団歩兵13連隊です。
1937年7月に盧溝橋事件から日中戦争が始まると、第六師団は中国に渡り、上海の杭州湾から上陸し、12月の南京攻略戦に参戦し、翌1938年2月には徐州会戦、そして武漢作戦の前哨戦である漢口攻略を目ざした。
祖父の井上富廣は明治44年(1911年)生まれですので、明治42年生まれの私の亡父・茂より2歳も年下だったわけです。亡父・茂も会社員だったところを兵隊にとられ、陸軍二等兵として中国大陸に渡りましたが、幸か不幸か(幸に決まっています)病気にかかって台湾へ送還されて命拾いしました。
祖父・富廣は、1938年(昭和13年)6月に門司港を出港して中国は上海に上陸した。補充兵として第六師団を追って、南京、蕪湖、安慶、潜山、太湖と転戦していった。そして、中国に出征してわずか47日で戦死した。戦死する5日前まで日記を書いている。このほか、戦地から家族に書いて送った手紙も4通残っている。
「(昭和13年)6月26日。潜山発。四時半起床。要所を撃破せし戦跡には支那人死体横たわり、当当と進軍する愉快さ。・・・」
「2,3日前、20名ほどとらえてきて尋問したら、矢張り、支那軍から命令されているようです。全部、河原へ連れ出し銃殺しました。泣きながら殺してくれるなという顔を見れば、ちょっと気の毒な様でもあります。人間の死体や牛豚の残がいで、くさくて仕様ないです」
これは祖父富廣が日本にいる妻へあてた手紙です。敗残兵の20人を銃殺したことを、しごく当たり前のように、あっけらかんと書いている。
そのような兵士の心理について、次のように解説されています。
「戦場の兵士は、普通の精神状態ではない」
「死ぬか生きるか、殺すか殺されるかの極限状態なんです」
そして、著者は取材のため祖父・富廣の戦跡をたどりました。
中国大陸で日本軍が罪なき人々を殺し、女性を強姦し、物資を略奪していったことを、その体験者から聞き出していったのです。
まことに戦争とは、むごいものです。大勢の人々を殺し、また理不尽に殺されていきます。絶対にあってはならないのが戦争です。
日本のネトウヨなど一部の人々が反中国をあおりたてていますが、両国は経済的にも文化的にもしっかり結びついているのです。戦争なんて、とんでもありません。平和的に共存共栄するしかないのです。
この本は、その原点の大切さを考えさせてくれました。
(2018年8月刊。2200円+税)

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