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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

調査・朝鮮人強制労働・炭鉱編

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 竹内 康人 、 出版  社会評論社
戦前・戦中に朝鮮人を日本へ強制連行し、炭鉱などで働かせて酷使・奴隷労働させていた史実を丹念に発掘した貴重な資料集です。今回の第1巻は炭鉱編です。
表紙にポスターの絵があります。「飛行機も軍艦も弾丸も、石炭からだ!たのむぞ石炭」とあります。まさしく炭鉱は日本の戦争を地底から支えたのです。
日本に労務のために強制連行された朝鮮人は70万人。そのうち炭鉱で33万人が働かされた。筑豊には、その半分の15万人が連行された。北海道は、石狩を中心に10万人。佐賀と長崎にも4万人、そして宇部にも1万人。
大牟田には朝鮮人が1万人以上も連行されてきた。三池炭鉱だけでなく、三池精練所、三池染料、電気化学工業、三池港湾など。
三池炭鉱では、日本人が1万5000人、朝鮮人が3900人、中国人640人、連合軍俘虜922人。中国人は総数2500人、俘虜は総数1700人だった。
三池染料の1945年3月の朝鮮人連行者135人の名簿が残っている。16歳から21歳の84人の朝鮮人が三池染料の職場に配置された。21歳の団長とされた朝鮮人のほかは、日本語が話せなかった。彼らは仕事着のみで、着換えはもたなかった。
徴用にいった労務係長からは、憲兵とともに朝鮮に行き、役に立ちそうな者を手当たり次第トラックに載せて連れてきた。徴用というより、人さらいだったと話した。
この労務係長というのは、私の亡父のことと思われます。生前、朝鮮に行って500人ほどの朝鮮人を列車で日本に連れてきたと語ってくれました。ところが、工場では炭鉱と違って、単純労務作業ではありませんので、日本語も読めないような労力のない人では役に立たず、1回きりだったと言っていました。
三池染料は平原町に朝鮮人収容所があったとのこと。職場のすぐ近くです。
炭鉱には市内各所に朝鮮人用の収容所があった。そのなかの一つ、馬渡町の5棟の収容所の一つには、朝鮮人による落書が残っていた。田舎に帰りたいという悲痛な叫びが描かれていた。
筑豊にあった麻生系の炭鉱では連行されてきた朝鮮人労働者を奴隷のように酷使し、虐待していた。そのひどい仕打ちに対して、朝鮮人労働者たちはたびたびストライキを起こすなどして反抗したのです。
ところが、麻生太郎は、今もって、朝鮮人労働者を虐待した事実を認めようとしません。まったく反省することなく、開き直っています。
貴重な資料集です。これをつくりあげた著者に対して心から敬意を表します。
(2013年8月刊。2800円+税)

少年たちの戦争

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 徳永 徹 、 出版  岩波書店
太平洋戦争の敗戦当時に高校生(17歳から18歳)だった著者と、その仲間たちの書簡が紹介されている貴重な記録集となっています。
軍国主義教育まっさかりのなかで著者たちは陸軍士官学校や海軍兵学校を希望しますが、教員が海兵への志望書を破棄します。
「将来、科学技術の面で、国に奉公するように」と教員が生徒を諭すのです。立派です。
著者の父親も、「こんなに世界中の人が殺しあっている時代だから、逆に人の命を助ける仕事もよいではないか」と医科への進学を勧めたのでした。偉い父親です。
日本軍が真珠湾を攻撃し、戦争を始めた時点で、すでにドイツ軍は敗退をはじめていました。そして、1945年1月にはソ連のスターリン首相がついにベルリン攻略を宣言。このとき、著者は、「ドイツ、がんばれ」と心念じたのでした。
このころ病気療養中の著者は吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読んでいます。昨今の日本でベストセラーになった、あの本です。いま読んでもすばらしい内容の本ですが、戦争末期の敗戦間近なころに読んだときの率直な感想を知りたいものです。
1945年4月3日の日記に次のように書きました。
「死の足音は刻々に近づいている。しかしオレは不注意にも、否、故意にその足音を聞こうとはしない。臆病者!」
まだ17歳の身で、死が間近に迫っているという実感は切ないものがあります。
4月14日の日記には「ソ連赤軍がベルリンに突入したらしい」と書かれています。いよいよ敗戦必至です。
5月10日の日記。
「もしも敵の空挺部隊が阿蘇の外輪山の中の平地に降下した場合、五高生も出動するという。無条件降伏は、断じて取るわけにはゆかぬ。日本人たる以上、国体が破壊されるのをどうして座視することができよう。ならば即ち、忠良なる日本人の大部分は敵の物量の前に玉砕するだけである」
長崎医専に1番で合格し、戦争中なので、長崎の工場で働いていた級友は原爆死してしまったのでした。本当に残念です。
それにしても、小学校の担任だった田中先生はいい仕事をされましたね。おかげで、戦死してしまった級友のことをふくめて、こんな立派な記録集ができあがりました。
戦争はダメ。軍備を増強したら戦争が近づき、平和は遠のくばかりです。安倍首相の言いなりになっていると、そんな戦前のあやまちを繰り返すことになります。
(2015年2月刊。1800円+税)

よみがえる戦時体制

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 荻野 富士夫 、 出版  集英社新書
「一強」のアベ首相のもとで、今や日本は「戦前」の時代に突入しつつあるのではないか・・・。そんな思いに駆られることがあります。
「令和」フィーバーは異常です。「令和」おじさんの株が上がって、ポスト・アベにスガ官房長官が躍進しているなんて、悪い冗談にもほどがあります。
本人は連休中でゴルフに出かけ、東京の集会にはビデオレターで登場し、「2020年には改正憲法を施行する」なんて、号令をかけました。とんでもない首相です。憲法を誰より率先して守る義務のある首相が国民に向かって改憲を呼びかける、そんなことは決して許されるべきことではありません。
昭和天皇は早くから思想問題に関心を抱き、とくに日本開戦時や配線前後の治安状況についての情報収集に熱心だった。組閣時には、警保局長などの内務省人事にまで注文をつけることがあった。
昭和天皇は1936年、共産党を消滅させた功労者として、内務、司法官僚を叙勲した。
戦前の特高警察官は最大時、総数で1万人、警察前全体の1割に達した。
治安維持法の「目的遂行」罪は、かつてのように「結局のところ」とか「窮極において」といった飛躍の論理を用いる必要をなくした。
横浜事件のとき、特高刑事たちは、こう言ってせせら笑った。
「きみたちの考えは、まったく甘い。今はもう何もやれないことは、こちらが百も承知している。しかし、将来、万一のときに、お前たちが何かをやるに決まっているような精神構造そのものを問題にしているのだ」
うひゃあ、これって恐ろしいですよね・・・。これでは、どうしようもありませんね、内心の自由なんて、まるでありません。
1941年12月、真珠湾攻撃とそれに続く連勝に、国民の「戦意」は一挙に沸騰し、99%以上の国民が「我々の戦争」ととらえて、戦争を支持し、協力する側に位置した。ところが、1944年になると、厭戦・悲観気分が広がり、7月のサイパン島失陥により、明らかに「戦意」は低下しはじめた。このような戦いぶりで勝てるだろうかという疑念が生じ、戦争指導に対する政府や軍の拙劣さへの批判が表面化してきた。
敗戦後も、昭和天皇の治安感覚は変らなかった。ストライキの頻発や共産党の進出を憂慮した。
「共産党に対しては何とか手を打つことが必要だと思うが・・・」(1948年3月)
アベ政権の天皇を政治的に利用する姿勢は露骨です。連休中に実施された一般参賀にしても、秋の予定だったのを宮中の意向を排して5月の連休中に早めにさせ、政権の人気とりに結びつけたのでした。ひどいものです。
いま、アベ首相に対してはっきりモノを言わないと、まさしく「戦前」に突入しかねない状況です。とてもタイムリーな新書の内容になっています。
(2018年6月刊。860円+税)

シベリア抑留者への鎮魂歌

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 富田 武 、 出版  人文書院
日本軍は第一次世界大戦後のシベリア出兵(1919年)で歩兵1個大隊が全滅(戦死者280人)したことの報復として、イワノフカ村をパルチザンの巣窟(そうくつ)とみなして掃討作戦を展開した。日本軍は村人257人を虐殺したが、うち女性が10人、子どもも4人いた。
そのため、ロシア人は日本人を「人間を食べる人種」だと怖がった。
シベリアに抑留された元日本兵は、極寒のなかでの重労働を余儀なくされた。
ある収容所には、元日本兵が1000人いたが、その6分の1が飢え、寒さ、重労働、病気のために亡くなった(6分の1というと、170人前後の死者が出たということです)。
飢えは、捕虜の人間性を損ねた。寝床で隣の者が下痢をすると、もっと続けばよいと願った。その食糧を自分が食べられるからだ。死者の遺体は身ぐるみ剥がして埋めた。衣類をパンに代えるためだ。入院患者が危篤だと知ると、周りの者が早々に「形見分け」した。品物をパンに代えるためで、危篤から脱した者が帰ってきても、持ち物は本人に戻らなかった。
関東軍情報部(特務機関)のロシア語教官だった女性(中村百合子。1923年生まれ)は、アメリカのCICのエージェントとして北朝鮮で活動し、スパイだと発覚して1956年までソ連の政治犯収容所に8年も拘留されていた。この中村百合子は、CICのエージェントになる条件として、日本にいる母親への毎月5000円の送金をCICに約束させた。
シベリア抑留の実態に迫る貴重な学術書です。
(2018年10月刊。1600円+税)

朝鮮人強制連行

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 外村 大 、 出版  岩波新書
朝鮮人の強制連行をめぐっては政府や議会そして企業側にもさまざまな相反する意見があり、朝鮮総督府や朝鮮社会にもいろんな矛盾、利害相反の状況があったことを知ることが出来ました。
当時の朝鮮社会は就学率が低く、文盲の人も少なくなかったということを改めて知りました。朝鮮人の就学率は、1935年に17.6%(男子が27.2%、女子は7.3%)。1936年の日本語理解率は9.8%(男子は16.1%で、女子は3.4%)。
朝鮮人の就学率が上昇するのは、戦時期であった。
炭鉱では、増産を担うべき十分な労働力を確保できずにいた。
朝鮮総督府は、1937年6月27日付新聞で、九州の炭鉱からの朝鮮人労働者の斡旋の信頼に対しては許可しない方針であった。その理由として、それまでの炭鉱が朝鮮人を安い賃金のもとで酷使した「賤待事実」があったため。朝鮮統治の責任者としては、詐欺的募集と悪辣な労務管理が朝鮮人の不満を強めることに警戒せざるを得なかったからである。
官僚だけでなく、民間にも、朝鮮人導入については、否定的意見があった。それは戦争が終了して平時に戻ったときの失業問題が予想されることなどからであった。しかし、朝鮮人労働者の導入への消極論は、日本内地の炭鉱等での労働力不足の現実の前に押し切られた。
当時の朝鮮では、むしろ駐在所の巡査のほうが面長より権力をもっていると見なされるような実情があった。
1939年(昭和14年)は、かつてない大旱魃のあとだった。人びとは木の根、草の根を食べて飢えをしのいでいた。そこで募集をかけると、救いの神があらわれたといって人々が集まってくる。それでも、朝鮮総督府としても、農業生産の維持、さらには朝鮮の工業化のための労働力の確保の重要性は十分承知していたので、言われるがまま日本内地へ労働者を送り出そうとしていたわけでない。
2年間という期間経過したら、朝鮮に労働者を戻さなければならないというシステムは、定着を防ぐという意味では、日本内地の治安・労働行政担当者の思惑が一致していた。
韓国社会の中心人物が非協力的であれば、企業から派遣された人物が必要な人員を確保することが可能だった。
官斡旋は地域社会の事情を考慮することなく、そこに責任もつながりもない労務補助員が、自分の所属する企業のために労働者確保のみを追求することを制度化したものだった。朝鮮で徴用工の発動が遅くなったのは行政機構が貧弱だったことにもよる。徴兵対象者の戸籍の記載事項すら不正確な状態であった。
そして、朝鮮社会では、動員忌避がますます強まっていた。面の労務係は、動員で手一杯。面の人々は徴用を襲って労務係を仇的のように考えている人々がいた。
女子は全員が文盲、男子青壮年の7割は文盲。徴兵準備のための錬成を受けた男子の日本語ボキャブラリーは、日本人の幼児と同じレベル。朝鮮から来た者で、戦争については、100人のうち5人しか知らなかった。
日本内地の炭鉱労働者全体では戦争末期でも日本人が70%を占めていた。
朝鮮民衆はあきらめて無抵抗でいたのではなかった。徴用が自分たちの生活の破壊につながりかねないとみていた人々は必死の抵抗を試みた。なかには、面の職員が徴用対象となる面民を引率して山中に隠れようとして警官に見つかって衝突するという事件も起きている。面職員にとって、動員計画のための要員確保はよけいな業務の負担であるばかりでなく、危険を伴う仕事にすらなりつつあった。動員をさけようとする民衆の抵抗、動員によって働き手を奪われた家族の怨嗟から、危害を加えられるケースも発生していた。
村落の朝鮮人有力者らは動員に非協力ないし反対していた。それは、同情していたというより、最下層の朝鮮人が相対的に良い日本内地の職場を選択することによって、村落で農村労働者が減り、その賃金が上昇するのが痛手だったから。
炭鉱でも、熟練労働者を確保して操業効率を良くしようという意見もあった。
さまざまな複雑な思惑と利害があるなかで強制連行がすすんでいったことがよく分かりました。大牟田の三池染料でも朝鮮人連行があり、私の亡父は徴用係長として、その責任者だったのでした。
(2012年3月刊。820円+税)
日曜日の午後、梅の実ちぎりをしました。驚いたことに今年は梅の実が少ないのです。昨年の3分の1ほどしかありません。いわゆる裏作の年なのでしょう。それでもザル一杯にはなりましたので、梅酒が2瓶つくれそうです。
ジャガイモの生育が遅れています。隣のジャガイモは私より1週間以上も遅く植えたのに、緑々した葉っぱが繁っていて、早くも花が咲いています。うちは花どころではありません。隣の芝生は青いといいますが、うちのジャガイモたちは大丈夫かしらん・・・。

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