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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

歴史否定とポスト真実の時代

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 康 誠賢 、 出版 大月書店
「反日種族主義」という耳慣れないコトバを、最近、あちこちで見かけるようになりました。
韓国人はウソの文化、物質主義とシャーマニズムにとらわれている種族であり、隣国日本への敵対感情を表していると主張するためにつくった新造語。韓国人がつくったコトバで、この本が韓国で10万部も売れたというのです。驚きます。まあ、アメリカでトランプを熱烈に信奉する人たちがいるのと変わらないのでしょうね…。
日本でも、この本が40万部も売れたというのですが、それまた信じられません。ヘイトスピーチと同じ現象なのでしょうね。
日本では、「反日種族主義」は文在寅政権に反対する感情と緊密につながっていると指摘されていますが、そのとおりだと私も思います。
日本人のなかに朝鮮半島を植民地として支配し、朝鮮人を隷属する人々と見下していたのを、今なお受け継いでいるとしか思えない人たちがいるようです。とても残念だし、悲しいです。
韓国では、パク・クネ大統領が弾劾されて失脚するまで、社会指導層の破廉恥な嘘のオンパレードが続いていた。
ええっ、これって、まるで今の日本の政治そのものじゃないの…。思わず叫びそうになりました。アベ首相のときに、嘘と嘘があまりにも多く積み重ねられ、官僚が忖度(そんたく)ばかり、そしてスガ首相になっても同じこと、いや、それ以上に、首相の子どもまで表舞台におどりでて、官僚は超高額接待漬けになってもシラを切る。かつて、「我こそは国を支える」、という気概をもっていた(はず)の官僚のホコリは、今やどこにも見当たりません(残念です)。
日本軍「慰安婦」を「性奴隷」ではなく、稼ぎのよい「売春婦」にすぎないという反論があります。それなりに信じている人もいるそうですから、嫌になります。中曽根康弘元首相も「慰安婦」は日本軍が管理していたことを堂々と認めているのです。軍の管理と言うもののもつ重みを軽視してはいけません。
自由意思の「売春」というのは、現代の日本でも、どれだけあるのか、私には疑問です。ましてや戦前の日本に、そして、そこに日本軍が関わって「自由意思」なるものがあるなど、私には想像もできません。
そもそも、戦前の日本では女性は法的主体になれなかったのです。フツーの女性でも選挙権はありません。そこにあるのは、まさしく人身売買システムだったのです。そのベルトコンベアーに乗せられていた女性に向かって、自分の意思で乗ったんだろ、落ちて死んでも自己責任だろ、と放言しているようなものだと思います。それは許せません。
女性は日本軍の軍票をもらっていたようです。それも高額の軍票を…。ところが、現実には、そんな「高額の軍票」は、何の役にもたちませんでした。これは、ナチス・ドイツが政権を握る前のドイツ、マルクのように、価値のないものでしかありませんでした。高い「報酬」をもらって、いい思いをしていたなんて、とんでもないと私は思います。
歴史をあるがまま受けとめるのは、どこの世界でも難しいことなんだと、つくづく思わせる本でもありました。過去を美化したいというのは、誰だってもっていますが、それが後世の人を誤らせてはならないと思います。
やや読み通しにくい記述の本ですが、なんとか読了しました。
(2020年12月刊。税込2640円)

傷魂

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 宮澤 縦一 、 出版 富山房インターナショナル
ヴァイオリニストとして有名な黒沼ユリ子の師匠でもあった音楽評論家の著者が第二次大戦中にフィリピンで九死に一生を得た過酷な体験を、帰国した翌年1946年に忘れないうちに書きつづったものが復刻された本です。
著者は、生還者の義務として、思い出してもゾッとする、あの過ぎしころの悪夢のような出来事と、現地の実相を、ただありのままに世に広く発表したいと思い筆をとったのでした。
著者が召集の赤紙を受けとったのは1944年(昭和19年)5月5日。3日後の5月8日には目黒の部隊に入隊した。そして、輸送船に詰め込まれて台湾へ、そしてフィリピンに運ばれた。この輸送船は、「ああ堂々の輸送船」と歌われていたのは真逆の奴隷船、あるいは地獄船だった。船底に近い最低の場所に詰めこまれ、熱いのに水は飲めない上古湯で、着たきりスズメ。そこをシラミがはいまわった。そして、潜水艦に狙われる。
「将軍商売、下士官道楽、兵隊ばかりが御奉公」
そして、フィリピンに上陸。ミンダナオ島に着く。やがてアメリカ軍が空から飛行機で襲撃し、海から砲撃されるようになり、食糧に苦しんだ。中指ほどの芋1本か2本が兵隊たちの一食分。それで、カエル、ヘビ、ネズミを食べたが、それはまだ上の部類の料理。銀トカゲを食べて嘔吐した者、死んだ水牛を掘り出して下痢した者、オタマジャクシやカタツムリが試食された。
敗残兵となって山奥へ逃げていく。裸足(はだし)にわらなわを二重三重に巻きつけて、ぬかるみの坂道をのぼっていった。軍紀も軍律も敗残兵たちを拘束する力をもたなくなり、上官の命令が下級者に徹底しなくなった。かえって上官が下級者のきげんをとるようになった。上官をバカにしだした兵隊たちは、頼りない上官を相手にせず、気のあった仲間と連れだって勝手に行動しはじめた。
ついにアメリカ軍の砲撃で足をケガした。何の手当もできない。すると、3日目は、小さく細いウジ虫が傷口いっぱいにウジャウジャと固まり、1週間もすると、大きな白いウジ虫までもはいまわり始めた。そのうえシラミが身体中をはいまわり、やたらとむずがゆい。10日ものあいだ、はんごうにたまった雨水をのむだけ…。
手榴弾を石に叩きつけて自決しようとするが、なんと不発弾。そして、身動きできないところにアメリカ兵がやってきて、取り囲まれた。アメリカ兵はタンカを持ってきて、ジャングルから基地へ運んでいく。「いつ殺されるのか」と訊くと、「心配するな、病院に行くのだ」という答えが返ってくる。半信半疑の状態だった。
京都帝大法学部出身の著者は英語で、「起きられない、歩けない」と言ったのでした。
そして、赤十字の車をみて平和の生活をとり戻せたのでした。奴隷から自由人に戻ることができたのです。著者は、日本に帰国してから南方の戦地の実情をたずねられたそうです。
ネズミの塩焼きは、焼き鳥の味に似て、うまいうまいと言って喜んで食べていたと答えたとのこと。
フィリピンで死んでいった日本兵の戦死者たちは、戦闘どころか、一発の弾丸も撃つことなく、戦争を呪(のろ)い、軍閥を恨んで死んでいった者が絶対多数だった。このように著者は自らの体験を見聞した状況から断言しています。そして、それが日本国内にきちんと伝わっていないことに、もどかしくこの体験記を書いたのです。絶対に忘れてはいけない戦争体験記だと思って最後まで読み通しました。
(2020年11月刊。1300円+税)

難民たちの日中戦争

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 芳井 研一 、 出版 吉川弘文館
日本の無謀な大作戦が日本政府トップの無理な指示によるものだというのを改めて認識しました。1944年4月から1945年2月にかけて中国大陸で展開された大陸打通作戦のことです。この作戦は、日本の陸軍史上最大の50万人もの兵力を動員した。それは、日本国民の戦意喪失を防ぐために、アメリカ軍の対日空爆基地をつぶすという大義名分の大作戦。
ところが、実際の参加兵力は41万人、作戦距離2000キロという大作戦は、制空権がないなか、補給もほとんどないという無謀な行軍と戦闘を余儀なくされた。
したがって、現地の日本軍は食糧は現地調達、つまり現地で掠奪するしかなかった。ところが、中国の民衆はほとんど逃亡し去っていて、掠奪すべき食糧は残っていなかった。
また、41万人の日本兵のうち、10万人ほどはほとんど未教育の補充兵だった。食糧が現地調達できない日本兵は下痢、栄養失調、コレラで次々に死んでいった。第58師団は、出発時1万3849人だったのが、敗戦時には7388人と生存者は半分だった。
そして、この無謀な大作戦のきっかけは1942年4月の日本本土初空襲のドゥリットル空襲だった。日本本土がアメリカ軍による空爆の射程内に入ったことは、一般国民に突然、戦争の前面に立たされたという感覚をもたらし、士気に影響するところが大きいと政府当局は判断した。なので、日本への空襲のためのB52の離着陸可能地にある中国の飛行場を破壊することが最優先される作戦が考えられ、実施された。これをリードしたのが東条英機首相だった。
1938年に広東爆撃から重慶爆撃へと中国の都市爆撃を拡大していった日本軍指導者は、1942年の首都東京の電撃空襲を受けて、冷静な作戦の見通しと判断を見失った。
総力戦をうたっていた東条首相以下の日本政府と軍部のトップにとって、国民の継戦意志を確保するため、つまり国民動員のために必要な不可欠と判断した。そこで、現地作戦軍の意向を無視して押し付けた。
しかし、この大陸打通作戦の終末期には、アメリカ軍は中国大陸にある航空基地を利用することなく、日本本土を空襲するようになっていた。すなわち、アメリカ軍は、1944年の6月、マリアナ沖海戦で日本海軍の空母や航空機に壊滅的打撃を与え、7月にはサイパン島、グアム島そしてテニアン島に上陸して占領した。7月からは、日本本土爆撃基地は中国本土からマリアナ諸島に移された。11月には、マリアナ基地から飛びたったB29爆撃機70機が東京を本格空襲した。
日本軍の中国大陸での戦面拡大によって厖大な難民が生まれた。難民が一番多かった河南省では、1942年から43年にかけて200万人もの人々が餓死等で死亡し、300万人が難民として他省に流出した。これには、1938年の国民党軍による黄河の決潰も大きく影響している。しかし、それも日本軍の侵攻への対抗策としてなされたもの。
中国大陸への日本軍の侵攻作戦について、日本の指導部と現地作戦群の思惑が見事にずれていて、現地軍の独断専行がひどかったことは他の本でも再三指摘されています。
日本軍は、現地の中国人をなんとか手なづけようと、満鉄社員のなかから52人を指名し、その経験を生かした宣撫(せんぶ)班を7つも組織した。まあ、しかし、日本軍が近づくと中国の民衆のほとんどはまたたくまに逃げ出してしまったのでした。
日本軍は、1938年6月から国民政府の首都になっていた武漢を目ざした武漢作戦を開始した。30万人以上の兵力が動員され、戦死者6558人、戦傷者1万7040人、病者10万5945人という大消耗戦となった。このとき、日本軍は占領地の多くで治安体制を整えることができなかった。このころ、陸海軍は、軍事費のさらなる拡大を追求していて、30億円以上もかけて武漢作戦に着手したかった。いわば、自分たちの権益を守るために大勢の若い日本人を死地に追いやったわけです。もちろん、その「敵」は中国人民でした…。
1938年5月、日本軍は広東市内を突然に空襲した。これは、日中戦争の帰趨を左右するほど大きな国際的影響があった。要するに、フツーの市民を爆撃した日本はけしからんという全世界の世論の声を招いてしまった。このとき、「軍事施設に限って」日本軍が空襲した事実はなく、むしろ日本軍は、意識的に民家を狙って空爆していた。これと同じことをアメリカ軍も日本を空襲したときにやったわけです。カーチス・ルメイ将軍は、日本を石器時代に戻すと豪語したのです。そのカーチス・ルメイに対して、日本政府は戦後、大勲章を授与したのです。いったい日本国民の生命、財産を政府はなんと考えているのでしょうか…(プンプン)。
日本史も切り口によって新しい視点を身につけることができることを実感させられた素晴らしい本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2020年10月刊。1800円+税)

「非国民な女たち」

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 飯田 未希 、 出版 中央公論新社
女性の美に対するあこがれの強さに改めて驚嘆させられました。なにしろ空襲下でもパーマネントを離さなかったというのです。
「ぜいたくは敵」
「パーマネントはやめませう」
という世の中でも、戦前の日本女性は上から下まで(上流階級だけでなく)、パーマネントをかけようと、徹夜してでも、早朝からパーマネントをかけるべく行列をつくっていたり、木炭パーマネントにつかう木炭なら、食事づくりの木炭をまわしてでも、ともかくパーマネントを優先させていたというのです。
「石を投げられてもパーマをかけたい」
「非国民」とののしるほうがおかしいと、日本の女性は開き直っていたのでした。
いやはや、「常識」ほどあてにならないものはありません。戦前の日本女性はパーマをかけず、黙ってモンペをはいて、防災訓練と称するバケツリレーをしていただなんてイメージがありますが、とんでもありません。
戦前、洋裁に憧れて地方から上京してきた女子学生たちは、まずパーマネントをかけるのが「慣例」だった。それは学校側が止めてもきかなかった。
戦火が激しくなった1940年を過ぎても、パーマネントをかける女性が減るどころか増えていた。
それは工場でも同じこと。女工たちはパーマネントをかけ、スカートの美しさに気を使っていた。モンペの着用は広がらなかった。
1943年の大日本婦人大会で「パーマネント絶対禁止」が決議されているが、それだけパーマネントは流行していたということ。実際、パーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院があり、店の前には順番待ちの女性の行列があった。
パーマネント機を設置する美容店は、1939年に800店で1300台のパーマネント機があったが、1943年には1500店で3000台になった。
パーマネント機が国産機として普及するようになって、35円だった代金が10円から15円になった。それでも、高額ではあった。国産パーマネント機は製造しても、すぐに売り切れるほど需要があった。
日本一の美容院チェーンだった丸善美容院は、1937年ころ、全国に35店舗、6百数十人の従業員を擁していた。大阪の本店には、1940年に1日の総売上高1万円をこえるのも珍しくなかった。1人7円なので、1日1400人以上が来店していたことになる。
上流層の女性はパーマネントをかけるのは「当然」のことだった。陸軍省で働く女性たちにもパーマネントが流行っていた。
パーマネントは日本製がトレードマークの芸者たちのあいだにも広がっていた。
木炭パーマ。戦争が激しくなってきて、電気を使えなくなり、パーマは炭火ですることになった。客がもってくる木炭がなければ木炭パーマはかけられない。そして、主婦が配給の炭を節約してでも自分のためにパーマネント用の木炭を店にもってきた。
いやあ、さすが日本の女性だと、すっかり見直しました。大和撫子は、政府の言うとおりに踊らされてばかりではなかったのです…。
ついつい目を見開いてしまう驚きに満ちあふれた本でした。
(2020年11月刊。1700円+税)

戦争と弾圧

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  纐纈 厚 、 出版  新日本出版社
 戦前に特高警察として共産党弾圧を指揮し、戦後は公職追放のあと国会議員として「建国記念の日」の旗振り役となった纐纈弥三の一生をたどった本です。著者は同じ纐纈姓なので、ひょっとして身内なのかと思いましたが、同じ岐阜県の出身ではあるけど、親族ではないとのこと。ただ、纐纈弥三が衆議院議員のとき、著者の家にも選挙の挨拶に来たのだそうです。
この纐纈(こうけつ)という名前は岐阜県の美濃地方では珍しい名前ではない。纐纈の読み方にはこうけつのほか、くくり、あやめ、はなぶさ、こうげつ、きくとじ、こうしぼり、こうけんなど、いくつもあるというのにも驚かされます。
 纐纈というのは、絞り染めからきていて、江戸中期までは上級武士の晴れ着として珍重されていたとのことです。あの『蟹工船』の作者である小林多喜二を無惨にもまたたくまに虐殺した特高警察を許してはならないと私は心底から思いますが、その虐殺の状況、下手人たちは今なお明らかになっていません。纐纈弥三とか毛利基とか課長連中がどれほど関与していたのか、本人たちは戦後になっても白々しく何も語りませんでした。その意味では、嘘を国会で118回も繰り返して恥じないアベ前首相とウリふたつです。
纐纈弥三は、一高から京都帝大に行き、内務省に入りました。あとは特高警察や県知事などの要職を歴任しています。この本は、纐纈弥三の日記(全部ではありません)によって、その私生活にも触れつつ、戦前の日本の民主主義が崩壊されていくなかで特高警察がいかに危険な役割を果たしたのかを明らかにしています。要するに、日本が帝国主義侵略戦争を仕掛けていくとき、その障害物を除去するため、特高警察は共産党を真っ先に弾圧し、そして、戦争遂行を妨げる民主主義を圧殺してしまったのでした。
 ところが、そんなひどいことをした特高警察が戦後の日本で見事に復活し、大手を振るって国政の表舞台に登場してきたのです。それが今の自民党にそっくりつながっています。これがおぞましい日本の現実です。いま選挙のときに投票に行かないということは、そんな現実を下支えしているということにほかなりません。
戦後、戦前の軍国主義に加担した政治家や官僚たちに対してGHQは公職追放したのは10万人。ところが、ドイツでは110万人が公職追放された。日本はドイツの1割でしかない。しかも、特高警察に属する下級警察官は職を失って路頭に迷ったが、上級官僚たちは、みるみるうちに要職に返り咲いた。警察の特高課長経験者が自民党の国会議員になった人物が紹介されていますが、なんと総勢で54人(特高課長と同種の肩書をふくみます)にのぼります。えぇっ、自民党って特高課長の党だったんだね…と驚き。呆れてしまいます。ここにも日本人特有の忘れっぽさがあらわれているようで嫌になります。
特高課長として無惨な拷問を指揮命令して纐纈弥三ですが、日記によると、子煩悩のようであり、子どもや妻を亡くしたときの悲しみは、人間らしいものが十分にうかがえます。つまり、新しい身内には人間らしい情愛を尽くす一方で、「敵」と思い込んだ共産主義者などに対しては人を人と思わぬ残酷さを発揮するのです。これは、ヒトラー・ナチスの幹部たちとまったく同じです。
戦前の「3.15事件」という1928年(昭和3年)におきた日本共産党弾圧事件。日本の侵略戦争のもう一つの表現であった。戦争と弾圧が表裏一体の関係で強行された典型的な歴史事例である。日本の戦争は、弾圧なくして強行できなかった質を内在したもの。つまり戦争と弾圧は一体のものであった。
 著者によるこの指摘は、まさしくズバリ本質を突いている。私はそう思いました。
 纐纈弥三と同じころ共産党弾圧に関与していた人物は「共産党の取り締まりをやっているときが一番楽しかった。このころ田中義一内閣は山東出兵を強く出兵する方針で、そのために戦争反対を叫ぶ共産党の存在がたんこぶだった」と戦後に語ったとのこと。寒気を覚えるほど、おぞましい告白です。そして、纐纈弥三は、戦後、自民党(今の自民党の前身をふくみます)の国会議員として「建国記念の日」を定めるのに執着しますが、その頭のなかには神武天皇が実在していたという。まるで非科学的なイデオロギーにみちていました。
 これまた、おぞましい事実です。これは日本会議の源流の一つなのでしょうね…。
(2020年10月刊。2200円+税)

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