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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

花岡の心を受け継ぐ

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 池田 香代子 、 出版 かもがわ出版
戦争中の1944年から翌年45年にかけて、中国から1000人ほどの中国人が強制連行されて花岡鉱山で働かされるようになった。ところが、激しい労働にもかかわらず食糧事情は劣悪、そして、指導の名のもとに激しい暴行が加えられた。ついに中国人たちは1945年6月30日、蜂起を決意。しかし、実際には蜂起どころか、やっとの思いで集団で脱走。土地勘なく、言葉も話せず、体力のない中国人たちは山中で次々に捕まえられていった。捕まった中国人たちは炎天下の広場に座らされ、次々に死んでいった。このとき100人あまりが亡くなった。これを花岡事件という。
この花岡事件のおきた大館市では1950年から現在まで慰霊祭が行政の主宰でとりおこなわれている。実は、中国人犠牲者の供養は戦中から行われていた。これはすばらしい、すごいことです。
集団脱走して中国人たちは武器は何ももたず、とにかく疲労困憊の状態だったから、山中で捕まるとき、何ら抵抗しなかった、いやできなかった。なので、憲兵も警察も一発も発砲することがなかった。
慰霊碑には429人の中国人の氏名が刻まれている。この花岡鉱山に連れてこられた中国人は総勢1284人なので、3分の1が悲惨な状態で亡くなったことになる。
毎年6月30日に盛大に挙行される慰霊式には、市長、市議会議長をはじめとする市議が半数以上は出席するし、中国大使館からも参加している。何年か前までは生存者(幸存者)も列席していた。
花岡裁判で和解した原告は1000人、西松の広島安野は360人、三菱は376人。
和解も立派な解決法です。ただし、この本には、裁判所が判決で企業の法的責任を認めたら、もっと良かったと書かれています。まったく同感です。
原告側弁護団としてがんばった新美隆弁護士(故人)、そして内田雅敏弁護士の話が紹介されています。さらに和解を提案した裁判官は、退官後、慰霊碑に手を合わせに現地まで足を運んでいます。偉いですね。
インタビュアー(ナビゲーター)の著者の聴き取りによって、花岡事件と慰霊式の全体がすっきり分かりやすく紹介されていて、胸を打つ内容になっています。
この弁護団で活躍した内田雅敏弁護士から贈呈をうけました。ありがとうございます。
保守・革新を問わず、歴代の市長が70年以上も慰霊式を存続・実行しているというのは実にすばらしいことです。心より拍手を送ります。
(2021年7月刊。税込1980円)

戦場の漂流者1200分の1の二等兵

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 半田 正夫 、稲垣 尚友 、 出版 弦書房
語り手は1922(大正11)円12月に大牟田市で生まれ、小学校から与論島で育った。そして、神戸で働くうちに兵隊にとられて、船舶工兵として、海軍ではなく帝国陸軍に入営。
フィリピンに運ばれる途中、乗っていた8万5千トンの輸送船がアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈される。3千5百人の同乗兵が海のもくずとなって戦死。海を票流中に偶然に駆逐艦に助けられ、別の船に移って島へ行く途中、再び魚雷に沈められた。それでも、著者はしぶとく生き残った。同期の船舶工兵1200人のうち唯一生き残ったことから、上官から「1200分の1」と呼ばれるようになった。それで、金鵄(きんし)勲章をもらうことになった。
いま横浜港につながれている氷川丸は病院船としても活躍しましたが、実は、兵器輸送船として活用されていたというのを初めて知りました。制空権も制海権もアメリカ軍に奪われてしまった日本軍はインチキをしていたのです。病院船は赤十字をマークを大きくつけているので、敵から攻撃されることがない。そこで、日本軍は、弾薬、鉄砲、機関銃を氷川丸に積み込んで運んでいた。そして、多くの人が白衣を着ていた。
語り部(半田氏)は、戦場のむごい実際を包み隠さず語っています。戦場で死ぬかどうかというのは、まさに偶然。運が悪ければ、むなしく死んでいくことになりますし、大半の人が、そうやって戦病死していったわけです。そこには英雄的行為はありません。そんな力を発揮する前に亡くなっていったのです。本当に本人も残念無念だったことと思います。
フィリピンの山中にいて、しばらくアメリカ軍による攻撃に対抗していった。フィリピンのアメリカ軍収容所に入れられたあと、日本に帰ってきた。こんな日本人もいたのですね…。みんながみんな、語り部のような強運の持ち主だということはありえません。
(2021年2月刊。税込1980円)

中国戦線、ある日本人兵士の日記

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 小林 太郎 、 出版 新日本出版社
南京攻略戦・徐州作戦に参加した日本人兵士が毎日のように日記をつけていて、日本に持ち帰ったものが活字になっています。写真もついているという、大変貴重な日記です。
内容は、日本軍の兵士たちが中国人を見境なく殺戮(さつりく)していくのですが、悪びれたところがまったくありません。日本では良き夫であるような人が中国戦線では平然と罪なき人々を殺し、食糧をふくめて財物を略奪しても罪悪感が皆無なのです。同時に、日記では身近な兵士仲間が次々に戦病死していくことも記述されています。末端の日本人兵士たちは、罪なき中国人にとっては残虐な加害者でしたが、同時に日本政府・軍部の被害者でもあったことがよく分かる日記です。
それにしても、よくぞ日記を日本に持ち帰った(できた)ものです。そして、写真です。いったい、どこで現像していたのでしょうか…。
この日記には、有名な学者である笠原十九司、吉田裕のお二人が解説していますので、その作戦の背景がとてもよく理解できます。
著者は日本大学工学部を卒業したインテリです。なので、南京攻略戦のときには発電所の修理に従事していたので、南京大虐殺を直接には目撃していないようです。
歩兵二等兵(27歳)から上等兵になり、病気で本国送還されて、1939(昭和14) 年に満期除隊(このとき29歳)しています。私の父も病気で中国大陸から台湾に送られ、日本に戻ることができました。戦地では病気すると生命が助かるんですね…。
第16師団第9連隊第32大隊第9中隊に所属し、上海戦、南京攻略戦、徐州作戦、そして武漢三鎮の軍事占領という、日中戦争前半の大作戦のすべてに従軍した。
よくぞ生きて日本に戻れたものです。強運の持ち主だったわけです。
欧米の軍隊は、大作戦が終了すると、しばらく休暇ないし本国帰還などがあるが、日本軍には一度もなかった。そのうえ、現役除隊の期日がきても、一方的に延期され、継続しての軍隊生活を余儀なくされた。そうなんですよね、人権尊重という観念は日本軍にはまったくなかったのです。
南京大虐殺を否定する言説をなんとなく信じこむ日本人が少なくないのは、「やさしかった父たちが、中国戦線で残虐な虐殺なんかするはずがない」、「誠実で温厚な日本人が、虐殺事件を起こすなんて考えられない。中国側が日本人を批判するためにでっちあげたウソだ」という言説による。しかし、日本国内では人間的に善良な日本人であり、地域や職場で誠実であり、家庭において優しい父や息子であった日本人男子が、ひとたび日中戦争の厳しい戦場に送られると、中国人を平気で虐殺し、残虐行為をし、中国人からは「日本鬼子」と怖がられる日本兵になっていた。
日本軍が上海戦で苦戦したのは、ナチス・ドイツが中国軍に武器(たとえばチェコ製機関銃)を供与し、トーチカ構築を指導し、またドイツ人軍事顧問を送り込んでいたことによる。
ヒトラーは、「日本にバレなければかまわない」という態度だった。すでに日独防共協定を結んでいたのに…です。
蒋介石の国民政府は70個師団、中国全軍の3分の1、70万人の兵力を上海戦に投入した。戦死者は25万人。日本のほうも19万人もの大兵力をつぎこみ、戦傷者4万人以上(戦死者も9千人以上)を出した。
日本軍は、「皇軍兵士は捕虜になるな」という考えだったので、中国軍に対しても、捕虜として保護することはしなかった。つまり、直ちに殺害した。それには、そもそも自分たちの食糧さえ確保できていなかったことも大きい。
これまでの通説は、日中全面戦争は、無謀な陸軍が国際的で平和的な海軍を強引に引きずりこんだというものだった。しかし、歴史事実は逆。海軍航空隊は首都南京に対して宣戦布告もしていないのに戦略爆撃を敢行した。それは、50回以上、のべ5330機あまり、投下した爆弾は900トンあまりというものだった。
南京攻略戦の責任者であり、大虐殺の責任者でもある松井石根大将は、成績優秀であったのに同期の大将のなかでは一番出世が遅れ、いちはやく予備役に編入されていた。そこで、59歳の松井は、軍功をあげる最後のチャンスとして南京攻略戦をとらえていたのではないか…。そして、それいけドンドンの武藤章大佐がそれを支えていた。
どこの世界でも、口先だけは勇ましい人に、慎重派はかないませんよね…。
著者の所属する第16師団は、9月に京都を出発していて、防寒の装備はもっていなかった。そして、食糧の供給も十分でなかった。なので、日本部隊は、いわば強盗集団の軍隊だった。これが輝ける「皇軍」の実際の姿だったんですね…。
そして、著者は捕虜として中国兵を日本軍を虐殺(即決殺害)した写真を撮って、日記に添付しています。
南京にいた唐生智という司令官は、近代戦の知識も経験もなく、南京防衛戦を指揮する実力もないのに、野心から名乗り出て、防衛軍事司令官に任命された。しかし、自分たちだけはいち早く脱出し、部下の膨大な中国軍を置き去りにした。いやはや、日中双方とも、ひどい司令官だったのですね。なので南京大虐殺はいわば必然的に起きてしまったということです。この事実は、消しゴムで簡単に消せるものではありません。
いやはや…、日本人にとっては、とても重たい事実です。でも目をそむけるわけにはいきません。ぜひ、図書館で注文してでもご一読ください。
(2021年3月刊。税込3960円)
 日曜日の午前中、フランス語検定試験(1級)を受けました。1995年以来この25年間、欠かさず受けています。とても難しくて、まるで歯がたちません。長文読解と書き取りでなんとか4割近い55点(大甘の自己採点です。150点満点)をとりました。はなから合格(6割超)はあきらめています。3割を突破して、4割、あわよくば5割に達したいと願っています。
 この2週間ほど、朝も夜も、25年分の過去問をふくめて、一生懸命、フランス語を勉強しました。年に2回、大学の教室で試験を受けると、大学生に戻った気分になります。ボケ防止を兼ねて、続けるつもりです。

後期日中戦争

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 広中 一成 、 出版 角川新書
著者は後期日中戦争が混迷した主たる要因の一つは、日本が日中戦争に明確な目的を示せなかったことにあるとしています。盧溝橋での偶発的な衝突により始まり、関東軍の出先幹部の暴走であり、日本政府や陸軍中央が組織的計画によってすすめたものではない、というのです。
「東亜新秩序の建設」という抽象的な大義名分では、日中両軍の軍事衝突を止める効果はなく、日本は何ら解決の糸口を見出せないまま、強国である米英を相手とする太平洋戦争まで始めてしまった。
目的なき日中戦争を始めた時点で、日本の敗北は事実上決まっていた。日中戦争の後半は、その作戦の大半が、太平洋戦線の展開に大きく影響を受けながら立案・実施されている。第二次長沙作戦は、香港作戦を容易にするための防動作戦。浙かん作戦は、ドーリットル空襲への反撃、湘桂作戦(一号作戦)はアメリカ空軍による日本本土空襲を防止するための中国南西部敵飛行場攻撃が目的だった。
太平洋戦争に引きずり込まれた中国戦線は、国民政府のある中国奥地の重慶方面へ進むよりも、南方戦線に近い中国南部から西南部方面へと広がった。日中戦争は、ゴールの見えない、果てなき戦いとなった。
日本が敗戦したあと、蒋介石がすぐに日本軍を武装解除しなかったのは、すでに強大な勢力となっていた八路軍の動きを抑える目的があった。しかも、蒋介石とその部下の多くは若いころ日本に留学して陸軍士官学校などで訓練を受けた経験があり、岡村寧次総司令官をはじめとする日本陸軍の将校らと実は親しい関係にあった。これは知りませんでした…。
浙かん作戦前年の1941年の時点で、日中戦争での日本軍の戦没者の半分は、戦いで命を落とす戦死ではなく、戦病死だった。日本軍将兵の敵は中国軍と病の二つだった。しかも、その病は、実は、日本軍の七三部隊がまいたペスト菌などによるもので、まさしく自業自得だった。いやはや、なんということでしょうか…。そして、日本軍は細菌だけでなく、毒ガス兵器もつかっていたのです。
日本が一号作戦のため第三師団など華中にあった主力部隊を南下させたことから、八路軍と新四軍は、その軍事的圧力から解放され、本格的な反撃に転じることができた。一号作戦は8ヶ月に及んで日本本土空襲を阻止するための敵飛行場の占領を達成することができた。しかし、そのときには、さらに奥地の飛行場から次々にB29が飛び立って日本本土を襲っていた。つまり、第三師団をはじめ、第11軍の将兵が命がけで戦い抜いた一号作戦は、結局、劣勢な戦況を打開することはできずに終わった。
軍人の単純な頭に国のカジ取りをまかすことはできないということですよね。
昔のバカな話と思ってはいけません。今の自衛隊のトップたちのなかにも議員バッジをもって日本の国政を左右しようと考えている人々が次々とうまれていることを忘れてはいけません。彼らは、国民を守るのではなく、国を守ると称して、軍需産業と自分たちの利権を図っています。それが残念ながら戦争をめぐる古今東西の不変の事実です。
(2021年4月刊。税込1012円)

私は八路軍の少年兵だった

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 藤後 博巳 、 出版 岡本企画
著者は1929(昭和4)年生まれですから、1945年の終戦時は15歳。
関東軍の兵士とともにシベリア送りにされようとしたところを少年だからとして免れたのに、今度は八路軍に協力させられ、いつのまにか、その兵士となって中国各地を転戦し、ついには朝鮮戦争にまで従軍させられそうになったという経歴の持ち主です。
幸い、1955(昭和3)年に日本へ帰国し、その後は、日本で日中友好運動に従事してきました。実は、私の叔父(父の弟)も同じように終戦後、八路軍と一緒に何年間か行動していました。
八路軍は「パーロ」と呼ばれた、今の中国人民解軍のこと。第二次国共合作(国民闘争と中共軍の合体)によって、国民党政権が、赤軍を「国民革命軍第八路軍」と呼ぶようにした。第八番目の部隊という意味。そして、日本敗戦後、八路軍は「連軍」に編成された。連軍(八路軍)は、中国内でアメリカの支援を受けた国民党軍と内戦を始めた。
このとき、八路軍は、「三大規律、八項注意」ということで、高い規律を守り、中国の民衆から絶大な支持を得て、武器に優れ、人員も多い国民党軍を圧倒していった。
著者たち元訓練生たちは、中国の革命戦争のために「留用」ということで参加させられた。連軍(八路軍)は人材不足のなかで国民党軍との戦いで苦戦を強いられていたので、日本人技術者の協力が必要だった。分野別では医療関係が際だって多く、続いて鉄道・電気技術者。医師やエンジニアが不足していた。衛生人員だけで3千人をこえた。
日本人の「参軍」は受動的・後向きで、進歩的・積極的なものではなかった。著者も、生活のためには連軍に従うほかなかった。そして、連軍担架兵として100人ほどの日本人と一緒に八路軍に組み込まれた。16歳のとき。少年兵としての好奇心は強かったが、内心では八路軍・中共への反発心も非常に強かった。
著者は第四野戦軍に配属されたが、司令官はかの有名な林彪だった(1971年にモンゴルへ逃亡しようとして失敗し、死亡)。
当初は、日本人たちは八路軍の兵士たちとよくケンカしていたとのこと。やがて、分散配置されて、兵士に溶けこんでいったようです。
著者は、凍傷でやられてハルピン近くの病院に入院したところ、そこの医師・看護婦のほとんどが日本人だったとのこと。
1万人ほどの日本人が中国の内戦に深く関わっていたようです。そう言えば、国民党軍に組み込まれた日本軍の部隊もありましたよね…。
そして、朝鮮戦争が始まってから、中国人民志願軍のなかに日本人兵士が少なくとも300人、1000人近い人数だったと推定されているとのこと。これは知りませんでした。
著者は1955年に12年ぶりに日本に帰国しました。26歳になっていました。
著者は92歳。お元気のようです。叔父も90歳をはるかに超えて、長生きしました。中国では粗食だったようですが、それがためにかえって頑健になるのでしょうか…。
(2020年1月刊。1000円)

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