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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

少女たちの戦争

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 瀬戸内 寂聴 ほか27人 、 出版 中央公論新社
 瀬戸内寂聴は1940年(皇紀2600年祭の年)に女学校を卒業し、東京女子大に入学した。本人に言わせると、文学サークルもなく、退屈した。恋愛の相手もなく、およそ色気に乏しい青春だった。軍国色一色の青春だった。
 太宰治の『女生徒』を読み、こんなのが小説なら、私にも書ける、小説家になろうかなどと思ったりしたが、一作も書かなかった。
さすがに、たいした自信ですね。
ドイツでユダヤ人が排撃されたおかげで、ユダヤ人の音楽家が数多く日本に渡ってきた。そのおかげで、日本の音楽界は発展した。
 女子専門学校で若い英文科の教員が教室で生徒にこう言った。
 「皆さんは、じきに死ぬかもしれませんね。爆弾が落ちてくれば、そうなりそうですよね」
 「いつ死んでもいいように勉強するという気持でいてください。勉強しておくといっても、あまり時間がないかもしれません。なので、一つずつの詩とか、ほんのわずかなことで、少しでも豊かな心を養うようにしてください」
 「でも、授業中に眠ければ、眠ってもいいのですよ。そして、目が覚めたら、また聴いてください」
 なんと心の優しい教師でしょうか…。これって現代日本の教員のセリフではないのです。戦争中の話ですよ。すごいことだと思います。
 石牟礼道子は、代用教員になって、教室にのぞんだ。父親が戦死する子どもたちが、どんどん増えていく。必ず子どもたちの目つきが変わり、荒(すさ)んでくる。子どもたちの弁当などありはしない。服も靴も、学校に配給が来るのだが、90人ほどのクラスで、3ヶ月に1足来るくらいの割合だ。子どもたちは、やがて裸足(はだし)で学校に来て、暴れるようになった。
 いやはや、とんだ敗戦前の状況です。「戦争前夜」とも言われる現代日本の状況ですから、戦争にだけは絶対にならないよう、反戦、平和の声を市民に強く強く訴えかけていく必要があると、改めて思ったことでした。
(2021年11月刊。1300円+税)

軍人像と戦争

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 安島 太佳由 、 出版 安島写真事務所
 愛知県知多半島の南端にある中之院に、人知れず、ひっそりと佇(たたず)む軍人像の群れがある。軍人像は全部で92体。台座つきの全身像のものが22体、台座のない胸像70体。一体一体は、とても精巧に造られていて、体格や表情まで兵士一人ひとりの生き写しであるかのよう。
 たしかに写真で見る軍人像は青年らしい若々しさまで感じられ、今にも歩き出しそう、いえ、少なくとも、何か言わずにはおれないという内に秘めたものを強く感じさせます。
 長い年月、野ざらし状態にあった、これらの像は、風化が激しく、苔(こけ)むしてもいます。これほど大量の軍人像を、いったい、誰が、何のためにつくったのか…。
 1937(昭和12)年8月、日本軍は上海上陸作戦を強行した。対する中国軍を軟弱とみて、敵前上陸を敢行したのだ。これには、満州建国の実態を探るために派遣された国際連盟のリットン調査団の動向から国際世論のホコ先をそらす目的があったと解されています。
 しかし、日本軍が敵とした中国軍は蒋介石の誇る精鋭部隊であり、ドイツ軍将校たちによって督励・強化されていた。日本軍は敵である中国軍の実力をあまりに過小評価していた。
  ドイツ軍の支援を受けた中国軍は、強力なトーチカを構築し、要塞化した強固な防御陣地を築いて日本軍を待ち構えていた。名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちは上陸作戦を始めて、半月足らずで全滅してしまった。
 中国軍の戦力を軽く見ていた日本軍の戦法は、銃剣突撃、そして手榴弾のみの肉戦戦。中国軍の陣地にたどり着く前に、中国軍の機関銃攻撃によって、1万人もの将兵が無惨にも死んでいった。
遺族たちが、「戦没者一時金」をもとにして、亡くなった兵士の写真をもとにして像をつくらせ、像を建立したのです。
当初は名古屋市千種区月ヶ丘の大日時境内にあった軍人像は、日本敗戦後も、アメリカ軍の取り壊し命令に抗した僧侶のおかげで守られて残り、平成7年に現在地へ移設された。
青年兵士たちの顔は、あくまで凛凛(りり)しいのです。思わず手をあわせたくなります。若くて無為に死んでいった無念さを今の私たちに必死で訴えているとしか思えません。
靖国神社へ行ったとき、亡くなった兵士たちの無念さを私は感じることができませんでした。そこではお国のためによくぞ命を投げ出して戦ったと忠勇を最大限に鼓舞するような感じで、いささか違和感がありました。
 無念の思いで死んでいったであろう若き兵士たちを偲びながらも、戦争とは、なんと理不尽なものなのか、その無念さがひしひしと伝わってくる見事な写真集です。あなたもどうぞ手にとってご覧ください。全国の図書館に常備してほしい写真集です。
(2023年7月刊。1200円)

硫黄島に眠る戦没者

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 栗原 俊雄 、 出版 岩波書店
 クリント・イーストウッドの映画二部作で改めてスポットライトがあたった硫黄島の戦いで、日本軍兵士2万1千人のうち、2万人が亡くなり、生き残ったのは1千人あまり。そして、今なお1万人もの遺骨が回収されないまま硫黄島に眠っている。国は、本格的な回収事業をしてこなかったし、今もしようとしていない。
驚くべきことに、遺骨回収作業を細々としているのは遺族であり、ボランティアの人々であって、国の事業ではないというのです。そして、回収された遺骨のDNA鑑定にも、国はまったく乗り気ではありません。
 「戦争国家」アメリカは、そこが決定的に違います。アメリカは朝鮮戦争で亡くなった兵士の遺骨の回収のためには、「冷戦」状態の北朝鮮であっても粘り強く回収作業をすすめてきました。この点は、アメリカのすごいところだと認めなければいけません。
 硫黄島の戦闘が始まったのは1945年2月、そして1ヶ月あまりの日本軍の死闘も、ついに3月には終結した。まったく補給がなく、水もないなかで、地下にたてこもって戦った日本軍将兵の苦しみは想像を絶するものがあります。二部作の映画をみましたので、その苦闘をいくらか想像できますが、もちろん、ごくごく断片的なものでしかありません。
 この本には、柳川市昭代の近藤龍雄という硫黄島で亡くなった兵士の家族(遺族)が登場します。私の知人の甲斐悟さん(元大川市議)も父親を硫黄島で亡くしています。
 近藤さんは、1944年6月に久留米で編成された陸軍混成第二旅団中迫撃砲第二大隊に所属し、7月10日に横浜港を出港して7月14日に硫黄島に到着しています。
 硫黄島は戦後、アメリカ軍が戦術核基地として核兵器を常備していた。ソ連が日本に侵攻したとき、この戦術核をアメリカ軍は使用するつもりだった。原潜に核ミサイルが搭載できるようになったので、1966年までに硫黄島の戦術核は撤去された。現在、硫黄島には自衛隊の基地がある。
日本の右翼的な人々は靖国神社については熱心ですが、1万人もの遺体(遺骨)が硫黄島に今なお眠っていて、日本政府がまったく遺体の回収に熱心でないことを何ら問題としていないようですが、不思議でなりません。神社に祭るより前に、可能なかぎり遺骨を回収することは当然だと私も思います。地下の坑道に今なおたくさんの遺骨が放置されているというのを、あなたは当然だと思いますか…。「戦前」が近づいていると言われている今、1万体もの遺骨が硫黄島に放置されているのを許していいとはまったく思えません。
(2023年3月刊。2200円+税)

八路軍(パーロ)とともに

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 永尾 広久 、 出版 花伝社
 叔父の久は大川市(当時は三又村)で百姓をしていたが、1944年8月、25歳のとき召集された。丙種合格だったので安心していたのに、日本軍の敗色が濃くなるなかで丙種まで徴兵された。出征兵士だからといって、旗を立てて万歳三唱で送り出す状況ではなかった。結婚が決まっていた女性と慌てて結婚式をあげ、翌朝には出征した。
 船で釜山に渡るときも夜中に恐る恐るだった。アメリカの潜水艦に狙われたら魚雷一発で、あの世行き。久は、関東軍の一員となり、満州で工兵として山中の地下陣地構築にあたらされた。だから戦闘行為はしていない。
 1945年8月9日、ソ連軍が満州に突如として大挙して進攻してきた。満州中央部にいた久たちの部隊は戦わずしてソ連軍から武装解除され、兵舎にとどめ置かれ、ソ連軍が満州内にある工場の機械や設備などを一切合財、ソ連へ運び出す作業に使われた。幸い、久はシベリア送りにはならなかった。
 久のいた満州中央部には満州各地の開拓団にいた日本人婦女子が命からがら逃げて集まってきた。次々に弱者は死んでいった。そのなかで多くの残留孤児が生まれた。
 モグラ兵舎に閉じ込められ、明日の希望のない生活を強いられていた久たちの前に中国共産党の軍隊である八路軍(パーロと呼ばれ、恐れられていた)があらわれ、6人の工兵の出頭を求めた。久はそれに応じた。
 それから、久たちは八路軍とともに満州各地を転々流浪することになった。というのも、八路軍と蔣介石の国民党軍との戦争(国共内戦)が激しくなったからだ。貧弱な武器しか持たない八路軍に対して、アメリカ仕込みの近代的装備をもつ国民党軍は一見すると優勢だった。しかし、八路軍は、土地改革をし、「三大規律、八項注意」を厳守する規律正しい人民の軍隊なので、民衆から圧倒的に支持され、腐敗・墜落した国民党軍は次第に敗色濃くなっていった。
 ようやく国共内戦が決着すると、久は紡績工場で技師として働くようになった。そのなかで、同僚となった日本人女性と交際をはじめて、結婚し、日本敗戦後の1953年6月、ついに日本に帰国することができた。日本に戻った久は百姓を再開し、大川でイチゴ栽培の先駆者となって大川市誌にも紹介されている。そして、2016年12月、98歳で亡くなった。
 気がついたことを3つだけ紹介したい。
 その一は、シベリアに57万人もの元日本兵が送られて強制労働させられたのは、北海道の半分を占領することをスターリンが求めたのをトルーマンが拒否したから急に決まったことという説がある。しかし、ソ連はその前に元ドイツ兵300万人を強制労働させているので、スターリンが急に思いついたこととは考えられないということ。
 その二は、毛沢東は実は日本軍と手を組んでいて、日本軍は蒋介石の軍隊を攻撃させていたという説をもっともらしく言いたてる本がある。これは蒋介石がデマ宣伝したのを、現代日本の陰謀論者がデマを拡散しているだけのこと。
 その三は、日本敗戦後、アメリカは婦女子より元日本兵を優先して日本へ帰国させた。元日本兵が中国に大量に居すわって、中国軍と手を組むのを恐れたということ。日本人婦女子の送還はアメリカにとって優先課題ではなかった。
久が80歳になってから書き始めた手記をもとにして、当時の満州で日本軍が何をしていたのか、その悪業の数々も明らかにし、国共内戦のなかの八路軍(パーロ)の様子なども紹介している。
 再び戦争前夜とまで言われるようになった現代日本において、「国策」に黙って乗せられたらどんな目に国民はあうのか、まざまざと再現している貴重な記録となっている。ぜひ、多くの若い人に読んでほしい。
(2023年7月刊。1650円)
 

満蒙開拓団

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 加藤 聖文 、 出版 岩波現代文庫
 満州開拓の動機が純粋であっても、その結末はあまりにも悲劇的だった。動機と結果のあまりにもひどい落差が満蒙開拓団の評価を難しくし、政策に関与した者たちの口を重くしている。
 でも、私には、「動機が純粋」と言えるのか、きわめて疑問です。満州に渡った日本人の大半は、いわば錯誤(錯覚)の状態だったと思います。誰の所有でもない未懇で未開発の原野を耕地に変えて、そこに移住するという動機をもっていたとしても、それは客観的な事実に反していました。「誰の所有でもない」のではなく、大土地所有者がいて、耕作者がいて、あいだに管理人もいたのです。未懇の原野もたしかにありましたが、開拓団の多くはすでに畑となっていたところに入植したのです。もちろん、前の耕作者を追い出し、今度は、労働力(苦力。クーリー)として雇傭したのでした。そして、耕作地(畑)は、安く買い叩いて、関東軍の武力を背景に追い出したのです。
 そのうえ、多くの開拓団は現地の中国人に対して優越感をもち、徹底して差別扱いしたのです。恨みを買うのも当然でした。それが日本敗戦後に、開拓団への襲撃として現実化し、多くの団員(主として女性、子ども、そして年寄り)が犠牲になったのです。
 中国人が今も忘れることのない9.18を現代日本人はすっかり忘れ去っています。1931(昭和6)年9月18日に、日本(関東軍)が満州事変を起こし、またたく間に満州領域を占領したのでした。翌1932年3月1日に、満州国という自他ともに認めるカイライ国家を「建国」しました。
 満州事変の前の日本は、世界恐慌の影響を受けて、不況のドン底にあった。なので庶民は明るいニュースを求めていた。満州事変のあと、大きな被害もなく、またたく間に日本が満州領域を占領するというめざましい戦果をあげたことは、庶民を熱狂させるものだった。
 1933年4月、関東軍は「日本人移民実施要網案」を正式に決定した。
 同年7月、試験移民団が満州に入ったが、500人の団員のうち退団者がたちまち1割以上の60人にものぼった。それは、満州の厳しい気候に耐えられず、匪族から襲撃を受けたからだった。
 1934年2月には、現地住民が集団で蜂起した(土竜山事件)。
 1936年の二・二六事件のあと、広田弘毅内閣は8月に七大国策を定めたが、その六番目に、満州移民政筆をかかげた。満州移民は正式に日本の国策となった。
 1945年8月9日、ソ連軍が満州に進攻してきた。対する関東軍は、その精鋭が南方へ転出していて、まさに「張り子の虎」状態。圧倒的な火力をもつソ連軍の攻勢そして現地民の襲撃も加わって被害甚大の結果をもたらした。開拓団27万人のうち、7万人以上が亡くなった。そして、大量の残留婦人と残留孤児が発生した。
 国策に盲目的に従うと、ろくな目にあわないという典型が示されています。現代日本にも生きる教訓だと思いました。
(2023年2月刊。1500円+税)

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