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カテゴリー: 日本史(平安)

平泉

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 斉藤 利男   出版 講談社書選書メチエ
 
中尊寺とは、清衡による奥六郡支配の最初に、奥州の中心に位置することを意識して創建された寺院だった。奥大道を通行する人々は、金色堂以下の壮麗な伽藍を間近に見る仕掛けだった。中尊寺は、すべての人々に開かれた「公の寺」だった。
奥州藤原氏は、「北奥政権」にとどまっていなかった。平泉開府の最大の意義は、衣川を越えて、「俘囚の地」奥六郡の南へ出たことにある。そして、清衡の目は、奥羽南部から関東・北陸、さらに首都京都を越えて、西国九州に達し、博多の宋人商人を介して、寧波(ニンポー)、中国大陸に及んでいた。
初代清衡は、大治3年(1128年)7月に73歳で病死した。
清衡の死は、わずか2週間後に京都の貴族に死んだことや年齢まで日記に書かせた。この日記が今も残っていることから、さらに多くのことが解明できたのでした。
平泉は、海のシルクロードの東の終点に位置する都市である。それは、院政期仏教美術の直輸入ともいえる中尊寺の仏像、仏具類、海外産の材料(夜光貝)象牙、紫檀材など。都の一流の匠・工人に依頼することなしでは、建立不可能だった中尊寺金色堂。
そして、ここには中国・海外産の経典・宝物などもある。
平泉・中尊寺は私も何回か行きました。その金色堂の見事さには、言葉が出ないほどの衝撃を受けたものです。
(2014年12月刊。1950円+税)

女たちの平安宮廷

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者  木村 朗子 、 出版  講談社選書メチエ
 「栄花物語」によむ権力と性、というのがサブタイトルについている本です。
 平安時代、女性は政治のうしろにいて、表舞台にあらわれていませんでしたが、その実、政治を動かしていたのは女性だった。それを実感させてくれる本でもあります。
 平安時代の摂関政治の最大の関心事は、閨事(ねやごと)、つまり男と女の性の営みにあった。
 摂政関白という地位は、天皇の外祖父が後見役になることで得られるものだから、大臣たちは次々に娘を天皇に嫁入りさせ、親族関係を築いていた。
 摂関政治は、結果として、一夫多妻婚を必然とした。後宮に集う女たちは、天皇の籠愛をえるために、そして天皇の子、とりわけ次代の天皇の寵愛を得るために、次代の天皇となる第一皇子を身ごもるために競いあった。
 摂関政治は男たちの権力闘争だった。そして、それを実際に動かしていたのは、いくつものサロンの抗争、女たちの闘争だった。そのことを細やかに伝える書物が藤原道長の栄華を描いた歴史物語「栄華物語」である。「栄花物語」は、物語の形式をとりながらも史書として企図されたものであった。
当時の女たちが漢字漢文を使わないのは、使えないというのではなく、知らないふりをすることが、女たちのたしなみであったから。その証拠に、「枕草子」にも「源氏物語」にも、漢詩が引用されている。
 天皇を中心として宮廷において、多くの女たちが天皇の后候補として、あるいは女房として参内(さんだい)し、後宮を形成した。その後宮を支配するのは、当の天皇ではなく、摂関家であった。
 天皇の系を存続させながら、そこに寄生することで、権力を得た摂関政治にとっては、性そのものが直截(ちょくせつ)に政治であった。
 摂関政治においては、后の位を強化するより、むしろ、出産によって次の天皇を生み出すことに権力闘争の中心があった。天皇家との婚姻関係だけでは権力は生み出されなかった。天皇のこの誕生と闘争の地点をずらすことによってのみ、藤原氏は、家格として「正統」となりえた。
 藤原氏だけが天皇の孫、つまり二世の女王と娶る(めとる)ことができた。藤原氏の優位性は、実質的な権力に依存しながら、天皇の皇女を得ることによって強化された。
 天皇の父になることはできないが、天皇の母になることはできた。
 そして、子育てをするのは、母親ではなく、雇われた乳母(めのと)であった。そうすることによって、母親をすばやく次の出産態勢に戻し、多くの子どもを抱えることを可能とした。
桓武天皇の詔以来、天皇の娘は藤原氏に独占的に与えられてきた。
 後宮においては、誰の娘かということで女たちは序列化されていた。娘たちの入内(じゅうだい)は家格によって序列化されており、その家格は、天皇の娘がどのように分配されているかという問題にかかわっている。
 天皇の子でありながら、臣下である藤原氏は、政界で優遇されることによって、その不均衡を埋め合わされていた。他方、藤原氏は、外威という形でしか天皇の系にかかわることができない。
 摂関制度という、藤原氏に有利な制度は、律令に定められた親王優位の制度をいかに骨抜きにするかということに賭けられていた。
 次代の天皇を争う摂関政治の制度は、立后を切り札としてしまいはしなかった。天皇が一人であるのに対して、后は複数存在したからだ。后になること自体は、権力奪取に実質的な意味を持ち得なかった。
 后のなかの后たるものは、母であらねばならない。国母(こくも。天皇の母)のほうに価値が転換された。
 権勢家は、娘が天皇に入内し、男子を生んだとなれば、いきおいその男子の即位を急ぐ。
 父と子が、同じ女性とのあいだに子をもうけるということは、正妻格にはありえないが、女房格にはあった。
 女房の性は、正妻とちがって、囲いこまれているわけではなかった。だから、誰の子であるかは、父側にとって不確かな要素を常にもっていた。子の誕生には、不確かさが入り込んでいた。それは、一夫多妻的な関係が同時に一夫多妻的な関係であったからである。
 平安時代の貴族政治を女性の視点でとらえ直している興味深い本です。
(2014年10月刊。860円+税)
 
  夕方、外出先から戻って庭に出てみると、別の木にヒヨドリが止まってしきりに鳴いている。そこに幼鳥がいるようだ。鳥カゴを見るとなかは空っぽだ。
 その木の下にいってみると、ヘビがいた。そしてヘビの腹がぷっくり太っている。あーあ、幼鳥は食べられてしまったんだ。親鳥は、それでも、夕方まで、木の上でずっと鳴いていた。
 ヒヨドリは、ヘビを発見したとき、うるさく鳴きかわし、ついには人間にまで知らせて、何とかしてくれと言いたかったようだ。しかし、スモークツリーの木のある巣はとても高くて、ヘビをはたき落とせるような位置にはない。
 結局、2羽とも幼鳥はヘビに食べられてしまった。残念だが、仕方がない。これも自然の植物連鎖だとあきらめるしかない。

平安時代の死刑

カテゴリー:日本史(平安)

                               (霧山昴)
著者  戸川 点 、 出版  吉川弘文館
 日本では平安時代に死刑制度が廃止され、それ以後、ながく保元の乱までの350年間、死刑執行はなかったと言われるのを聞くことがあります。本当なのだろうか・・・、と疑っていました。この本を読んで、ようやく真相を知ることができました。
 著者は、団塊世代の私より10歳若く、今は高校の教員をしています。名前は、ともると読みます。
 死刑の執行については、天皇に3度も奏聞(そうもん)することになっていた。それだけ慎重に扱っていた。
 唐の玄宗皇帝は治世の最初より死刑を避けた。中国においても死刑廃止の動きがあり、それが遣唐使を通じて日本にも伝えられた。それが唐文化に傾倒した嵯峨天皇によって日本でも実施されたのではないか。
 しかし、日本では、律の条文を改編して死刑制度を廃止したのではなかった。あくまで死刑を停止したというのにとどまる。
 聖武天皇は、仏教思考や徳治思想の影響から死刑を減刑しようという発想を強くもった天皇だった。聖武天皇の出した恩赦は32例であり、歴代の天皇のなかで一番多く発令している。次に多いのが持統天皇の16例である。
 嵯峨天皇が聖君と扱われたことから、嵯峨天皇が死刑を廃止したというイメージが定着していったのだろう。
 薬子(くすこ)の変は、嵯峨天皇の王権に大きな影響を与えるものだった。この危機を乗り切った嵯峨天皇は権威と求心性を高める必要があった。死刑の停止により、自身の徳をアピールしようとした。
 死刑を停止したといわれる嵯峨朝以降も、合戦や群盗との争いのなかの処刑や国司、検非違使別当の判断で死刑が実施されることはあった。
中央政府の死刑忌避は、秩序・治安維持のために太政官の預からぬところでの死刑や肉刑を生み出していった。こうして太政官のタテマエとしての死刑忌避と実態としての死刑というダブルスタンダードが生まれた。
保元の乱のあと死刑が復活したといっても、実際に処刑されたのは、「合戦の輩」のみだった。このときも、貴族は死刑を忌避し、死刑復活に反発した。そして、貴族を除く武士などには実態としての死刑が実態されていた。
 なーるほど、ここでも日本人お得意の、ホンネとタテマエの違いがあったのですね。
(2015年3月刊。1700円+税)

阿弖流為(あてるい)

カテゴリー:日本史(平安)

著者  樋口 知志 、 出版  ミネルヴァ書房
 ときは平安時代。桓武天皇の治世、東北地方で国家統一に「反逆」した人々がいた。その首領の名は、「あてるい」(阿弖流為)。私は『火怨』(かえん。高橋克彦、講談社。1997年刊。上下2巻)を読んで、すっかりアテルイびいきになってしまったのでした。その後、『蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い』(久慈力、批評社)という本も読みました。そこでは、アテルイは横暴な大和朝廷の軍隊に雄々しく戦い続ける英雄として、その姿が生き生きと描かれているのです。
 ところが、この本では、実はアテルイの真実の姿は平和を愛する男だったというのです。ええーっ、そうなの・・・と思いました。何ごとも、一面的に見てはいけないということです。
アテルイは、国家との戦争のない平和な時期に生まれ、育ち、結婚し、子どもをもった年代まで大きな戦乱のない時代に生きていた。
 アテルイは、胆沢(いざわ)平野に根をはる農耕民系の蝦夷族長だった。アテルイは決して戦闘を専業とする人ではなかった。
 桓武天皇は、征夷と造都を二大事業とした。奈良時代に皇統の本流をなしていた天武嫡系の血統とは無関係の自分が天皇になったことから、それは天命が自分に降下したものと解し、自らを新王朝の創始者に擬し、前例に執着せず、独自の政治路線を邁進していった。桓武天皇の意識の裏側には、自分の出自が傍流で、しかも生母が朝鮮半島出身の卑母(高野新笠)の所生子であるという強いコンプレックスがあった。
アテルイは、自らの率いる軍隊とともに10年以上にわたって大和朝廷の軍隊と粘り強く戦い続けた。しかし、延歴21年(802年)、アルテイは500余人の軍兵とともに坂上田村麻呂に投降した。そして、平安京に連行されていった。坂上田村麻呂の助命嘆願もむなしく、アテルイは桓武天皇の命令で処刑された。ところが、アテルイが処刑されたあと、東北地方では反乱は起きなかった。それは、アテルイが上京する前に、もしも故郷に生きて帰ることができなくても、決して反乱を起こさないように、あらかじめ蝦夷社会の人々に対して言葉を尽くして説得していたから。
 アテルイは、それまでの忍耐強い努力の積み重ねによって、ようやく手に入れた和平のための好条件が、決して水泡に帰すことのないようにひたすら願っていた。
このようなアテルイの強い意思を深く察した蝦夷社会の人々は、その約束を守り、アテルイの刑死という悲しい現実に直面しても、決して未来への希望を捨てることなく、辛抱強く耐えたのだろう。
 アテルイたちは、このようにして、死して蝦夷社会の人々にますます畏敬され、誇りとして、かけがえのない存在となった。
 なるほど、この本で展開されているアテルイに対する新鮮なとらえ方には、大いに共鳴できるものがありました。
(2013年10月刊。3000円+税)

王朝びとの生活誌

カテゴリー:日本史(平安)

著者  小嶋菜温子・倉田実・服藤早苗 、 出版  森話社
『源氏物語』の時代について、生活の視点でとらえた本です。
 「三日夜餅」(みかよのもち)は、現在の皇族も行っている。現代まで続いている婚姻儀礼の象徴である。三日夜餅を食べるのが正式な儀礼であり、正式な儀式をした女性が正式な妻である。
 平安貴族の女性も子育てをしていた。授乳すると妊娠しにくくなるので、授乳は一つ下の階級にまかせる。しかし、子育てはしていた。
古代の日本では、女性も男性と同じように、老いることは目出たいことだった。だから、古老の知っていることは、証拠書類と同じくらい重要視されていた。
 平安朝の後宮(こうきゅう)には宦官(かんがん)という去勢された男性官人がいなかった。この宦官のいない後宮が、日本の特異なところだった。それが、『源氏物語』のような密通の物語を成り立たせる基盤となった。平安朝の後宮は、江戸時代の「大奥」と違い、男性禁制の空間ではなかった。
 女文字とされた「かな」文字によって、平安朝の女たちは男とも和歌による手紙(恋文)を交わしたりしていた。これが、王朝女性文芸の基盤である。
 日本の後宮にのみ宦官がいなかったことは、王朝の交替がなく、天皇を中心とする貴族社会による王権が継続したことと関わる。天皇は絶対的な王ではなく、後宮が男子禁制でなかったのも、殿上人たちが特権的な貴族に限られていたからで、あえて言えば、密通も許容される社会だった。
 王朝びとの生活において、恋愛は大きな意味をもつ行為である。こと貴族においては、誰と恋愛し、結婚するかは、個人の問題におさまらない。公達・姫君の婚姻は、家の将来を左右し、どの家と結びつくかは、社会的にも影響を及ぼす大事だった。お披露目の場となる婚儀は盛大にとりおこなわれた。儀式は3日を要し、その手順は多岐にわたった。
 いまも太宰府で行われる曲水宴は奈良時代の光仁天皇から桓武天皇の時代にかけて続いていた。ところが、奈良時代に定着していたはずの曲水宴は平安初期に中絶した。
 藤原道長も曲水宴を主催した(寛弘4年、1007年)。
物忌(ものいみ)は物忌人が外出したり、社会と面会するのを防ぐことが本儀ではない。そうではなくて、災厄が物忌人の身に及ばないために行うものだった。
 『源氏物語』の生まれたころの日本人の生活がよく分かります。相も変わらぬ、日本人の心象風景がそこにありました。
(2013年3月刊。3100円+税)

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