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カテゴリー: 日本史(平安)

平安京はいらなかった

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 桃崎 有一郎 、 出版  古川弘文館
泣くよウグイス、平安京。
794年、桓武天皇がつくった平安京。それは、今の京都の前身。さぞかし当初から華やかな都だったかと思うと、実は、そうでもなかったようなのです。
平安京は、はじめから無用の長物であり、その欠点は時がたつにつれ目立つばかりだった。ええっ、ま、まさか・・・。それが、本当なんです。
官人の位階が高いほど、邸宅の面積が広く、邸宅の面する街路規模は大きく(広く)、北(大内裏)に近く、中心線(朱雀大路)に近いという傾向がある。
つまり、天皇との身分的な距離(位階)と京中における天皇との物理的な距離は比例しており、大内裏を中心とする身分的な同心円が京に描かれていた。
正式な届出手続をして許可されない限り、五位以上の人が京外に出ることは犯罪だった。つまり、京に住むのは貴族にとって義務だった。
当時の平安京の人口は、10万人から12万人ほど。
平安京にとって、美観こそ生活に優先する存在意義だった。
朱雀大路は、牧場として使えるほど、広大な空閑地だった。朱雀大路には、荒廃を取り締まる警備員がいなかった。そこには、牛馬や盗賊が自由に出入りできていた。土でつくられた垣(築地)は容易に破壊できたから。
朱雀大路の街路の幅は82メートルもあった。なぜ、そんなに広い大路だったのか・・・。
朱雀大路は、普段は人が立ち入らないし、生活道路でもない。しかし、特別なときに、特別の人が入る、生活以外の目的でつかわれる道路だった。
朱雀大路の使途は、主に外交の場だった。通常時に住居者が出入りできない朱雀大路は、そもそも「舞台」としてつくられていた。国威を背負って仰々しく仕立てられた外国使節の行列が、その何倍も立派な(と朝廷が信じる)朱雀大路を北上し、天皇に掲見する。
そんな外交の「舞台」だった。また、外国使節だけでなく、神への捧げ物が通る重要な通路としても、朱雀大路は機能した。山車は、異国風を好み、それを重視する。それが日本の伝統文化なのだ。
うへーっ、そうなんですか・・・。
古代末期以降、洛中・洛外の「洛」は京都を意味した。そして、洛中には、実は平安京の半分しか含まれていない。白河法皇は、左京と白河しか自分の治める都市とは考えておらず、右京には関心がなかった。そのため、右京は衰退し、軽視・無視された。左京とは、まったく対照的だった。
平安京と京都の由来を考え直させてくれる、鋭い問題提起がなされている本です。
(2016年12月刊。1800円+税)

百人一首の謎を解く

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 草野 隆 、 出版 新潮新書 
 お正月のころに登場してくるカルタと同じ、みなさんもよくご存知の百人一首には実はたくさんの謎があるのだそうです。
 「百人一首」は、その歌を選んだ選者が誰なのか、その作成目的は何だったのか、よく分かっていない。
 「百人一首」には、神様仏様や、菩薩と呼ばれるような徳の高い僧の歌は選ばれていない。経文や仏法を歌う釈教の歌もない。
 選ばれた歌人には、幸福な一生を過ごした人は少ない。また、「読み人知らず」の歌は全然ない。
「百人一首」が歴史に浮上するのは、室町時代のころ。定家が没してから190年もたっている。
 この本では、「百人一首」を定家が選んだとか、その名前にかかわったという説が否定されています。
 「百人一首」には、中納言や権中納言、または前中納言という身分の歌人が妙に多い(10人いる)。そして、内裏や政治的中枢から追われたことがある、ないし非業の死をとげた悲劇の歌人が目立つ(17人)。隠者や僧侶の歌人も多い(14人)。
 「百人一首」の歌の多くが、めでたいものではなく、悲しみに満ちたものである。
 全国を旅してまわっていた連歌師は、和歌の師匠として、「百人一首」に注釈を付して流布につとめた。地方の名士や和歌初学の人に示す教科書として、「百人一首」は格好のものだった。「百人一首」は、初学者向けの学習テキストとして重宝された。
「百人一首」に謎があることを知り、また、その謎の本質を知ることができました。引き続き、お教えください。
(2016年2月刊。740円+税)

女子大で「源氏物語」を読む

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者  木村 朗子 、 出版  青土社
 恥ずかしながら、私は「源氏物語」を部分的にしか読んだことがありません。現代語訳でも全文を読んでいません。なんとか読みたいとは思っているのですが、手が出ません。この本には、原文と訳があり、解説もありますので、ほとんど原文を飛ばして読みすすめました。
 この本のユニークなところは、女子大(津田塾大学)の学生たちの反応が感想文として折々に紹介されているところです。なるほど、今どきの女子大生は、こんな反応をするのかと興味を惹きました。
 いまから1000年も前に、若き女性が小説を書いていたということ自体が世界的には珍しいことのようです。その点、日本人として偉大な先祖を誇りに思ってよいように思います。
 「源氏物語」を読みにくくしているのは、古文であることはともかくとして、文章の主体が目まぐるしく入れ替わっていること、そして、登場人物の呼び方が、同じ人物なのに、そのときどきに就いている役職名や中将、大将などと変わっていくことによる。『源氏物語』は、語り手が複層的に入り組んでいて、統一視点で語られていない。
平安時代の人々も、実は男女を問わず名前をもっていた。しかし、基本的に名前を呼ぶことはない。
 日本語は、文法上、主語がなくても成立する。
平安貴族の葬儀は、土葬ではなく、火葬だった。火葬を野辺送り(のべおくり)と言う。
平安時代の貴公子は、色が白くて、女性的な方が美しいとされた。
 元服する前の男子は御簾(みす)のなかに入れてもらっていた。元服後は、女性とは御簾越しに対面する。
「雨夜の品定め」というのは有名です。若い貴族たちが自分たちが過去に知り合った女性の話をはじめる。光源氏はそれを狸寝入りをして聞いていて、実践していく。
「中の品」(なかのしな)の女性は、その身分が非常に不安定だけど、だからこそ、いきいきしている。
方違え(かたたがえ)は、浮気するときの格好の言い訳になっていた。うひゃぁ、そんな効用もあったのですか・・・。
 「源氏物語を」レイプ小説だとする説があるそうです。単なるモテ男の浮気話かと思っていたら、レイプだと決めつける説があるというのには驚きました。著者は、それは違うだろうと批判しています。私も、そう思います。
 平安時代、結婚というのは、基本的に当人同士が自由に選ぶことは許されないシステムだった。しかし、性の自由はあった。当時、顔を見て容姿で相手を選ぶことはほとんどない。身分、手紙の文字、紙選びのセンス、和歌の才能などから妄想していた。そして、女性の髪は、たっぷり、ふさふさしていることが、女性の美しさの一つになっていた。
 従者と男主人が連れだってある邸に行ったとき、男主人が女主人と関係しているあいだに、従者は自分の恋人と楽しくやっている。従者がその邸の人と男女関係を取り結ぶことで、はじめて男主人を手引きできた。
 「現代でも、モテる女性はかけひきが上手だというイメージは大きいが、それは平安時代からのことだった・・・」
 戦争中、「源氏物語」は、天皇への尊崇をそこなうものとして、部分的に削除され、禁書になっていた。うへーっ、そ、そうだったんですか・・・。そんな世の中には戻りたくありませんね。アベ政権の大臣が言論統制を強めようとしていますが、とんでもありません。
 昔も今も、女性の不倫話はまったく珍しいものではありません。ですから、平安時代と現在とで貞操観念は変わっていないのです。
 平安時代も、今もと同じく、離婚、再婚はあたり前でした。
 読めば読むほど、現在(いま)の恋愛事情そっくりの話が展開しているのが『源氏物語』なのである。なるほどなるほど、まったく同感です。今の私の法律事務所の経営を支えているのは、男女を問わない不倫による事件なのです。
 これで『源氏物語』を読んだ気になってはいけないのでしょうね。早いとこ全文(とりあえず現代文)にチャレンジしたいと思います。
(2016年2月刊。2200円+税)

平泉の光芒

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者  柳原 敏昭 、 出版  吉川弘文館
 
私は、平泉の金色堂に二回は行きました。金色堂の荘厳さ、華麗さには思わず息を呑むほど圧倒されてしまいました。
金色堂の内陣、巻柱、梁、壇の高欄には、螺鈿(らでん)細工が施されているが、その原材料は奄美諸島以面でしかとれない夜光貝。その数3万個。また赤木柄短刀の赤木は、南西諸島、東南アジアの樹木である。
 陸奥・出羽の特産品は、金と馬。天皇は金を、院は馬を、それぞれ蔵人所小舎人、廐舎人を平泉に派遣して受けとった。このように平泉と京都の天皇家とは直接、結びついていた。
 平泉の仏教は、天台法華思想を根幹とする。それは「法華経の平和」を追及していた。
 天皇家王権護持に動いていた真言密教を平泉は排除した。天皇家王権の秩序と、平泉藤原氏は一線を画する、独自性・自立性があった。
 治承4年(1174年)8月、源頼朝が伊豆で挙兵した。義経は10月に加わったが、平泉の秀衡は義経が平泉を出発するにあたって、佐藤兄弟を義経に付けた。これは、親切心だけではなく、義経の行動を監視、制御する意思もあったのではないか。 
 そして、秀衡は官職を得ても、これを与えた相手に全面的に協力することはせず、国司の権限を利用して自己の勢力拡大につとめた。
 秀衡の死後、平泉の藤原氏は、頼朝を相手として1年半ものあいだ戦い続けた。
 中尊寺には、金銀字一切経とは、一切の経典の意味。5300巻あり、寺院において完備すべき第一のものだった。清衡のときに作成されたものは、金字と銀字で一行ごとに書き分けたもので、日本には類例をみない破格な一切経だ。
 平泉の無量光院の背後にはパノラマ的な山稜景観があり、金鶏山と一体化している。
 この本のはじめにカラー写真があります。CGによる復元写真なのですが、金鶏山に沈む夕日と無量光院が再現されています。とても神々しい光景です。
 礼拝する者の誰もが、極楽往生を疑似的に体験できる現世の浄土空間だった。
  夕刻になると、日輪(太陽)が山上に没して、見事なパノラマ景観を展開する。このような落日する山の端こそが阿弥陀如来の西方極楽浄土と観念されていた。
  平泉に栄えた奥州藤原氏を多角的に分析した本です。
                     (2012年9月刊。2400円+税)

虫めづる姫君

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者  作者未詳(蜂飼耳・訳) 、 出版  光文社古典文庫
  「堤中納言物語」は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて書かれた短編物語集。作者も、編者も不明のまま。
  当時は、歌の贈答がとても重要だった。だから、歌の力を書いた物語は、大いに好まれた。なかでも、特筆すべきは、この本のタイトルになっている「虫めづる姫君」。「あたしは虫が好き」と現代文に訳されています。
  毛虫って、考え深そうな感じがして、いいよね。そういいながら、朝に晩に毛虫を手のひらに這わせる。毛虫たちをかわいがって、じいっと、ごらんになる。
「人間っていうものは、取りつくろうところがあるのは、よくないよ。自然のままなのが、いいんだよ」
  この姫君は、そういう考えの持ち主だ。
  世間では、眉毛を抜いてから、その上に眉墨で書くという化粧が一般的なのだけれど、そんなことはしない。歯を黒く染めるお歯黒も、おとなの女性ならする習慣なのに、めんどうだし、汚いと言って、つけようとしない。白い歯を見せて笑いながら、いつでも虫をかわいがっている。 
「世間で、どう言われようと、あたしは気にしない。すべての物事の本当の姿を深く追い求めてどうなるのか、どうなっているのか、しっかり見なくちゃ。それでこそ因果関係も分かるし、意義があるんだから。こんなこと、初歩的な理屈だよ。毛虫は蝶になるんだから。
とはいえ、この姫君は、御姫様としての作法をまったく守らないわけでもない。たとえば、両親と直接、顔をつきあわせて対話することは避ける。鬼と女は人前にでないほうがいいんだよ、と言って、自分なりの思慮を働かせている。
毛虫は脱皮して、羽化して、やがては蝶になる、物事が移り変わっていく過程そのものにこの姫君は関心を持っている。
  つまり、探究心をお持ちなのです。
  身近に雑用係として置く男の子たちの呼び名も、一般的なものではつまらないと考え、虫にちなんだ名をつける。けらず、ひきまろ、いなかたち、いなごまろ、あまびこ。姫君は、そんな名を男の子たちにつけて、召し使っている。
  すごい話ですよね。まるで現代の若い女性かのような行動と言葉です。古典といっても、ここまで来ると、まさしく現代に生きています。
(2015年9月刊。860円+税)

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