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カテゴリー: 日本史(平安)

光源氏に迫る

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 宇治市源氏物語ミュージアム 、 出版 吉川弘文館
源氏物語って、日本中世の貴族社会における不倫のあれこれを描いただけなんじゃないの…、そんな妄想を、つい抱いてしまいます。でも、この本を読むと、平安貴族社会の実情をかなり反映していることがよく分かります。単なる貴族の不倫話ではありません。
まず、天皇の生母です。ときの天皇を産んだ母親ですから、たちまち「国母」となります。この国母はどれだけの力をもっていたのか…。国母となった母親は、内裏(だいり)で、天皇と同居していました。同居していたら、実母が息子に強い影響力を有するのは必然です。藤原道長の子である彰子は、後一条天皇と内裏で同居していて、天皇の後宮に主導権を握っていた。摂関期の国母は、我が子の天皇と同居していて、天皇を日常的・直接的に後見し、国政の運営に深く関与していた。
次に、頭中将(とうのちゅうじょう)。これは、蔵人頭(くろうどのとう)と、近衛中将(このえちゅうじょう)である。ともに四位の貴族が補任された職。もちろん、頭中将はエリート貴族。
頭中将は、主に天皇の随従の補佐をする。常に天皇のそばにいて、ボディガードの長であるとともに、秘書官長でもあった。頭中将は、蔵人頭としては蔵人所という組織の事実上のリーダーであり、近衛中将としては天皇に随従して補佐する役目を担っていた。
内裏(だいり)のなかでは、服装について、多くの制限があった。着るものの色には、厳格な決まりがあった。四位以下は黒。五位は「深緋(ふかひ)」といったように…。
蔵人頭には、禁色が許されていた。蔵人頭となった人は、ほとんど毎日、内裏に出仕していた。
奈良・平安時代の官人たちは、夜が明けて少したってから仕事を始め、昼ころには仕事を終えるのはフツーだった。これに対して、紫式部が生きた時代は、貴族や女房は、夜型の生活をしていた。朝に行われていた朝廷の政務、儀式も昼過ぎ、夕方に始まり、公事の夜儀化にともない、貴族や女房の生活リズムも朝方から夜型に変わって、そのなかで『源氏物語』は生まれた。
藤原道長は、自邸の造営を一間ずつ受領に割りあてていた。道長は、私邸を天皇の内裏のように造営した。
『源氏物語』の世界を実際に即して再現、考えた本として、大変勉強になりました。
(2021年7月刊。税込2420円)

謎解き、鳥獣戯画

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 芸術新潮編集部 、 出版 新潮社
日本のマンガの元祖といってもよいのでしょうか…。ウサギや猿そしてカメたちが水遊びしたり、弓矢で競争したり、相撲をとったり、まことに愛敬たっぷりのマンガチックな絵巻物です。
甲乙丙丁の4巻からなる絵巻物の全長は、なんと44メートル超。甲乙巻は平安時代の末期、丙巻は鎌倉初期、丁巻はそれより少しあと…。もちろん異論もある。
色がなく、詞書(ことばがき)、つまりキャプション(説明文)がない。
京都市の北西にある高山寺(こうさんじ)に伝わった。
誰が、いったい何のために描いたのか、その注文主は誰なのか…。
すべて謎のままです。定説はない。
絵巻なので、紙をノリで何枚も(甲巻だけで23枚)、貼り継いでつくった。横長の料紙(りょうし)に描かれている。紙の継ぎ目の部分には「高山寺」の印が押されていて、絵が抜きとられたり、散逸してしまうのを防ぐ意図があった。
甲巻には擬人化された動物が登場する。2巻にはそれがない。しかし、カップルや親子は登場する。ニワトリの親子の絵を見ると、著者の表現力は、さすがです。
先に人物戯画が描かれ、その裏面に花押が入れられていた。その後、別の誰かが、花押にはかまうことなく動物戯画を描き加えた。
「鳥獣戯画」というのは近代以降の名称。中世では、ほとんど知られていなかった。現状の4巻構成になったのは、江戸時代初めの東福門院による修理のときのことだろう。
これを描いた絵師は宗教界と宮廷社会の両方の画事(がじ)に接しうる立場に属する人であって、しかも仏教側に属する人だろう。
コロナ禍がなければ、すぐにも飛んでいって、実物を見たい、じっくり鑑賞したいです。でも、現実には、私のすむ町ではまだワクチン接種のお知らせ自体がやってきていません。どうしたらよいのかも分からず、困って毎日を過ごしています。早く旅行に出かけたいものです。
(2021年3月刊。税込2200円)

源氏物語の楽しみかた

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 林 望 、 出版 祥伝社新書
源氏物語を通読したことはありません。現代語訳の通読を何回か試みましたが、いつもあえなく挫折してしまいました。どうしても平安貴族の心の世界に溶け込めなかったのです。
われらがリンボー先生は、現代語訳を刊行するほど「源氏物語」に通じていますので、この本の読みどころをフツーの一般読者に分かりやすく教えてくれます。さすがです。私と同じ団塊世代ですが、偉い人がいたものです。感服することしきり、というほかありません。
「源氏物語」は、決して、いま言う意味でのベストセラーではなかった。どの時代にも、この長さで難解な物語を自由に読める人など、限りなくゼロに近かった。ごく限られた貴族社会の人たち、すぐれた知識階級の人出が、細々と読んでいたに過ぎない。読もうと思えば努力次第で誰でも読解できるようになったのは、江戸時代前期に注釈本が出たあとのこと。なーるほど、そうなんですよね。ちゃんと読んでいない私は、これを知って、ちょっぴり安心しました。
しかし、それでも、「源氏物語」は、常に文学の王道として、千年にあまる年月を堂々と生きのびてきた。なぜか…。
この物語は、雅(みや)びだの、優雅だの、そんな生易しい観念で片づくようなものではない。そこには、いかに生々しい、いかに切実な、いかに矛盾にみちた人間世界の懊悩(おうのう)がリアルに描かれているのだ…。男と女がいる、その男女関係は、根本にある「人を愛する切実な気持ち」などは、時代や身分を超越して不易だ。うむむ、そうなんですか…。
「色好み」というのは、現代では非難されるべきもの。しかし、平安時代では違った。「色好み」の男性ほど、女に好かれる。いや、女に好かれなければ、色好みにはなれない…。
そして、色好みには、「まめ」が必要。恋のためなら、千里の道を遠しとせず、たとえ火の中、水の底、いかなる困難もいとわないというエロス的エネルギー。これこそが、色好みの男にもっともあらまほしい姿である。うむむ、これは難しい…、手に余ります。
光源氏は、「許さぬ」と決めた相手には、どこまでも冷酷にしかし表面上は親切に、押しつぶしていく。源氏という男の恐ろしさが発揮されていく。うひゃあ、そ、そうだったんですか…。
光源氏の内面には、真面目と不真面目が同居し、親切で冷酷であり、傲慢なのに謙遜らしい。源氏は、どこまでも二面性のある、いや非常に多面的な相貌をもった存在として描かれている。
ううむ、そういう話として読めるのですね…。そうなると、作者の人物創造は、かなり奥深いものがあるわけですが、いったい、パソコンもない時代に、どうやって、それを創造できたのか、いよいよ不可思議な思いにかられてしまいます。
(2020年12月刊。税込1100円)

「空白の日本史」

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 扶桑社新書
飲食店の店頭に盛り塩をしているのは、中国の後宮にルーツがある。中国の皇帝が後宮を訪問するとき、たくさんの女性の部屋の前を牛車に乗って移動する。その牛車を止めるため、牛の好きな塩を盛っておくと、塩をなめるために牛が立ち止まり、牛車が止まる。すると、皇帝は、せっかくなので、この部屋に寄ろうということになる。そのための盛り塩だ。
うひゃあ、知りませんでした…。
戦国時代の女性の肖像画は、だいたい立膝をして、ゆったりとした衣服を着ている。
日本は、おそらく世界でいちばん豊かな歴史史料が残っている国だ。
日本では、和歌のメインテーマは「恋」。男性だけでなく、女性も高い教養をもっているので、好きな相手に和歌を送りあうという文化が発展した。ここに中国との大きな違いがある。
平安時代の日本では、恋愛をしている人ほど、尊敬される風潮さえあった。恋愛が盛んな男女をさす言葉に「色好み」というものがある。現代ではマイナスにとられがちだが、平安時代には、「恋愛をしっかり楽しんでいる人」とか「気持ちに余裕のある大人っぽい人」として、プラスの評価を受けていた。その一例が和泉式部。
平安時代そして鎌倉時代は、男女の恋愛について、いたっておおらかだった。
『源氏物語』に登場する「源典侍」(げんのないしのすけ)という女性は、大層な色好みの女性で、天皇との関係もあるのに、弟である光源氏とも付きあう。さらに、夫のような存在もいる。
鎌倉時代の『とはずがたり』は後深草院につとめていた二条さんという女性の書いた日記。この二条さんは、三人の皇子に愛されている。二条の生んだ娘は、いったい誰の子か分からないけれど、西園寺という貴族がひきとって育てた。この時代は、自分の母が誰なのか分からないこともよく起きていた。
そして、江戸時代の農村も性に対しては非常におおらかだった。その一例が「若者小屋」の存在だ。要するに、乱交が公認されていたのだ。
宮本常一の『土佐源氏』も、現代日本社会では考えられないほど、野放国な戦前の日本の農村社会における性のあり方が延々と紹介されている。
私は、これが日本社会の現実だと弁護士生活46年の体験で痛感します。この点も明らかにしている貴重な新書です。
(2020年1月刊。880円+税)

平将門の乱を読み解く

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 木村 茂光 、 出版 吉川弘文館
平将門(たいらのまさかど)の乱は平安時代に起きた、武士の最初の反乱と言われる、935年から940年にかけての内乱だ。
平将門は、上野国府で「新皇」(新しい天皇)を宣言して、坂東8ヶ国の国司を任命し、新たな「王城」建設まで宣言した。
日本史のなかで、新しい天皇(新皇)を名乗り、朝廷の人事権(除目。じもく)を奪って国司を任命し、新しい宮都の建設まで計画したのは、ほかには南北朝内乱時の後醍醐天皇くらいしかいない。将門の乱は、まさに日本史上まれにみる大事件だった。
平将門が新皇宣言するにあたっては、菅原道真の霊魂と八幡大菩薩がその根拠となっていた。これらのことから、平将門の乱は単に東国で起きた武士の反乱という側面をこえた国家的な問題をはらんだ反乱だったと言える。
この当時、領地・所領は、まだ財産的価値をもっていなかった。
平安時代というのは、そのような時代なのですね…。
平将門は東北地方を強く意識していた。すなわち、鎮守府将軍のもたらす富には、奥羽さらにエゾ地から持ち込まれた、胡禄(ころく)、鷲羽(わしのはね)、砂金、絹、綿、布があった。
平安末期、源頼朝の挙兵について支配者層は平将門の乱に匹敵する大事件であると認識していた。
平将門は、平安京に似せて「王域」を建設しようとした。
「左右大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史」の任命、「内印、外印(天皇の印と太政官の印)」の寸法・文字などを確定した。このように宮都の建設・官僚の任命が矢継ぎ早に実施された。ただし、専門性の高い技術と能力を必要とする暦をつくる暦日博士は人材を確保できずに任命されなかった。
平将門の「新皇」即位は、「みじめな構想」などではなく、思想的・精神史的には京都の天皇・天皇制を相対化するような大きな「画期性」をはらんでいた。
平将門は、自分の国家領域を支配するための政策をしっかりもっていたと認められるべきだ。
平将門は、律令国家・王朝国家が支配の根幹としていた国府を襲い、さらに中国由来の天命思想を掲げ、新興の八幡神・道真の霊を根拠として「新皇」を名乗って王城を建設しようとした。
平将門の乱は、関東という、京・畿内から遠く離れた領域を舞台として起きた反乱だったが、この反乱から読みとれる諸特徴は、まさに全国的な政治的・社会的・思想的な変化を体現するものばかりだった。
京から遠く離れた坂東の田舎武士どもが、ちょっと盾ついたというレベルのものでなかったことを初めて知りました。
(2019年11月刊。1800円+税)

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