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カテゴリー: 日本史(平安)

王朝貴族と外交

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 渡辺 誠 、 出版 吉川弘文館
 平安時代の貴族たちって、短歌を読むほかは政争に明け暮れていたというイメージがありますが、そんな貴族たちも国際的な外交のことはちゃんと考えていたという歴史書です。うひゃあ、そ、そうだったんですか…、知りませんでした。
 たとえば菅原道真は、宇多天皇のとき、遣唐大使に命じられ、遣唐使として唐に行くはずでした。しかし、唐の国内状況が怪しいので、止めたらどうかという親書を出し、現実にも行っていません。なので、日本史の教科書では、遣唐使が廃止されたと書かれていました(今は違います)。
菅原道真は唐に行きませんでしたが、その後も天皇によって遣唐使を送ろうという動きはあったのです。ですから、菅原道真の提案で遣唐使の制度が廃止されたというのは歴史的事実に反することになるというわけです。
 11世紀に「刀伊(とい)の入寇」という事件が起きました(1019年)。壱岐、対馬が襲われ、博多や糸島にも上陸してきたのです。
「刀伊」とは、ツングース系の「女真族」のこと。このころ、まだ菅原道長が存命で、子の頼通(28歳)が摂政でした。この当時の平安貴族たちは「刀伊」(女真族)のことを知らず、高麗を恐れていたそうです。
 平安時代の日本は、国家的な軍隊をもたない国だった。防人(さきもり)は全国的な制度としては廃止されていたのです。
 対外的常備軍をもっていないわけですから、外敵の脅威に直面するたびに、心理的不安は大きく、日本は「神国」として神々に加護を祈るだけ、神国しそうとなってあらわれていた。
 平安時代の武士は少数精鋭で、国内の治安維持だけなら、それで良かった。しかし、外敵が大挙して襲来してきたときには多勢に無勢となってしまう。
 997年10月に「高麗国人」が対馬、壱岐を襲い、大変な被害をもたらした。しかし現実には賊徒の正体は奄美島人だった。
 高麗から国王の病気(中国)を治療するために役に立つ医師を派遣してほしいという書面が届き、その対応に苦労したというのです。このとき、派遣した医師が効果を上げられなかったときは一体どうするのか、を心配する貴族もいた。
 天皇は貴族たちに衆議を尽くさせた。
陣定とは、天皇が必要なときに招集して開催される諮問会議のこと。陣定では意見統一はなされず、多数決で決めることもない。決定権をもつのは天皇と関白。議定での決定が天皇を束縛することはない。そもそも、この当時、多数決というルールはない。ええっ、そうなんですか…。
 平安時代の貴族が担っていた政務について、その遂行過程を知ることができました。
(2023年3月刊。800円+税)

古典モノ語り

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 山本 淳子 、 出版 笠間書院
 たまには平安時代の貴族社会の雰囲気を味わってみようと思って読んでみました。
 京都の平安京跡地の発掘調査において、盃(さかずき)の皿(さら)部分に墨(すみ)で文字を書きつけたものが大量に発見されているそうです。文字は和歌なのです。
 絵やマンガ(絵)もあって、大変読みやすい本です。
 牛車に乗るのは平安京だけの風景。牛車に乗ることのできる人間は限られていて、庶民は乗れなかった。天皇もまた牛車には乗れなかった。天皇の乗り物は輿(こし)と定められていたから。なので、天皇を退位すると、牛車に乗ることができた。
 貴族の乗った牛車が石つぶての攻撃を受けることはあった。
 文化勲章は、文化の発展に大きく寄与したものが資格がある。この勲章のデザインは橘(たちばな)。皇族の一員だった葛城王らが天皇に願い出て、「橘」なる姓をもらった。葛城王は橘諸兄(もろえ)と改名した。
 庶民は排泄するとき、高下駄をはいていた。この高下駄は恐らく共同使用していた。
 平安京に犬は多く生息していた。ペットや猟犬としてではなく、汚物処理係だった。猫のほうは舶来の貴重な動物であった。なので、高貴な邸宅の中で、文字どおり「猫可愛がり」されていた。猫は貴重なので、幼少時に、「犬」の名で呼ばれた人は決して少なくなかった。「犬宮」は男性にも姫君にもいた。「犬」のつく幼名は、「長い歳月を重ねての成長」を意味するようだ。
 泔(ゆ)するとは、米のとぎ汁のこと。中国では、米のとぎ汁は、料理に使うものだった。
 髪の長い貴族女性にとって、洗髪は大変だった。
 清少納言や紫式部も登場する貴族社会の内実は、とても大変な競争社会だったようです。平安貴族の十二単衣からくるイ華やかな、そして気楽なイメージに騙されてはいけませんね…。
(2021年1月刊。税込2090円)

平安貴族サバイバル

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 木村 朗子 、 出版 笠間書院
 摂関政治とは、藤原氏が権力の中枢を牛耳る体制のこと。この体制は2百数十年も続いた。
 『枕草子』や『源氏物語』が書かれたころは、藤原摂関家が政界を席巻し、同母腹の兄弟間での権力争いがくりひろげられていた。
 平安宮廷社会は、権力奪取をめぐる熾烈(しれつ)な闘争の場だった。ただし、権力者は天皇の位をめぐって争っていたのではない。天皇は権力者ではなかった。天皇の後ろ盾となる摂政・関白の座をめぐって争っていた。
 天皇の後見である摂政・関白は、天皇の外祖父であることを根拠とした。
 天皇の寵愛(ちょうあい)を受け、妊娠し、しかも男子を産むというのは、賭博に等しい。
 天皇の愛情を勝ちとるためにサロンには、教養才気あふれる女房たちを集めた。
 大学寮は男だけのものだったので、女たちの才芸は家庭の教育によって形成される。
 「女にて見たてまつらまほし」
 これは、あまりに素敵な男性に対する褒(ほ)め言葉。女にしてみてみたいほど美しいということ。『源氏物語』のなかに何度も出てくるとのこと。知りませんでした…。
 髭(ひげ)づら、日焼け肌は醜男(ぶおとこ)。
 上流貴族は、昼日中に出かけることはめったにないから、日焼けしようもない。日焼けしているというのは、身分の低さを示している。
 美の基準は女性性にあった。風流人たる帝の遊びに機知をもって応えられる必要があった。宮廷サロンの女房たちは、少なくとも漢詩と漢文で書かれた歴史を学んでいた。
 紫式部は漢学者の娘。清少納言も紫式部も、学問の力で自立する女性だった。貴族の女性は、結婚していても、子が生まれても働いていた。天皇家に入内(じゅだい)するというのは、実際には宮中で働く一員になること。
 天皇の母は女院と呼ばれた。この地位の創出は、藤原摂関家を確立するための、とんでもない戦略だった。
 藤原氏は、一介の臣下の階級にありながら、天皇の妻の座、母の座を獲得したことで、いわば天皇そのものになってしまう方法だった。そして、この位は、もっぱら藤原氏の娘によって支配されていた。
 平安時代、女たちは、夫以外の別の男と会うことができた。一夫多妻は一妻多夫でもあった。
 貴族の女性たちの実態に改めて目が大きく開かされる本でした。
(2022年9月刊。税込1650円)

平氏

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 倉本 一宏 、 出版 中公新書
 おごれる平氏は平清盛の死によって滅亡し、あとは源氏の世の中になった、そう思っていましたが、そうでもなさそうなんですね。この本を読んで、平氏にもいろいろな流れがあることを知りました。
 平氏は源氏と並んで、皇親(こうしん。天皇の親族)が賜姓(しせい)を受けて成立した氏族。平氏は、桓武天皇の子孫から始まる。源氏は、清和(せいわ)源氏のほうは武家源氏で、公家源氏は嵯峨天皇の皇子女が賜姓を受けた嵯峨源氏に始まる。
 平氏のほとんどは、あとで「堂上(とうしょう)平氏」と称された高棟流桓武平氏。彼らは朝廷で、蔵人(くろうど)や検非違使(けびいし)、弁官(べんかん)などの中級官人(諸大夫)や下級官人(侍品)として勤め、また古記録を記して「日記(にき)の家」と称された。
 「日記の家」というのは、累代の日記(「家記(かき)」を伝え蔵し、先例故実の考勘を職とする家のこと。日記は家記として代々記されるだけでなく、その保存や利用に意を払い、かつ他の家の日記も広く収集することに務めていた。そして、家の集積された家記は、儀式や政務の際の家の故実作法の典拠として研究し、部類記を作成したり、抄本や写本を作成した。
 公家平氏は「日記の家」として、みずからが蔵人や弁官、検非違使として携わった宮廷の政務や儀式を記録し続けるとともに、摂関家の家司として、数々の日記を集積したり、書写したり、部類したりして、日記と関わることによって、自己の家を宮廷社会で存続させる方途とした。
 蔵人・殿上人(てんじょうびと)として内裏(だいり)の奥深くで天皇を直接警固していた源氏と、検非違使として京内の犯罪を取り締まる平氏とは、宮廷社会における家格の差は歴然としていた。
 治承4(1180)年に始まる日本未曽有の内乱は、武家の清和源氏を頭目にいただく坂東平氏が、伊勢平氏の末裔(まつえい)である平家とその王を打倒する戦いでもあった。
 武家平氏には、弁官経験者が一人もいないため、政務処理能力がなく、まして公家(くげ)の儀礼や行事の先例(故実。こじつ)に通じた「有職(ゆうしょく)」とはほど遠い存在では、政務や儀式を取りしきることは不可能だった。何せ、一世代前までは中下級貴族の家格しか持たない軍事貴族だったから。
 平清盛は、64歳で病死した。頓死(とんし)と称するにふさわしい。
 「源平合戦」と単純に理解することはできない。義経や範頼が率いた平家追討軍には、多くの坂東平氏がその主軸として含まれていた。坂東平氏は、それぞれの事情で、頼朝に属した者、平家に尽くした者と、さまざまな動きを見せた。
 王権としての平家は滅びたが、平氏はけっして滅びてはいなかった。
 鎌倉殿の13人のうち、梶原景時、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛という5人は坂東平氏の出身。いずれも滅亡された。ええっ、そ、そうなんですか…。
 公家平氏のほうは、堂上家として明治維新まで家を存続させている。
(2022年8月刊。税込1012円)

平安京の下級官人

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 倉本 一宏 、 出版 講談社現代新書
古文書を読むと、平安時代の庶民がどのように生きていたのか、分かってくるのですね。古文書を読みといてくれる学者の力は偉大です。
平安時代、とくに藤原道長の時代には、いろんな愁訴(しゅうそ)が、官人や学生(がくしょう)、また郡司や百姓(ひゃくせい)から朝廷に寄せられた。
国司苛政(かせい)上訴を受けて、国司が罷免されることも多かった。
下人(げにん)と呼ばれた下級官人が起こした愁訴は、道長において愁訴を出した人間に止めさせ、同時に、問題となった蔵人(くろうど)の行為はよろしくないと判断した。
国司苛政上訴がなされ、藤原道長は問題を起こした人間を勘当したが、同時に、問題とした人間も検非遣使によって拘禁された。
「うわなり打(うち)」とは、離縁された前妻が、後妻(うわなり)に嫌がらせをする習俗。前妻が憤慨して、親しい女子を語らって後妻を襲撃し、後妻のほうでも親しい女子を集めて防戦につとめた。
『枕草子』で有名な清少納言の兄である清原致信(むねのぶ)もあわせて殺害された。
藤原道長邸から5月に金2千両が盗まれ、7月に犯人が逮捕された。犯人は貴族の従者たちであり、盗まれた金は戻っている。このとき、貴族社会全体の財産だから、その割りあて以上に献金した人もいた。
平安時代を裏からのぞいている気分のする新書でした。
(2020年1月刊。税込1034円)

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