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カテゴリー: 日本史(平安)

「源氏物語入門」

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 高木 和子 、 出版 岩波ジュニア新書
 これまで「源氏物語」には何度も挑戦しました。もちろん、原文ではありません。本棚には、瀬戸内寂聴の本など、6冊が並んでいます。でも、もうひとつしっくりきませんでした。この新書はジュニア新書だけあって、私にもとても分かりやすく、「源氏物語」が千年も読みつがれている秘密を十分知ることができました。ジュニア新書って、大人の私にも大いに目を開かせてくれることが多いので、私は愛読しています。
 光源氏は、仕える人々の心を、きちんと管理し掌握できている。それは、まるで、社員教育の行き届いた会社のようだ。社長が部下に信頼され、統率がとれている優良企業を思わせる。
 光源氏の好色は、一対一の男女関係の誠実さという意味では不誠実にしか見えない。
 しかし、その多情さ、鷹揚(おうよう)さによって救われる女性たちが少なからずいた。それによって多くの高貴な女性たちが名声を汚(けが)さず没落せずに生き続けられるなら、一種の社会保障にも近い。うーん、そういう見方もできるのですか…。
 権力者が窮屈な一夫多妻に生きたら救われない多くの女性が路頭に迷うかもしれないという脈略は、なかなか現代人には了解しがたいところだが、それが当時の現実だった…。
 「源氏物語」は、笑われる人、笑いを回避される人それらを相互に観察させながら対照的に、その位置づけや心理をたどっている。
 当時の貴族社会の女房たちは、しばしば複数の主君を渡り歩いており、必要な生活上の物の貸し借りをしたり、人と人との関係を結んだり、噂を伝えたりしていた。いわば情報の運び役、伝達者だった。
 この当時、格式高い女性は、男性を通わせるものだった。すぐに同居するのは、目下の女である証(あかし)になる。なーるほど、そういうものなんですね。
 正妻とは、対照的に身分の高い女性をいう。当時の結婚においては、男女の個人の魅力より、出身の家の家格や政治力が重要だった。
 晩年の光源氏は、女三宮(さんのみや)を恋敵の柏木に寝取られ、不義の子である薫を我が子として育てるなかで、最愛の紫の上に先立たれるという、苦悩に満ちた日々を過ごす。自分は人一倍の栄華を極めたけれど、一方で苦しみが深いことも比類なかった。まるで、仏に与えられた苦行であるかのような生涯だったと、光源氏は自らの生涯を振り返った。
 そして、光源氏の死んだあとを語る「宇治十帖」の世界は、光源氏の光り輝く世界の負の側面を照らし出す薫(不義の子)と八宮(光源氏の弟)によって始まる。
 光源氏の息子とされつつ実の子ではない薫と、光源氏の孫にあたる匂京は恋のライバルとなり、互いを観察し模倣する。そういう構造の本だったのですね。
 男たちの欲望に翻弄(ほんろう)され続けた女性たちは、やがて自分の意思で自立していく。美しい男皇子(みこ)、光源氏の物語として始まった「源氏物語」は、次第に女の物語に変容し深まっていく。
 なるほど、そういうことだったのですか…。単にプレイボーイが浮気を繰り返し、女性遍歴をするなんていうストーリーではなかったというのです。ここに1000年もの生命を保ち続ける秘密があるのですね…。
 220頁ほどの新書ですが、大変勉強になりました。さすがは「源氏物語」の研究者です。
(2023年11月刊。960円+税)

紫式部と藤原道長

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 倉本 一宏 、 出版 講談社現代新書
 この本は紫式部の『源氏物語』がなかったら藤原道長の栄華もなかったとしています。ええっ、そ、そこまで言えるものなのでしょうか…。
清少納言は当時の一次資料には、まったく名前が登場してこない。それに比して、紫式部のほうは「藤原為時(ためとき)の女(むすめ)」として登場してくるので、実在の人物だと言える。
 藤原道長の命令と支援があったからこそ、紫式部は『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆できた。藤原道長は紫式部より7歳だけ年上。
 この当時、文人としての名声を得たとしても、それは現実社会における地位や、ましてや収入に結びつくものではなかった。
 紫式部は26歳前後で、20歳も年長の藤原宣孝と結婚した。そして、二人の間に賢子(けんし)が誕生した。この賢子は道長の娘・彰子に出仕し、親仁(ちかひと)親王の乳母(めのと)となって、「大弐(だいに)三位(さんみ)」と呼ばれ、80歳をこえて長生きした。紫式部の娘らしく、家集まで出しているそうです。
 紫式部が29歳のとき、その夫・宣孝は結婚して、わずか2年半で亡くなった。
 『源氏物語』は全編54巻で、617枚の料紙を必要とする。そのために必要なのは2355枚。当時、紙は非常に貴重なもので、誰でも手に入るものではなかった。そこに、道長に執筆を依頼され、料紙の提供を受けて起筆したという説の根拠がある。
 紫式部はこの要請を受けとめて、基本的骨格についての見通しをつけたうえで『源氏物語』を起筆したと著者は推定する。紫式部が『物語』を書きはじめて、好評だったことから藤原道長が応援するようになったという説もあるようです。
 紫式部は34歳のとき、彰子に出仕した。このとき、すでに『源氏物語』の執筆を始めていた。
 紫式部は、出仕した直後は宮中になじめなかったようだ。「まるで夢の中をさまよい歩いているような心持ちであった」と日記に書いている。紫式部は、引っ込み思案で、内省的な性格だった。
 彰子の主導で、『源氏物語』の書写と冊子づくりが大々的にすすめられた。紫式部が彰子に出仕した時点では、すでに清少納言が仕えていた定子(ていし)は死去していた。だから二人が宮中で直接に顔を合わせる機会はなかった。
 彰子に仕える紫式部は、『枕草子』で謳歌(おうか)されている定子のサロンを否定し、清少納言を非難した。
 道長は紫式部の『源氏物語』がなければ、一条天皇を中宮彰子のもとに引き留められなかった。道長家の栄華は紫式部と『源氏物語』のたまものであった。
 紫式部はNHK大河ドラマのテーマになるようで、今、ブームが再燃しています。
(2023年9月刊。1200円+税)

藤原道長

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 山中 裕 、 出版 法蔵館文庫
 「此世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」
 この有名な和歌を詠(よ)んだのは道長53歳のときです。それから10年たたぬうち、62歳で道長は亡くなっています。道長は眼病に悩み、肺結核にかかり、心臓病もあったようです。
 道長の政治は太政官政治であり、いわゆる政所(まんどころ)政治ではない。道長の政所ですべてが決まり、天皇は相談役にもなっていないという説は妥当ではない。
 道長は、公に関しては、公卿会議を行い、御前定と陣定によって、すべてを処理した。朝廷に関する問題の処理は、すべて太政官で行われ、摂関家の政所では行われていない。
 摂関政治は、律令政治の延長線上にある。
 道長が『御堂関日記』を書き続けたということは、学問への情熱の深さ、漢学の知識、仮名に関しても深い造詣(ぞうけい)をもっていて、教養の深さがにじみ出ている。
 紫式部の『源氏物語』の光源氏の全盛期のモデルは道長であり、六条院は土御門亭(つちみかどてい)である。
 道長は、紫式部をはじめとする多くの女流作家たちを、娘の中宮彰子のもとに集め、そこが一大文芸サロンとなっていた。紫式部の『源氏物語』も、このころ(實永年間)書かれていたと推定される。
 道長は書籍を多く収集している。学問への関心と同時に仏事方面にも道長は大変に関心を深めた。晩年の道長は、その心に浄土をあこがれる気持ちが強くなっていた。
 一条天皇時代は25年間も続いた。このとき道長は天皇と、安泰に過ごし、次の實弘年間には、紫式部をはじめ、女流文学の華が開いた。それには道長の娘(彰子)が天皇の中宮として聡明であったことによる功績が大きかっただろう。
 1016(長和5)年に、道長は待望の、外孫である天皇の即位が、初めて実現した。まだ9歳の幼帝であることから、道長は当然に摂政となった。
 道長の一生を丹念にたどった労作です。道長と紫式部との関係をさらに深く知りたくなりました。
(2023年7月刊。1200円+税)

平安貴族の仕事と昇進

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 井上 幸治 、 出版 吉川弘文館
 平安時代の貴族って、仕事もせずに遊び暮らすという優雅な生活を送っているというのが一般的なイメージです。でも、実は、そんなことはなく、それなりに忙しかったようです。
平安時代の京都(平安京)の人口は、12~13万人が暮らしていた(1000年ころ)。これを同じ区域、つまり、現在の上京・中京・下京の3区に住む人口27万6千人と比べ、平安京はこの3区の半分の広さなので、昔も今も変わらない(?)。
 貴族のうち公卿は三位以上の人。諸大夫(しょだいゆう。しょだいぶ)は四位と五位の人。六位以下は「侍」で、その下の「無位」(むい)は庶民のこと。「侍」は武士だけを指してはいない。
 公卿や諸大夫は、現実には、遊び暮らすようなイメージとはほど遠い生活を毎日送っていた。彼らは定められた年中行事を滞りなく、実施していく必要があり、それが政治そのもので、重要だと考えていた。
 従三位(じゅさんみ)以上の位階(いかい)を授けられた人を公卿というが、いきなり従三位に叙(じょ)されることはなく、四位・五位・六位からスタートするのが普通。初めから高い位階を授けられる制度を「蔭位(おんい)」という。
 叙爵されて五位になったものの、官途に就けない人(無官)を「散位(さんに)」と呼ぶ。
 「侍」身分は正六位以下の位階を有する人々のこと。史生(ししょう)、官掌(かじょう)が代表的。無官から登用され、その後もほぼ昇進しない。身分をこえた抜擢(ばってき)は、ほぼない。
 公卿の生活は、一年中、ひたすら勉強(予習)漬け、とても大変だった。経験者である父兄の存在はとても大切で、父兄を早くに失ってしまえば、公事(くじ)の習得や理解を遅らせてしまうことになる。
 公卿の生活は、先人の記録をひたすら読むことにある。平安貴族たちにとって、先人貴族の書いた日記や部類記、編さん物は、貴重な財産だった。
 平安朝で、人事異動を行う儀式を「除目(じもく)」と言う。この除目では「申文(もうしぶみ)」という書類が重要。申文を整理していたのが「蔵人(くろうど)」。
 除目は、清少納言の『枕草子』では、女官たちにとって笑いぐさでしかなかったが、男性官人にとっては、正月の除目は非常に重要なものだった。
 「源氏物語」に平安時代の政務の様子が描かれていないのは、女性は政治に関与できなかったから…。
 貴族たちは、まず第一に先例を学ばなければならなかった。貴族社会では、現実に起きている事実と、記録された公式見解としての事実との間に、さまざまな「差」が存在していた。平安貴族たちは、こうした「差」を巧妙に使いこなし、自らに都合の良いストーリーをつくり出していた。
 公卿・諸大夫・侍といった身分の壁は、とても厚くて頑丈であり、その差はいろいろなところであらわれる。つまり、平安時代には公卿・諸大夫・侍という身分の壁はとても厚くて頑丈であった。
 平安貴族たちは、政務や年中行事の遂行を重要な仕事としていた。決してヒマではなかったのです。この本を読むと、貴族についてのイメージが変わりますよ…。
(2023年9月刊。1700円+税)

『小右記』と王朝時代

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 倉本 一宏 ・ 加藤 友康 ・ 小倉 慈司 、 出版 吉川弘文館
 『小右(しょうゆう)記』は、平安時代、藤原道長と同じころに生きた貴族・藤原実資(さねすけ)の書いた日記。実資は90歳で亡くなったが、右大臣にまで上りつめていて、21歳から84歳までの63年間、日記を書き続けた。
 この日記には、当時の政務や儀式運営の様子が詳細かつ精確に記録されている。
 『小右記』は、実資個人の日記というだけでなく、小野宮(おののみや)家にとっての共有財産だった。つまり、小野宮家をあげて情報を持ち寄り、それを総合して記事としたもの。
 鎌倉時代の貴族である藤原定家は、夢のなかで実資と会ったことを『明月記』に記載している。それほど、定家は『小右記』を熱心に読み込んでいた。実資は、藤原道綱を罵倒していることで有名だ。
 「先輩の自分が先に大納言(だいなごん)になるべきだろう。ましてや貴族の中でも博識で能力ある自分を差し置いて、名前がやっと書ける程度で、漢籍などの知識のないあいつが何で昇進するのか…」と怒っている。
 道綱について、功労や才能がないのに、いたずらに禄を受けるもの、職責を果たさないのに高位高官にいるものと厳しく批判した。実資は、一条天皇のキサキ藤原彰子を評価していた。この彰子の伝言を実資や小野宮一家に取り次ぐ女房が紫式部だった。
 実資は健康に気を配り、輸入品から作られる貴重な薬をことあるごとに摂取していた。
平安時代の1人の貴族の書いた63年間もの日記の意義をかなり分かりやすく(「かなり」というより、実のところ難しいところが多々ありました)。解説してくれている本です。平安時代の雰囲気を少しばかり味わうことができました。
(2023年5月刊。3800円+税)

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