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カテゴリー: 日本史(古代史)

闘争の場としての古代史

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 李 成市 、 出版  岩波書店
「任那」(みまな)とか「任那日本府」というのが実在していたかのような錯覚が私たち日本人にはあります。つまり、古代日本の大和朝廷が朝鮮半島の一部を支配していかのような錯覚です。日本国内だってきちんと統一していないのに、そんなことがあるはずもありません。
「任那」とは、加耶(かや)諸国に対して古代日本においてのみ特殊に用いられる呼称であって、もともと一盟主国の別名にすぎない。
「神功皇后の三韓征伐」なるものは、史実とは無縁であり、その大部分は7世紀以降に形成されたもの。そもそも神功皇后は、その実在性すら否定されている。
「古事記」や「日本書紀」で完成した「三韓征伐」説話は、8世紀には日本の支配層に広く受容されていた。明治維新政府にとって、神功皇后は、国権拡張のシンボルだった。
広開大王碑が日本軍部によって改ざんされたという説は現在は否定されている。ただ、倭の百済や新羅に対する軍事行動を記したことに間違いはないとされている。
広開大王碑は、今も高句麗の王都であった吉林省集安市に吃立している。高さ6メートル、30トンをこえる碑石である。
南北朝鮮では、この碑石に記された広開大王の偉業を今日の朝鮮民族の誇りとみなしている。広開大王とその子・長寿王は391年から491年にかけての父子2代の100年間、高句麗の最盛期であった。
この碑文中の「倭」について、日本人研究者は「倭」を過大に評価し、南北朝鮮そして中国人研究者は過小に評価しようとする傾向がある。
広開大王碑は、形状や形式などから、少なくとも中国の墓碑や墓誌の制度から大きく逸脱した碑石である。ではなぜ、広開大王碑が、何のために刻され、立碑されたのか・・・、そこをよく考える必要がある。
広開大王碑は、高句麗に伝統的に継承されていた、国家的な徒民策による守墓役体制にもとづきつつ、あらためて制度を強化するという思惑と目的をもって刻まれ建てられた。
碑文中の武勲記事は、330戸の人々を守墓人とする根拠と必然性を周知させ、その来歴を説明する前提的な内容になっている。
この碑文は、王家の由来と広開大王に至る系譜を掲げ、次いで広開大王一代の武勲を語ることによって、高句麗王家を祖王・先王とともに称え、現在の権力者である長寿王に至る支配の正当性を訴えている。
「倭」とは、高句麗にとって、朝貢を強要する対象ではない。高句麗の属民である百済や新羅を「臣民」としたり、加耶の諸国とともに百済の背後から支援して高句麗と戦ったりする難敵である。つまり。「倭」とは高句麗を中心とする政治秩序を脅かし、破壊する「敵」なのだ。
碑文の書き手としては、「倭」について弱い敵とするよりは、むしろ強い敵だとしたほうが、効果を一層強く発揮できる。「倭」という外部の敵の前で、内部から強烈なかたちで喚起され、内なる団結が促される。
広開大王碑をめぐる論争の最新の到達点を深く知ることができました。
(2018年8月刊。3600円+税)

昆虫考古学

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 小畑 弘己 、 出版  角川選書
縄文時代の遺跡として有名な三内丸山遺跡(青森)からは、コクゾウムシ、材木を食べるオオナガシンクウ、糞を食べるマグソコガネ、ドングリやクリを食べるクリシギゾウムシやコナラシギゾウムシの幼虫、キクイムシ類を捕食したりするエンマムシ科の一種などが発見されている。家屋に棲みついた害虫と思われる。
宮崎県の本野原(もとのはる)遺跡で縄文時代のクロゴキブリの卵の圧痕を検出した。クロゴキブリは、中国南部を原産地とする外来種。それ以外の日本の屋内に普遍的なゴキブリの原産地はアフリカだ。
福岡の鴻臚館のトイレからはベニバナの花粉が多量に検出されている。それは、花を直接食べたような出方だ。ベニバナは現代でも漢方薬として使われているが、腹痛の薬として食べられていたと想定されている。
鴻臚館のトイレは、誰がみてもトイレと分かる遺構である、トイレ遺構から発見されるコクゾウムシやマメゾウムシの類は、トイレに捨てられた加害穀物に混じっていたものではなく、ムシに加害された穀物やマメをいれたお粥(かゆ)やスープ、パンなどを人が食べた結果だと考えられている。
土器という大地に種実を埋め込むのは、種子や実が再び生まれてくること、再生や豊穣を願った行為と思われる。
クリやドングリも縄文人たちにとって重要な食料だった。縄文人たちは、コクゾウムシをクリなどの堅果類の生まれ変わりと考えていたのではないのか・・・。
縄文時代、コクゾウムシはイネではなく、ドングリやクリを食べ、縄文人たちの家に棲みついていた。これが判明してから、まだ10年もたっていない。縄文人たちが、ダイズやアズキ、そしてクリを栽培していたことが分かったのも、この10年ほどのあいだのこと。これは、土器圧痕と呼ばれる、人の作った土器粘土中やタネやムシの化石によって判明したのだった・・・。
古代の遺跡を調べると、男性トイレと女性トイレは土壌分析で判明するとのこと。土壌の成分が男女で異なるというのです。これまた不思議な話ですよね。誰がいったいそんな区別があると考えて調べたのでしょうか・・・。
同じものを食べていても人間の便の成分が男女で違うって、いったい人間の身体はどうなっているのでしょうか・・・。誰か教えてください。
(2018年12月刊。1700円+税)

渡来人と帰化人

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 田中 史生 、 出版  角川選書
古代日本に朝鮮半島からやって来た中国・朝鮮の人々をかつては「帰化人」と呼んでいましたが、「帰化」とは国家があることを前提としているけれども、果たして当時の日本列島に国家と呼べるものが存在したのか、そんな根本的疑問から、やがて「渡来人」と言い換えられるようになりました。
ところが、日本に定住せず、中国・朝鮮へ戻っていく人々も少なくなかったようですので、果たして「渡来人」と呼んでいいのだろうかという疑問が次に生まれたのです。
本書は、帰化人とは何か、渡来人とは何かを深く考察しています。
日本の倭王権は、渡来の技能者の受け入れを大いに重視した。特殊な技能をもっていて有用な存在だったからである。
5世紀後半の倭国では、姓をもっていたのは、王族のほかは中国系の人々ぐらいだった。
磐井(いわい)の乱(527年)と継体王権の瓦解(がかい)の背後には、首長層そして渡来系の人々の越境的社会関係の錯綜があった。
このころ、仏教は国際関係を考えるとき、重要な要素となっていた。中国が仏教を中心とした国際社会の秩序化を目指していたからである。
倭国が送った600年の遣隋使は、随の皇帝に「はなはだ義理なし」と一蹴されてしまった。そこで、次の607年の遣隋使は、小野妹子を大使として、中国の髄の皇帝を「海西の菩薩天子」ともちあげた。
7世紀の後半、朝鮮半島では百済が滅亡し、高句麗も滅んだ。そこで、朝鮮半島からの亡命者が数千人規模で日本にやって来た。
このころ、太宰府の北に朝鮮式の風格をもつ大野城や基肄(きい)城が設置された。
そして、7世紀の後半、倭が日本へ、大王が天皇へ切り替わり、律令国家が成立した。
そして、帰化人は、戸籍に登録され、支配される身分となった。
唐も日本も、帰化人を、明王の徳化を慕い、自らその民となることを願う者と位置づけながら、その裏では、出身国とのつながりを警戒していた。
日本では、帰化人は東国に配置され、西国には配置されなかった。
8世紀も半ばになると、今後は新羅からの「帰化」が急増した。飢饉や疾病のため生活に苦しむ人々が国外へ非難していった。
渡来人にしても帰化人にしても、中国大陸や朝鮮半島から「日本」へ移住・定住した人と限定的にとらえると、古代の実態と大きくかけ離れたものとなる。
このことが分かっただけでも、本書を読んだ甲斐がありました。
(2019年2月刊。1700円+税)

地域に生きる人びと、甲斐国と古代国家

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 平川 南 、 出版  吉川弘文館
山梨県立博物館の館長もつとめた著者によって古代史探究の成果が紹介されています。たくさんの写真で、よくイメージがつかめます。
日本は古来からハンコの国と言われますが、この本によると、8世紀、律令制にもとづく本格的な文書行政の整備にともなった、公文書には押印するシステムが確立されました。
公印の規格も決められていて、私印は4.5センチ以下で、公印をこえないこととされていた。この公印は青銅製で、銅、鍚、鉛のほか、ヒ素も含まれていた。
古代印には、わざと空洞が含まれていた。均質な空洞とつくることによって柔軟かつ軽量に仕上げた。これは、現代技術でも出来ない高度な技術だった。
甲斐国の北部に、高句麗からの渡来人を核とした巨摩(こま)郡が設置された。等力(とどろき)郷は、馬の飼育に関わる地名で、これにも渡来人がかかわっている。
買地券(ばいちけん。墓地を買った証文)は、古代中国や朝鮮には、それぞれ神が宿っているという思想にもとづいて、墓地に対し、神の保護を祈る葬祭儀礼として、石、鉛板などに書きつけて墓に納めた。墓の造営に際して、その神より土地を買うという意味で、代価などが記され、墓地を買ったこととともに、墓に対する保護や子孫の繁栄祈願が記されている。
戸籍は、古代国家が民衆支配を行うためのもっとも基本となる公文書。戸籍には一人一人が登録され、人美との氏姓(うじかばね)や身分を確定して、各種の税や兵役を課したり、班田収授を実行するための基本台帳となった。
戸籍は3セットつくられ、国府に1セット、残る2セットは、中央の民部(みんぶ)省と中務(なかつかさ)省に各1セットずつ保存していた。
豊富なカラー写真によって、古代史がぐーんと身近に感じられました。
(2019年5月刊。2500円+税)

古代日中関係史

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 河上 麻由子 、 出版  中公新書
熊本県の江田船山(えだふなやま)古墳から出土した太刀(たち)の銘文には、「ワカタケル大王」の名前が刻まれていて、これは5世紀後半の雄略天皇をあらわしている。この銘文に登場するムリテ、イタワ(伊太和)は、大王の側に仕えていた人間であるが、中国の皇帝への上表文を彼らのような倭国人が作成できたはずはなく、それは渡来人が作成していた。儒教的観念をふまえた上表文は、まだ倭国人には無理だった。
仏教は、「公伝」したのではなかった。倭国が百済に求めて導入していた。「公伝」というと、百済が仏教を「伝えてきた」ニュアンスだが、実際は違っている。
仏教に関する理解が東アジアでは知識人・文化人が当然身につけるべき教養となり、しかも中国(梁)との交渉に不可欠な要素となっていたからこそ、倭国は仏教の公的な導入に踏み切った。
かつて「日出処」は、朝日の昇る国、日の出の勢いの国、「日没処」は夕日の沈む国、斜陽の国と理解されていた。しかし、今では、「日出処」、「日没処」は、単に東西を意味する表現にすぎないことが証明されている。
「日本」という語は、7世紀の東アジアでは中国からみた極東を指す一般的な表現にすぎなかった。この「日本」を国号に用いることは、中国を中心とした世界観を受け入れることになる。つまり、「日本」とは、唐(周)を中心とする国際秩序に、極東から参加する国という立場を明示する国号だった。
「日本」は国号の変更を申し出て、それを則天武后が承認した。朝貢国であるからには、国号を勝手に変更することはできない。そのため、中国の皇帝の裁可を仰いだのである。ここに、中華たる唐(周)に朝貢する「日本」という国式が定まる。決して唐への対等とか優越と主張するためではなかった。
日本古代史についても、まだまだ解明されるべきことがたくさんあると実感しました。
(2019年3月刊。880円+税)

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