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カテゴリー: 日本史(古代史)

吉備の弥生大首長墓

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:福本 明、出版社:新泉社
 岡山に楯築(たてつき)弥生墳丘墓というのがあります。この楯築という珍しい名前は、桃太郎伝説の下地にもなったという温羅(うら)伝説によります。温羅が城を築いて人々を襲うので、考霊天皇は皇子を派遣して退治しようとする。温羅と対峙して防御するために石の楯を築いた。これが楯築神社に今もある立っている巨石である。たしかに、写真でみると、かなりの巨石が立っています。
 楯築弥生墳丘墓も、都市化の波に洗われて、すぐ近くまで民家がたち並ぶようになりました。そして、給水塔がつくられることになったのです。ところが、給水塔によって墳丘墓の全部が破壊されたわけではありません。突出部の列石は保存されています。
 想定復元された楯築弥生墳丘墓の全容がカラー画像となっています。中心は円形になっていて、上下に長方形の突出部がくっついています。円丘部分は40メートル、突出部を含めると80メートルとなります。かなりの大きさで、弥生墳丘墓としては最大です。
 墳丘墓の中央に木棺がありました。木材は腐朽して残っていませんが、棺の底に朱が敷かれていました。今も鮮やかな赤色を放っています。厚さ1センチ、総重量32キログラムもありました。「途方もなく膨大な量」だと指摘されています。
 朱というのは、水銀の化合物である硫化水銀のこと。天然には辰砂(しんしゃ)と呼ばれる鉱物として存在する。この朱の産地がどこであるかは、まだ特定できていない。中国や朝鮮から搬入された可能もある。
 朱の役割は、引き継ぐべき首長の霊を復活させ、その霊力を高めるために使用されたもの。鎮魂のための道具立てとして大量の朱が用いられたと考えられる。
 この棺内から、鉄剣一口と三連の玉類が出土しました。翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)、瑪瑙(めのう)の棗玉(なつめだま)、碧玉(へきぎょく)の管玉(くだたま)です。
 円丘部の斜面にめぐらされた二重の列石と、その間を埋める円礫、そして墳頂部に立ち並べた巨大な立石群、周囲に敷かれたおびただしい数の円礫は、墳端から見上げると、そびえ立つように見えただろう。いやがうえにも神聖さと首長の偉大さを強調したと思われる。たしかに巨大な墳丘墓であることが写真と図版でよく分かります。
 岡山は日本文明発祥の地だと口癖のようにいつも言っていた同期の弁護士(山崎博幸弁護士)のふくよかな顔を思い出しました。

蘇我氏四代

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:遠山美都男、出版社:ミネルヴァ書房
 蘇我入鹿は王位の簒奪という許されざる野望を抱いたため、それを阻止しようとした中大兄皇子に大極殿で討たれた。そして、その父蝦夷もまた討伐軍に滅ぼされ、ここに権勢を誇っていた逆臣蘇我氏は滅亡し去った。これが通説です。しかし、著者はこれに対して敢然と挑戦します。わずかの資料を手がかりに想像力をフルに発揮して謎解きをしていきます。学者って、すごい才能とくに想像力と総合力の持ち主だということを痛感します。
 蘇我氏の活躍した時代はまだ天皇とは呼んでいなかったので、大王と表記されています。ですから、皇子も王子です。この時期、王宮内に「大極殿」はない。
 蘇我氏を百済系の渡来人とする説がありますが、著者はそれを否定します。
 5世紀の日本では、大王位は後世のように特定の一族に固定はしていなかった。この時期、大王を出すことができる一族は複数存在した。ところが、5世紀後半から6世紀半ばは欽明大王の時代には、大王位が特定の一族、すなわち欽明の子孫で限定、固定されるようになった。ここに初めて、厳密な意味での王族(大王家)が成立した。
 蘇我氏とは初代の稲目が葛城氏の娘と結婚し、葛城氏の血脈に連なることによって成立した豪族だった。稲目は、かつて大王を出すことができた一族で、その資格をもっとも早く否定された葛城氏の血脈を相承する存在だったからこそ、彼の娘は大王の妃として迎えられる資格を存在的に認められていた。
 蘇我氏とは大和国高市郡の曾我の地名に由来する。曾我というのは、この一帯がスゲ(菅)の繁茂する地として知られていたことによる。スゲは事物を浄化する呪力を秘めた神聖な植物と見なされていた。蘇我というウジナは、大王に奉仕する一族の政治的な称号だった。
 初代の稲目は、今では、その祖父の名前すら伝わらない、その限りでは氏素性の分からない人物だった。そのような稲目が大王の政治・外交を補佐する筆頭である大臣という住職に就任できたのは、やはり稲目に代表される蘇我氏が葛城氏の血脈を継承していたから。厩戸は王位継承資格者の一人ではあったが、皇太子ではなかった。この時期にはまだ摂政と呼ばれる公的な地位もない。唯一の皇位継承予定者としての皇太子の地位が成立するのは100年後の689年のこと。
 厩戸の両親は、いずれも蘇我稲目の娘を母としていたから、彼が蘇我のテリトリーのなかで育てられたことは疑いない。
 蘇我蝦夷は、その母を介して、自分は物部氏の一員であるという意識をもっていた。当時のこの階層の者は等しく、父方・母方いかなる一族に属するかということで自己を認識していた。
 皇極大王と軽王子という姉弟は、いわば共謀して入鹿を殺害し、中大兄皇子の即位資格を否定した。入鹿暗殺の責任は皇極大王と、皇極の同母弟である軽王子(のちの孝徳大王)だった。
 斬りつけられたときの入鹿の言葉が、有名な次の言葉です。
  臣、罪を知らず。
 この言葉は、蘇我家が大王家乗っとりなどとはまったく無縁であったことを反映するものだというのです。うむむ、これだから歴史書を読むのは大変楽しいんですよね。

古代史の流れ

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:上原真人、出版社:岩波書店
 列島の古代史・全8巻の第8回目の本です。大宝2年(702年)の遣唐使が自らの国を「日本」と名乗るまで、日本列島に形成されていた国は、東アジア世界では「倭国」と認識されていた。
 政治連合(倭国連合)全体を「ヤマト政権」、その盟主として中枢を担った政治勢力を「ヤマト王権」と呼んで区別する。
 ヤマト王権は、畿内南部地域を基盤とする。「やまと」の地域には、三輪山の西麓を中心に古墳時代前期でも古い段階の巨大な前方後円墳が集中している。
 箸(はし)墓古墳(280メートル)、西殿塚古墳(234メートル)、外山茶臼山(とびちゃうすやま)古墳(208メートル)、メスリ山古墳(250メートル)、行灯(あんどんやま)古墳(242メートル)、渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310メートル)の順に3世紀中葉すぎから4世紀中頃にかけて営まれた。これはヤマト政権の盟主、すなわち倭国王の墓ということになる。
 箸墓古墳は、260年前後に造営された。卑弥呼の没年は247年前後なので、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性はきわめて高い。そうすると、卑弥呼の後継者である壱与の墓として西殿塚古墳が考えられる。
 うむむ、ここまでしぼって特定されているのですねー・・・。
 ヤマト政権の盟主墓は、奈良盆地東南部から同北部の佐紀古墳群をへて大阪平野へ移動している。大阪平野への倭国王墓の移動は、大阪平野の勢力が倭国王の地位についた結果にほかならない。
 5世紀の後半に、畿内の王と地方の首長との関係が大きく変化した。それまで「王」と称していた倭国王が5世紀後半になって、「大王」を称するようになった。
 地方の首長層は、直接、畿内の大王に仕えるのではなく、大王の下で特定の職掌を分担する中央豪族とその職掌を通じて密接につながっていた。
 6世紀の継体王統は、近江・尾張など畿内東辺の勢力が大きな役割を果たした。それまで畿内南部の大和・河内の勢力に押さえられていた摂津の勢力が、畿内東辺の勢力と提携して王権を掌握した。
 ところが、継体は、即位してから20年間も大和に入ることができず、山背など淀川水系を転々としていた。大和に入ることができたのは、それ以前の王統の血を受け継ぐ仁賢大王の娘・手白香皇女と結婚し、入り婿の形でヤマトの王統につながることができたから。
 古墳時代の倭国には夫婦合葬の風習はなかった。渡来人集団では夫婦合葬だったが、倭人集団では違った。妻は死ぬと、里方の父の墓などに合葬されるのが一般的だった。つまり、同族関係が合葬の原理だった。
 うへーっ、そうなんですか・・・。昔の日本では、夫婦は死んだら別々のお墓に入っていたのですか・・・。知りませんでした。最近、そういうのが増えているそうですが、先祖がえりなのですね。
 8世紀末ころの日本の人口は540〜590万人程度だった。
 天平7年(735年)ころ、五位以上の位階をもつ官人は、天皇に親しく仕えつつ国政を領導する「マヘツキミ」で、8世紀はじめに150人いた。ところが、天平末年から人数が増えて200人ほどになり、その後は300人台で推移した。
 奈良朝では、事務決裁は口頭でなされていた。下級者が文書内容を読申し、上級者が口頭で「宣」を下す。これが読申公文(どくしんくもん)という、律令制本来の決裁方式だった。ところが、文字文化が浸透していったので、決裁者が文書を黙読し、次々に決裁を下していく新しい方式に変わった。これを申文刺文(しんぶんしぶん)という。どちらも私の知らない用語でした。古代史の研究は相当すすんでいるようです。

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