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カテゴリー: 日本史(古代史)

律令期陵墓の成立と都城

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 今尾 文昭、 出版 青木書店
 私は、もちろん奈良に行ったことはありますが、そこに下ツ道、中ツ道などがあるというのは知りませんでしたし、ましてや、そこを歩いたことがありません。ぜひとも、近いうちにこの奈良の古道を歩いてみたいと思っています。
 藤原京の復元案について、1965年来の定説が、最近の発掘の成果として再検討されている。
 江戸時代、元禄期(1700年ころ)、京都所司代は、奈良奉行所を通じて奈良の村々に陵墓の探索を命じた。天皇陵の調査は、江戸時代から始まっていたわけですね。
 天皇(大王)の葬送儀礼は道路、それも交差点(チマタ)で行われることがあった。うひゃあ、そ、そうなんですか……。いわば、大きな広場における大々的な葬式ということなんでしょうね。
 7世紀から8世紀にかけて、八角墳がつくられた。これは、即位した大王や天皇が採用した墳形であったと考えられる。当時、優勢だった大豪族の蘇我氏が、積極的に採用していた大形方墳に代わるものとして新たに作り出されたのが、この八角墳ではなかったか。つまり、八角墳の出現は、この時期に大王が諸豪族に超越した地位を目ざしていたことと不可分の動きなのだ。
 なるほど、ですね。でも、私は、八角墳というものの存在を、この本を読むまで認識していませんでした。
高松塚の古墳の壁画は、中国南朝の塼画塼室の壁面構成の思想が6世紀に朝鮮半島の百済に伝わり、それが温存された後、唐の画風を日本で再現したものと考えられる。
 いやあ、古代日本って今の私たちが想像する以上に、国際交流が盛んだったのですね。著者は、天皇陵だとして宮内庁が厳重に管理して学者の発掘調査を許さないことを厳しく批判していますが、まったく同感です。
 天皇一族の祖先が朝鮮半島からの渡来者であることは間違いないものと私は考えています(それでいいじゃないですか。何にも問題なんてありませんよ……)。そのことが発掘調査で裏付けられたら困るというのが宮内庁の考えのようです。でも、そうだったら、それでいいと思うのです。日本だけが優秀な民族だなんていうのは、誤った狭い考えですよ。
 昔は、朝鮮半島そして中国大陸のほうが日本列島よりはるかに高度に文化が発達していたのは間違いないのですから。
 
(2008年5月刊。5500円+税)

継体天皇、二つの陵墓 四つの王宮

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 森田 克行・西川 寿勝・鹿野 塁、 出版 新泉社
 継体天皇(大王)の実態を知るために、多くの図と写真があって、大変楽しく学べる本です。
 継体天皇が注目される理由の一つは、現在の天皇家につながる最初の天皇ではないかと考えられていることによる。
 天皇家の系統は実は3系統ある。えっ、日本って、万世一系の天皇が支配してきたんじゃなかったの……。そう思った人は、皇国史観に毒されています。それは間違った認識です。
 よく調べると、皇位継承が円滑にいかなかった時期が2回ある。第1回目は仲哀天皇から広神天皇の間で、2回目が武烈天皇から継体天皇の間。
 日本で馬の国産化が定着するのは400年代後半のこと。このころ朝鮮半島では高句麗が南下し、百済や伽耶諸国を圧迫する。500年ころからは、日本にも騎馬兵が増加する。古墳に副葬されたヨロイが短甲から桂甲、つまり徒歩用から乗馬用に変化した。
 継体天皇にとって、仏教の拡散は耐えがたい憂鬱だったと推測できる。継体天皇が死んで7年目(538年)に、仏教が日本に公伝した。
 鐘の縁に鈴を鋳造した鈴鏡(れいきょう)と呼ばれる一群の鏡が500年代前半の古墳から全国的に出土した。これは中国起源ではなく、日本独自のものである。鏡の周辺部にあとから鈴を溶接したものではなく、鋳型に金と鈴を同時に彫り込み、一鋳づくりで仕上げたもの。
 400年代前半ころから、古墳の副葬品に馬具がみられる。これらの馬具は、乗馬の風習がこのころ伝わって来たこと、馬具が当時の人々にとって非常に重要なものであったことを示している。
この本には、数多くの図版が入っているため、本来の古墳がどのように作られていたのかを容易に理解することができます。
 そして、朝鮮半島からの渡来系の人々が日本の有力な支配層になったことは間違いないと思いますが、いったい言葉はどうしていたのでしょうか。文字は、どうなのでしょうか。いろいろ疑問も湧いてきます。まあ、だからこそ本を読む楽しみは尽きないわけですが……。
(2008年8月刊。2300円+税)

原の辻遺跡

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 宮崎 貴夫、 出版 同成社
 壱岐島へ行ったら、ぜひ原の辻遺跡にも行ってみてください。一見の価値はあります。吉野ヶ里遺跡ほどのすごさはありませんが、古代日本が朝鮮半島そして中国と密接なつながりを持っていたことを実感させてくれる遺跡です。今では、立派な博物館もすぐ近くに併設されていて、解説によってさらに理解できます。
 原の辻遺跡は、「一支国(いきこく)」の中心となる王都であることが今では確定している。「一支国」は、3世紀の中国の正史「三国志」魏書東夷伝倭人の条。いわゆる『魏志倭人伝』に登場している国の一つである。「官を卑狗(ひこ)と言い、副を卑奴母離(ひなもり)という」「3千ばかりの家」があるとされている。他の国が「戸」という世帯数で表されているのに、一支国と不弥国のみ「家」というあいまいな表現になっている。これは、島民の航海のための長期にわたる海外出張や、大陸や本土からやってくる交易のための渡航者が多いため、人数が確定しにくく、魏の使者から人口を問われて、あいまいに答えたことによると考えられている。
 うへーっ、そんな違いがありうるのですか……。
 遺跡から、ココヤシ製笛、青銅製ヤリガンナ、権(はかり。チキリのこと)が出土した。環濠に棄てられた人骨は、男と女、子どもも含んでおり、北部弥生人や西北九州弥生人タイプも認められた。そして、人骨には関節がついた状態や刃物の痕跡も認められた。
 4世紀の壱岐をめぐる情勢は、高句麗が313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼし、315年に玄蒐城を攻破している。原の辻遺跡は、中国との対外交渉の場所である楽浪郡・帯方郡との足がかりを失ったことが決定的な打撃となった。また、日本列島のほうでは、中国の魏と西晋を後ろ盾とした「邪馬台国連合体制」から「ヤマト政権」への再編がすすんでいた。そのなかで原の辻遺跡の存立基盤が失われていた。
原の辻遺跡には、船着場跡がある。これは、日本最古であり、東アジアにおけるもっとも古い船着場跡でもある。原の辻遺跡には、楽浪系土器、三翼鏃(やじり)、五鎌銭(前漢)などの中国系文物も出土している。韓人、倭人のほか、楽浪漢人も訪れ、交易をしていたことが分かる。
 王奔の「新」14年に作られた「貨泉」も出土している。
 原の辻遺跡は、まだ10%が発掘されたにすぎないそうです。だったら、これからの発掘調査の進展が楽しみですね。
 現場は、だだっぴろい平野地帯です。人家もあまりありませんので、これからも続々すごい遺物が出てくるのではないでしょうか。大いに期待しています。
 土曜美に大分に行ってきました。夜、フグをしっかり賞味しました。いやあ、美味しかったです。フグ肝がこんなに素晴らしい味だとは思いませんでした。いえフグ肝を初めて食べたのではありません。とにかく形は大きいし、その柔らかさといい、とろけるほどの舌触りで、なんとも言えない絶品です。私の前にいた大分の弁護士は、だけどこれを食べ過ぎると痛風になってしまうんだよね、と言いつつ食していました。
 フグ刺しも身が厚くて、ネギを巻いて堪能しました。あっ、フグの唐揚げも絶妙な味でしたよ。それに、あのヒレ酒が出てきたのですが、これがまたなんとも言えぬほどのまろやかな味わいで、ついついおかわりを所望したくなるほどでした。ごちそうさま。
(2008年11月刊。1800円+税)

継体大王の時代

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 高槻市教育委員会、 出版 吉川弘文館
 淀川流域にある今城塚(いましろづか)古墳こそ継体大王のお墓であることは反論もなく定説化している。このころは、まだ天皇と呼んでいなかったので、大王となっています。
 それまでのヤマト王権の大王たちの地域的な基盤は、ヤマトや河内にあった。その北になる淀川水系は、ヤマト王権の本来の領域には含まれていなかった。継体大王を支えたのは、近江、尾張、越前といった畿内東辺の勢力、そして淀川水系の勢力であった。
 継体大王のあと、また大王のお墓は大和川水系の大和、河内に戻っていった。
 古墳時代の前期や中期のヤマト王権は、列島各地に基盤を置く首長たちが首長連合とでも呼んだらいいような政治的まとまりを形成していた。その中心が畿内連合で、その頂点に大王が位置していた。
 5世紀後半からの後期になると王権は、より中央集権的で強力な体制の形成を目指し、各地に盤踞(ばんきょ)していた大首長勢力(旧勢力)の在地支配を弱体化する、あるいは解体するとともに、この時期に台頭してきた新興の中小首長層や広汎な有力家長層(新興勢力)を王権の新しい支配秩序のなかに組み入れようとしはじめた。
 ヤマト王権の動揺期に、それに乗じるかのように九州勢力が強大化し、西日本を中心に日本海沿岸の各地や瀬戸内海沿岸の所々に勢力を拡大していった。
 九州の宇土(熊本県)に産する阿蘇ピンク石(馬門石、まかどいし)製の刳抜(くりぬき)式石棺が畿内や近江に運び込まれた。この阿蘇ピンク石製刳抜式石棺は、中期の王権に批判的な立場の畿内やその周辺の一部の勢力が、九州有明海周辺の勢力との関係のなかで石材を求め、独自の石棺をつくった可能性が高い。
 九州勢力は、一つの強固なまとまりというより、中期的な比較的緩やかな首長連合的まとまりで、畿内を圧倒するに至らず、かえって王権による中央集権的な体制づくりが進行するなかでは解体されるべき運命のものであった。磐井の乱は、そのような性格の戦いだった。ふむふむ、九州人の私としてはとても残念な気はしますが、そうだったのでしょうね。クシュン。
 有明海沿岸の勢力が朝鮮半島との交渉、交易に中心的な役割を果たしていた。これは、江田船山古墳(熊本県)の見事な百済、大加那系の金銅製の装身具を見ても確実である。
 有明海沿岸に産出される石が継体大王の墓に運び込まれていることを初めて知りました。やはり、八女の磐井の乱は、九州勢力の強大さを意味するものだったのですね。よかった、よかった・・・。
(2008年10月刊。933円+税)

日本の原像

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:平川 南、 発行:小学館
 5世紀の倭国王は、稲荷山古墳出土鉄剣や江田船山古墳出土鉄刀の銘文にみられるように、仕え奉っている人からは「大王」と呼ばれていた。しかし、鉄剣銘に「王賜」と見えるように、倭国王自身は日本列島の内外で「王」と名乗っていた。王の一字だけでもオオキミと読まれる。
 607年に派遣された小野妹子が携行した国書を見て隋の煬帝は怒った。それは、中国の皇帝と同じ「天子」を蛮夷の国である倭国王が名乗っているのを無礼としたのである。煬帝は、「天子」という対等関係を記した国書を許さなかった。つまり、煬帝は「日出づる処」とか「日没する処」というのに怒ったわけではないというわけです。
 推古朝のときは、国内的には「王」か「大王」を、対外的には「天子」を用いていて、まだ「天皇」という言葉は使っていなかった。
 日本の君主の称号が公式に「天皇」と定められたのは、「皇后」の呼称と同じ飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によってのこと。(689年)。
中国の唐朝において、高宗を「天皇」、武后を「天后」と称した。天皇というのは、本来、宇宙を統治する天帝という意味である。武后は皇帝より一階級下げた意味で「天皇」号を定めた。つまり、中国では「天皇」号は「皇帝」の称号より下位に位置づけられていた。したがって、日本が「天子」「大王」にかわって「天皇」号をつかっても中国にとって何ら不都合はなかった。
 天皇の和訓はスメラミコトである。スメラとは「澄む」に由来し、聖別された称号である。ヤマトの大王は天子またはアメタリシヒコと称していたが、天武朝に至って、このアメタリシヒコから「清浄な神」スメラミコト=天皇へと昇華した。
 古事記には一例も「日本」が出てこない。日本書紀の「日本」に対して、古事記は「倭」と呼んでいた。「天皇」号も「日本」国号も、その大前提として中国の承認が必要だった。中国にとって不都合でないと認められたものを選ばなければならなかったのである。
 日本は、仏典の説く「日出ずる処は是れ東方」という位置づけに置いた。あくまでも中国的世界像の東方に位置づけたことから、中国側も容認したのであろう。
 うむむ、日本という国名も、天皇という称号も、ともに中国の許容しうる範囲内のものであったというわけなんですね。驚きました。知りませんでした。
 稲の品種名は、古来、和歌や農書など、さまざまな文献に記されてきた。国家経済の根幹である稲作に対して、人々が常に関心を寄せてきたことの表れである。
 出挙(すいこ)は、毎年、春3月と夏5月に国家が農民に稲を貸し付けて、秋の収穫時に普通は5割の利息とともに徴収する制度である。この5割の利息は、国家財政にとって魅力的なものであった。
稲の品種改良が多かったことは、品種ごとの成長時期のずれによって、風倒などの被害の危険性が分散されるわけである。風水害だけでなく、病害虫に対する備えとしても多品種の作付けは有効である。
 古代日本と中国の関係について、さらに認識を深めることができる本でした。
(2008年9月刊。933円+税)

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