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カテゴリー: 日本史(古代史)

遣隋使がみた風景

カテゴリー:日本史(古代史)

著者   気賀澤 保規 、 出版   八木書店
 中国の隋王朝は、唐朝300年にとどまらず、後世にまで計りしれない影響を支えた、中国史上の大きな節目に位置づけられる。隋は、法令と仏教という日本の柱を通じて、初めて東アジア世界に共通する足場を築き、その中心に立つことになった。
 隋王朝では、万事締まり屋の文帝に対し、その後の煬帝(ようだい)は派手好きで権勢欲に燃えた皇帝だった。14年間の治世において、父の残した蓄えを使い尽くし、全土に広がった反隋の嵐の中で没した。
 煬帝に暴君の汚名を着せた第一の要因は、その即位以来、休むことをしらない大規模土木事業によって、民衆を疲弊の底に落としたこと。洛陽をつくり、大運河をつくった。洛陽には、在位中、3分の1ほどしかなかった。そして、3回にわたって、高句麗遠征が強行された。
 煬帝は兄を押しのけて権力の座についたが、煬帝の行動に無駄なものはなく、着実に一つの方向に向かって歩を進めていることが明らかである。統一帝国の隋を強化し、南北を一体化させ、次いで周辺諸国を従えた東アジアの盟主となる道である。
 倭国は、隋末の動乱が激しさを増している、まさにその時期に遣隋使を出した。倭国は、高句麗や反済などを通じて、隋の国内の動きや高句麗遠征の結末、煬帝の置かれた立場などを把握する努力をしていたと思われる。
 隋に渡った官人である小野妹子の位階である大礼は冠位十二階のなかの第五位であり、それほど高くはない。しかし、晩年は大徳の地位にあり、冠位十二階の最高位となった。
 日出処と日没処について、従来の有力な学説は日出処は日没処に優越すると解釈していたが、それは成立しがたいことが明らかになった。要するに日出処は東方、日没処は西方というだけなのである。方角の違いで価値判断が動くわけはなく、むしろ問題になったのは「天子」という言葉。国書に「菩薩天子」と書かれているが、これは当時の皇帝である煬帝ではなく、先代の文帝をさす。
朝鮮半島から渡来した僧侶が政治的に重用されるのは、推古朝で珍しいことではなかった。
 当時の中国王朝の認識は、倭国とは遠い海の彼方から文明の恩恵を求めてやって来た未開の小国というものだった。
 7世紀の奈良時代、箸(はし)が一般的に使われはじめていた。まださじは使っていなかった可能性がある。地方では、ほとんどの食事は手づかみだったろう。
このころ(8世紀末)、日本の人口は600万人もいなかった。したがって、遣隋使の時代である7世紀前半は400万人より少なく、2~300万人だったろう。
 6世紀末の日本では、文字文明の進んだ朝鮮半島からやってきた渡来系の人々だった。文字を使いこなすのは、6世紀末の日本では、まだ一般化していなかった。
 倭からみた遣隋使の派遣回数は4回、隋からみて3回ということになる。
遣隋使のころの日本と中国、そして朝鮮半島の状況を知ることのできる本でした。440頁もある骨のある大作です。
(2012年2月刊。3800円+税)

西都原古代文化を探る

カテゴリー:日本史(古代史)

著者   日高 正晴 、 出版   宮崎文庫
 3月に2度も宮崎へ出張することがあり、宮崎空港の書店で目にして購入した本です。
 西都原(さいとばる)古墳の壮大さには圧倒されます。まだ行っていない人には、ぜひ現地へ足を運ばれるよう、強くおすすめします。佐賀県の吉野ヶ里遺跡も一見の価値が十分にありますが、規模では西都原のほうがすごいと私は思います。
 なにしろ宮崎県内には前方後円墳が160基、古墳全部では1590基もあるというのです。ここに古代文明の一大拠点が遭ったことは、このことからも明らかです。そして、宮崎県の中央平野部地帯に1200基あまりの古墳がまさに群在しているのです。奈良の古墳群だけを見て日本の古代文化を語るのは少し公平を欠くと思います。西都原だけで600基に及ぶ大古墳群があるのです。現地に行くと、その壮大な規模に圧倒されます。
 西都原古墳群には、前方部が細長く、その高さが低くて幅も狭い、特殊な形成の柄鏡(えかがみ)式古墳が散在する。この柄鏡式古墳は、広義の分類では前方後円墳の一形式である。
 そして、古墳群の中核をなす墳基として、男狭穂(おさほ)塚と女狭穂(めさほ)塚の存在が特筆される。全長200メートル前後、高さ15メートル以上、経100メートル前後というもの。帆立貝式古墳である。畿内と吉備地方以外には存在しない、西日本最大の巨大古墳である。
 なぜ、こんな辺鄙なところに160基もの前方後円墳があるのか?
『日本書紀』に語られる景行天皇の熊襲(くまそ)征討の伝承の九州行幸ルートにそって、柄鏡式系統の前方後円墳が点在している。
 男狭穂塚・女狭穂塚の築造された5世紀前半において、西都原地区を中心に古代日向の政治的本拠が確立されたと推測できる。畿内大和王権と密接な関連をもつ日向王権の勢力のもとに、西進・南下政策がとられてきた。
 飛鳥時代においても、古代日向の本拠は西都原地帯にあった。鬼の窟(いわや)古墳は、西都原古墳群のほぼ中央部に、一基だけ独立して存在する大形の円形墳である。
 私もこの「おにのいわや」古墳にのぼりましたが、広々とした草原の中央に大きな古墳があることに大いなる驚きを感じました。
 昔、この日向地区は、代表的な馬の産地でした。「日本書紀」下巻にもそのことが明記されているとのことです。そう言えば、都井岬には、今も野生馬がいるそうですね。
 「日本書紀」には応神天皇は、筑紫の蚊田(かだ)に生まれたと書いてあるとのこと。この応神天皇が九州にゆかりの深い天皇だということを知って驚きました。
 西都原を中心とした大古墳文化に象徴される日向勢力が畿内の大和王国と協調しながら、九州における中心的な拠点として、その地位を確立していた。
 大首長墓としての男狭穂塚、女狭穂塚の築造も、西九州のクマソ勢力に対して誇示するために巨大古墳の出現となった可能性が強い。
クマソに対抗する文化として西都原を拠点とする文化があり、それは、畿内の王権と密接な関係をもっていたようです。
 そうは言っても、現代日本では、西都原は福岡からはとても遠くて、行くのは大変で苦労するのですが・・・。
(2009年8月刊。1800円+税)
 今の時期しか食べられないエツのフルコースをみんなで食べに行きました。筑後川の下流、海水と河川の混じる気水域でしか取れないカタクチイワシの仲間です。ほっそりとした白身の魚で、刺身、煮つけ、塩焼、南蛮漬け、てんぷらと手を変え品を変えてフルコースで出てきます。
 今回は調理師による実演まであり、美味しくいただきました。佐賀県諸富町にある津田屋が行きつけです。

前方後円墳の世界

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 広瀬 和雄、  岩波新書  出版 
 
3世紀中頃から7世紀初めにかけての350年間に、日本列島に5200基もの前方後円墳が築造された。そのうち墳長100メートル以上の大型のものは302基。畿内地域に140基が集中している。 
首長の生活拠点や生産基盤から離れた地点に前方後円墳がつくられた背景には、多数の人々に見せるという目的があった。 
古墳時代の共同体の繁栄には、亡くなった先代と当時の二人の首長によって保証されるという共同幻想があった。 
古墳のふもとに埴輪群像を立てている区画がありました。その再現写真は見事なものです。首長権の継承儀礼、もがり、葬列、生前顕彰、墓前、祭祀などのシーンがさまざまな形をした埴輪によって再現されているのです。
 弥生墳墓によるかぎり、大和地域の政治勢力が他地域の首長層を力で屈服させたという説明は困難である。むしろ、各地の勢力が共存していたのではないか。
 前方後円墳と前方後方墳の併存は、各地の首長層に政治的なランク付けがあったことを物語っている。前期古墳の墳丘規模や埋葬施設、あるいは副葬品の各寡からすれば、東国首長層には一段低い地位が与えられていたと解される。
古市古墳群と百舌鳥古墳群を造営した二つの有力首長が、津堂城山古墳、石津丘古墳、仲津山古墳、誉田山古墳、大山古墳、ニサンザイ古墳、丘ミサンザイ古墳の順で、輪番的に大王の地位を七大にわたって世襲した。したがって、百舌鳥・古市古墳群における巨大古墳の登場を、大和から河内での政治中枢の移動、もしくは河内で力を蓄えた政治勢力が大和勢力から政権を奪取したとみなす「河内政権論」は成立しがたい。
平城宮をつくるとき、巨大前方後円墳である市庭古墳の前方部が削平された。ほかにも、いくつか完全に破壊された古墳がある。
中央と地方の首長たちを結びつけ、代々の系譜的なつながりで政治的正統性を確証し、首長層の一個の価値体系をなしてきた前方後円墳を、奈良時代の貴族は見事に否定している。個々には連続性ではなく断絶、異質のものが認められる。
うむむ、前方後円墳を知らずして日本の古代は語れませんが、そこに新しい視点が持ち込まれています。大変に刺激的な内容ですし、大いに勉強になりました。
(2010年8月刊。720円+税)

倭人伝を読みなおす

カテゴリー:日本史(古代史)

 著者 森 浩一、 ちくま新書 出版 
 
 最近のことですが、奴(な)の国のあった春日市へ行ってきました。ずっと前からぜひ行きたかった須玖岡本遺跡を見てきたのです。
 奴国は1世紀の中ごろは、単独で後漢(中国)に使者を送るほどの大国だった。倭人伝に記されている奴国は、それより200年ほど後の姿である。人口は2万戸あって、北部九州の女王国を構成する国々のなかでは、抜きんでた大国だった。3世紀の奴国は、女王国に属しているとはいえ、卑弥呼が景初3年に魏に遣使したときの大使は難升米(なしめ)だった。難升米は奴国の王か王族とみられ、魏も難升米を丁重に扱い、銀印や官職を与えた。
江戸時代に志賀島で発見された金印については、偽物説もありましたが、いまでは本物と確定しているようです。
 春日市は、まさに、その奴国のあったところです。住宅地のなかに遺跡と資料館があるのですが、よくみると、実は、そこだけではなく春日市の内外はすべて遺跡なのです。かつての米軍基地が今は自衛隊の駐屯地になっていますが、そこも掘ったら遺跡が出てくるそうです。私は、自衛隊の基地なんか移転させて、きちんと発掘してそれなりに再現すれば、吉野ヶ里遺跡と同じほどに有意義な学術的展示場になり、観光客も集めて、一大産業、町おこしが出来ると思いました。自衛隊が住宅地のど真ん中にあるなんて、時代錯誤でしかありません。
壱岐島にある原(はる)の辻遺跡は私も行ったことがありますが、大集落というより小都市といってよいほどの規模です。かなりの広さがあり、中心部に資料館があって、往時を偲ぶことが出来ます。
この原の辻は、壱岐国(一大国。一支国)の国色(首都)であった。伊都国は、今の糸島市にあった。ここには、古墳時代前期の前方後円墳が数多く築造されている。
 卑弥呼の「以死」について、著者は卑弥呼が魏から見放されて自死したと解しています。
 正始8年(247年)に女王国と狗奴国との戦いが始まった。その知らせを受けた魏は、帯方郡から張政を派遣した。魏は倭国に励ましではなく、厳しい言葉を送って倭の人たちに卑弥呼の政治的失敗を周知させた。つまり、魏の政府は、卑弥呼を見限り、卑弥呼の大夫(部下)だった難升米を引き上げて女王国の代表として扱った。卑弥呼も事態を認識して、従容として死を選んだ。このように、卑弥呼の死は自然死ではなく、倭国を分裂させた責任をとらされての自死とみられる。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・・。「以死」にそんなに深い意味が隠されていたとは・・・・。さすが学者ですね、かないません。
 筑後の山門郡は邪馬台国九州説の古くからの候補地である。門脇禎二氏(故人)も著者も、長らく邪馬台国ヤマト(奈良県)説だったが、大和説と決別して、今や九州説に転換した。うれしいですね。やっぱり九州それも山門郡(今のみやま市)に邪馬台国はあったというんですから・・・・。女山(ぞやま)あたりにそれらしき確たるものが発見されないか、待たれてなりません。
 邪馬台国はヤマト、つまり今の大和(奈良県)にあったというのではないのです。ぜひこの本を読んで、あなたも確信を持ってくださいな。
(2010年8月刊。740円+税)

倭王の軍団

カテゴリー:日本史(古代史)

 著者 西川 寿勝・田中 晋作 、 出版 新泉社
 
 巨大古墳時代の軍事と外交というサブタイトルのついた本です。古墳から出土した、たくさんの武器・武具の写真があります。なるほど、軍団がいて不思議ではないと思わせます。『古事記』『日本書紀』に登場する応神天皇と仁徳天皇については、実は同一人物の伝説とする見方があり、実は両人とも存在していないという有力学説もある。中国の史書に登場する倭の五王についても、讃と珍については、どの天皇とも決めがたいままだし、この五王の陵墓も定まっていない。
 うへーっ、日本の古代って、まだ分からないことだらけ、なのですね・・・・。
 古代日本の軍団については、史料がないため、その実態はほとんど判明していない。石母田正は、律令初期の軍政について、その大きな特徴は伴造軍(ばんぞうぐん)から脱却し、国造軍(こくぞうぐん)としたことにあると強調した。国造軍とは、国司を頂点とする国単位の行政組織に徴兵・編成・運用までの権限が与えられていたこと。伴造軍とは、有力な豪族の私軍のこと。
 遣隋返使は、日本に軍団なしと報告した。
壬申の乱(672年)は、皇族や畿内の有力豪族を二分する政争であったが、その勝敗は国造軍の動向によって決まった。
律令期の軍団の特質は、兵員の入れ替えや補填のシステムを完成させたところにある。国造が戸籍を管理し、平時に役務と訓練をおこない、有事になると必要数に応じた兵士を送り出す組織をつくっていた。
軍団の主力武器は打刀(うちがたな)だったと復元されている。打刀とは、刀を下にして腰に佩帯(はいたい)する大刀(だいとう)で、古墳時代は直刀(ちょくとう)、中世以降は刃反(はぞ)りがつく湾刀(わんとう)だった。反(そ)りのない直刀や剣は衝撃を吸収できない。手をしびれさせず、そぐように斬るには高い習練が必要だった。
しかし、著者は打刀は主力兵器にならないという考えです。
鉄砲の普及以来の主力兵器は、古代にさかのぼっても刀剣ではなく弓矢であり、矢合戦が戦闘の普遍的な姿だった。
疾走する騎馬による投射戦が発達しなかったのは、馬の頭が邪魔になって、正面を狙えないから。下を短く、上を長く傾けずに持つ日本の長弓を馬上で構えたとき、馬の頭をはさんで反対側は常に死角となる。そこで、馬を静止させた騎射では、馬を横向きにして敵と対峙する。
 巨大古墳時代においても、戦争は弓矢による戦いが主流だったと考えるべきである。
 日本列島には、当時の朝鮮半島と違って、堅牢な防禦施設をもった城塞がみられないという特徴がある。
巨大古墳の発掘を宮内庁が許さないというのは本当におかしなことです。一般人の立入はともかくとして学術調査は認めるべきです。古代日本に騎馬民族が中国そして朝鮮半島から渡ってきたのではないかという指摘がかつてありました。それを知って、私など、胸がワクワクしたものです。ロマンを感じました。
もっともっと古代日本のことを知りたくなる本です。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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