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カテゴリー: 日本史(古代史)

出雲と大和

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  村井 康彦 、 出版  岩波新書
大変刺激的な本です。従来の通説に果敢に挑戦しています。
邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである。
 これは、この本のオビに書かれた文章です。本当なのでしょうか・・・。
奈良の三輪山は、大物主神を祭っている。そして祭神の大物主神は出雲の神なのである。
 古事記や日本書紀は、天皇勢力の前に出雲勢力が大和進出を果たしていた事実を記述しているのだ。出雲王国の中枢(みやこ)は、出雲国を象徴する斐伊川の流域にあるはずだと考えてきたが、「風土記」によって、それが裏付けられた。
 出雲国の西部奥地は古くから鉄の主要な生産地帯であった。
出雲文化圏を特徴づけるのが、方形墓の四隅がヒトデのように突出する、いわゆる「四隅突出型墳丘墓」の存在である。丹後をふくめた、出雲から越(こし。高志)に至るまで日本海沿岸に存在する四隅突出墓は、出雲後からが遠く北陸の地にまで及んでいたことを示す何よりの証拠であった。それはフォッサマグナを束限とする。信濃は、出雲国にとって、束限の重要な土地であった。
 邪馬台国は出雲との関わりを抜きにしては語れない。
 卑弥呼は大和朝廷の祖先ではなく、無縁の存在であると考えられていたので、「日本書紀」に書きとめられなかった。すなわち、卑弥呼は、大和朝廷の皇統譜に裁せられるべき人物ではないのである。したがって、邪馬台国も大和王朝の前身ではなかった。そこで、大和朝廷を立てたのは、外部から入った勢力だということになる。神武軍の侵攻を阻んだ軍勢は、まぎれもなく出雲勢力であった。卑弥呼亡きあとの邪馬台国連合は、王国を守るために勢力を結集していた。しかし、ついに神武軍は大和に入ってきて、大和朝廷を成立させた。
 邪馬台国は外部勢力(神武軍)の侵攻を受けて滅亡したが、それは戦闘に敗れた結果ではない。総師・饒速日命(にぎはやひのみこと)が最後の段階で戦わず帰順したから。饒速日命は、もっとも信頼のおける部下の長髄彦を殺してまでも和平の道を選んだのである。
同じ出雲系氏族のなかでも、中央の政治に関与した氏族は、葛城氏や蘇我氏のように、いっときの栄光のあとに無念な没落が待っていた。これに対して出雲氏、海部氏・尾張氏などは、神を奉祭する祝の道を歩んだころで存続し、長く血流を伝えている。物部氏は少し特異な生き方をした。
 とても全部は理解できませんでしたが、出雲の勢力が鉄を武器として中央へ進出していったというのは十分にありうる話だと思いました。なにしろ、文明の地(朝鮮半島)にも近かったわけですからね。たまには、卑弥呼の昔をしのんでみるのも、いいことです。
(2013年3月刊。840円+税)

縄文土器ガイドブック

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  井口 直司 、 出版  新泉社
縄文土器は、なんといっても燃えあがる炎のような見事な形が印象的ですよね。ところが、この本を読むと、いえ写真もあります、いろんな形の土器があり、しかも、地域によって形状は大きく違うというのです。見て楽しいガイドブックでもあります。
 九州の縄文土器には豪快な隆起性に富んだ装飾文様は見られない。
 西日本の縄文土器は、文様が簡素化、省略化している。容器づくりの点で技術的に優れていて、これは実用性を優先させた合理的な思考による。薄く作ることに比重をおき、容器としての機能を高めることに労力をかけている。
 これに比して、東日本では技巧をこらし、精緻さを増しながら文様が発達する。東北地方の縄文土器は美と実用性とが一体化し、洗練された装飾文土器として完成する。
 関東地方の縄文土器は大陸文化の影響がもっとも伝わりにくい地域の土器群だった。日本列島ではじめて誕生した土器は、深鉢形をしていた。中期になると、浅鉢が増え、後期には、皿・注口付・壺が増えて弥生式との差が少なくなる。
 縄文時代には、茶わんや皿に類する小形の食器類の土器が存在しない。土器類であった可能性が考えられる日常雑器としての茶わんや皿が深鉢形土器とセットで普通に存在することはなかった。
 土器がまず創造され、それを使ううちに煮炊きにも使用されたのではないか。煮炊きのために土器が誕生したのではないと考えるべき。
 たくさんの写真と解説によって、楽しく縄文土器について学ぶことができました。
(2012年12月刊。2200円+税)

古代天皇家の婚姻戦略

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  荒木 敏夫 、 出版  吉川弘文館
倭王権の婚姻の特質として、閉鎖的であることが言える。婚姻相手を近親に求める近親婚が盛行していた。
 その理由として、母系を通じて他氏族へ血統が流出しない閉鎖的な血縁集団が形成できること、豪族層から外戚として介入を受けない。自立した王家が確立できることがあげられている。
 日本古代の婚姻は異母兄弟姉妹間の婚姻は許されており、その実例は多い。内親王以下、四世王までの王族女性は臣下との婚姻の途が閉ざされていた。厳禁されていたのである。
絶体大王が手白髪と婚姻したが、大王になる前のヲホド王を一地方豪族とみると、王族女性と臣下の婚姻を示す。唯一の例となる。
大王のキサキやミコ、ヒメミコたちは大王と同居している場合は希であり、通常はそれぞれの居住空間である「ミヤ(宮)」に住んでいた。
 蘇我稲目は、戦時下の略奪によって倭国に来た二人の高麗の女性を「妻」とした。蘇我氏の婚姻の相手は列島内に限定されていなかった。倭国・日本にも、中国・百済・高句麗・新羅・伽耶などと同様に、国際婚姻が存在していた。
桓武天皇は、婚姻関係を結ぶ氏族を広くしており、9氏族からキサキを迎えている。藤原氏の南家・北家・武家・京家の四家からキサキを迎えている。
 桓武天皇の母は百済系和氏であった。桓武天皇自身も、百済王氏から、百済王教仁・百済王貞香、百済王教法の3人を入内させている。
 日本における王済王氏の存在は、天皇が元百済王族の者を臣下においていることを日常的に示すことで、天皇が東アジアの小帝国の君主であることを国内外に向けてアピールするうえで好都合の存在であり、象徴的な機能を果たしていた。
 古代天皇家の実体を改めて考えさせられました。
(2013年1月刊。1700円+税)

金属が語る 日本史

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  斉藤 努 、 出版  古川弘文館
日本の金属貨幣は、7世紀後半の無文銀銭(むもんぎんせん)や富本銭(ふほんせん)に始まる。無文銀銭は、純度95%以上の銀を円盤にしたもので、真ん中に小さな丸い穴が開いている。富本銭は、銅でできているが、ほかにアンチモンという金属も含んでいる。
 皇朝十二銭は銅銭だが、鈍銅ではなく、青銅でできている。その銅山は山口県の長登(ながのぼり)銅山や蔵目喜(ぞうめき)銅山である可能性が高い。
和同開珎(わどうかいちん)の「和銅」は、「日本で初めて」という意味ではなく、「にきあかがね」と読み、製錬しなくても既に金属となっている銅のこと。
 日本刀は、折らず曲がらず、よく切れる。本来は相反する硬さと軟らかさの性質が日本刀という一つの製品の中で共存しているということ。日本刀には、硬い鉄と柔らかい鉄が巧みに組みあわされて作っている。
炭素が多いほど鉄は硬くなる。ここらあたりは、実際に刀匠の働き現場で見せてもらった経験が生きているようです。
刀身製作の最終段階の「焼き入れ」は刀に命を吹き込む瞬間である。これは、刀匠がもっとも神経をつかうドラマティックな工程だ。焼き入れの目的は刃部に焼を入れて硬くすること。焼きの入っている部分を入っていない部分の境界に刃文(はもん)を作ること、刀身に「反(そ)りを入れることの三つ。「反り」は日本刀を特徴づけるものの一つだ。
鉄炮は、炭素濃度0.1%以下の軟鉄で出来ている。日本刀と鉄炮は違う素材で出来ている。鉄炮は、火薬が爆発する衝撃で銃身が割れたりしないように、日本刀のような鋼ではなく、柔らかくて粘り強い軟鉄が使われている。
現代のライフル銃は鉄の丸棒の真ん中にあとから穴を開けて銃身にする。しかし、火縄銃は鉄の板を巻いて筒をつくっていた。
硬貨、日本刀、鉄炮について、改めて、その違いが少し分かりました。
(2012年11月刊。1700円+税)

倭人伝を読みなおす

カテゴリー:日本史(古代史)

著者   森 浩一 、 出版   ちくま新書  
 邪馬台国が九州に会ったというのは、ごく自然なことです。なにしろ、当時の文化文明は朝鮮半島の先、中国大陸にあったのですから。奈良の大和朝廷というのは、そのあとのことですよね。吉野ヶ里遺跡、そして西都原古墳群を現地で見たら、ここに古代日本の中心があったことを、きっとあなたも確信するはずです。
倭人は中国周辺の異民族のなかでは特異な集団として扱われていた。
 『魏志』倭人伝は、3世紀の倭人社会を知るうえでは最重要の史料である。しかし、この史料は日本列島の全域ではなく、九州島の北部、とくに北西の玄界灘にのぞんだ土地を詳しく書いている。
 倭人伝研究は書斎にこもって出来るものではない。日本列島にだけ関心のある人は、ときとして倭人伝しか読まない。それでは東夷伝の高句麗や韓の条で、すでに説明されていることを知りようがない。そして、倭人伝は近隣の国のなかでもっとも多い2013字を費やして説明されている。また、登場人物も10人と最多である。
 西暦紀元頃から、倭人は漢字に親しみ、その漢字を日本文化に取り入れていった。
景初2年(238年)までは、倭は公孫氏勢力の設置した帯方郡に属し、景初3年からは魏が任命した太守のいた帯方郡を介して魏に属するようになった。
 狗邪韓国には、貿易や航海の便宜のための拠点となる土地に倭人が住んでいたとはいえ、狗邪韓国全域を倭人が掌握していたのではない。
対馬は、昔は津島と読んでいた。津は、古代の港のこと、津島とは、津の多い島のこと。浦とは漁村のこと。浦のなかでも、交易のできるような港を津と言った。津々浦々というのは海国日本の側面をとらえた言葉だ。
常に伊都国にいた「一大率(いちだいそつ)」は、一人の大率の意味であり、公孫氏勢力の帯方郡が派遣していた。伊都国には、代々、王がいた。女王国より北の6ヶ国で『倭人伝』において王がいたというのは伊都国のみ。伊都は、ヤマト政権や、その後の律令政府にとっても、重要な地であった。
 全国の弥生土器のなかで、もっとも端正で品のよい土器は、人吉盆地を中心にして出土する免田式土器と東海のパレス式土器(宮廷土器)であろう。
卑弥呼の死について「以死」とあるのは、老齢の卑弥呼が権力闘争に敗れて従容として死を選んだということ。それは、倭国を分裂された責任をとらされての自死であった。卑弥呼が死んだのは、正始8年(247年)や、その翌年だろう。
心強い九州説の本でした。
(2012年3月刊。2800円+税)

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