法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(明治)

戊辰戦争後の青年武士とキリスト教

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 目黒 順蔵 ・ 目黒 士門 、 出版 風濤社
『五日市憲法』(岩波新書)を読み終わって、戊辰戦争と自由民権運動の関わりを認識されられていると、その直後にフランス語仲間から、この本が贈られてきました。
戊辰戦争で負けて朝敵となった仙台藩士が東京に出てキリスト教とフランス語に出会い、学校の教員となったあと医師になり、故郷の仙台に戻って自由民権運動とも関わりをもったのでした。
目黒順蔵は仙台藩の次男として生まれた。戊辰戦争では仙台藩の兵士として参戦し、なんとか生きのびたが、「朝敵」、「奸党」の汚名を受けることになった。
明治4年(1871年)、順蔵は東京に出て、フランス人神父の主宰するマラン塾に入った。そして、キリスト教の洗礼を受けた。その後、葉山の学校で教員として働くようになり、さらに、東京の西洋医学校に入って医学を学んで、医師となった。
明治12年に医師として仙台に戻り、病院で働くようになった。
明治18年に、内外科と眼科を開業した。
明治39年、東京に転居した。長男三郎にカトリックとフランス語を学ばせるためだった。
目黒三郎は暁星小・中学校から東京外国語学校(東京外大)仏語部に入学した。そして、大正9年(1920年)4月から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の助教授となった。当時の学生に小林多喜二や伊藤整などがいた。NHKの発足とともに始められた「フランス語講座」の初代の講師をつとめた。
私は弁護士になって以来、NHKラジオで毎朝フランス語講座を聴いています。いつまでたってもちっともうまく話せませんが、おかげで聞き取り能力だけはかなり(としか言えません)アップしました。
順蔵は、関東大震災の5年後の大正7年(1918年)に71歳で亡くなった。
この本は、三郎の死後、その書斎から順蔵の手書き原稿を発見したことから、順蔵の生きた社会状況を順蔵の書きのこした文章を手がかりとして再現したものです。
順蔵は大槻文彦(『大言海』の著者)と親交を結んでいた。
順蔵は古川で病院長をしながら自由民権運動に挺身する青年たちとまじわっていたが、それは村民や青年を扇動するものだとして仙台への転勤を命じられた。それが嫌で、独立・開業することになった。
戊辰戦争と自由民権運動の結びつき、またキリスト教やフランス語との結びつきの具体例が分かり、戊辰戦争のあとに苦労しながら奮闘し、自由民権運動にも目ざめたのが『五日市憲法』の千葉卓三郎だけでないことを知り、大変な感銘を受けました。
目黒ゆりえ様、大いに知的刺激を受けました。贈呈ありがとうございました。
(2018年7月刊。2800円+税)

五日市憲法

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 新井 勝紘 、 出版  岩波新書
明治憲法ができる前に全国各地の自由民権運動は、それぞれ自前の憲法草案を発表したのでした。その一つが五日市憲法と呼ばれるものです。
この本は東京近郊の五日市の「開かずの蔵」から掘り起こされる経緯、そしてそれを発見した大学生がその後、50年にわたって調査・研究した成果が生き生きと語られていて胸が熱くなるほどの感動本となっています。
五日市にあった朽ちかけた土蔵が開かれたのは1968年8月下旬のことでした。わたしは大学2年生、東大闘争が8月に始まってまもなくの、暇をもてあましていたころのことです。
土蔵の2階に小さな弁当箱ほどの竹製の箱があった。蓋をあけてみると、古めいた風呂敷包みが出てきたので、結び目をほどくと、布製の風呂敷はボロボロと崩れてしまった。そして、一番下に和紙をつづった墨書史料があり、「日本帝国憲法」と題した薄い和紙があった。「大日本帝国憲法」ではない。「大」の字が虫に喰われてなくなったくらいに考え、「驚きの新発見」ではなかった。これが、その後の50年の研究のスタートだった。宿舎にもち帰り、そして卒論のテーマとすることになった。
他の憲法草案と比較検証するなかで、まったく目新しい独自のものだということが次第に明らかになっていきます。国民の権利をどう守るか、とりわけ司法によっていかに守るかを重視したものだということが分かります。
今では、まったく東京のはずれでしかない五日市は、明治初年のころは自由民権運動の一つの大きな拠点だったようです。そして、この草案を起草した「千葉卓三郎」の追跡の過程が、それこそ多くの人々の善意によって結実していく過程に心が打たれます。
結論からいうと、卓三郎は仙台藩の出身で、官軍と戦った賊軍の一人でもあり、東京に出てキリスト教に入信し、不敬罪で刑務所に入り、フランス語を学んだりして、自由民権運動に触れて五日市の学校で校長をつとめて憲法草案をつくったものの、31歳の若さで病死したのでした。
今、卓三郎の碑が3ケ所にあるとのことです。それは、ひとえに五日市憲法の内容の先駆性によるものです。自ら被疑者・被告人となって獄舎につながれた経験、かつて賊軍だったことなど、若くして豊富な人生経験したことが結実したものと言えます。
もちろん、五日市憲法の内容も語られているのですが、私にとっては、起草者の発掘過程に胸がドキドキする思いでした。一読に価する新書です。
(2018年4月刊。820円+税)

西南戦争、民衆の記

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 長野 浩典 、 出版  弦書房
この本を読むと、西南戦争って、いったい何だったんだろうかと改めて思わざるをえませんでした。
西郷隆盛たちは、陸路、東京まで何を目ざしていたのでしょうか・・・。
熊本城を攻略できないまま、熊本にずるずると居続けていたのは、なぜだったのでしょうか・・・。そこにどんな戦略があったのでしょうか・・・。
西郷隆盛が陣頭指揮をとった戦闘は2回だけのようです。では、あとは何をしていたのでしょうか・・・。
薩摩軍には戦略がなかったと指摘されていますが、まったく同感です。熊本城包囲戦に成功せず、田原坂の戦いで勝つことが出来ず、兵站(へいたん)に失敗してしまったのですから、戦争に勝てるはずもありません。それでも若者たちを率いて戦場に出向いて、あたら前途有為な青年を死に追いやったのです。西郷隆盛の責任は重大だと思います。
この本は民衆の視点で西南戦争が語られますので、民衆が被害者であったと同時に観客であり、また戦争で金もうけをしていたことも紹介しています。
残酷無比な戦場に、戦闘が終わるとすぐに民衆は出かけていき、戦死者から、その衣服をはぎとっていました。
民衆は軍属として徴用されましたが、戦場の最前線まで武器・弾薬や食糧を届けるのですから、とても危険でとてもペイしませんでした。無理に徴用しても逃亡者続出だったようです。
犬養毅が慶応大学の学生のとき、記者として戦場に出向いて戦場のレポートを新聞に書いていたというのには驚きました。新聞は戦場のことを書くと売れるのです。
西南戦争とあわせて、農民一揆も発生していたのですね。そして、山鹿には数日間だけでしたが、コンミューン自治が実現しました。
それにしても、参加者5万人という薩摩軍は何を目指してしたのでしょうか、さっぱり分かりません。当時の民衆の対応が手にとるように分かり、西南戦争の全体像を改めてつかむことができる本でした。
(2018年2月刊。2200円+税)

明治の男子は星の数ほど夢を見た

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  和多利 月子 、 出版  産業社
 「男はつらいよ」の主人公は車寅次郎ですが、本書の主人公は同じ寅次郎でも山田寅次郎です。寅年に生まれた二男だったことから命名されました。
 トルコに18年間も住み、オスマン帝国のスルタン(皇帝)と芸術面で交流があったとのことです。さらには、幸田露伴の小説のモデルにもなっているといいます。『書生商人』という小説です。沈没した外国船への義捐(ぎえん)金をもって外国へ行くというストーリーですが、それは山田寅次郎がトルコへ和歌山沖で沈没したトルコの軍艦に乗っていて亡くなった人々の遺族へ義捐金をもっていったことにもとづいているのです。
そして、山田寅次郎は伊藤忠太という東大の建築史教授とも交友がありました。さらに晩年は茶道の家元として活躍したのです。赤穂浪士の討入りが12月14日に決まったのは、この日に茶会があることを師匠が浪士の一人・大高源吾に教えたからですが、この茶道師匠と縁のあるのが山田寅次郎の身内の祖先でした。
 オスマン帝国の軍艦エルチュールル号が和歌山沖で遭難したのは、1890年(明治23年)、山田寅次郎が24歳のとき。生存者65人。死者80人という大惨事でした。山田寅次郎たちは義捐金を集めて、遺体・造物の引き揚げに取り組みました。2000万円ほど要したようです。
 著者は山田寅次郎の孫娘にあたります。調べはじめると意外にもたくさんの資料が出てきたようです。豊富な写真とともに明治の男子が夢をもって海外へ雄飛していった状況が明らかにされます。
 それにしても、男子たるもの外国語を三つはモノにせよとのこと。私は、フランス語ひとつだけでも四苦八苦しています。
日本とトルコの交流をはじめた開祖にあたる山田寅次郎なる偉人を知ることができました。たくさんあるさし絵も明治の雰囲気がよく出ています。
(2017年10月刊。2800円+税)

果てなき旅(下)

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  日向 康 、 出版  福音館書店
 足尾銅山公害事件に取り組んだ田中正造の伝記の下巻です。軽く読み飛ばすつもりだったのですが、その扱ったテーマの重大さに押されて、そうは問屋がおろしませんでした。下巻だけでも読了するまで1ヶ月間ほどかかってしまいました(毎週日曜日のランチタイムに読んでいたのです・・・)。
 明治34年10月23日、田中正造は衆議院議員の職を辞した。翌月、銅山王・古河市兵衛の妻が神田川で水死体として発見された。同年12月、61歳の田中正造は天皇の馬車に対して直訴状を手にもって近づいた。「お願いの儀がございます」。この直訴状は、社会主義者の幸徳秋水が執筆した。
 幸徳秋水は、社会主義者として、事態の解決を天皇の手に頼ろうとする点に抵抗があり、また、いかにも大時代的な直訴状(じきそじょう)なるものを起草するのは、いかがかとためらった。しかし、長年にわたる苦闘に疲れている田中正造の姿を見て、断りきれなかった。
 田中正造は、自分は死んでもよいと考えていた。そして、鉱毒事件の解決のために社会主義者を巻き込もうと考えていた。
 ところが、田中正造は「狂人」として、何ら罰されることがなかった。田中正造を裁判にかけたら、足尾銅山による公害被害民を支援する世論が湧きたつ危険があった。それを政府は計算した。実際、田中正造の直訴をきっかけとして、鉱毒事件に対する世論が大きく湧きたった。新聞は、こぞって支援したし、内村鑑三や安倍磯雄、そして木下尚江などが被害者救済の演説会を開いた。さらに、明治34年の暮れ、東京在住の大学生たちが大挙して被害地を視察した。そして、鉱毒地救済婦人会も大活躍した。
 この大学生たちについて、結局、何の役にも立たないと田中正造は落胆しています。本当に残念です。学生の大部分は、わが身安全を第一と願う人間となって社会に出てしまう・・・。そうなんですよね・・・。実に痛い指摘です。東大闘争を経験した多くの東大生は権力の醜さを実感したと思うのですが、その多くがいつのまにか体制に順応していきました。
 田中正造に対して、「予戒令」(よかいれい)という措置が講じられたというのは初めて知りました。県知事や警視総監が発する制限命令です。
田中正造は73歳で亡くなりました。死んだとき残っていたのは菅(すげ)の小笠と1本の杖。信玄袋に入っていたのは、聖書と帝国憲法、そして日記帳、そのほか・・・。
 偉大なる、というか不屈の闘士である田中正造の生きざまを垣間見る思いのした本です。37年も前の古い本ですが、ネットで注文して読みました。大変読みごたえのある本です。
(1980年2月刊。1300円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.