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カテゴリー: 日本史(明治)

江戸東京の明治維新

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 横山 百合子 、 出版  岩波新書
眼が大きく開かされる思いのする本です。知らないことだらけで、明治の庶民の毎日の生活を始めて実感できた気がしました。
明治初年の東京には、町方人口の7~8割が、その日稼ぎの人々だった。
下層民とは、①畳や建具はもっているが、三度の食事のうち二度が粥(かゆ)である「上」、②カマドと湯釜、タンスなどは持っているが、サツマイモや粥を日に二度食べるのがやっとの「中」、③畳、建具もカマドもない「下」。
そして、江戸から明治になって物もらい(窮民)が大量に発生した。品川、千住、四ッ谷、板橋そして本所海辺あたりに散在している物もらいや無宿非人が1万余人もいた。
路上には床店(とこみせ)が立ち並んでいた。間口が一間から二間ほどの小さな家とも小屋ともつかない建物。この床店から上がる利益をめぐって、幕府一町、請負人一床所地主(家守層)一床商人という重層的な分配構造が形づくられていた。やがて路上から追われた床商人たちは、明治10年代になると、共同で付近の店舗を借り受け、密集した商いの場をつくり出していった。
新吉原遊廓では遊女たちによる放火が多かった。遊女の処遇が過酷だったから。1849年に起きた放火事件は、遊女16人によるもので、すぐに発見されるよう表通りからも目に着く2階の格子に放火し、直ちに名主の下に自首して抱え主の非道を告発したものだった。
明治になって解放令が出たあと、遊女かしくと竹次郎の連名による嘆願書が紹介されています。そこでは、7歳で身売りして新吉原の遊女になったかしくが、「遊女いやだ申候」として、解放のうえ結婚することを認めてほしいと東京府に願い出たのでした。口頭指示で却下されたようですが、それでも、このような書面が残っていたこと自体が驚きです。
江戸が明治に変わったころ、下層市民はどのように生きていたのかを知ることのできる貴重な労作です。この本は、明治初めに生きていた市民の生活の実情を知るため、広く読まれてほしいと思いました。
(2018年11月刊。780円+税)

生きづらい明治社会

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 松沢 裕作 、 出版  岩波ジュニア新書
1868年が明治のはじまりです。それから1945年の敗戦まで、なんと77年間でしかありません。いま、敗戦から73年たっていますので、その差はわずか4年。
前の77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦に参戦して中国・青島でドイツ軍と戦争し、さらに第二次世界大戦をひき起こしました。まさに、戦争に明け暮れた77年間です。それに対して、敗戦後の73年間は、戦争とは無縁(少くとも直接的には)で過ごしてきたのです。ありがたいことですよね、これって・・・。
明治維新から明治天皇が死んだ1912年までの45年間に、日本は大きく変わった。
日清・日露戦争によって、日本は台湾や朝鮮半島を植民地とした。明治時代は経済的には発展の時代だった。1870年に3400万人だった人口は、明治が終わるころには5000万人(植民地は除く)になっていた。実質GDPは2倍になった。
明治時代の人びとは、大きな変化のなかを不安とともに生きた。そして、不安のなかを生きていた明治時代の人たちは、ある種の「わな」にはまってしまった。
明治の都市下層社会では、家族は安定した形をとっていない。正式に結婚している夫婦は少なく、事実婚の夫婦が多い。そして、夫婦ゲンカが絶えない。
長屋に住むが、そこは木造平屋建てで、四畳や六畳の一部屋だけ。布団を所有しない世帯も珍しくない。布団を買うお金がないので、毎日の収入のなかから、少額のレンタル料を払って布団を借りている人が珍しくなかった。
住居をもてない都市下層民は木賃宿(きちんやど)に住んだ。大部屋に人びとが雑魚寝(ざこね)して寝泊りする。東京市内に145の木賃宿があり、1ヶ月の宿泊者は1万3000人だった。20畳の部屋に照明はランプが一つ、まくらは丸太で、寝具は汚れて悪臭を放ち、ノミがたくさんいるという不衛生な状況だった。
明治時代、今の生活保護法に類似した制度は恤救(じゅっきゅう)規則。これまで隣近所で面倒見てきた者は、この恤救規則の対象にはならないとされた。国は、救助を貧困者の隣近所の住民に押しつけた。
貧困は自己責任であって、社会の責任ではない。法律をつくると、怠け者が増えてしまう。こう言って、反対する議員が多く、法律は制定されなかった。
江戸時代には、農村部の休日は増加傾向にあった。最大で年間80日も休んでいた村もあった。ところが、明治時代になると、通俗道徳の「わな」に人びとがはまってしまった。人びとが、自分たちから、自分が直面している困難を他人のせい、支配者のせいにしないで、自分の責任としてかぶる思想にとりつかれていた。
貧困者を「ダメ人間」視するところでは、政府や地方自治体のような公的機関が、税金を貧困者のためにつかうことには強い抵抗がある。一部の「ダメ人間」のために、「みんな」のお金をつかうことはできないと考えるのだ。
おカネは、道路、鉄道、学校といった、「みんながつかうもの」と考えられた目的につかわれ、貧困対策のような「一部の人たちだけがトクをする」と考えられたものには使われなかった。
慈善は悪事である。怠け者を助けてやっても、ますますつけあがって怠けるだけ。
成功した者が動かす社会では、政府がつかうおカネが増えたからといって、それが貧困対策につかわれることはない。成功者たちからすると、貧困者は怠け者の「ダメ人間」なのだ。
いやあ、今でも、こんな考え方の人は多いですよね。自分がいつ弱者になるかもしれないのに、そんなことをまったく考えないのです。
生きづらいのは明治社会だけではなく、現代日本でも残念ながら同じですよね。こんなすばらしい本がジュニア新書として出ているんですね・・・。多くの人に一読してほしい本です。
(2018年9月刊。800円+税)

新にっぽん奥地紀行

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 芦原 伸 、 出版  山と渓谷社
イザベラ・バードを鉄道でゆく。明治の初めに東北と北海道をめぐる女一人旅を敢行したイギリス人女性の足跡を鉄道で追いかけた本です。
イザベラ・バードが日本を旅したのは40代のころ、当時は独身でした。東北地方を引き馬に乗って旅をし、北海道に渡っています。イギリスに戻って出版した『日本奥地紀行』(1880年)は、発売と同時に重版というヒット作になりました。うらやましい限りです。
40歳をこえてから紀行作家として活躍したイザベラ・バードは、72歳で亡くなりました。
顔は平たく、鼻は低く、がに股で、ちんちくりんの一寸法師。これが、当時の外国人から見た日本人の印象だった。
日本には浮浪者がひとりもいない。小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべき何らかの自分の仕事というものを持っていた。
では、イザベラ・バードの容姿はどうか・・・。ずんぐりとした、やや太めの金髪のイギリス婦人。つまり、外見はフツーのおばさん。しかし、態度は物おじせず、きびきびしていて、とても47歳の熟年女性とは思えなかった。
英国代理領事はバードにこう言った。
「英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう。ただし、ノミの大群と乗る馬の貧弱なことを除けば・・・」
バードが東北地方を旅行したのは明治11年のこと。前年(明治10年)に西南戦争が起きている。そして、バードが横浜に着いた10日前に大久保利通が暗殺された。血を血で洗う激動の時代にバードは日本に来たのだった。
日光に今もある金谷ホテルの宿帳には、バードが宿泊したことが記載されている。
会津で、バードは、眠れない、食べれない、好奇の的にさらされる。プライバシーが保てない。警察官から疑われる。1日11時間を費やしても、30キロも進まない。
バードは、「ただの一度として不作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともない」と書いています。当時の人々の道徳心の高さをうかがわせます。今の日本では、果たして同じだと言えるでしょうか・・・。
バードの旅を同行した通訳でもある伊藤鶴吉は、惜しくも54歳の若さで亡くなっています。日本人へのバードの高い評価はこの通訳・鶴吉の人柄と能力によるところも大きいと思います。
バードが各地でスケッチした絵は見事なものです。明治初めのころの日本の実情をよく知ることができる紀行文として、資料的価値もあります。
面白い旅の本でした。
(2018年7月刊。1600円+税)

明治の技術官僚

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 柏原 宏紀 、 出版  中公新書
申し訳ないことに「長洲ファイヴ」も長州五傑(ごけつ)も私は知りませんでした。映画化もされているようです。
明治になる前の幕末、長州藩からイギリスに密航した5人の藩士がいた。伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三。もちろん、伊藤博文と井上馨は知っています。私が知らなかったのは残る3人です。井上勝は、日本における鉄道の導入そして拡大を主導した人物として、東京駅前広場に銅像が立っている。うひゃあ、そ、そうなんですか・・・。遠藤は、近代的な造幣事業(要するに紙幣、お金です)のスタート段階で大きな役割を果たした。山尾は、工部省の創設に関わり、鉄道、電信、造船などに尽力した。
このように、3人とも明治政府における官庁に属して活躍するという官僚人生を歩んだ。いずれも技術官僚だった。そして、老年に近くなるまで、長く政府内にとどまった。
長州藩は攘夷というだけでなく、西洋に藩士を派遣して新知識を習得させて導入しようという度量の広さも持ちあわせていたのですね。すごいことです。
1人あたり1000両かかるということで、藩は1人200両を出し、商人から5000両借金(押借、おしがり)して工面した。長州藩は、極秘に硬軟両様で時局にのぞんでいたのだ。
この5人がロンドンに到着したのは183年(文久3年)のこと。伊藤と井上馨はわずか7ヶ月で日本に帰国したが、残った3人は、専門性を身につけていった。イギリスでは、薩摩藩からの留学生とも交流していたようです。
明治5年に京浜間で鉄道が開通した。山尾・工部省の所管だった。それまでは、多くの人が道路建設を優先させよと言っていたが、今では、早く東京から青森や京都まで鉄道を敷設せよと希望していると山尾は報告した。
井上勝は、鉱山頭兼鉄道頭となり、次第に鉄道専任の官僚となっていった。
明治初めごろのお雇い外国人の給与は高額だった。太政大臣の月給が800円だったのに、鉄道差配役カーギルは2000円、建設部長ギイルは1250円。そして、400円クラスの外国人が複数いた。
長州五傑は、密航留学経験に由来する専門性を基盤として明治政府で活躍した五人組だった。
著者は五人組の陰の部分も指摘しています。
要するに、過激なテロ行為に加担し、政治外交を大きく混乱させた。伊藤博文も若いころはテロリストだったのですよね。そして、明治政府で自己主張が強くて組織の秩序を乱したこともあった。さらには公私の区別があいまいだった。そして、藩閥の論理を露界にすすめる片棒も担いでいた。
このように、功罪、それぞれをきちんと踏まえるのは、とても難しいと私も思います。
それにしても、このような力をもった技術官僚はたしかに必要ですよね。と言いつつも、アベ政権に骨抜きされて、唯々諾々つかえるだけの官僚であっては困ります。
(2018年4月刊。880円+税)

戊辰戦争の新視点(上)

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 奈倉 哲三 ・ 保谷 徹 ・ 箱石 大 、 出版  吉川弘文館
幕末から明治にかけて戦われた戊辰戦争のとき、諸外国がどのようにみていたのか、興味深いものがあります。
日本での内戦は欧米の死の商人たちにとっては絶好のビジネスチャンスだった。大量の武器弾薬が開港地で取引されることになった。1868年に横浜から輸入された小銃は10万6千挺、長崎でも3万6千挺だった。新政府の下にあった横浜・兵庫・大坂・長崎で輸入された銃砲・軍需品は総額273万ドル、箱館だけでも5万ドルの取引があった。
戊辰戦争は開港地の支配をめぐるたたかいでもあった。なかでも焦点になったのは新潟・・・。
フランスのロッシュ公使は江戸幕府と強い結びつきをもっていたので、一貫して新政府に不信感をもち続けた。結局、ロッシュは帰国を命じられた。
アメリカの新政府承認も大きく遅れた。アメリカのヴァルケンバーグ公使は、ミカド政府を復古的な政権と考え、排外主義に傾くのではないかと疑っていた。アメリカは、日本の内戦が長引くものと予想していた。
戊辰戦争のとき、奥羽越前列藩同盟の事実上の軍事顧問であり、「平松武平衛」と名乗っていたシュネルはオランダ領事インドに生まれ、ドイツ語圏そのあとオランダで成長した。そして、横浜のプロセイン領事館で書記官として勤め、ブラント公使の通訳として働いていた。武器商の弟エドワルトとともに同盟諸藩への武器調達の仲介をしていた。
ブラント公使は、北海道について、ドイツ人の植民拠点となりうるという報告をドイツ本国に送っていた。ドイツは大英帝国に遅れをとっていて、それへの対抗心があった。
幕末から明治にかけての動きのなかで、欧米諸国の視点は見逃せないこと、その果たした役割は決して無視できないものだと痛感させられる本でした。
(2018年2月刊。2200円+税)

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