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カテゴリー: 日本史(明治)

へぼ侍

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 坂上 泉 、 出版  文芸春秋
西南戦争に参加した大坂商人出身の兵士の物語です。なかなか面白く、読ませました。
主人公の志方錬一郎の志方家は、三河以来の徳川家臣。大坂東町奉行所与力として数代前から大坂に土着していた。御役目をこなすかたわら、剣術の志がある武士や町人に指南する道場を営み、祖父の代には大塩平八郎の乱の鎮圧で武功をあげるなど、商都大坂にあって珍しく尚武の家柄だった。
当代不在で御一所の混乱を迎えた志方家は、かつての与力や同心が市中の行政や治安維持の任務を遂行するなか、当面は得られたはずの役目も秩禄も失った。
それで、錬一郎は、部屋住み丁稚として商家に入った。そして、寺子屋に通って読み書き算盤を教わり、商人として身を立てる最底限の知恵を仕込まれ、ついには手代にまで引き立てられた。
大坂が大阪になったのは、徳川の世で「天下の台所」として繁栄したのが明治に入って大きく陰ってきたことから、せめて縁起だけは担ごうと、「土に返る」という文字を避けてのこと。ええっ、これって本当のことですか・・・。
大坂鎮台は、紀州徳川家がかつて編成した銃兵を主力とする壮兵600人をもって遊撃兵第一大隊を編成。その旗下に、府下徴幕の壮兵のみの小隊が編成された。
錬一郎たちは、プロミア陸軍で制式採用された最新式のツンナール銃をあてがわれた。スナイドル銃と同じく元込め式だ。
田原坂の激戦が終わろうとしているころ、錬一郎たちの第一大隊は熊本の南に位置する宇土半島に上陸した。このころから、犬養記者が同行取材する。
薩摩軍は、危ういと思うとすぐに逃げる。決して猪突猛進して全滅するような愚は犯さない。
そして、戦場となった村で錬一郎は、かの有名な「西郷札」に出会います。
「日本通用 金壱圓 承恵社」
一応は紙幣の体裁をとっているが、用いられているのは布で裏打ちしたらしき和紙。インクも粗末で、既に薄れはじめている。正貨との当換など実際になされる可能性は薄く、まるで玩具。
ところが、錬一郎は大坂商人らしく、この西郷札を大量に入手し、それを大坂に持ち込んで、お金に換えようという。縁起物として、物好きな金持ちに買いとってもらうというもの。
まあた負けたか 八連隊(やれんたい)
それでは勲章 九連隊(くれんたい)
敵の陣営も 十連隊(とれんたい)
大阪鎮台  へぼ鎮台
西南戦争をめぐる状況についてよく調べてあり、それを一つのストーリーにまとめあげた筆力に感嘆しました。
(2019年7月刊。1400円+税)

幕末維新像の新展開

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 宮地 正人 、 出版  花伝社
江戸時代の人は「鎖国」のなかでも世界情勢を必死でつかもうとしていた。
オランダからの毎年の「蘭国風説書(ふうせつがき)」を入手し、長港に入港する清国商船から「唐国風説書」を入手しようとしていた。
1860年3月3日の桜田門外の変は、国内の政治的雰囲気を180度逆転させ、井伊直弼(いいなおすけ)亡きあとの幕府トップは、将軍=譜代結合のもとで粛清路線を貫徹させる自信を喪失し、公武合体の再構築のための和宮降嫁政策と開港開市の延期交渉、そして遣欧使節団派遣政策にシフトせざるをえなくなった。
そのうえで、1861年2月からのロシア艦隊対馬占拠という領土侵犯事件になんら対処しえない幕府は国内の批判をさらに浴びて、1862年1月15日の坂下門外の変による老中首座・安藤信正の失脚後、幕府は政治的イニシアチブのとれない「死に体」と化してしまった。
1866年6~8月の第二次長州「征代」の「官軍」完敗は、国内の政治的雰囲気を決定的に変え、幕府の軍事的能力の欠如が白日のもとに暴露された。
1867年10月、幕府は大政奉還をしたが、まだ慶喜ベースで進められていた。このままでは実態としては幕府体制の存続となると判断した西郷と大久保は、岩倉と連携し、尾張・越前・土佐・芸州の4藩を引き入れて、12月9日、王政復古クーデターを決定した。
1868年1月3~6日の鳥羽・伏見戦争が薩長両藩の奮闘で勝利したあと、薩長同盟が核となった維新政府に進化していった。
五箇条のご誓文を出したときに明治天皇は17歳だった。1877年2月に始まった西南戦争が、9月に西郷以下の自刃により終結したことから、武装蜂起による「有司専制」政府を打倒することは不可能なことが明白となった。
天皇の勅令が機能しないのは、明治7年の佐賀の乱でも、明治10年の西南戦争でも一貫している。
明治天皇が肉食をはじめた。肉を食べたら穢(けが)れるというのが江戸時代の人々の考えだった。すると、肉食をした天皇を崇拝できるのか、という問題が起きた。ようやく、明治20年代になって、近世的な朝廷から近代天皇制へ確立していった。
明治初めから10年代に各県で新聞が確立していった。これには活版印刷機の普及が背景にあった。在地でお金を出して情報を手に入れようとする層が出てきた。これがあって初めて自由民権運動が出てくる。自由民権運動は、雑誌と新聞なしでは起こらなかった。
末尾に著者は「竹橋事件」について触れています。西南戦争のあと、1878年8月の近衛砲兵の反乱事件です。近衛連兵隊の兵卒たちは、志願兵で徴兵兵卒のなかのエリート。彼らが今の政権は、わが祖国をなんら代表していないとの怒りから武器をもって反乱に立ち上がったのです。自由民権運動の影響を受けていました。弁護士になってまもなくのころ、この事件を知って、私はひどく感動しました。明治の若者に今を生きる私たちは学ぶべきところがあります。武装反乱ではなく、声を上げ、行動すべきだということです。
明治維新をめぐる、大変知的刺激にみちた本でした。
(2018年12月刊。2000円+税)

日本人の明治観をただす

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 中塚 明 、 出版  高文研
少なくない現代日本人は、朝鮮半島で日本(軍と政府)がひどいことをしていたことをきちんと認識していないと思います。その原因の一つが、日本がやったこと(事実)が正しく知らされていないことです。たとえば、朝鮮半島への日本(軍)の侵略(武力攻撃)の第一歩となった江華島事件です。1875年(明治8年)9月に起きました。日本の軍艦「雲揚」が永宋島(いま仁川空港があるところ)にある砲台と戦闘して占領し、破壊して大砲を奪ったという事件です。
日本軍のほうから砲台を攻撃して始まったにもかかわらず、日本政府の公式発表では、日本は飲料水を求めていただけなのに、朝鮮側が不法にも攻撃してきたので、やむなく反撃したと書き換えたのです。
日本は、明治8年の段階で、既に朝鮮半島を支配する野望をもっていたのでした。ところが、日本政府の公式発表は、「国際法もわきまえない遅れた朝鮮」だと決めつけ、ことさら「朝鮮の後進性」を強調することで、日本の侵略の事実をおおい隠そうとしたのです。
これって、まるで現代日本の徴用工問題でとっている安倍政権のやり方そのものではありませんか・・・。
明治の日本政府が発行した1円以上の紙幣には神功皇后の像が印刷された。「三韓征代」の立役者を紙幣にのせた意味は大きい。大和政権つまり日本は、あたかも古くから挑戦を征服・支配していたかのような話は、この神功皇后が立役者として必ず登場してくる。
日清戦争は1894年(明治27年)7月25日、朝鮮仁川の沖合で日・清領海軍の衝突から始まったとされている。しかし、実は、日本軍が最初に軍事行動を起こし第一弾を発砲したのは7月23日早朝、ソウルの朝鮮王宮に向かってのことだった。ソウルの景福宮を占領し、朝鮮国王を事実上とりこにしたのだった。この日本軍による王宮占領の真相が明らかにされないよう、またしても日本政府は事実を改ざんした。
日本軍は朝鮮王宮を占領し、国王を事実上とりこにし、国王の実父である大院君をひっぱり出して政権の座につけた。しかし、大院君は、日本の意図に強く抵抗したのです。
日本軍は、朝鮮王宮を占領する前に、清国に通じる電線を切断していた。王宮占領の事実が清国に伝わらないようにするためだ。
このようにして、日本人の大多数は、少し前の私のように、明治以降の日本が朝鮮・勧告で何をしたのかについて無知なだけでなく、朝鮮半島における古代からの歴史を何も知らず、しかし偏見だけは根強くもっているという状況が生まれた。
いま私たちは神功皇后の「神話」を乗りこえなければいけないのです。勇気をもって、目を大きく見開き、そして、日本が世界のなかで信頼される存在たりうるよう小さな努力を積み重ねていきましょう。
この本で卒寿となった著者は、そのことを強く呼びかけています。
(2019年5月刊。2200円+税)

陸軍参謀、川上操六

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 大澤 博明 、 出版  吉川弘文館
日清戦争において日本軍の作戦を指導した川上操六について書かれた本です。
日清戦争について、この本を読んでいくつも新しい事実認識をすることができました。
中国(清)は日本に負けたわけですが、中国の当局(権力者たち)は、相変わらず日本を小国と馬鹿にしていた。そして、日本が李鴻章と示しあわせて戦争を始めたのであり、中国が連戦連敗だったのも、李がわざと日本軍に負けるように言いふくめていたからで、下関で李が襲撃されたのは、日本とひそかに通じていることを覆い隠すための芝居であり、日本に中国が支払う償金のうち4千万両は李が手にすることになっている。そんな李は「売国の臣」だ・・・。いやはや、世の中を見る目がない人は、どこにでもいるものですね。
日本軍が清軍に勝ったのは清軍が予想以上に弱かったからで、日本軍の強さを証明したものではないという評価が日本軍の内部にあり、ヨーロッパでも同じように考えられていた。
ロシア陸軍は、このころ日本上陸作戦を検討中で、大阪占領を対日作戦の要(かなめ)としていた。
ロシア軍が日本上陸作戦を考えていて、その目標が大阪だったというのに驚きました。1904年の日露戦争は間近だったのですね・・・。
日清戦争において日本軍は旅順で捕虜となった清軍兵士や一般市民まで虐殺しています。これは日本側でとった写真でも明らかな事実です。のちの南京大虐殺事件のミニ版が日清戦争のときに始まっていたのです。ところが、日本軍の蛮行は、清軍が捕虜となった日本軍兵士をなぶり殺したことへの復讐でもあったのです。こうなると、戦争は人間を鬼に変えるという格言のとおりで、残念な歴史の真実です。
日清戦争の末期、日本軍は限界につきあたりはじめていた。武器も幹部も兵士も不足していた。そして兵站(へいたん)線も困難な状況に直面した。そして、日清戦争の末期には、新しく戦場に送り出せる師団も装備もなかった。そのうえ、朝鮮民衆のテロ行為によって軍用電信はしばしば不通となった。
歴史は知らないことだらけです。それが面白いのですが・・・。
(2019年2月刊。1900円+税)

百姓一揆

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 若尾 政希 、 出版  岩波新書
大学生のころ(50年以上も前のことです)、雑誌『ガロ』に連載されていた白土三平の「カムイ外伝」を夢中で読みふけりました。百姓一揆のすさまじいエネルギーに圧倒されたのです。駒場寮には誰かが買ってきたマンガ本がたくさんあり、貧乏な私自身は買ったことはありません。
ところが、百姓一揆の実体についての研究が進展し、かつてのような「革命の伝統」だという考え方は古くなるという、1970年代半ばに一大転換がありました。
島原・天草一揆は一揆と呼ばれた。しかし、その後は、一揆に代えて、「徒党」、「強訴」(ごうそ)、「逃散」(ちょうさん)という文言がつかわれた。
今では、「百姓一とは何か?」ということ自体が、実は、明白でないと意識されている。
一揆の際に鉄砲が持ち出されることはあった。しかし、それは合図の鳴物として使われ、人間の殺傷用ではなかった。
明治に入って、自由民権期に、運動の前史として百姓一揆が位置づけられ、いわば伝統が創造されて、竹槍蓆旗(むしろばた)という暴力が前面に出てくる百姓一揆のイメージが形成された。
実は、日本近世は訴訟社会であり、訴状が寺子屋の教材になるほど、異議申立が頻繁に行われていた。この訴状を手本としたのが「目安(めやす)往来物」だった。17世紀につくられている。
領主は百姓が生存できるように仁政を施し、百姓はそれにこたえて年貢を皆済する。このような領主と百姓とのあいだに相互的な関係意識が形成されていた。
実際の百姓一揆で、殺し合いの戦闘が行われたことはなかった。「打殺」を標榜して、実際に殺傷に及んだ一揆は明治初年の埼玉にあるだけで、他にはない。
百姓一揆が何なのかを見聞せずに、十分に理解していない作者が軍書(軍記物)の合戦のようなものだと想像して描いたのが「農民太平記」だった。一揆物語は、領主による仁政の復活を言祝(ことほ)ぐことで終わっている。現実には村内は分裂状態にあるため、かつては一体的な百姓的世界があったとして、村役人が命をかけて村を守ったという代表越訴(おっそ)的な一揆の物語が求められた。百姓を一体のものとしてつなぎ合わせるためにこそ、義民を主人公とした一揆物語が全国各地につくられていったのではないか・・・。
今では、百姓一揆への熱いこころざしが薄れてしまっているのは残念な気がします。これだけ平然と年金切り下げがすすんでいて、共産党が年金増額を提言すると、安倍首相が「バカげたこと」と切り捨てているのに、国民が街頭に出て異議申立しないなんて、日本はおかしな国です。フランスを見習いたいものです。百姓一揆についての興味深い本でした。
(2018年11月刊。820円+税)

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