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カテゴリー: 日本史(明治)

明治の説得王・末松謙澄

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 山口 謡司 、 出版 インターナショナル新書
福岡県行橋市に生まれた(1855年)末松謙澄(けんちょう)という人物を初めて認識しました。西郷隆盛への山縣有朋からの降伏勧告状、大日本帝国憲法、下関条約の締結文(草案)を起案した人です。1920(大正9)年、スペイン風邪のため66歳で亡くなりました。
英・仏・独語に通じていた。格好にまったく気をつかわず、どんなことがあっても人に嫌な思いをさせることのない自然児のような謙澄は、人を惹きつけてやまなかった。
謙澄は若いころイギリスのケンブリッジ大学で学んだ。イギリスに8年いて、ケンブリッジ大学を卒業し、32歳で日本に戻った。
謙澄は24歳のとき、英国公使館付一等書記見習としてイギリスに留学した。
謙澄は28歳のとき、『源氏物語』の英訳本を出版した。これはすごいことですよね…。
謙澄は、乱を起こした大塩平八郎を、全国民の思いを代弁するヒーローとして、もっともふさわしい人物だと考えた。
謙澄は学者の道を選ばなかった。その最大の理由は、伊藤博文の娘と結婚したことにある。末松謙澄の妻は伊藤博文の次女(生子)。
謙澄は、説得術の天賦があった。そして、それを磨くことに余念がなかった。
謙澄は、衆議院議員になったあと、法制局長官、内閣恩給局長、逓信大臣、内務大臣、枢密院顧問官など政治の世界でも要職を歴任した。
いやあ、すごい政治家だったのですね、ちっとも知りませんでした。まあ、知らないことが山ほどあることを自覚することが私の思考力を鍛える原動力です。
(2021年6月刊。税込968円)

明治維新の歴史

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 梅田 正己 、 出版 高文研
1936年生まれの著者は、いわゆる学者ではなく、出版・編集に関わってきた人です。なので、読者である私が知りたいことが明治維新について書かれています。
たとえば、1868年1月3日から5日にかけて起きた鳥羽伏見の戦いは、幕府軍1万5千に対して、薩長を主体とする新政府軍側は5千。3対1だった。しかし、新政府軍側が圧勝した。なぜか…。第一に、武器の差。新政府軍側はアメリカ南北戦争の終結によって放出された新式のライフル銃を大量に購入していて、訓練していた。幕府軍側でも、直轄軍5千はフランスからの援助で近代化されていたが、訓練が十分でなかった。そして、士気・戦意に違いがあり、実戦経験の有無も大きかった。なにしろ長州藩のほうは、四ヶ国艦隊との戦争など、場数を踏んでいた。この実戦経験のあるなしは戦場では大きかった。なーるほど、そうだっただろうと私も思います。そう簡単には人を殺せないからです。一度それをこえてしまったら、もう歯止めがなくなるようですが…。
アメリカで南北戦争が終ると、大量の小銃が放出された。それをグラバー邸で、有名なグラバーが購入して長州藩に売りつけた。
明治天皇が皇位を継承したのは、まだ15歳のときだった。倒幕勢力は天皇について、「玉(ぎょく)」と称していた。つまり、利用できるだけは利用しようというのです。心から尊崇していたというのでは決してありません。
大政奉還の儀式は1867年10月12日から17日までの6日間にわたって京都・二条城において続いた。そして、この儀式を徳川慶喜は一貫して自ら取り仕切った。これによって、改めて自らの存在の大きさを天下に印象づけようとした。ところが、このあいだに朝廷から「討幕」の密勅が下された。つまり、大政奉還という形で天皇に最大の恭順の意を示した慶喜に対して、討伐せよとした…。
江戸時代、天皇は御所内に禁足されていた。その天皇が、1063年3月11日、ついに加茂の上、下(しも)社に行幸した。
明治時代について大変勉強になりました。
(2021年3月刊。税込2640円)

星落ちて、なお

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 澤田 瞳子 、 出版 文芸春秋
江戸時代に生きた葛飾北斎、歌川国芳、そして明治まで生きた河鍋暁斎。いずれも著名な画家。
その暁斎のあとを継ぐべき兄の周三郎と妹のとよは、よそよそしい関係にあります。
いずれも父・暁斎に反発しながらも、画家としての道を歩んでいくのですが…。
いやあ、うまい展開です。さすが直木賞を受賞したというだけはあります。画家の道をきわめることの大変さ、偉大な父親をもった子どもたちの大変な苦労、そして兄と妹との葛藤…、家族って、いったいなんだ…と思わず我が身を振り返らされるストーリーです。
錦絵を得意とする歌川国芳を最初の師とし、その後、写生を重んじる狩野家で厳しい修行を積んだ暁斎は、やまと絵から漢画、墨画まで、さまざまな画風を自在に操った。風俗画に狂画(戯画)、動物画、…あげくに版画から引幕まで、暁斎は何でもこなした。
暁斎は画鬼と自称し、天下の絵師を百人集めたかと思うほど多彩な絵を描いた。
暁斎は、その体内の血の代わりに墨(すみ)が流れているのではないかと案じられるほど、絵のことしか考えない男だった。
娘のとよも、河鍋暁翠(きょうすい)として、世に歩み出した。
この本の表紙は暁翠の「五節句之内、文月」ですが、まったく江戸時代の絵そのものです。とても明治の半ば以降に描かれたものとは思えません。古臭いというのではありません。時代を超絶した江戸情緒たっぷりの絵に圧倒されてしまうのです。
暁翠は女子美大で女学生に絵を教えたようです。
よくぞ、一代記を小説にしたものです。驚嘆してしまいました。
(2021年7月刊。税込1925円)

日本近代の出発

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 佐々木 克 、 出版 集英社
明治天皇は明治17(1884)年ころには、明確に自分の意見を述べ、政府要人に対する好みもはっきりしていて、個性派の天皇になりつつあった。たとえば、キリスト教信者と疑った森有礼(ありのり)を伊藤博文が文部省御用掛(大臣)に任命しても、明治天皇は「病気」と称して1ヶ月も面会しなかった。また、黒田清隆は薩摩閥のナンバー1だったが、酒が入ると人物が一変し、トラブルが多かった。井上馨(かおる)に対してピストルを出して追い返そうとした。
明治憲法の草案として、夏島草案というのがあるのを始めて知りました。夏島というのは、金沢の夏島ですが、今の横須賀市夏島町です。このころ、天皇と議会が同等の権力をもつということは認められない、議会は天皇の相談(諮問)機関であるべきだという考え方に対して、伊藤博文は、立憲政治を主張した。それは、天皇の国家を統治する大権は、憲法の規定する範囲内にのみある、つまり、立憲政治の根本は君主権の制限にある、そして、行政の中心には、天皇ではなく総理大臣にあることを強く主張した。
国会開設運動が最高潮に達したのは1880(明治13)年。このころ建白・請願に署名した人は32万人に近い。この当時、20歳から50歳までの人口は770万人なので、その4%にあたる。これはすごい比率だ。つまり、運動に共鳴した多数の民衆がいた。自由民権運動は、一種の文化革命だった。
1874(明治7)年から1884(明治17)年までの11年間に、全国1275もの結社があった。埼玉に29社、神奈川県に100社が活動していた。
このころ、新聞の購読料は高かった。東京日日新聞は1ヶ月85銭。日本酒が11銭、巡査の初任給は6円のとき。ところが、新聞は一般の庶民も読むことができた。新聞縦覧所が各所にあって、立ち読みすることができた。ちなみに、当時の人々は、声に出して読んでいたようです。黙読する週刊はありませんでした。つまり、新聞は広く一般に読まれていたのです。
そして、演説会は、民衆のものでした。義太夫より演説のほうが面白いと言って、人々は聞きに集まった。1881年9月10日、大阪・道頓堀の戎座(えびすざ)で板垣退助らが弁士となって開かれた政談演説会は、1枚5銭の傍聴券5000枚が前日までに売り切れた。
演説会の話がつまらなければ居眠りしたり、ヤジったり、面白ければ熱狂して沸く、弁士も聴衆の反応にこたえて、話をより過激な論調にしたり、臨席している警察官をからかったりする。まさに弁士と聴衆とが一体となって盛り上げる。自由民権の生き生きとしたパフォーマンスがあった。
有名な五日市憲法草案は、このような状況の中でつくられたものなんですね。学習や討論の積み重ねが結実したものだったのです。明治とは、どんな時代だったのか、改めて考えさせられました。
(2021年1月刊。税込1600円)

明治14年の政変

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 久保田 哲 、 出版 インターナショナル新書
1877(明治10)年の西南戦争は、近代日本における最大かつ最後の内戦だった。4年後の1881(明治14)年10月、近代日本を方向づける政変が起きた。
明治10年代、議会開設要求が高まり、政府内部でも将来的な議会開設に肯定的になっていった。そして、明治14年3月、参議の大隈重信が即時の議会開設を求める意見書を提出した。
同年7月、北海道開拓使の官有物を破格の安値で五代友厚(黒田清隆と同郷)へ破格の安値で払い下げられるとスクープ報道がなされた。これは肥前出身の大隈重信が情報をメディアにリークした、大隈は薩長政府の打倒を企てているという陰謀論が広まった。
そして、同年10月、御前会議が開かれて、大隈を政府から追放すること、開拓使による官有物の払い下げが中止となった。また、国会開設の勅諭が出され、9年後の議会開設が宣言された。
明治維新の三傑とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通。木戸孝允は明治10年5月、43歳で病死した。西郷隆盛は同年9月、城山で死んだ。大久保利通は明治11年5月、暗殺された。
大隈重信は、明治14年に43歳だった。伊藤博文は、同じく40歳。井上馨は45歳。黒田清隆は40歳。岩倉具視は56歳。井上毅は政変のフィクサーと評されるが、37歳だった。福沢諭吉は46歳。
私は、最近、歴史を語るとき、その人が、そのときに何歳だったか絶えず注意しておくべきだと考えるようになりました。年齢は、発想とか行動力に深くかかわるものだからです。
明治14年ころ、天皇親政の実現を企図する宮中グループなるものが存在していたのですね…。もちろん、薩摩グループがあることは、初歩的知識として知っています。それでも、そのなかで、どれほどの力をもっているかについてまで詳しくは知りませんでした。
明治14年5月、政変の前の参議は、薩摩4人で、長州と肥前が各2人だった。
伊藤博文の最大の関心は薩長の連携による政府の基盤強化だった。宮中グループが政治に関与しようと画策しており、在野では自由民権グループが言論による政府打倒を目ざしていた。
明治11年8月、竹橋事件が勃発した。近衛砲兵大隊の兵士が反乱を起こしたのだ。その日のうちに鎮圧され、翌年までに55人が処刑された。
福沢諭吉は政治に無関心ではなく、政府内の人間と積極的に交流していた、そして慶應義塾は、明治11、12年ころ、学生数の減少により深刻な経営危機に陥っていた。明治12年7月、福沢が国会開設を求める本を刊行すると、すさまじい反響があった。福沢の想像以上に、「大騒ぎ」となってしまった。
開拓使官有物の払い下げ批判は薩長藩閥政府批判となり、議会開設・憲法制定要求へと展開していった。
三菱という資金面での後ろ盾、福沢という理論面での後ろ盾を得た大隈が、自由民権グループと連携して薩長藩閥を打倒し、イギリス流議会を開設することで政府の実権を握ろうとしているという陰謀論が流布していった。このとき明治天皇は、それまでの大隈の努力に同情する気持ちがあり、罷免の強行ではなく、辞任するという形をとって、大隈の名誉を守ろうと配慮した。
明治14年の政変によって、政府を去ったのは、大隈重信だけでなく、大勢いた。ただし、政府にとどまった人も少なくはなかった。
明治時代の政府部内の微妙な力関係の変化は理解するのが、なかなか困難ですね…。
(2021年2月刊。税込1012円)

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