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カテゴリー: 日本史(明治)

リーダーたちの日清戦争

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 佐々木 雄一 、 出版 吉川弘文館
日清戦争について、大変勉強になりました。
その一は、日清戦争で敗北したことから、中国(清)は欧米の列強からたちまち狙われてしまったことです。
その二は、日本の支配層は一枚岩でなく、計画的・意図的に日清戦争を始めたわけではないということです。明治天皇は中国(清)を相手に戦争を始めてしまったことに恐れおののいていました。さらに、明治天皇は陸奥宗光を信用できない男だとして嫌っていたというのです。
その三は、日清戦争では、そのあとの日露戦争とちがって、戦死者よりも戦病死者が圧倒的に多かったということ、日本軍の戦死傷者は千数百人だったのに、戦病死者は1万人をこえた。日露戦争では、総率された近代軍同士の全面衝突があったので大量の戦死傷者が出たが、日清戦争では、それがなかった。日清戦争のときには兵站(へいたん)や衛生への配慮が十分ではなかった。
その一に戻ります。日清戦争を通じて、それまで東洋の大国と考えられていた清の評価は大きく下落し、ヨーロッパ列強は清への進出意欲を高めた。清は東アジアにおいて圧倒的な存在感のある大国だったが、日清戦争の敗北によって、つまりアヘン戦争でもなく、アロー戦争でもなく、地位を大きく低下させた。
その二。かつての学説の通説は、朝鮮進出を早くから日本は目ざしていたので、明治政府と軍は、計画的・必然的に日清戦争を起こしたというものだった。しかし、今や、日清戦争は、日本政府内で長期にわたって計画・決意されたものではないというのが通説的地位を占めている。たとえば、伊藤博文や井上馨は、清との紛争や対立はなるべき避けようとしていた。伊藤博文は、対清協調と朝鮮独立扶持を一貫して主張していた。また、明治天皇は大国の清と戦って勝てるのか不安であり、できることなら戦争を避けたいと考えていた。開戦に前のめりになっている陸奥宗光外相を信用せず疑惑の目を向けていた。天皇は開戦したあと、「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」と言っていた。
日清戦争のとき、清は一元的に強力な国家の軍隊を有してはいなかった。人数や外形はともかく、指揮・訓練などの点で問題をかかえていて、本格的な対外戦争を遂行するのに、十分な内実を備えていなかった。すなわち、清軍は、十分に訓練され明確に統率された軍隊ではなかった。
日清戦争とは何だったのか、改めて考え直させてくれる本です。
(2022年2月刊。税込1980円)

西南戦争のリアル、田原坂

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 親泉社
1877(明治10)年の西南戦争で最大の激戦地だった田原坂の戦いについて、現地の発掘状況も踏まえた本です。92頁と薄い冊子ですが、写真や地図が豊富で、よくイメージをつかむことができます。
まず名称ですが、戦争とは、国家間の武力による闘争をさすコトバなので、本当は西南戦役(せんえき)か西南役(えき)と呼ぶのが正しいとのこと。この本は通例にしたがい、西南戦争といいます。そして、英訳は「薩摩反乱記」となっていることが多いそうです。これも、「西南内戦」が適切だとされています。いずれも知りませんでした。
政府軍は熊本と福岡の境の豊前街道上野の南関に本営を置いた。ここから熊本城に至るコースは3つあったが、北の山鹿コースと南の吉次峠コースは、熊本まで数十ヵ所の難所があるのに、田原坂は抜けたらもう一つ向坂の難所があるだけなので、田原坂コースが選ばれた。
当時は自動車がありませんので、馬や牛に頼れないところでは人力しかありません。そして、重たい大砲を運び上げるには、この田原坂を人力でのぼっていくしかなかったのです。
田原坂の戦いは3月4日から20日までの17日間。この17日間のうち6日間、雨が降った。そして最終日の3月20日は大雨だった。「雨は降る降る、人馬は濡れる」という歌のとおりでした。
動員した兵力は薩摩軍が5万人、政府軍は全国から集められた8万人。政府軍の戦費は4157万円で、国家予算の7割に匹敵する巨額だった。
そして田原坂の戦いに政府軍はのべ最大8万人を動員し、死傷者が3000人、戦死者1700人だった。これは政府軍の前線死者の25%で、1日あたり100人だった。薩摩軍のほうは数千人規模で、実数は不明。
政府軍は田原坂の戦いで、548万発、1日32万発もの銃弾(砲弾ふくむ)を消費した。薩摩軍のほうは無駄撃ちせず、政府軍10発に対して1発と、銃弾を惜しみ、必要に応じて猛射した。
薩摩軍が17日間も持ちこたえて激戦になったのは、第一に地形、第二にその将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魂があったから。
田原坂は険しい坂道で、トンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上、守りやすく攻め難い地勢である。薩摩軍は、私学校党の精鋭とここにそろえて死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヵ所に築いた。両軍の距離は、わずかに5、6メートルとか20メートルというほど近接していた。
そして、薩摩軍は150人の集団抜刀で攻撃してきたので、政府軍は当初たちまちやられていった。政府軍は狙撃隊で対抗したが、1週間で全滅。その後、東京警視抜刀隊200人が活躍した。この抜刀隊には元東北諸藩士で構成されたというイメージがあるが、必ずしも正しくない。出身地が判明している45人のうち東北地方出身者は14人、薩摩藩出身者も16人いた。
この本には、薩摩軍にいた兵士のうち政府軍に投降した兵士のみからなる政府軍部隊(231人)が存在していたとのこと。途中から、薩摩軍は集団投降者が続出していたようです。田原坂の現地には何度か行ったことがありますが、この冊子を読んで、もう一度行ってみたいと思いました。
(2021年12月刊。税込1760円)

明治の説得王・末松謙澄

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 山口 謡司 、 出版 インターナショナル新書
福岡県行橋市に生まれた(1855年)末松謙澄(けんちょう)という人物を初めて認識しました。西郷隆盛への山縣有朋からの降伏勧告状、大日本帝国憲法、下関条約の締結文(草案)を起案した人です。1920(大正9)年、スペイン風邪のため66歳で亡くなりました。
英・仏・独語に通じていた。格好にまったく気をつかわず、どんなことがあっても人に嫌な思いをさせることのない自然児のような謙澄は、人を惹きつけてやまなかった。
謙澄は若いころイギリスのケンブリッジ大学で学んだ。イギリスに8年いて、ケンブリッジ大学を卒業し、32歳で日本に戻った。
謙澄は24歳のとき、英国公使館付一等書記見習としてイギリスに留学した。
謙澄は28歳のとき、『源氏物語』の英訳本を出版した。これはすごいことですよね…。
謙澄は、乱を起こした大塩平八郎を、全国民の思いを代弁するヒーローとして、もっともふさわしい人物だと考えた。
謙澄は学者の道を選ばなかった。その最大の理由は、伊藤博文の娘と結婚したことにある。末松謙澄の妻は伊藤博文の次女(生子)。
謙澄は、説得術の天賦があった。そして、それを磨くことに余念がなかった。
謙澄は、衆議院議員になったあと、法制局長官、内閣恩給局長、逓信大臣、内務大臣、枢密院顧問官など政治の世界でも要職を歴任した。
いやあ、すごい政治家だったのですね、ちっとも知りませんでした。まあ、知らないことが山ほどあることを自覚することが私の思考力を鍛える原動力です。
(2021年6月刊。税込968円)

明治維新の歴史

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 梅田 正己 、 出版 高文研
1936年生まれの著者は、いわゆる学者ではなく、出版・編集に関わってきた人です。なので、読者である私が知りたいことが明治維新について書かれています。
たとえば、1868年1月3日から5日にかけて起きた鳥羽伏見の戦いは、幕府軍1万5千に対して、薩長を主体とする新政府軍側は5千。3対1だった。しかし、新政府軍側が圧勝した。なぜか…。第一に、武器の差。新政府軍側はアメリカ南北戦争の終結によって放出された新式のライフル銃を大量に購入していて、訓練していた。幕府軍側でも、直轄軍5千はフランスからの援助で近代化されていたが、訓練が十分でなかった。そして、士気・戦意に違いがあり、実戦経験の有無も大きかった。なにしろ長州藩のほうは、四ヶ国艦隊との戦争など、場数を踏んでいた。この実戦経験のあるなしは戦場では大きかった。なーるほど、そうだっただろうと私も思います。そう簡単には人を殺せないからです。一度それをこえてしまったら、もう歯止めがなくなるようですが…。
アメリカで南北戦争が終ると、大量の小銃が放出された。それをグラバー邸で、有名なグラバーが購入して長州藩に売りつけた。
明治天皇が皇位を継承したのは、まだ15歳のときだった。倒幕勢力は天皇について、「玉(ぎょく)」と称していた。つまり、利用できるだけは利用しようというのです。心から尊崇していたというのでは決してありません。
大政奉還の儀式は1867年10月12日から17日までの6日間にわたって京都・二条城において続いた。そして、この儀式を徳川慶喜は一貫して自ら取り仕切った。これによって、改めて自らの存在の大きさを天下に印象づけようとした。ところが、このあいだに朝廷から「討幕」の密勅が下された。つまり、大政奉還という形で天皇に最大の恭順の意を示した慶喜に対して、討伐せよとした…。
江戸時代、天皇は御所内に禁足されていた。その天皇が、1063年3月11日、ついに加茂の上、下(しも)社に行幸した。
明治時代について大変勉強になりました。
(2021年3月刊。税込2640円)

星落ちて、なお

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 澤田 瞳子 、 出版 文芸春秋
江戸時代に生きた葛飾北斎、歌川国芳、そして明治まで生きた河鍋暁斎。いずれも著名な画家。
その暁斎のあとを継ぐべき兄の周三郎と妹のとよは、よそよそしい関係にあります。
いずれも父・暁斎に反発しながらも、画家としての道を歩んでいくのですが…。
いやあ、うまい展開です。さすが直木賞を受賞したというだけはあります。画家の道をきわめることの大変さ、偉大な父親をもった子どもたちの大変な苦労、そして兄と妹との葛藤…、家族って、いったいなんだ…と思わず我が身を振り返らされるストーリーです。
錦絵を得意とする歌川国芳を最初の師とし、その後、写生を重んじる狩野家で厳しい修行を積んだ暁斎は、やまと絵から漢画、墨画まで、さまざまな画風を自在に操った。風俗画に狂画(戯画)、動物画、…あげくに版画から引幕まで、暁斎は何でもこなした。
暁斎は画鬼と自称し、天下の絵師を百人集めたかと思うほど多彩な絵を描いた。
暁斎は、その体内の血の代わりに墨(すみ)が流れているのではないかと案じられるほど、絵のことしか考えない男だった。
娘のとよも、河鍋暁翠(きょうすい)として、世に歩み出した。
この本の表紙は暁翠の「五節句之内、文月」ですが、まったく江戸時代の絵そのものです。とても明治の半ば以降に描かれたものとは思えません。古臭いというのではありません。時代を超絶した江戸情緒たっぷりの絵に圧倒されてしまうのです。
暁翠は女子美大で女学生に絵を教えたようです。
よくぞ、一代記を小説にしたものです。驚嘆してしまいました。
(2021年7月刊。税込1925円)

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