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カテゴリー: 日本史(明治)

森鷗外と日清・日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者:末延 芳晴、 発行:平凡社
 森鷗外は、夏目漱石と並ぶ明治の文豪であり、同時に、文学者でありながら陸軍軍医官僚であるという矛盾をかかえ通したことで、謎の文学者でもある。そもそも軍人でありながら文学者であることが可能なのか。
 私は、『五重塔』や『阿部一族』など、森鷗外の重厚な文体に強く惹かれるものがあります。その森鷗外の実態に迫る本書は、私の知的好奇心をますますかき立ててくれました。森鷗外は、日清・日露戦争に軍医として従軍し、日記や妻への手紙を書き、歌まで詠んでいたというのです。戦争の残虐さを実感し、綱紀がいいはずの日本軍が罪なき市民を大虐殺したことも現地で実見しながら、立場上そのままを日本に伝えることはできませんでした。それでもストレートでは伝えられなかったものを、それなりに伝えているようです。
 日清戦争のとき、日本軍は旅順に入って一般市民を無差別に殺戮した。旅順虐殺事件として世界に広く知られた。しかし、日本国内ではほとんど知られていません。乃木将軍も関わっている虐殺事件です。
 森鷗外は、軍医として台湾侵攻作戦にも従軍している。このとき、現地住民によるゲリラ的反撃にあい、予想もしなかった苦戦を強いられた。戦争の過酷さ、恐ろしさを体験させられた。
 森鷗外は、実家にいる妻あてに、実にこまめに手紙を書いて送った。ヒラの兵士だと月に2回という制限がある。しかし、鴎外は1年10ヶ月のあいだに妻へ133通もの手紙を書いて送った。1週間に1回のペースである。妻は鷗外より18歳も年下だった。1年10ヶ月というのは、日露戦争に鷗外が従軍した期間である。
 森鷗外は、しばらく小倉で軍医をしていました。それが初めての挫折といわれるほどの左遷であったことを初めて認識しました。明治32年(1899年)6月のことでした。
「左遷なりとは、軍医一同が言っており、得意な境地はない」
「実に危急存亡の秋(とき)なり」
小倉での鷗外の軍医としての仕事は、徴兵を忌避しようとする若者をチェックすることにあった。
 明治42年2月、森鷗外は朝日新聞の記者によると、怒鳴りあい、取っ組みあうという喧嘩沙汰までひきおこした。偉大な文豪と呼ばれる人でも、こういうことってあるんですね。よほど記者がカンに触るようなことを言ったのでしょうか……。
 森鷗外は軍医として最高峰の地位にまでたどり着き、元老の最長老として政・軍に絶大なる影響力を行使していた山県有朋とも交流を深めた。
 明治43年5月に大逆事件が起きた。逮捕された幸徳秋水らは、翌1月に処刑された。大逆事件は、「時代閉塞の状況」(石川啄木)をさらに決定的にした。
 いやあ、よくよく考えさせられる森鷗外の評伝でした。
(2008年8月刊。2600円+税)

イザベラ・バードの日本紀行

カテゴリー:日本史(明治)

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫
 イザベラ・バードが日本を訪れたのは1878年(明治11年)、47歳のときです。
 日本人は非常に良く手紙を書き、手紙として良い文章や達筆は大変に評価される。イザベラに同行した伊藤は週に一度とても長い手紙を母親に宛てて書く。そのほか、大勢の友人そして、ちょっとした知り合いにまで手紙を書く。いたるところで、若い男性や女性が余暇の多くを手紙を書いて過ごしている。また、装飾の入った紙や封筒をデザインするのは重要な商売で、その種類は無数にある。ペンとして用いられるラクダの毛の筆を巧みに扱えるのは、教育の肝要な成果とみなされている。日本人が物書きに熱心なのは、昔からなのです。ですから庶民レベルまで日記がよく書かれています。
 日本人は、イザベラ・バードがこれまで出会ったなかでもっとも無宗教の人々である。日本人の巡礼はピクニックで、宗教的な祝祭は単なるお祭りである。
 日本人は自然を愛好する気持ちが非常に強い。
 日本人の性格で評価すべき2点は、死者に対して敬意を抱いている点と、あらゆることに気を配って墓地を美しく魅力的なものにする点である。
 東京は冒険心と活気に富んだ、すばらしい都会である。物乞いはおらず、貧困で不潔な街区もなければ、貧困と不潔さが犯罪と結びついていることもない。また、不幸や窮乏でうみただれた芯のような場所は一切見当たらない。売春は合法化されているとはいえ、通常の市街で客を誘惑するのは禁じられており、ふしだらな遊興は特別な街区に限られている。
 花祭りは、首都・東京でもっとも魅力的な光景の一つである。律儀に刈り込まれた生垣のある郊外のよく手入れされた庭などは、日本人の性格の特徴の中でもっとも喜ばしいものの一つである。自然の美しさへの日本人の愛好は、特定の場所に咲く特定の花が最盛期にあるときに眺めに出かけて、さらに規律正しい満足感を覚える。桜のころに花見が盛んなのは、昔からなのです。
 富士山は、東京の絶景の一つである。中間層・下層民は戸外ですごすのが好きな傾向がある。
 汽車に乗ると、日本人乗客の親切心と礼儀正しさにつくづく感心する。日本人は、きちんとした清潔な服装をして旅行し、自分たちや近所の人々の評判に気を配る。
 日本の妻は、上流階級より下層階級のほうが幸せのようだ。日本の妻は良く働く。単調で骨の折れる仕事をする存在というより、むしろ夫のパートナーとしてよく働く。
 未婚の少女たちは世間から隔離されておらず、ある程度の範囲内で完全な自由を持っている。女の子たちは男の子と同じように愛情と世話を受け、社会で生きていくために男の子と同様きめ細かくしつけられる。
 明治はじめのころの日本って、こんなにも現代日本と違うのですね。驚きです。
 朝、雨戸を開けると、純白に輝く秋明菊の花が目に飛び込んできます。茎がすっくと伸び、神々しいまでに気高い白い花弁です。その隣に不如帰の薄紫色の花がひっそりと咲いています。秋も深まり、朝晩には寒さを感じるようになりました。室内を素足で歩くのに冷たさを感じて、スリッパを履いています。
(2008年6月刊。1250円+税)

富豪の時代

カテゴリー:日本史(明治)

著者:永谷 健、出版社:新曜社
 明治維新以降、一部の実業家たちは、莫大な富を蓄えていた。三井家の一族、三菱会社の岩崎一門、そして大倉喜八郎、安田善二郎、森村市左衛門といった財閥の創始者たちである。
 彼らは、必ずしも明治初年から傑出した資産を保有していたわけではない。とくに、一代で財閥の基礎を築いた実業家たちにとって、明治初年はいわば駆け出し実業家の時代だった。たとえば、安田善二郎が両替店から質商兼業とし、事業の拡大を図りつつあったのは明治2年。大倉喜八郎が鉄砲商として得た財をもとに商会・大倉組を設立し、輸出入委託販売業を本格的に始めたのは明治6年だった。
 明治29年に営業税法が公布された。このとき、日清戦争の軍功による叙爵者にまじって、実業界の岩崎久弥、岩崎弥之助、三井八郎右衛門に初めて爵位が授けられた。これは、実業の分野で国家に対して顕著な貢献があれば、途方もない威信の上昇がありうることを社会に周知させるメッセージとなった。
 明治20年代半ばまで、成功した商人は、「奸商」イメージで語られることが多かった。しかし、多額納税者議員が現れたあと、彼らは新時代で巨富の蓄積に成功した稀有な階層としてとらえられるようになった。しばしば、富豪や紳商と呼ばれるようになった。つまり、前の時代よりダーティーなイメージが薄められたのだ。
 明治17年以降、華族でない実力者士族の華族への割り込みが急速にすすんだ。華族という呼び名で制度的に一括された集団は、メンバーの社会的・文化的出自の多様性の点で、そして異質な選抜基準をふくむ点でも、ひとつの社会的身分として定義するのが難しいほどの雑居状態にあった。
 すなわち、ひと口に華族といっても、それは経済的にも出自の点でも、決して等質な集団ではなかった。階層としての実体性がなかった。
 茶道は、明治20年代後半から大正期にかけて、リッチな実業家たちの正統文化へと成長していった。同じ時期に、能楽も流行した。能楽は、明治9年4月に岩倉具視邸への行幸で天覧に供された。能楽が大流行したのは、やはりそれが代表的な天覧芸であったからだろう。
 茶室は、重要な事案にかかわる面会や人脈形成の場として利用されていた。商談策謀は、茶室以外では出来ないとまで言われた。実業家の茶事は、必ずしも超俗的で、高踏的なものではなかった。
 明治時代にあった長者番付表を見ながら、いろいろ考えることのできる本でした。
(2007年10月刊。3400円+税)

旅順と南京

カテゴリー:日本史(明治)

著者:一ノ瀬俊也、出版社:文春新書
 日清戦争(1894年、明治27年)に従軍した軍夫の絵日記と上等兵の日記をもとに日清戦争の実際を再現した本です。第二次大戦がなぜ起きたのか、日本人が戦争で何をしたのか、改めて考えさせられる本でした。
 朝鮮半島を制圧すべく日本から送られた第2軍(司令官は大山巌大将)は、3万5000人。うち1万人以上が軍夫だった。絵日記をかいた軍夫は東京出身で、1894年10月に遼東半島に上陸し、ずっと後方輸送に従事した。軍夫の賃金は日給50銭。当時、日本の日雇い賃金は21銭だったので、かなりの高給だ。
 もう一人、日記をつけていた上等兵は千葉県柏市の出身であり、漢文調の日記だった。
 朝鮮半島へ渡る出征軍の歓送はすさまじいものがあった。夜間にもかかわらず、大勢の住民が沿線にまで出ていて、励ました。
 兵士には蒸した米を干した保存食である糒(ほしい)が支給された。定量は1人1日3合。
 日清戦争で、日本軍は旅順で人々を虐殺しました。加害者は歩兵第一旅団(旅団長は、あの乃木希典少将です)をふくむ日本軍です。陸軍は、基本的に捕虜をとらず、無差別に殺害したのです。従軍していた英米の記者がこの事実を世界に向けて発信したため発覚しました。
 ご承知のとおり、乃木希典は、10年後の日露戦争のときにも旅順攻略戦にも参加している。日清戦争のときには、清軍(中国軍)が半日であっけなく抵抗を止めた。もう少し苦戦を余儀なくされていたら、日露戦争で日本軍は強襲したら一挙に陥落できるとは思わなかったのではないかという説もあります。
 日清戦争のときの旅順虐殺事件の実態をみてみると、日本人の道義が日露戦争のときまでは良くて、その後、低下した、ということは決して言えないことがよく分かります。やはり、戦争は人間を鬼に変えてしまうのですね。
(2007年11月刊。870円+税)

ゴードン・スミスの見た明治の日本

カテゴリー:日本史(明治)

著者:伊井春樹、出版社:角川選書
 イギリス人のリチャード・ゴードン・スミスは1858年生まれ(1920年死亡)、41歳のとき、日本にやって来た。日露戦争のとき、日本に滞在して、日本兵と日本人を観察した。
 明治37年(1904年)11月の203高地の日本軍の空貫突撃の様子が、日本兵の故郷への手紙で紹介されています。現代文のほうを紹介します。
 11月26日に突撃隊が編成され、「突貫」との命令のもとに午後4時に山腹より突進する。上部の堅固な塹壕を築いた要塞からは、容赦のない弾丸の雨が降り注ぎ、どうにか敵の陣地に近づいたとはいえ、犠牲者は増えるばかり。中隊長の戦死、次々と命を失い負傷する友軍、気がつくと残った中隊は自分を含めて10人ばかりというありさま。しかも、その死者の姿は実に残酷で、弾薬に焼けただれていた。あー、湯上がりにせめて一杯の白米のご飯が食べたい。ロシア軍による上からの容赦のない攻撃、自分が生きながらえたのは奇跡というほかなく、無数の屍(しかばね)をこえての二〇三高地の占領だった。その悪夢が、今では毎日毎晩のシラミ虫の攻撃に悩まされている。
 次に、ロシア兵の手紙も紹介されています。
 朝6時。日本兵は縦列になって接近し、第一隊砲火を浴びて倒れても、次の第二隊が、さらに第三隊が前進してくる。我々は銃剣を手にして20分もの死闘を続け、日本兵は 4000人ばかり戦死し、あたりにはおびただしい死体の山が築かれた。日本兵が退却したあと、死体を片づけるのだが、その光景はとても表現できない有り様だった。負傷者は水を求めて泣き喚き、ある者はもう一度、戦闘に加わって死にたいという。
 スミスは大英博物館の標本採集員という任務を帯びていました。新種の魚や動植物を発見したいという冒険心が行動に駆り立てていたのです。
 日記を8冊残していて、当時の日本人の生活や考え方を記録していました。
(2007年7月刊。1600円+税)

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