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カテゴリー: 日本史(明治)

もう一つの日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者 コンスタンチン・サルキソフ、 出版 朝日選書
 日本海海戦。東郷平八郎の対戦したロシアのバルチック艦隊の提督が、ロシアから日本海へ向かうまでの20日間に、ロシア本国にいる家族あてに出した手紙30通が残っていました。すごいことですね。しかも、その内容を読むと、ロシア側は敗戦必至を覚悟していたというのです。「無敵」と言われたバルチック艦隊のボロボロの内実があからさまにさらけ出されていて、憐れみと同情すら感じさせます。
 ロジエストヴェンスキー提督に対して、無残な敗北となった結果をふまえて、臆病者と激しくののしる声がロシア国内でかまびすしかったようですが、この本を読む限り、臆病者と決めつけるのはあたらないように思われます。ロシアのほうの皇帝以下、全般的な準備不足を提督一人の責任にしてしまうのは、公平を欠くというほかありません。
 バルチック艦隊がロシアを出たのは、1904年の10月2日。イギリスをまわり、ポルトガルを経て、アフリカをずっと南下していきます。南アフリカから喜望峰を経てマダガスカル島へたどり着いたのは、その年の暮れのこと(12月25日)。そして、ここになんと3月3日まで、2か月以上も滞留します。これも提督の意思によるものではありません。ロシア本国の指令なのです。そして、ようやくインド洋を経て、インドネシアからベトナムを経て、5月14日、ついに対馬海峡にたどり着きます。もうその頃には、バルチック艦隊は全員がへとへとの状態にありました。うへーっ、いくらなんでも、それでは勝てませんよね。
 日本との開戦前、クロパトキン陸軍相は、「朝鮮が原因でロシアが戦争をはじめるのは、ロシアにとって大きな災厄だ」と述べた。アレクサンドル皇帝は見直しを誤った。側近たちが皇帝の見直しを誤らせた。
 「日本には、戦争に打って出るだけの度胸がない」。このように、日本や中国との交渉では、一切の妥協を排する姿勢こそ最良の方法だとロシア皇帝は信じ込んでいた。ロシアは、戦争を望んではいなかったが、開戦したら勝利するとの見込みは持っていた。この戦争でロシアが勝てば、東アジアにおけるロシアの支配領域の範囲は大きく拡大するとロシア指導者の一部は想定していた。
 ロジエストヴェンスキー提督の個人的資質について、次のように高く評価する研究者がいる。
 彼は、部下が絶対的に信頼する司令官である。部下たちは、提督の勇敢さ、能力、人間性、持って生まれた清廉潔白さを疑うことはなかった。
 バルチック艦隊の実態について、アメリカの研究者(フォーク)は、次のように述べている。
 バルチック艦隊と呼べるほどの艦隊は存在しなかった。この艦隊には、未完成の新造艦もあれば、時代錯誤というべきオンボロ船も含まれていた。すべての船で、乗組員は訓練不足のうえ、定員も満たしていなかった。にわか作りで編成された艦隊は、種々雑多な艦船の寄せ集めにすぎず、これを文書の上に船の名前を並べ、軍事力として編成したに過ぎない。
 うひゃひゃ、そ、そういう実情だったのですね……。
 次に、ロジエストヴェンスキー自身の手紙を紹介します。
 「一歩すすむごとに問題が起こる。艦艇での故障、失策、拙劣な指揮、命令の不実行、無知、無能力、怠慢。この世に存在するありとあらゆる罪だ。なんとか蓋を閉めなければならない。次から次へと何かが起こり、もう耐えられないような状況だ。
 バルチック艦隊の艦艇のほとんどが長期航海の設備を整えておらず、石炭を十分に蓄えておけるだけの貯炭庫がなかった。一戦艦で、一昼夜に110トンもの石炭を消費したのに……。ひと言でいえば、今、目隠しで前進しているようなものだ。訓練も教育もない連中が、いったい何の役に立つのか、私にはわからない。それどころか、余計な負担であり、弱点になるだけだろう」
 艦隊には、反乱に近い騒ぎの空気が生まれていた。航海生活の厳しい諸条件、耐えがたい猛暑、炭じんに汚れる毎日の生活、ひどい食事がその背景にあった。しかし、最大の理由は、この先の航海に展開が開けないことだった。
 艦隊が崩壊しなかったのは、ひとえにロジエストヴェンスキー司令長官の功績だった。
 ロジエストヴェンスキーはあらかじめ弁解した。
 「私は悪党でもごろつきでもない。任務を遂行するために必要な人材、資材を与えられなかった司令官だっただけなのだ……」
 バルチック艦隊の前には、間違いなく破滅が待っていると確信していた。
 敗北は必至という予感にも関わらず、ロジエストヴェンスキーは目的地への航行を急いだ。間違いなくやってくる終焉を待つことの方が、終焉そのものよりも苦しいと感じていたのだ。次も提督が手紙に書いた言葉です。
 「マダガスカルに2ヶ月間停泊していたために、それから先の行動に蓄えておいた強力なエネルギーはすべて使い果たした。陸軍が完敗したという最新のニュースを知り、わが艦隊の乗組員たちの弱っていた精神力は、完全に参ってしまった。すっかり意気消沈してしまった者もいる」
 バルチック艦隊の大部分の指揮官たちは、無気力になるか、飲酒にふけるかのどちらかだった。ただ一人、ロジエストヴェンスキーだけが、思わしくない健康にもかかわらず、自分をしっかり律していた。彼だけが、艦隊内に生まれつつあった精神的瓦解をおさえることができた。
 ゴルバチョフ大統領の訪日団の一員であり、現在は日本で大学教授をしているロシア人の研究者による貴重な労作です。
(2009年2月刊。1500円+税)

世界史の中の日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者 山田 朗、 出版 吉川弘文館
 私は旅順に行き、203高地にのぼったことがあります。何の変哲もない、低い灌木のまばらに生えた丘のような山でした。203高地というのは、高さが203メートルということから名付けられたものです。
 そして、ロシア軍の築いた堅固な要塞である東鶏冠山堡塁の内部にも足を踏み入れました。とても頑丈な作りでした。フランスの築城技術に学んで、ロシア軍が念入りに作り上げた要塞です。日本軍はこの要塞を攻めあぐねて、大変な死傷者を出しています。
 1904年(明治37年)2月9日、日本軍は旅順軍港にいたロシア軍艦に奇襲攻撃をかけた。日露戦争の始まりである。欧米の新聞は、この戦闘を翌2月10日の新聞で詳しく報道した。今から100年以上も前なのに、どうして可能だったのか。それは、海底ケーブルと電話線によって、世界の主要な都市、軍事拠点が接続していたから。というのも、イギリスは、50年かけて世界を結ぶ海底ケーブル網を完成させていた。
 海底ケーブルの敷設と地上優先通信網の整備、無線電信の導入は、日露戦争における情報力において、日本がロシアに対して優位に立つ大きな要因となった。情報戦の分野では、日英同盟にアメリカが加わり、それと露仏同盟が戦っていた。
 日露戦争のとき、日本軍は機関銃を持っていなかったという俗説は全くの間違いである。日本は、すでに日清戦争のときにイギリス式のマキシム式機関砲を保有していた。日露戦争のときには、フランス式のホチキス式機関銃を保有していた。ただし、日本軍はあまり最前線の陣地では使用しなかった。
 日露戦争で使用された日本の戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻は、戦艦はイギリス製、装甲巡洋艦はイギリスやイタリア・フランス・ドイツ製であった。日本はまだ自国で建造する能力がなかった。
 ロシアは、新旧雑多な軍艦で編成されていたのに対して、日本側は新鋭艦を中心に構成されて連合艦隊として佐世保に集結していた、
 ロシアと日本と、戦力はほぼ互角で、総合砲戦力では日本がやや劣るが、快速性の点では日本側が優勢だった。
 日本軍は旅順要塞の総攻撃で大損害を被った。5万7000人が参加して、1万6000人ほどの死傷者を出した(戦死者5000人)。ロシア側の野砲や機関銃に対して、ひらすら白兵攻撃を敢行して人海戦術で突破口を作ろうとするばかりだったからだ。ロシア側の火力にさらされたときの防御陣地や遮蔽物の構築がまったくできていなかった。日本側は、本格的な要塞攻撃のノウハウを知らなかったし、旅順要塞の堡塁の構造やロシア側火器の配備状況の情報収集も十分ではなかった。
 203高地をついに占領したとき、日本軍は6万4000人の参加人員のうち、1万7000人もの死傷者(戦死5000人)を出した。結局、日本側はロシア側の総兵力をはるかに上回る6万人に近い死傷者を出した。ロシア側は4万7000人の兵力で防衛し、2万8000人の死傷者を出した。
バルチック艦隊が今どこにいるのかというのは、マスコミによって刻々と伝えられていた。
 日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝利したのは、双方の戦力データを比較検討したら、日本側の勝利は順当なものだったといえる。日本艦隊にとって有利な条件がそろっており、逆にロシア側はきわめて不利な状態で戦闘に突入した。
 ロシア艦隊はのべ3万キロ、7ヶ月の航海を経て、極度に疲弊しており、途中に寄港できる同盟国もなく、将兵の士気は低下し、小暴動が頻発していた。日本側は、いつごろロシア艦隊が到着するかつかんでおり、鑑定の整備と将兵の訓練を十分に行うことができ、準備万端整えたうえで海戦に臨むことができた。
 日露戦争、そして日本海海戦の実相をよく知ることができる本です。
 よく雨が降りました。
 日曜日、昼から雨が止んだので、少し庭の手入れをしました。ネムの木がピンクの花を見事に咲かせています。誰かがネムの花は水彩画がよく似合うと書いていましたが、なるほど、そのとおりですね。ボワボワとふくらみのあるピンクと白の混じった花で、見ているだけでも心が浮き浮きしてきます。
 連日の雨で鳴くヒマがなかったせいでしょうか。セミが薄暗くなった7時半まで鳴いていました。
 
(2009年4月刊。2500円+税)

カラカウア王のニッポン仰天旅行記

カテゴリー:日本史(明治)

著者 荒俣 宏(訳)、 出版 小学館文庫
 ハワイの王様が、明治時代の日本を訪問したときの見聞録ですが、目新しい話が盛りだくさんでした。
 ときは明治の初めころです。ハワイにとても陽気で学問好きの王様がいました。カラカウア王といいます。いまも日本で流行のフラダンスを復活させた王様でもあります。
 カラカウア王は、カメハメハ大王によって成立したハワイ王国の最後の王です。その死後、妹のリリウオカラニ女王が誕生したのですが、アメリカ人がクーデターを起こし(1893年)王位を追われ、ハワイはアメリカ合衆国に併合されてしまいました。
 そして、このカラカウア王は世襲で王様になったというより、議会の投票によって民主的に選ばれた王様なのでした。ちなみに、先代のルナリロ王も選挙で選ばれています。日本でも幕末のころは、選挙でこそありませんが、将軍は有力幕臣が話し合って決めていたことを思い出します。
 投票したのは立法府の議員、場所はホノルル市裁判所。カラカウアが39票対4票の大差でアメリカべったりのエマ妃を破ったのでした。
白人が持ち込んだ病気によって、ハワイに住んでいたポリネシア人が次々に亡くなり、1778年に38万人いたのが、100年後には4万5000人になっていたのです。
 1881年(明治14年)3月、カラカウア王様御一行は江戸湾に入り、明治政府から盛大なる歓迎を受けたのでした。
 日本人は、フランス人のシェフがつくる料理なら何でも真似てつくれる。ただ、肉と野菜はヨーロッパのよりも味が落ちる。
 むふふ、これって、なんだか現代日本のフランス料理ブームを皮肉っているように聞こえてきますよね。つい、おかしくって笑ってしまいました。
 カラカウア王は、明治天皇と会い、肩を並べて歩いたりしています。
 明治政府がハワイの王様を最大限のもてなしで処遇したのは、欧米列強に押しつけられていた不平等な条約を改正したいという願望があったからでした。そして、日本政府の願望をハワイの王様はいち早く受け入れてやったのです。
 ハワイ政府は、条約問題に関して、日本帝国の主権を十分に理解し尊重し、現在の条約における治外法権的権利から生じる特権を、すべて放棄する。
明治政府は、この対応に大喜びしたのです。そして、カラカウア王は、明治天皇に対して、縁結びを提案したというのです。王の姪で、王位継承者であるカイウラニ姫を、明治天皇の親戚の親王の一人(東伏見宮彰仁親王)と結婚させようとしたのです。
 明治天皇は返事を保留して、御前会議を開いて検討しました。賛成意見が大勢を占めた時期もありましたが、天皇家に国際結婚の例がないこと、アメリカとの関係悪化を恐れて、翌年、正式に断りの返事を出しました。
 このとき、ハワイの王家と日本の皇室との結婚が成立していたら、ハワイ王国がアメリカに併合されることはなかったかもしれない。著者はこのように書いていますが、果たしてどうでしょうか……?
 日本の政治家は、世界に出しても立派に通用する能力を持っているなどと高く評価されています。この点は、現代日本とまるで違いますね。
 ろくに漢字も読めず、一時的なバラまきはしても、相変わらずアメリカのいいなり、というか、アメリカが核廃絶を提唱しても、それに賛成するどころか、唯一の被爆国であることも忘れて、アメリカに核の傘をなくさないようにと、ひたすら嘆願しつづける哀れな政府です。日本政府が世界平和のためのリーダーシップを発揮するのは、いつのことでしょうか。こんなていたらくなのに、常任理事国にだけは立候補し続けようというのですから、呆れたものです。絶版になっていた本なので、インターネットで注文して入手しました。
 歩いて5分とかからないところにホタルが飛び交うところがあります。今年はそこがホタルの里と名付けられて整備され、土曜日の夜、ホタル祭りがありました。
 行ってみると、例年以上に人が出ています。子ども連れの家族が押し寄せてきていました。携帯でパシャパシャとフラッシュをたきながら写真を撮っています。ホタルはうつらないんじゃないかなと心配もします。それより、ホタルがフワリフワリと明滅しながら空中を漂っている様を味わうべきと思うのですが、これは独りよがりでしょうか……。
 ホタルより見物の人間のほうが多いかなという冗談が冗談でないほどの人出でした。
 ホタルの里と整備されたというのは、道の両側に切った竹筒を並べ、その中にローソクを灯しておいたり、昼間は花壇をととのえていたり、という環境がつくり上げられたということです。私の好みにはまったく合いませんが、地元の人たちが良かれと思ってやったというのなら、黙っているしかありません。
 でも、あんまり人工的に整備しすぎるのは、大自然のなかをたゆたうホタルに似つかわしくない気がするのは私だけなのでしょうか……。
 
(2000年7月刊。676円+税)

山県有朋

カテゴリー:日本史(明治)

著者 伊藤 之雄、 出版 文春新書
 この本を読むと、天皇がときの権力者からおもちゃのように扱われていたこと、天皇の意思より権力者の都合のほうが明らかに優先していたことがよく分かります。天皇というのは、権力者にとって都合のいい、隠れ蓑でしかなかったのですね。
 そんな権力者が、「万世一系、天皇は神聖にしておかすべからず」などと国民に向かっては唱えているのですから、まさしく笑止千万です。
 山県有朋の父は、下級武士(蔵元付仲間組。ちゅうげんぐみ)だった。武士の中では身分の低い家に生まれながらも、吉田松陰の松下村塾に入門し、高杉晋作のつくった奇兵隊では、隊長(総管)に次ぐ地位(軍監)となって、幕末の動乱を戦った。
 山県は、4歳までに母を亡くし、父も若くして亡くなっていて、祖母も明治になる前に自殺している。このように家庭的には寂しい少年・青年時代を過ごした。そこで、心を許せる友は少なく、国民的な人気も高まらなかった。
 明治に入って西郷隆盛らが征韓論を唱えて下野したとき、山県有朋は長州藩出身という義理から木戸を支持して動くのが自明であった。しかし、尊敬し世話になった西郷と面と向かって対決するのがつらく、山県は積極的に動くことができなかった。このとき、山県は病気になったが、これも木戸への義理と西郷への人情に引き裂かれたストレスからきたものだった。
 山県は陸軍卿となって徴兵制を積極的に導入しようとした。しかし、それに対して士族の誇りから徴兵制に反感を持つナンバーツーの山田顕義少将らとの対立があった。
政府にとって佐賀の乱以上に困難な問題だったのは、台湾出兵である。征韓論に反対した岩倉・大久保らが4か月もしないうちに台湾出兵を決意したのは、全国的に広がるような士族反乱を恐れたからである。台湾出兵の欲求は、陸海軍の少壮将校の間にすらあった。台湾出兵を求める声をむやみに抑圧したら、現に佐賀の乱がおこったように、国内で大きな反乱を引き起こすかもしれなかった。
 1874年の台湾出兵以来、伊藤が大久保の後継者として地位を固めていき、西南戦争の前年には木戸に勝るとも劣らない実権を持つようになり、山県はこのような伊藤の支援で政府と陸軍内での地位を確保することができた。
 山県有朋は、37歳にして権力志向の強い人間に変わりはじめた。自らの理想を実現するために、人脈や派閥を構築しようと考えはじめたのだ。
 山県は、西郷隆盛と、人情に流されやすい優しい性格という点で、大きな共通点を持っていた。
 1873年から西南戦争がはじまる1877年までに徴兵し訓練されていた兵士は3万3700人であり、西郷軍1万6000人の2倍以上の動員能力を持っていた。しかし、山県は西郷軍を甘く見ず、心配症といえるほど気を配った。山県は南関(熊本県)に到着し、田原坂そして植木をめぐる攻防戦を指揮した。山県の採用した戦法は、奇策に頼らない正面攻撃だった。これは山県の真面目な性格を反映していた。
 山県にとって西郷隆盛は、尊敬とあこがれの対象だった。西南戦争の最中(1877年5月)に、木戸孝允が病死した(43歳)。山県は木戸の死より、西郷の死がはるかに悲しかった。
 明治天皇は1884年から85年にかけて、政務をサボタージュした。それは、監軍任命などについての天皇の意思が伊藤らに無視されたからである。そして、1886年(明治19年)、明治天皇は条例の裁可をしぶった。33歳の明治天皇は、まだ十分な権威を備えていなかった。山県や大山は、明治天皇が軍政に関与することに抵抗し、伊藤も天皇の政治関与を抑制する立場から、これを支持していた。明治天皇は、このような経験を重ねて、危機のときだけ君主は調停的に関与するものだということを学んでいった。
 明治維新以来、山県は何度も失脚しそうになりながら、屈辱に耐え、気合いと誠意で日本陸軍と自らの地位を築いてきた。桂太郎にはそのような苦労をさせまいと、自分の権力を使って陸軍省総務局長・次官や陸相というエリートポストにつけ、後継者としての地位を固めさせた。その桂が、自分の陸軍にかける思いをまったく理解せず、時勢に迎合して政党をつくる。山県には承服できなかった。山県は桂への怒りを煮えたぎらせるとともに、桂に期待し、桂の成長を陸軍や日本の将来と重ね合わせて楽しみにしてきた自分の愚かさが腹立たしかった。
 新書版といいながら、500頁近くもある大著です。山県有朋を通して、明治の政治が浮き彫りにされ、最後まで大変面白く読み通しました。
 新緑溢れる信州・白樺湖に久しぶりに行ってきました。湖の周りを歩いて一周するのに1時間ほど。ちょうどいい散歩コースです。もっとも、マラソンを愛する玉木昌美弁護士(滋賀)は1周20分ほどで走り、気持よかったよとのたまわっていました。まあ、これは好き好きですよね。ゆっくり歩くと、小鳥のさえずりのバリエーションを楽しむことができます。ウグイスのほか、いくつも聞こえてきますが、その姿を見ることはほとんどできません。
 板でできた野趣あふれる遊歩道が作られているところもあります。そこをゆっくり歩くと、湖面に悠々と鴨がペアで泳いでいるのが見えました。湖畔には白水仙がたくさん咲いています。九州では3月に咲き終わる花です。
 ここらで一休み、一服しませんか。そんな看板に引き寄せられて喫茶店に入りました。その都度、コーヒーメーカーを作動させるようです。やがて、香り高くもやわらかい味のコーヒーを堪能することができました。
 白樺湖の周囲の山々は冬にスキー場になるのが草原のようになっています。おだやかな湖面に吹き渡る風も涼しく、ついつい深呼吸してしまいました。
(2009年2月刊。1300円+税)

日本紀行

カテゴリー:日本史(明治)

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫
 明治のはじめ、日本を女性ひとりで旅行した女性の日本観察記です。
 日本ほど、女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。著者はそう断言しています。うひゃあ、そ、そうなんですかねー・・・。
 日本は花々が大変豊富で、とくに花の咲く灌木に富んでいる。つつじ、椿、アジサイ、モクレン、あやめ、牡丹、桜、梅など。そうなんですよね。我が家の庭にも、椿、アジサイ、モクレン、牡丹、桜、梅があります。四季折々に見事な花が咲き誇り、目を楽しませてくれます。なんとなく心に潤いを感じます。これこそ田舎に住む良さです。
 日本の馬は貧弱で哀れな獣。恨みがましく狡猾な動物で、のろのろと動く、寝ころがる、よろめくの3つの動きで、人間の忍耐力を試そうとする。ひゃあ、そんな……、ここまでいったら、なんだか可哀想ですよ。
 臆病な日本の黄色い犬は、夜間に吠える癖が強い。ええーっ、そうですかね……。
 日本の内陸に住む人々は親切でやさしくて礼儀正しい。ふむふむ、なるほど。
 物乞いや暴徒が日本にはいない。女性は男性のいるなかを、まったく事由に動きまわっている。子どもは父親からも母親からも大事にされている。女性は顔を隠さず、地味な顔だちをしている。だれもが清潔で、きちんとした身なりをしている。みんな、きわめておとなしい。礼儀正しくて、秩序がたもたれている。いやあ、そうですね。日本の女性って、昔から強いのです。弁護士になって35年間、日々、それを実感しています。
 日本人の鼻はぺったんこで、唇は厚く、目は斜めに吊り上がったモンゴル人種のタイプ。これまで会ったなかで、もっとも醜くて、もっとも感じのいい人たちであり、もっとも手際がよくて器用だ。うむむ、これは納得できそうで、できませんが……。
 日本の商店で、買い物をするとき、うるさい値引きの交渉はひとつもない。ふむふむ。
 秋田県の久保田にも地方裁判所がある。司法制度の改革とともに、弁護士が続々と誕生している。ここは、えらく訴訟好きの町ではないかと思えるほど弁護士がいる。法律関係の職業は、たいがいペンをつかうことに長けた士族の好む職業となりつつある。弁護士の免許料は約2ポンド。これは、もうかる職業に違いない。うむむ、昔の秋田にそれほど弁護士がいたなんて……。今は少ないです。
 学校のない地域で子どもたちは教育を受けないままになっていると思っていたが、それは間違いだった。おもだった住民が子どもたちに勉強を教えてくれる若い男を確保し、ある者は衣服を、別のある者は住居と食事を提供する。それより貧しい人々は、月謝を支払い、もっとも貧しい人々は無料で子どもたちに教育を受けさせられる。これは、とてもよくある習慣のようだ。小繋(こつなぎ)では、30人の勉強熱心な子どもたちが台所の一隅で授業を受けていた。ここは、あとで、入会権の裁判で有名になったところです。
 日本の女性や子どもたちが伸びのびと生きていたことをよく教えてくれる本です。
 きのうの日曜日の朝、春雨が降りだす前に春告鳥(はるつげどり)が美しい音色の声を爽やかに響かせてくれました。そうです。ウグイスです。ホーホケキョと済んだ声でした。梅の花も満開、やがて春の初市の季節です。
 今朝の新聞の書評コーナーに私の本が紹介されていました。あまり売れていない本なので、とてもうれしく思いました。元気の出てくる朝でした。
(2008年4月刊。1500円+税)

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