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カテゴリー: 日本史(明治)

カラカウア王のニッポン仰天旅行記

カテゴリー:日本史(明治)

著者 荒俣 宏(訳)、 出版 小学館文庫
 ハワイの王様が、明治時代の日本を訪問したときの見聞録ですが、目新しい話が盛りだくさんでした。
 ときは明治の初めころです。ハワイにとても陽気で学問好きの王様がいました。カラカウア王といいます。いまも日本で流行のフラダンスを復活させた王様でもあります。
 カラカウア王は、カメハメハ大王によって成立したハワイ王国の最後の王です。その死後、妹のリリウオカラニ女王が誕生したのですが、アメリカ人がクーデターを起こし(1893年)王位を追われ、ハワイはアメリカ合衆国に併合されてしまいました。
 そして、このカラカウア王は世襲で王様になったというより、議会の投票によって民主的に選ばれた王様なのでした。ちなみに、先代のルナリロ王も選挙で選ばれています。日本でも幕末のころは、選挙でこそありませんが、将軍は有力幕臣が話し合って決めていたことを思い出します。
 投票したのは立法府の議員、場所はホノルル市裁判所。カラカウアが39票対4票の大差でアメリカべったりのエマ妃を破ったのでした。
白人が持ち込んだ病気によって、ハワイに住んでいたポリネシア人が次々に亡くなり、1778年に38万人いたのが、100年後には4万5000人になっていたのです。
 1881年(明治14年)3月、カラカウア王様御一行は江戸湾に入り、明治政府から盛大なる歓迎を受けたのでした。
 日本人は、フランス人のシェフがつくる料理なら何でも真似てつくれる。ただ、肉と野菜はヨーロッパのよりも味が落ちる。
 むふふ、これって、なんだか現代日本のフランス料理ブームを皮肉っているように聞こえてきますよね。つい、おかしくって笑ってしまいました。
 カラカウア王は、明治天皇と会い、肩を並べて歩いたりしています。
 明治政府がハワイの王様を最大限のもてなしで処遇したのは、欧米列強に押しつけられていた不平等な条約を改正したいという願望があったからでした。そして、日本政府の願望をハワイの王様はいち早く受け入れてやったのです。
 ハワイ政府は、条約問題に関して、日本帝国の主権を十分に理解し尊重し、現在の条約における治外法権的権利から生じる特権を、すべて放棄する。
明治政府は、この対応に大喜びしたのです。そして、カラカウア王は、明治天皇に対して、縁結びを提案したというのです。王の姪で、王位継承者であるカイウラニ姫を、明治天皇の親戚の親王の一人(東伏見宮彰仁親王)と結婚させようとしたのです。
 明治天皇は返事を保留して、御前会議を開いて検討しました。賛成意見が大勢を占めた時期もありましたが、天皇家に国際結婚の例がないこと、アメリカとの関係悪化を恐れて、翌年、正式に断りの返事を出しました。
 このとき、ハワイの王家と日本の皇室との結婚が成立していたら、ハワイ王国がアメリカに併合されることはなかったかもしれない。著者はこのように書いていますが、果たしてどうでしょうか……?
 日本の政治家は、世界に出しても立派に通用する能力を持っているなどと高く評価されています。この点は、現代日本とまるで違いますね。
 ろくに漢字も読めず、一時的なバラまきはしても、相変わらずアメリカのいいなり、というか、アメリカが核廃絶を提唱しても、それに賛成するどころか、唯一の被爆国であることも忘れて、アメリカに核の傘をなくさないようにと、ひたすら嘆願しつづける哀れな政府です。日本政府が世界平和のためのリーダーシップを発揮するのは、いつのことでしょうか。こんなていたらくなのに、常任理事国にだけは立候補し続けようというのですから、呆れたものです。絶版になっていた本なので、インターネットで注文して入手しました。
 歩いて5分とかからないところにホタルが飛び交うところがあります。今年はそこがホタルの里と名付けられて整備され、土曜日の夜、ホタル祭りがありました。
 行ってみると、例年以上に人が出ています。子ども連れの家族が押し寄せてきていました。携帯でパシャパシャとフラッシュをたきながら写真を撮っています。ホタルはうつらないんじゃないかなと心配もします。それより、ホタルがフワリフワリと明滅しながら空中を漂っている様を味わうべきと思うのですが、これは独りよがりでしょうか……。
 ホタルより見物の人間のほうが多いかなという冗談が冗談でないほどの人出でした。
 ホタルの里と整備されたというのは、道の両側に切った竹筒を並べ、その中にローソクを灯しておいたり、昼間は花壇をととのえていたり、という環境がつくり上げられたということです。私の好みにはまったく合いませんが、地元の人たちが良かれと思ってやったというのなら、黙っているしかありません。
 でも、あんまり人工的に整備しすぎるのは、大自然のなかをたゆたうホタルに似つかわしくない気がするのは私だけなのでしょうか……。
 
(2000年7月刊。676円+税)

山県有朋

カテゴリー:日本史(明治)

著者 伊藤 之雄、 出版 文春新書
 この本を読むと、天皇がときの権力者からおもちゃのように扱われていたこと、天皇の意思より権力者の都合のほうが明らかに優先していたことがよく分かります。天皇というのは、権力者にとって都合のいい、隠れ蓑でしかなかったのですね。
 そんな権力者が、「万世一系、天皇は神聖にしておかすべからず」などと国民に向かっては唱えているのですから、まさしく笑止千万です。
 山県有朋の父は、下級武士(蔵元付仲間組。ちゅうげんぐみ)だった。武士の中では身分の低い家に生まれながらも、吉田松陰の松下村塾に入門し、高杉晋作のつくった奇兵隊では、隊長(総管)に次ぐ地位(軍監)となって、幕末の動乱を戦った。
 山県は、4歳までに母を亡くし、父も若くして亡くなっていて、祖母も明治になる前に自殺している。このように家庭的には寂しい少年・青年時代を過ごした。そこで、心を許せる友は少なく、国民的な人気も高まらなかった。
 明治に入って西郷隆盛らが征韓論を唱えて下野したとき、山県有朋は長州藩出身という義理から木戸を支持して動くのが自明であった。しかし、尊敬し世話になった西郷と面と向かって対決するのがつらく、山県は積極的に動くことができなかった。このとき、山県は病気になったが、これも木戸への義理と西郷への人情に引き裂かれたストレスからきたものだった。
 山県は陸軍卿となって徴兵制を積極的に導入しようとした。しかし、それに対して士族の誇りから徴兵制に反感を持つナンバーツーの山田顕義少将らとの対立があった。
政府にとって佐賀の乱以上に困難な問題だったのは、台湾出兵である。征韓論に反対した岩倉・大久保らが4か月もしないうちに台湾出兵を決意したのは、全国的に広がるような士族反乱を恐れたからである。台湾出兵の欲求は、陸海軍の少壮将校の間にすらあった。台湾出兵を求める声をむやみに抑圧したら、現に佐賀の乱がおこったように、国内で大きな反乱を引き起こすかもしれなかった。
 1874年の台湾出兵以来、伊藤が大久保の後継者として地位を固めていき、西南戦争の前年には木戸に勝るとも劣らない実権を持つようになり、山県はこのような伊藤の支援で政府と陸軍内での地位を確保することができた。
 山県有朋は、37歳にして権力志向の強い人間に変わりはじめた。自らの理想を実現するために、人脈や派閥を構築しようと考えはじめたのだ。
 山県は、西郷隆盛と、人情に流されやすい優しい性格という点で、大きな共通点を持っていた。
 1873年から西南戦争がはじまる1877年までに徴兵し訓練されていた兵士は3万3700人であり、西郷軍1万6000人の2倍以上の動員能力を持っていた。しかし、山県は西郷軍を甘く見ず、心配症といえるほど気を配った。山県は南関(熊本県)に到着し、田原坂そして植木をめぐる攻防戦を指揮した。山県の採用した戦法は、奇策に頼らない正面攻撃だった。これは山県の真面目な性格を反映していた。
 山県にとって西郷隆盛は、尊敬とあこがれの対象だった。西南戦争の最中(1877年5月)に、木戸孝允が病死した(43歳)。山県は木戸の死より、西郷の死がはるかに悲しかった。
 明治天皇は1884年から85年にかけて、政務をサボタージュした。それは、監軍任命などについての天皇の意思が伊藤らに無視されたからである。そして、1886年(明治19年)、明治天皇は条例の裁可をしぶった。33歳の明治天皇は、まだ十分な権威を備えていなかった。山県や大山は、明治天皇が軍政に関与することに抵抗し、伊藤も天皇の政治関与を抑制する立場から、これを支持していた。明治天皇は、このような経験を重ねて、危機のときだけ君主は調停的に関与するものだということを学んでいった。
 明治維新以来、山県は何度も失脚しそうになりながら、屈辱に耐え、気合いと誠意で日本陸軍と自らの地位を築いてきた。桂太郎にはそのような苦労をさせまいと、自分の権力を使って陸軍省総務局長・次官や陸相というエリートポストにつけ、後継者としての地位を固めさせた。その桂が、自分の陸軍にかける思いをまったく理解せず、時勢に迎合して政党をつくる。山県には承服できなかった。山県は桂への怒りを煮えたぎらせるとともに、桂に期待し、桂の成長を陸軍や日本の将来と重ね合わせて楽しみにしてきた自分の愚かさが腹立たしかった。
 新書版といいながら、500頁近くもある大著です。山県有朋を通して、明治の政治が浮き彫りにされ、最後まで大変面白く読み通しました。
 新緑溢れる信州・白樺湖に久しぶりに行ってきました。湖の周りを歩いて一周するのに1時間ほど。ちょうどいい散歩コースです。もっとも、マラソンを愛する玉木昌美弁護士(滋賀)は1周20分ほどで走り、気持よかったよとのたまわっていました。まあ、これは好き好きですよね。ゆっくり歩くと、小鳥のさえずりのバリエーションを楽しむことができます。ウグイスのほか、いくつも聞こえてきますが、その姿を見ることはほとんどできません。
 板でできた野趣あふれる遊歩道が作られているところもあります。そこをゆっくり歩くと、湖面に悠々と鴨がペアで泳いでいるのが見えました。湖畔には白水仙がたくさん咲いています。九州では3月に咲き終わる花です。
 ここらで一休み、一服しませんか。そんな看板に引き寄せられて喫茶店に入りました。その都度、コーヒーメーカーを作動させるようです。やがて、香り高くもやわらかい味のコーヒーを堪能することができました。
 白樺湖の周囲の山々は冬にスキー場になるのが草原のようになっています。おだやかな湖面に吹き渡る風も涼しく、ついつい深呼吸してしまいました。
(2009年2月刊。1300円+税)

日本紀行

カテゴリー:日本史(明治)

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫
 明治のはじめ、日本を女性ひとりで旅行した女性の日本観察記です。
 日本ほど、女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。著者はそう断言しています。うひゃあ、そ、そうなんですかねー・・・。
 日本は花々が大変豊富で、とくに花の咲く灌木に富んでいる。つつじ、椿、アジサイ、モクレン、あやめ、牡丹、桜、梅など。そうなんですよね。我が家の庭にも、椿、アジサイ、モクレン、牡丹、桜、梅があります。四季折々に見事な花が咲き誇り、目を楽しませてくれます。なんとなく心に潤いを感じます。これこそ田舎に住む良さです。
 日本の馬は貧弱で哀れな獣。恨みがましく狡猾な動物で、のろのろと動く、寝ころがる、よろめくの3つの動きで、人間の忍耐力を試そうとする。ひゃあ、そんな……、ここまでいったら、なんだか可哀想ですよ。
 臆病な日本の黄色い犬は、夜間に吠える癖が強い。ええーっ、そうですかね……。
 日本の内陸に住む人々は親切でやさしくて礼儀正しい。ふむふむ、なるほど。
 物乞いや暴徒が日本にはいない。女性は男性のいるなかを、まったく事由に動きまわっている。子どもは父親からも母親からも大事にされている。女性は顔を隠さず、地味な顔だちをしている。だれもが清潔で、きちんとした身なりをしている。みんな、きわめておとなしい。礼儀正しくて、秩序がたもたれている。いやあ、そうですね。日本の女性って、昔から強いのです。弁護士になって35年間、日々、それを実感しています。
 日本人の鼻はぺったんこで、唇は厚く、目は斜めに吊り上がったモンゴル人種のタイプ。これまで会ったなかで、もっとも醜くて、もっとも感じのいい人たちであり、もっとも手際がよくて器用だ。うむむ、これは納得できそうで、できませんが……。
 日本の商店で、買い物をするとき、うるさい値引きの交渉はひとつもない。ふむふむ。
 秋田県の久保田にも地方裁判所がある。司法制度の改革とともに、弁護士が続々と誕生している。ここは、えらく訴訟好きの町ではないかと思えるほど弁護士がいる。法律関係の職業は、たいがいペンをつかうことに長けた士族の好む職業となりつつある。弁護士の免許料は約2ポンド。これは、もうかる職業に違いない。うむむ、昔の秋田にそれほど弁護士がいたなんて……。今は少ないです。
 学校のない地域で子どもたちは教育を受けないままになっていると思っていたが、それは間違いだった。おもだった住民が子どもたちに勉強を教えてくれる若い男を確保し、ある者は衣服を、別のある者は住居と食事を提供する。それより貧しい人々は、月謝を支払い、もっとも貧しい人々は無料で子どもたちに教育を受けさせられる。これは、とてもよくある習慣のようだ。小繋(こつなぎ)では、30人の勉強熱心な子どもたちが台所の一隅で授業を受けていた。ここは、あとで、入会権の裁判で有名になったところです。
 日本の女性や子どもたちが伸びのびと生きていたことをよく教えてくれる本です。
 きのうの日曜日の朝、春雨が降りだす前に春告鳥(はるつげどり)が美しい音色の声を爽やかに響かせてくれました。そうです。ウグイスです。ホーホケキョと済んだ声でした。梅の花も満開、やがて春の初市の季節です。
 今朝の新聞の書評コーナーに私の本が紹介されていました。あまり売れていない本なので、とてもうれしく思いました。元気の出てくる朝でした。
(2008年4月刊。1500円+税)

森鷗外と日清・日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者:末延 芳晴、 発行:平凡社
 森鷗外は、夏目漱石と並ぶ明治の文豪であり、同時に、文学者でありながら陸軍軍医官僚であるという矛盾をかかえ通したことで、謎の文学者でもある。そもそも軍人でありながら文学者であることが可能なのか。
 私は、『五重塔』や『阿部一族』など、森鷗外の重厚な文体に強く惹かれるものがあります。その森鷗外の実態に迫る本書は、私の知的好奇心をますますかき立ててくれました。森鷗外は、日清・日露戦争に軍医として従軍し、日記や妻への手紙を書き、歌まで詠んでいたというのです。戦争の残虐さを実感し、綱紀がいいはずの日本軍が罪なき市民を大虐殺したことも現地で実見しながら、立場上そのままを日本に伝えることはできませんでした。それでもストレートでは伝えられなかったものを、それなりに伝えているようです。
 日清戦争のとき、日本軍は旅順に入って一般市民を無差別に殺戮した。旅順虐殺事件として世界に広く知られた。しかし、日本国内ではほとんど知られていません。乃木将軍も関わっている虐殺事件です。
 森鷗外は、軍医として台湾侵攻作戦にも従軍している。このとき、現地住民によるゲリラ的反撃にあい、予想もしなかった苦戦を強いられた。戦争の過酷さ、恐ろしさを体験させられた。
 森鷗外は、実家にいる妻あてに、実にこまめに手紙を書いて送った。ヒラの兵士だと月に2回という制限がある。しかし、鴎外は1年10ヶ月のあいだに妻へ133通もの手紙を書いて送った。1週間に1回のペースである。妻は鷗外より18歳も年下だった。1年10ヶ月というのは、日露戦争に鷗外が従軍した期間である。
 森鷗外は、しばらく小倉で軍医をしていました。それが初めての挫折といわれるほどの左遷であったことを初めて認識しました。明治32年(1899年)6月のことでした。
「左遷なりとは、軍医一同が言っており、得意な境地はない」
「実に危急存亡の秋(とき)なり」
小倉での鷗外の軍医としての仕事は、徴兵を忌避しようとする若者をチェックすることにあった。
 明治42年2月、森鷗外は朝日新聞の記者によると、怒鳴りあい、取っ組みあうという喧嘩沙汰までひきおこした。偉大な文豪と呼ばれる人でも、こういうことってあるんですね。よほど記者がカンに触るようなことを言ったのでしょうか……。
 森鷗外は軍医として最高峰の地位にまでたどり着き、元老の最長老として政・軍に絶大なる影響力を行使していた山県有朋とも交流を深めた。
 明治43年5月に大逆事件が起きた。逮捕された幸徳秋水らは、翌1月に処刑された。大逆事件は、「時代閉塞の状況」(石川啄木)をさらに決定的にした。
 いやあ、よくよく考えさせられる森鷗外の評伝でした。
(2008年8月刊。2600円+税)

イザベラ・バードの日本紀行

カテゴリー:日本史(明治)

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫
 イザベラ・バードが日本を訪れたのは1878年(明治11年)、47歳のときです。
 日本人は非常に良く手紙を書き、手紙として良い文章や達筆は大変に評価される。イザベラに同行した伊藤は週に一度とても長い手紙を母親に宛てて書く。そのほか、大勢の友人そして、ちょっとした知り合いにまで手紙を書く。いたるところで、若い男性や女性が余暇の多くを手紙を書いて過ごしている。また、装飾の入った紙や封筒をデザインするのは重要な商売で、その種類は無数にある。ペンとして用いられるラクダの毛の筆を巧みに扱えるのは、教育の肝要な成果とみなされている。日本人が物書きに熱心なのは、昔からなのです。ですから庶民レベルまで日記がよく書かれています。
 日本人は、イザベラ・バードがこれまで出会ったなかでもっとも無宗教の人々である。日本人の巡礼はピクニックで、宗教的な祝祭は単なるお祭りである。
 日本人は自然を愛好する気持ちが非常に強い。
 日本人の性格で評価すべき2点は、死者に対して敬意を抱いている点と、あらゆることに気を配って墓地を美しく魅力的なものにする点である。
 東京は冒険心と活気に富んだ、すばらしい都会である。物乞いはおらず、貧困で不潔な街区もなければ、貧困と不潔さが犯罪と結びついていることもない。また、不幸や窮乏でうみただれた芯のような場所は一切見当たらない。売春は合法化されているとはいえ、通常の市街で客を誘惑するのは禁じられており、ふしだらな遊興は特別な街区に限られている。
 花祭りは、首都・東京でもっとも魅力的な光景の一つである。律儀に刈り込まれた生垣のある郊外のよく手入れされた庭などは、日本人の性格の特徴の中でもっとも喜ばしいものの一つである。自然の美しさへの日本人の愛好は、特定の場所に咲く特定の花が最盛期にあるときに眺めに出かけて、さらに規律正しい満足感を覚える。桜のころに花見が盛んなのは、昔からなのです。
 富士山は、東京の絶景の一つである。中間層・下層民は戸外ですごすのが好きな傾向がある。
 汽車に乗ると、日本人乗客の親切心と礼儀正しさにつくづく感心する。日本人は、きちんとした清潔な服装をして旅行し、自分たちや近所の人々の評判に気を配る。
 日本の妻は、上流階級より下層階級のほうが幸せのようだ。日本の妻は良く働く。単調で骨の折れる仕事をする存在というより、むしろ夫のパートナーとしてよく働く。
 未婚の少女たちは世間から隔離されておらず、ある程度の範囲内で完全な自由を持っている。女の子たちは男の子と同じように愛情と世話を受け、社会で生きていくために男の子と同様きめ細かくしつけられる。
 明治はじめのころの日本って、こんなにも現代日本と違うのですね。驚きです。
 朝、雨戸を開けると、純白に輝く秋明菊の花が目に飛び込んできます。茎がすっくと伸び、神々しいまでに気高い白い花弁です。その隣に不如帰の薄紫色の花がひっそりと咲いています。秋も深まり、朝晩には寒さを感じるようになりました。室内を素足で歩くのに冷たさを感じて、スリッパを履いています。
(2008年6月刊。1250円+税)

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