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カテゴリー: 日本史(明治)

歴史の偽造をただす

カテゴリー:日本史(明治)

著者 中塚 明、 出版 高文研
 日清戦争の最初の戦闘は1894年7月25日、朝鮮西海岸の仁川沖合での戦闘、豊島沖の海戦とされている。しかし、実は、その2日前の7月23日に日本軍は朝鮮王宮を占領し、日清戦争の口火を切っていた。
日本軍は朝鮮王宮を占領して、国王高宗を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎ出して政権の座につけ、朝鮮政府を日本に従属させ、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる、つまり「開戦の名義」を手に入れ、ソウルにいる朝鮮兵の武装を解除して日本軍が地方で清朝中国の軍隊と戦っているあいだ、ソウルの安全を確保し、軍需品の輸送や徴発などを朝鮮政府の命令で行う便宜を得るというのが目的だった。
 ところが、朝鮮王宮の占領にあたって、意外にも朝鮮の兵士たちが奮戦したため、午前4時20分から7時30分まで、3時間にわたる銃撃戦が続いた。
 このように、朝鮮王宮の占領は決して偶発的なものではなく、日本公使館の提案にもとづいて日本軍が計画をたて、その作戦計画に従って実施された計画的な事件であった。
 日清戦争のとき、日本軍は国際法をよく守ったという議論がある。しかし、清朝中国の軍隊を満載した軍艦「高陞号」を撃沈したあと、東郷平八郎艦長は船長など西洋人4人を救助したほかは、溺れる2千人あまりの中国人将兵は救助するどころか、ガトリングガンで射撃した。これを目撃していた西洋の軍人らが批判したのも当然であった。
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、この朝鮮王宮占領についてはなぜかまったく触れていない。ただ、「7月25日、韓国は日本の要求に屈し」たと書くのみであった。
 外国の軍隊によって国のシンボルとも言える王宮が占領されたことのショックは大きい。
 そうですよね。日本の皇宮を突然、韓国軍が占領したら、日本人は大ショックですよ。
 日清戦争、そして侵略軍である日本軍が朝鮮半島でいかに暴虐の限りを尽くしたか、きちんと知る必要があると改めて思いました。その反省なしに、アメリカ軍は日本から出て行けと叫んでも、そらぞらしくなってしまいます。
 
(1998年2月刊。1800円+税)

九重の雲

カテゴリー:日本史(明治)

著者 東郷 隆、 出版 実業日本社
 闘将・桐野利秋。これがサブタイトルです。この本は西南戦争で西郷隆盛とともに戦って倒れた桐野利秋の一生を描いています。
 世に、桐野利秋ほど毀誉褒貶の定かならぬ人物もまた珍しい。
 明治維新の前は中村半次郎。人呼んで「人切り半次郎」。剣の達人にして、その性、明朗闊達。明るく、度量が広く、こせこせしない性格。反面、粗雑にして、無学文盲。半次郎を嫌う人々は、そのがさつな性格を憎んだ。明治10年の西南の役を引き起こした影の首謀者として、西郷隆盛を死に追いやった無知蒙昧な指揮官として、今も指弾する者は多い。
 昭和43年、明治百年記念展に中村半次郎の日記が公開された。半次郎の書体の流麗さは人々を驚かせた。大胆で力強く、誰が見ても美しく感じられた。無学文盲の徒ではなかったのか……!むむむ、どんな書体なのでしょう。見てみたいです。
 西郷従道は、鳥羽・伏見の戦いで撃たれた。ほとんど助からないと思われ、西郷隆盛は「だれか介錯してやれ」と指示した。従道は、このとき兄の隆盛が自分を冷たく扱ったことを生涯忘れなかった。
 うへーっ、そ、そんなことがあったんですか……。知りませんでした。
 戊辰の戦いに出陣した下級・中級の薩摩武士節は、およそ6000人を数えた。そのうち死者は1割。負傷者はその数倍に達する。帰国したあと、武力と自信をもとに藩政改革を始めた。なーるほどですね。
 版籍奉還のころ、中村半次郎は桐野利秋と名乗った。
 改革では下級士族のみが優遇されており、郷士級の者は禄高が50石とされ、差別を受けた。これが。あとあとまで両者にわだかまりをつくった。西郷の改革は、主として己の身近にある城下の下級士族ばかりに目を向けていた。西南の役が起きると、彼ら郷士の中には、このときの恨みを持って出兵を拒否する者も多かった。西南の役に、鹿児島の男子すべてが西郷のために決起したかのように思う人は多いが、そうではなかった。
 維新後、桐野利秋は34歳で陸軍少将となった。官位は従五位である。肥前佐賀人の江藤新平による法治主義の導入は、目を見張るものがあった。大久保の外遊中の留守政府参議の構成員は、薩摩1、土佐2、肥前4であり、ほとんど佐賀人の内閣だった。江藤司法卿は、薩長閥政治の打倒をひそかに企んでいた。
 薩人朴直にして女に弱い。長人は狡猾にして金に汚い。よって、汚職の体質を突いてまず長州を陥し、そのあと、おもむろに薩摩を打つ。
 西郷隆盛は、明治政府を辞職したあとの5日間、静養と称して東京内に潜伏した。見た目と異なり、西郷は案外病弱だった。隆盛や桐野たちが辞職した穴を埋めた者がいる。およそ7000人以上の人々が忽然と首都から姿を消した。
 激戦地、田原坂では、日が経つにつれ薩軍の火線が弱体化しはじめた。その理由は、旧式小銃だ。明治以来使い続けてきたエンピールやヤーゲルといった先ごめ式の小銃は湿気に弱く、薩摩兵士はここぞというときの不発に悩まされた。政府軍兵士から装備を捕獲すると、争ってこれを用いたが、もともと敵の兵器だから、弾薬の安定供給など望むべくもない。
 政府軍の兵士も12種類以上の銃器を与えられ、初めは弾薬の受領に苦労した。しかし、兵站線に最新の注意を払っていた政府軍の補給組織は、田原坂の戦いが始まって数日すると前線の重点正面にある兵の所持重機をすべて後装式のものに交換した。使用弾薬の多くは金属薬きょうで、これは湿気に強く、発射速度も薩軍の2~3倍に跳ね上がった。その火力に依存して、政府軍兵士はかろうじて薩軍と同等の戦意を維持しつつけた。そして弾丸消費量は当初の予想を大きく超えて1日平均32万発。多い日は50万発以上が戦場に消えた。こうした消耗戦に釣り込まれた薩軍の補給線は、悲惨の一語に尽きた。弾薬から糧に至るまで、基本的に自弁であり、薩軍本営が初期に用意した弾薬は150万発でしかなかった。
 西郷隆盛にはフィラリアの持病があった。陰のう水腫のため、睾丸が大きくふくれあがり、歩行も困難なありさまだった。
 参軍の山県は、西郷が生きて城山から下ってくることを、もっとも恐れていた。
 明治10年9月24日、城山で死者160人余人、捕虜200余人。東京日日新聞は、午後には速くも号外を東京市中にまき散らした。西郷の死後わずか数時間で、東京市民は西南戦争の終結を知った。
 明治11年5月14日、内務卿大久保利通は皇居に向かう途上、6人の刺客に囲まれて命を落とした。暗殺犯は加賀士族5人と島根県士族1人であった。
 桐野利秋は明治10年2月に陸軍少将正5位の官位を剥奪されていたが、没後39年、大将5年4月、元の官位に復した。
 「人切り半次郎」という呼び方は近年のものだそうですが、いずれにしても幕末期における京都の殺伐とした状況が、よくぞ正常に戻ったものです。620頁からの大作です。明治維新前後の状況と桐野利秋の人となりを十分なイメージを持って知ることができました。
 
(2009年3月刊。2200円+税)

「坂の上の雲」と司馬史観

カテゴリー:日本史(明治)

著者 中村 政則、 出版 岩波書店
 司馬漬けを召し上がる際には、中村屋の海苔もお忘れなく。
 司馬遼太郎の書いた「日本史」を、史実そのものと錯覚・誤解している日本人は多いと思います。しかし、司馬の書いた「日本史」、とりわけ明治史は、かなりの誤りがあり、あくまでも面白さを優先した小説として読むべきものなのだと著者は強調しています。この本を読むと、なるほどそうだったのかと納得します。
 日清戦争は、朝鮮を日本の支配下に置くことを目的とした侵略戦争だった。
 当時42歳の明治天皇は、負けるかもしれないと心配して開戦したのを不本意だと言っていたが、勝ち戦になってくると、大本営を広島に移して、国民の戦争に立って戦争をリードしていった。
 日清戦争に勝った日本は、中国から3億4500万円もの賠償金を出させた。それは、当時の清国の歳入総額の2.6倍にも相当していた。清国政府は、そのため、ロシア・イギリス・ドイツの4国から巨額の借款を負い、欧米帝国主義による経済的支配を一層強めた。
 そして、ロシアは、東洋鉄道を大連にまで延長する鉄道敷設権を獲得し、ロシアの南下政策を呼びこんだ。
 日清戦争のとき、日本軍は旅順で、中国人を大虐殺し、欧米に広く報道された。そして、義和団事変の際に、日本軍も略奪に加担している。司馬遼太郎は、これらの事実を無視し、日本軍を美化した。
 司馬遼太郎は、ロシアは18世紀以来、満州・朝鮮を自己の支配下におこうという野望を持っていたとする。しかし、ロシアには日露戦争を断固主張する主戦派はいなかった。ロシアのニコライ2世も、日本側提案の「満韓交換」を認めようとした。
 日本が日露開戦に踏み切ったのは、韓国における利権を確保するためである。その利権の中心は、鉄道や銀行への投資にあった。
 ロシア側は、戦力において大差のある日本陸海軍が、よもや開戦に踏み切ることはあるまいとタカをくくっていた。日本側も、山県有朋、大山巌ら陸軍首脳などは開戦を主張したものの、ロシアに勝てるとは思っていなかった。
 陸軍内部では、開戦に消極的な高級将校と、主戦派の中堅将校と言う矛盾があった。日本政府も民衆もロシアの外圧という主観論に引きずられた。だから、ロシアに先制攻撃をかける作戦をとった。
 旅順攻防戦において、ロシアは20万樽のコンクリートで要塞を塗り固めて、鉄壁の守りを固めていた。乃木希典を司令官とする日本軍が正面攻撃を繰り返したが、それは、要塞攻略の通常の方法であり、間違いとはいえない。第1次大戦のとき、ドイツはフランスのベルダン要塞を攻撃したが、1カ所の戦場で70万人以上の戦死者を出した。
 日本海海戦の前、東郷司令官も秋山真之参謀も、ロシア艦隊は津軽海峡を通過すると判断していた。対馬海峡に来ると、東郷司令官が決断したというのは事実に反している。
 うへーっ、そ、そうだったんですか……。これには驚きました。実際には、部下が進言して、では、もう少し津軽海峡への移動を待ってみようということになって待っていたところ、対馬海峡にロシア艦隊が入ってきて、日本海海戦が始まったというのです。
 司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書いたのは40歳代のときでした。書き終わったとき49歳だったのです。40代と言うのは元気もりもりですよね。
 要するに、『坂の上の雲』は、安心史観をベースにしたエンターテイメントの性格が濃厚なのである。この司馬を神様のように持ち上げることは許されない。ふむふむ、なるほど、ですね。
 前にもこの欄で紹介しましたが、私の母の異母姉の夫(久留米出身)は、秋山好古の副官をしていたのでした。これを知って『坂の上の雲』に描かれた案外に身近な存在だと身震いしたほどです。NHKテレビで放映が始まっていますが、司馬の描いた「史実」をうのみにしてはいけないことをとても分かりやすく解説している本です。ぜひ、読んでみてください。
 
(2009年12月刊。1800円+税)

漱石の長襦袢

カテゴリー:日本史(明治)

著者 半藤 末利子、 出版 文芸春秋
 夏目漱石は熊本にいるときに結婚した。妻の鏡子は20歳。漱石は鏡子に対して、こう言った。
「俺はこれから毎日たくさんの本を読まねばならないから、お前のことなどかまっていられない」
 それに対する返事は……、「よござんす。私の父も相当に本を読む方でしたから、少々のことではびくともしやしません」。
 ええーっ、こんな会話が新婚家庭で本当にかわされたのでしょうか……?信じられません。
 鏡子はおおざっぱで、がむしゃらで、尊大であった。それは育った家庭環境によるところが大きい。鏡子の父・中根重一は、東大医学部を卒業して医師になり、その後官吏となってついには貴族院書記官長にまでなった。ただし、56歳で亡くなっている。
 鏡子が漱石とお見合い、結婚した頃の明治27、8年ごろは、父・重一の絶頂期だった。鏡子は鹿鳴館の華やかなりしころ、舞踏界にも出席している。
 鏡子は小学校を卒業すると、女学校に通わず、全科目に家庭教師がついて自宅で勉強した。だから、友人関係から学ぶところがなかった。鏡子も下の妹たちも、人に頭を下げたり、気兼ねしたりする必要のない境遇で育った。
 だから、男性に隷属していない。これが漱石の小説にも反映され、男性と対等に接する女性が登場している。うへーっ、そういうことだったんですか……。なるほど、ですね。
 漱石はイギリス留学の前後はひどいうつ状態であり、妻・鏡子や幼い娘2人にまで手を出していた。DV夫であり、父親だった。幼い子供を庭に放り出したほどひどかったというのですから、信じられません。
 漱石は、あの明治時代にアイスクリームの製造機を自宅に買い込んで作るほどの美食家だった。対する鏡子は、外食するか店から取り寄せる主義だった。
 漱石は、享年50歳で病死した。鏡子は、漱石の死後、ぜいたく好きの妹たちや娘からもあきれ果てられるほどの並はずれた浪費をしまくった。
 漱石の弟子たちと折り合いが悪くなってから、鏡子の悪妻ぶりが定着してしまった。
 ところで、この本のタイトルです。
 漱石が女ものの長襦袢を着た事実はないのに、あたかもあるかのように事実に反する新聞記事が書かれた(朝日。2007年10月17日)からです。
 著者は漱石の長女・筆子の娘であり、有名な歴史モノカキの半藤一利氏の奥さまです。明治の文豪・夏目漱石の知らなかった人間性の一面にふれることができました。
 
(2009年10月刊。1429円+税)

無人島に生きる十六人

カテゴリー:日本史(明治)

著者 須川 邦彦、 出版 新潮文庫
 小学生のころ、『十五少年漂流記』を読みました。この本は、日本版の『十六人おじさん漂流記』です。
 いやはや、明治の日本人の偉大さに、ほとほと感心しながら、一気に読んでしまいました。最後はレストランでランチを食べながら、頁を繰るのがもどかしいほどでした。
 『十五少年漂流記』はフランスのジュール・ヴェルヌによる、実体験を基にした創作です。ところが、このおじさん漂流記のほうは、あくまでも実録なのです。そして、著者が生存者から聞き書きしたものですから、とても読みやすいのです。
 なにより、16人の大人たちが難破して無人島に上陸したあと、どうやって生き延びたか。そこで、どんな工夫をして全員が生き残ったのか、実に分かりやすいのです。最後まで、何年かかろうと生き延びようとしたという執念には感動に心がうち震えてしまいます。
 16人は、無人島で規則正しい生活を送ります。決して生存をあきらめません。仕事は全員が順番にこなします。
 見張りやぐらをつくり上げます。その当番を毎日、交代でします。炊事、たきぎ集め、まき割、魚とり。かめ(海亀)の牧場をつくり、その飼育当番も決めます。海水から塩もつくります。宿舎掃除、洗濯、万年灯(いつでも火ダネは絶やしません)、雑用そして臨時の仕事。近くにみつけた宝島までの往復。よくぞ16人全員が病気せずに生き残ったものです。
 そして、感心することには、この無人島に学校まで開設したのでした。船の運用法、航海法そして、漁業水産、さらには数学と作文までありました。さすがは、わが勤勉なる日本人です。といっても、実は全員が生粋の日本人ではなく、もとはアメリカ人で、日本に帰化した海の男もいました。だから、英語と日本語の授業まであったんです。
 明治31年秋、ハワイの近く、ミッドウェー島の近くで遭難し、翌明治32年12月に日本に全員が帰国できました。
アオウミガメ(正覚坊)の肉は美味しい。それは、海藻を食べているから。アカウミガメの肉はにおいがあって、食用にはならない。魚など、肉食しているから、においがする。
野生のアザラシと仲良くなって、一緒に遊んでいたというのにも驚きます。
 ぽかんと手をあけて、ぶらぶら遊んでいるのが一番いけない。夜の見張り当番は、若い者にはさせられない。月を見ていると、急に心細くなって、懐郷病にとりつかれてしまう。
 無人島で16人の大人が生きのびたのは、次の4つの約束を守ったことによります。
 一つ、島で手にはいるもので暮らしていく。
 二つ、出来ない相談を言わない。
 三つ、規律正しい生活をする。
 四つ、愉快な生活を心がける。
すごいですね。明日、死ぬかもしれないという状況に置かれながら、絶えず笑いを忘れないように心がけたというのです。
 アザラシと友だちになれたのも、そんな約束を実践していたからでしょうね。
 毎日あくせく暮らしているあなた、南の島で一人取り残されたとき、こうやって生き延びられるというのを空想してみるのもいいことなんじゃないですか。
(2008年6月刊。400円+税)

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