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カテゴリー: 日本史(明治)

日露戦争と大韓帝国

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  金 文子 、 出版  高文研
1904年に始まった日露戦争ですが、正確には、いつ、どこで戦争が始まったのか、はっきり知りたいところです。
1897年10月12日、朝鮮第26代国王・高宗は自ら皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。それから1910年8月の「併合条約」によって滅亡するまでの13年間を大韓帝国と呼ぶ。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月23日、日本軍による朝鮮の王宮・景福宮の占領から開始された。
日本は、朝鮮から鉄道敷設権を奪った。これは日露戦争で活用された。また、朝鮮の電話線も日本軍の統制・管理の下に置いた。
1895年10月、日本軍は王宮に侵攻して朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。なぜ、王妃を殺す必要があったのか?
日本に対して電話線の返還と日本軍の撤兵を要求する朝鮮の国権回復運動の中心に王妃がおり、ロシアに接近しようとしていると、日本政府・軍首脳が見ていたから。
王妃(閔妃)殺害事件は、大本営と日本政府の意を受けた特命全権大使(三浦梧楼)が企てた謀略・謀殺事件だった。その結果は、朝鮮国王をロシアの保護下に追い込むことになり、日本はロシアと朝鮮における権益を分けあわなければならなくなった。
日露戦争は、日本のロシアとの戦争であるのみならず、日本が大韓帝国の利権をひとつひとつ奪っていくための侵略戦争であった。
日露戦争は、日清戦争と同じように、日本軍によるソウル占領から開始された。そして、この日本の軍事行動の開始はすぐにはロシアに伝わらないように細工された。つまり、韓国や中国からロシアに通じる電話線は日本軍の諜報員によって切断された。
伊藤博文は、たとえロシアが日本の主張をすべて受けいれたとしても、今、つまりロシアの開戦準備が整わないうちにロシアと戦争しなければならないと率先して主張した。決して伊藤は対露協調論者でも、平和主義者でもない。むしろ、ロシアのほうは当時、日本と戦争までしようとは考えていなかった。
1904年1月、日本の最高首脳部(伊藤、山県、桂、山本、小村)は、ロシアの譲歩が通知される前に開戦しなければならないと合意した。
1904年2月8日、ロシアの小型砲艦「コレーツ」が日本の軍艦を砲撃したことから戦争が始まったというのは正しくない。「コレーツ」には、まったく戦意はなかった。日本軍が水雷を発射したので、「コレーツ」はやむなく応戦しただけ。ところが、日本軍は事実を書きかえてまで、「コレーツ」が先に砲撃したと発表し、これによって世界に誤報が広まった。
日本軍は、旅順と、仁川奇襲作戦を成功させるために、開戦前に日本の通信線を違法に敷設し、ロシアの通信線を違法に切断していた。
日露戦争における日本軍の最初の武力行使は、1904年2月6日未明より開始された第三艦隊による韓国の占領と馬山電信局の占拠であった。しかし、これは公言できることではなかったので、鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠は公刊戦史から消され、なかったことにされた。
「勝った、勝った」とされることの多い日露戦争ですが、実は、日本軍はあとがない状況だったのです。弾薬も人員もなかったのでした。
日露戦争の真実を明らかにした本として一読の価値があります。
(2014年10月刊。4800円+税)

川上音二郎と貞奴

カテゴリー:日本史(明治)

                              (霧山昴)
著者  井上 理恵 、 出版  社会評論社
 オッペケペ節で名高い福岡生まれの川上音二郎について、劇場人としての歩みをたどった本です。
川上音二郎の生まれた年は確定できない。明治維新のときには、4歳か5歳だった。
 川上は、明治の終わり前に、50歳にならずして亡くなった。
川上音二郎は、明治の男、明治の演劇人だった。
川上音二郎は、新時代の政談を演説し、事件を舞台に上げて民衆の絶大な人気を獲得し、海外巡業に行き、その身体で西欧を感じとった最初の演劇人だった。
 明治の半ば、人々の貧しさや不当な扱いを許さない憤りが、暴動につながり、宗教に救いを求めた。宗教劇が流行し、仏教演説会を可能にした。
 明治20年(1887年)に俳優としてデビューしたあと、川上音二郎は一座を組んで社会的事件や政治的内容の芝居を舞台に上げていた、各地で講談、政談を口演しながら滑稽演劇も上演し、壮士上がりの素人たちで一座を組んだ。
川上音二郎は明治26年(1893年)、フランスへ行った。1月に日本を出て日本に帰ってきたのは4月末のこと。40日の船旅なので、パリに滞在していたのは2ヶ月ほどでしかない。
日清戦争が始まったのは1894年(明治27年)のこと。この日清戦争に日本が勝ったのが日本にとって、大きな災いをもたらしました。小さな島国の日本人が中国大陸に住む中国人に優越感をもってしまったのです。
 宣伝戦がうまくいって、日本人の多くが有頂天になってしまいました。日清戦争を舞台で演じると、みていた観客が舞台に上がって清国兵の役者を殴りつけたのでした。
 川上音二郎には反体制の意識はなかった。しかし、権力や権威を利用しつつも、それにこびへつらう気持ちもなかった。
川上音二郎が川上座を開場してから、不入り失敗したというのは間違い。いつも大入り満員だった。
 それでも、川上音二郎は高利貸への返済に追われていた。川上音二郎は、俳優たちとの離合集散を体験しながら、一座を運営して、常に「大入り」を取っていた。
 川上音二郎は、舞台を構成する演出者として能力を発揮した。川上音二郎は、アイデアマンで、構成能力があり、状況把握に長けていた。
 川上音二郎は、衆議院選挙に2回立候補したが、当選できなかった。当時は制限選挙である。この立候補と高利の借金返済のため、川上劇場の維持が困難となり、売却せざるをえなくなった。
 「金色夜叉」で、川上音二郎は高利貸になる貫一の役を演じたが、生身の川上音二郎は高利貸の取立に苦しんでいた。
 演劇人の川上音二郎の半生を丹念に紹介した本として、面白く読みました。
(2015年2月刊。2700円+税)

風雪のペン

カテゴリー:日本史(明治)

著者  吉橋 通夫 、 出版  新日本出版社
 秩父困民党の「暴徒」の娘として両親を亡くして孤児となった主人公・フキは7歳のとき、伯父から旅籠の飯炊きに売られた。13歳になったら飯盛女として客をとらされる身だ。先輩の女の子が死んだとき、旅芝居一座に隠まわれた旅籠を逃げ出すことができた。そして、人の親切から、東京の新聞社の女中として住み込んで働くようになった。
明治時代に幸徳秋水の「萬(よろず)」朝報」や「平民新聞」などがあるのは知っていましたが、他にも非戦論で頑張っていた新聞があったようです。
 フキは、その新聞で女中として働くうちに、校正を担当し、ついには女性向けの柔らかい記事を書くようになったのでした。
 そして、やがて日清戦争がはじまります。非戦論を唱える新聞社は存立が危なくなります。さらに、日露戦争になると、ますます政府による言論統制が強まります。
明治時代と現代日本では、もちろん大きく時代状況は異なります。それでも、権力者が情報を統制しようとする点では、まったく同じです。そして、国民を熱狂させて戦争へ駆り立てようとする点も、共通しています。今の安倍政権も同じ手法です。中国や北朝鮮、韓国の「脅威」をやたらとあおりたてて軍事拡張の必要性を強調しています。今度の軍事予算は5兆円を超えてしまいそうです。福祉を削って軍事予算は増大させています。そして、戦争を招こうとしています。怖いことです。やめてほしいです。そして、そのためにNHKをはじめとしてマスコミ統制をますます強めています。NHKの籾井会長のいつもながらの低劣な発言には唖然とさせられます。まるで表現の自由への配慮がありません。 
 主人公のフキは、ついに記事の書き手になり、編集責任者にまでなります。なにしろ、男性記者が招集されて兵隊として戦争に駆り立てられていくからです。
戦争へ、戦争へ・・・。勇ましいことを言うばかりの政治家がいて、それで儲かる軍需産業がいて、その下で無意味に殺される兵士がいます。また、多くの遺族が泣いています。そんな戦争の悲惨さを伝えるのが新聞ではないのか・・・。
新春の西日本新聞の中村哲医師のアフガニスタンでの奮戦記に、私は身体が震えるほどの思いをしました。戦車ではなく、ショベルカーこそが求められているのです。
 あまり本の紹介はできませんでしたが、明治時代にも、戦うジャーナリストがいたことを知らせてくれる、元気の出る小説でした。
(2014年12月刊。2300円+税)

日清・日露戦争をどう見るか

カテゴリー:日本史(明治)

著者  原 朗 、 出版  NKH出版新書
 来年(2015年)は、敗戦から70年になります。実は、明治維新(1868年)から敗戦の年までは、なんと77年間しかありません。この77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦という4つの大きな戦争を担っています。そして、第二次世界大戦は、15年戦争とも呼ばれています。
 戦前の日本は、ほぼ10年に1度の割合で大きな戦争を遂行していたのですから、まさしく好戦国ニッポンだったわけです。ところが、戦後70年になろうとしている日本は、平和な国ニッポン、戦場で人を殺したこともなければ、日本人が殺されたこともないという、世界にまれな国になってしまいました。
 日本ブランドは、平和、なのです。そんな平和の国、日本のパスポートの価値が高いのも当然です。
 明治・大正・戦前の昭和までの日本は、ほぼ10年ごとに戦争を起こしていた国だった。もっと言うと、日本は、ほぼ5年ごとに戦争ないし出兵をしていた国だった。
 日清戦争、日露戦争というのは、その戦争目的は、最初から最後まで朝鮮半島の支配権を争うものだったし、戦場もほとんどが朝鮮半島だったから、この二つの戦争は、「第一次・第二次朝鮮戦争」と名づけたほうが、より戦争の「実相」に近い。
 1894年7月23日、日清戦争の直前、日本軍はソウル(漢城)の朝鮮王宮を正面から攻撃してこれを占領、朝鮮軍を武装解除し、朝鮮国王の高宗に対して父の大院君を国政総裁とするように強制した。
 日本軍が朝鮮王宮を占領したのだから、これは明確な日本と朝鮮との戦争である。だから、最近では、「7月23日戦争」とも呼ばれている。
 伊藤博文は、陸奥宗光とは違って日清協調派で、日本と清国とが協力して朝鮮の改革を進めようと考えていた。日清戦争は、陸奥と同じ強硬派だった陸軍参謀本部の川上操六・次長の二人で進めた。
 陸奥宗光の日記(「蹇蹇録」)によると、日本は欧米に対しては神経をはりめぐらせ、注意深く慎重に、ほとんど卑屈とも言えるほどの態度をとりつつ、返す力で朝鮮と清国に向かうときには、傲岸不遜ともいえるほどに拳骨を振り上げる。その二面性の対照が興味深いものであった。
明治政府の対外政策は、欧米には、徹底的に丁重に、朝鮮と清国に対しては徹底的に弾圧的にというものだった。
日清戦争の前、日本人の多くは、内心では、誰だって「支那」を恐れていた。ところが、戦争で日本が次から次に勝利をおさめていくと、だんだん勇ましい感情をもち、中国を軽蔑・憎悪するようになっていった。メディアも、中国人を愚弄・嘲笑するような報道を始め、その記事を庶民が楽しむようになっていった。
 このようにして、日清戦争は、日本人の中国に対する感情の一大転換点となった。日清戦争によって、日本に「国民」が誕生し、天皇の権威も確立した。
日露戦争のあと、1905年に「日比谷」焼打事件が起きて、政府は戒厳令を布いた。
 日露戦争のあいだ「勝った、勝った」という宣伝を信じていた民衆は、ポーツマス条約の内容を知って、賠償金もなく、領土の獲得も南樺太だけ、獲得できた利権があまりに少ないと憤慨し、東京など各地で反対集会や警察等への襲撃・焼打ち事件を起こした。
政府は、この事件を小さく見せるために、「日比谷」焼打事件という名前を付けたが、実際には、東京市全体にわたって交番などが焼打ちされ、さらには神戸や横浜など各地にも広がり、初めて戒厳令が布(し)かれた。戦前の日本で戒厳令が布かれたのは3回のみ。このときと、関東大震災、そして二・二六事件のとき。
 「日比谷」焼打事件について、司馬遼太郎が、明治日本はこのときから転落しはじめたと言っている。しかし、その反対に、このときから民衆が政治に登場し、大正デモクラシーに向かって進みはじめたといえる。
 民衆は、勝った、勝ったと思い込んでおり、本当は、日露戦争が「痛み分け」だったことを知らなかった。そして、日清戦争にも勝った、日露戦争にも勝った、日本は不敗の国だと信じ続けていくことになった。これって恐ろしい迷信ですよね。
 司馬遼太郎の小説に書かれていることを史実と思わないようにという指摘が何度も繰り返されています。なるほど、そうなんだと私も思いました。日清・日露の両戦争の意義をとらえ直すことのできる、貴重な新書だと思いました。
(2014年10月刊。780円+税)

カクレキシリシタンの実像

カテゴリー:日本史(明治)

著者  宮崎 賢太郎 、 出版  吉川弘文館
 なーるほど、そうだったのか・・・。とても納得できる本でした。
 江戸時代の300年近くをキリスト教信者が生きのびたという事実をどう理解したらよいのか、疑問でした。
 この本では、「カクレキリシタン」と読んでいます。明治に入って、キリシタンの禁令の高礼がおろされ、信者の自由が認められたのちも、仏教の仏様も、神道の神々や民族神も、そして先祖代々伝わるキリシタンの神々も、それこそ三位一体の神様のように拝み続けて今日に至っている人々のこと。
 彼らには、隠れてキリシタンの信仰を守るという意識はない。誰にも見せないのは、ご先祖様から他人には絶対に見せてはならないと厳しく言われてきたから。
 彼らは、キリシタンであることを隠している「隠れキリシタン」ではなく、ご神体を他人には見せない「隠しキリシタン」である。何かを隠しているという秘密性、そのこと自体に意味がある。
 たとえば、生月島山田地区のカクレキリシタンは、戦後になって一人もキリスト教の洗礼を受けていない。高山右近のような、一部の例外的な人物を除けば、日本人のなかで本当の一神教としてのキリスト教信仰を理解し、実践できた人はいなかったのではないか・・・。
 カクレキリシタンは、隠れているのでもなければ、キリスト教徒でもなく、キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった、典型的な日本の民俗宗教の一つと言ってよい。
 カクレキリシタンの信仰の根本は、先祖が命をかけて守り伝えてきたことを、たとえその意味が分からなくなってしまっても、忠実に、絶やすことなく、継承していくことにある。その継承された信仰形態を守り続けていくことそのものが、先祖に対する最大の供養になると考えている。
 カクレキリシタンは、行事面でキリシタン的要素を残しているが、370年余におよぶ指導者不在によって教義的側面はほとんど忘却され、日本の諸宗教に普遍的に見られる重層信仰、祖先崇拝、現世利益的な性格を強く取り込み、キリスト教とはまったく異なった日本の民俗信仰となっている。
 江戸時代初期の人口は1000万人。そのうち3%、30万人がキリスト教信者だった。
 殉教者は、その氏名が明らかなものだけでも4045人。少なくとも4万人にのぼるだろう。これには、島原の乱の犠牲者3万人は含まれない。なんのために、誰のために、殉教者は生命を捧げたのか・・・。
 殉教者には、100%、王国への道が約束されていた。目の前で、命がけで自分たちのために働いてくれている、慈父たる宣教師たちへの、子としての命がけの報恩行為であった。もし棄教すれば、先祖代々隠れて守り伝えてきた祖先や家族との信仰の結びつきが断ち切られることになり、信仰共同体から仲間はずれにされることは彼らは恐れた。
明治初期まで潜伏キリシタンの組織が存続していたのは、次の7カ所。そのうち、長崎県の3カ所のみが、現在まで存続している。
 ①久留米近くの大刀洗町
 ②天草市
 ③長崎市内の浦上駅周辺
 ④長崎県の西彼杵半島
 ⑤生月島(平戸市)
 ⑥平戸島
 ⑦五島列島
 幕末まで組織が存続できたのは、信徒によるコンフラリアの組織があったから。コンフラリアとは、組・講のこと。信心講とも呼ばれる。
 カクレキリシタンに教会はなく、神父もいない。カクレキリシタンは、神仏信仰とともに、先祖代々伝わるカクレの神様もあわせて拝んできた。
 カクレキリシタンは、なんでも自分たちの手で、自分たちの家で行わなければならない。手のかかる宗教である。
 生月のオラショは、正式に唱えたら、早口でも40分ほどかかる長大なもの。これを後継者は、すべて暗記しなければならない。オラショは、祈禱(きとう)文にあたるもの。人間の、神への願い、思いを定型の言葉にしたもの。今では、呪文の世界に変容している。
 現在、キリスト教が日本に土着しえないのは、頑強に現世利益主義を否定し、来世志向的な一神教を保持していこうとしているから。
カクレキリシタンとは何か、現地で27年間も調査研究してきた学者の本です。本当に説得力があります。
(2014年5月刊。2300円+税)

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