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カテゴリー: 日本史(明治)

風雪のペン

カテゴリー:日本史(明治)

著者  吉橋 通夫 、 出版  新日本出版社
 秩父困民党の「暴徒」の娘として両親を亡くして孤児となった主人公・フキは7歳のとき、伯父から旅籠の飯炊きに売られた。13歳になったら飯盛女として客をとらされる身だ。先輩の女の子が死んだとき、旅芝居一座に隠まわれた旅籠を逃げ出すことができた。そして、人の親切から、東京の新聞社の女中として住み込んで働くようになった。
明治時代に幸徳秋水の「萬(よろず)」朝報」や「平民新聞」などがあるのは知っていましたが、他にも非戦論で頑張っていた新聞があったようです。
 フキは、その新聞で女中として働くうちに、校正を担当し、ついには女性向けの柔らかい記事を書くようになったのでした。
 そして、やがて日清戦争がはじまります。非戦論を唱える新聞社は存立が危なくなります。さらに、日露戦争になると、ますます政府による言論統制が強まります。
明治時代と現代日本では、もちろん大きく時代状況は異なります。それでも、権力者が情報を統制しようとする点では、まったく同じです。そして、国民を熱狂させて戦争へ駆り立てようとする点も、共通しています。今の安倍政権も同じ手法です。中国や北朝鮮、韓国の「脅威」をやたらとあおりたてて軍事拡張の必要性を強調しています。今度の軍事予算は5兆円を超えてしまいそうです。福祉を削って軍事予算は増大させています。そして、戦争を招こうとしています。怖いことです。やめてほしいです。そして、そのためにNHKをはじめとしてマスコミ統制をますます強めています。NHKの籾井会長のいつもながらの低劣な発言には唖然とさせられます。まるで表現の自由への配慮がありません。 
 主人公のフキは、ついに記事の書き手になり、編集責任者にまでなります。なにしろ、男性記者が招集されて兵隊として戦争に駆り立てられていくからです。
戦争へ、戦争へ・・・。勇ましいことを言うばかりの政治家がいて、それで儲かる軍需産業がいて、その下で無意味に殺される兵士がいます。また、多くの遺族が泣いています。そんな戦争の悲惨さを伝えるのが新聞ではないのか・・・。
新春の西日本新聞の中村哲医師のアフガニスタンでの奮戦記に、私は身体が震えるほどの思いをしました。戦車ではなく、ショベルカーこそが求められているのです。
 あまり本の紹介はできませんでしたが、明治時代にも、戦うジャーナリストがいたことを知らせてくれる、元気の出る小説でした。
(2014年12月刊。2300円+税)

日清・日露戦争をどう見るか

カテゴリー:日本史(明治)

著者  原 朗 、 出版  NKH出版新書
 来年(2015年)は、敗戦から70年になります。実は、明治維新(1868年)から敗戦の年までは、なんと77年間しかありません。この77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦という4つの大きな戦争を担っています。そして、第二次世界大戦は、15年戦争とも呼ばれています。
 戦前の日本は、ほぼ10年に1度の割合で大きな戦争を遂行していたのですから、まさしく好戦国ニッポンだったわけです。ところが、戦後70年になろうとしている日本は、平和な国ニッポン、戦場で人を殺したこともなければ、日本人が殺されたこともないという、世界にまれな国になってしまいました。
 日本ブランドは、平和、なのです。そんな平和の国、日本のパスポートの価値が高いのも当然です。
 明治・大正・戦前の昭和までの日本は、ほぼ10年ごとに戦争を起こしていた国だった。もっと言うと、日本は、ほぼ5年ごとに戦争ないし出兵をしていた国だった。
 日清戦争、日露戦争というのは、その戦争目的は、最初から最後まで朝鮮半島の支配権を争うものだったし、戦場もほとんどが朝鮮半島だったから、この二つの戦争は、「第一次・第二次朝鮮戦争」と名づけたほうが、より戦争の「実相」に近い。
 1894年7月23日、日清戦争の直前、日本軍はソウル(漢城)の朝鮮王宮を正面から攻撃してこれを占領、朝鮮軍を武装解除し、朝鮮国王の高宗に対して父の大院君を国政総裁とするように強制した。
 日本軍が朝鮮王宮を占領したのだから、これは明確な日本と朝鮮との戦争である。だから、最近では、「7月23日戦争」とも呼ばれている。
 伊藤博文は、陸奥宗光とは違って日清協調派で、日本と清国とが協力して朝鮮の改革を進めようと考えていた。日清戦争は、陸奥と同じ強硬派だった陸軍参謀本部の川上操六・次長の二人で進めた。
 陸奥宗光の日記(「蹇蹇録」)によると、日本は欧米に対しては神経をはりめぐらせ、注意深く慎重に、ほとんど卑屈とも言えるほどの態度をとりつつ、返す力で朝鮮と清国に向かうときには、傲岸不遜ともいえるほどに拳骨を振り上げる。その二面性の対照が興味深いものであった。
明治政府の対外政策は、欧米には、徹底的に丁重に、朝鮮と清国に対しては徹底的に弾圧的にというものだった。
日清戦争の前、日本人の多くは、内心では、誰だって「支那」を恐れていた。ところが、戦争で日本が次から次に勝利をおさめていくと、だんだん勇ましい感情をもち、中国を軽蔑・憎悪するようになっていった。メディアも、中国人を愚弄・嘲笑するような報道を始め、その記事を庶民が楽しむようになっていった。
 このようにして、日清戦争は、日本人の中国に対する感情の一大転換点となった。日清戦争によって、日本に「国民」が誕生し、天皇の権威も確立した。
日露戦争のあと、1905年に「日比谷」焼打事件が起きて、政府は戒厳令を布いた。
 日露戦争のあいだ「勝った、勝った」という宣伝を信じていた民衆は、ポーツマス条約の内容を知って、賠償金もなく、領土の獲得も南樺太だけ、獲得できた利権があまりに少ないと憤慨し、東京など各地で反対集会や警察等への襲撃・焼打ち事件を起こした。
政府は、この事件を小さく見せるために、「日比谷」焼打事件という名前を付けたが、実際には、東京市全体にわたって交番などが焼打ちされ、さらには神戸や横浜など各地にも広がり、初めて戒厳令が布(し)かれた。戦前の日本で戒厳令が布かれたのは3回のみ。このときと、関東大震災、そして二・二六事件のとき。
 「日比谷」焼打事件について、司馬遼太郎が、明治日本はこのときから転落しはじめたと言っている。しかし、その反対に、このときから民衆が政治に登場し、大正デモクラシーに向かって進みはじめたといえる。
 民衆は、勝った、勝ったと思い込んでおり、本当は、日露戦争が「痛み分け」だったことを知らなかった。そして、日清戦争にも勝った、日露戦争にも勝った、日本は不敗の国だと信じ続けていくことになった。これって恐ろしい迷信ですよね。
 司馬遼太郎の小説に書かれていることを史実と思わないようにという指摘が何度も繰り返されています。なるほど、そうなんだと私も思いました。日清・日露の両戦争の意義をとらえ直すことのできる、貴重な新書だと思いました。
(2014年10月刊。780円+税)

カクレキシリシタンの実像

カテゴリー:日本史(明治)

著者  宮崎 賢太郎 、 出版  吉川弘文館
 なーるほど、そうだったのか・・・。とても納得できる本でした。
 江戸時代の300年近くをキリスト教信者が生きのびたという事実をどう理解したらよいのか、疑問でした。
 この本では、「カクレキリシタン」と読んでいます。明治に入って、キリシタンの禁令の高礼がおろされ、信者の自由が認められたのちも、仏教の仏様も、神道の神々や民族神も、そして先祖代々伝わるキリシタンの神々も、それこそ三位一体の神様のように拝み続けて今日に至っている人々のこと。
 彼らには、隠れてキリシタンの信仰を守るという意識はない。誰にも見せないのは、ご先祖様から他人には絶対に見せてはならないと厳しく言われてきたから。
 彼らは、キリシタンであることを隠している「隠れキリシタン」ではなく、ご神体を他人には見せない「隠しキリシタン」である。何かを隠しているという秘密性、そのこと自体に意味がある。
 たとえば、生月島山田地区のカクレキリシタンは、戦後になって一人もキリスト教の洗礼を受けていない。高山右近のような、一部の例外的な人物を除けば、日本人のなかで本当の一神教としてのキリスト教信仰を理解し、実践できた人はいなかったのではないか・・・。
 カクレキリシタンは、隠れているのでもなければ、キリスト教徒でもなく、キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった、典型的な日本の民俗宗教の一つと言ってよい。
 カクレキリシタンの信仰の根本は、先祖が命をかけて守り伝えてきたことを、たとえその意味が分からなくなってしまっても、忠実に、絶やすことなく、継承していくことにある。その継承された信仰形態を守り続けていくことそのものが、先祖に対する最大の供養になると考えている。
 カクレキリシタンは、行事面でキリシタン的要素を残しているが、370年余におよぶ指導者不在によって教義的側面はほとんど忘却され、日本の諸宗教に普遍的に見られる重層信仰、祖先崇拝、現世利益的な性格を強く取り込み、キリスト教とはまったく異なった日本の民俗信仰となっている。
 江戸時代初期の人口は1000万人。そのうち3%、30万人がキリスト教信者だった。
 殉教者は、その氏名が明らかなものだけでも4045人。少なくとも4万人にのぼるだろう。これには、島原の乱の犠牲者3万人は含まれない。なんのために、誰のために、殉教者は生命を捧げたのか・・・。
 殉教者には、100%、王国への道が約束されていた。目の前で、命がけで自分たちのために働いてくれている、慈父たる宣教師たちへの、子としての命がけの報恩行為であった。もし棄教すれば、先祖代々隠れて守り伝えてきた祖先や家族との信仰の結びつきが断ち切られることになり、信仰共同体から仲間はずれにされることは彼らは恐れた。
明治初期まで潜伏キリシタンの組織が存続していたのは、次の7カ所。そのうち、長崎県の3カ所のみが、現在まで存続している。
 ①久留米近くの大刀洗町
 ②天草市
 ③長崎市内の浦上駅周辺
 ④長崎県の西彼杵半島
 ⑤生月島(平戸市)
 ⑥平戸島
 ⑦五島列島
 幕末まで組織が存続できたのは、信徒によるコンフラリアの組織があったから。コンフラリアとは、組・講のこと。信心講とも呼ばれる。
 カクレキリシタンに教会はなく、神父もいない。カクレキリシタンは、神仏信仰とともに、先祖代々伝わるカクレの神様もあわせて拝んできた。
 カクレキリシタンは、なんでも自分たちの手で、自分たちの家で行わなければならない。手のかかる宗教である。
 生月のオラショは、正式に唱えたら、早口でも40分ほどかかる長大なもの。これを後継者は、すべて暗記しなければならない。オラショは、祈禱(きとう)文にあたるもの。人間の、神への願い、思いを定型の言葉にしたもの。今では、呪文の世界に変容している。
 現在、キリスト教が日本に土着しえないのは、頑強に現世利益主義を否定し、来世志向的な一神教を保持していこうとしているから。
カクレキリシタンとは何か、現地で27年間も調査研究してきた学者の本です。本当に説得力があります。
(2014年5月刊。2300円+税)

日清戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者  大谷 正 、 出版  中公新書
 日清戦争が、いつ始まり、いつ終了したのか、明確になっていないということを初めて知って驚きました。
 日本と中国(清)が戦争したのは朝鮮戦争の支配権をめぐるものだったわけですが、台湾についても戦争があり、その終期が不明確だったのです。
 日清戦争の始まりが曖昧なのは、日本政府の先制・奇襲攻撃をごまかそうとする隠蔽工作の結果でもあるのです。
中国では、地方の郷勇組織が近代的軍隊へ転換しはじめ、それを中央政府が認知した。日本は、中央政府が主導して徴兵制軍隊をつくった。この違いは大きい。国土の広さの違いからくるところもあるのでしょうか・・・。
日本では、1873年の徴兵令公布とともに徴兵制による近代軍が誕生した。
 1893年、日本軍の師団編成が完結したものの、兵站部門には問題が残り、日清戦争においてトラブル多発の一因となった。
 1892年8月、第二次伊藤博文内閣が成立した。
 1894年、伊藤首相は日清協調を主張したが、外相の陸奥宗光が開戦を主張した。
 対清・対朝鮮強硬論が高まり、ジャーナリズムの多くも、これに同調し、9月の総選挙を前にして、政党の多くが対外強硬論を競うなか、伊藤内閣は朝鮮半島からの撤兵に踏み込みきれなくなった。
 当時の清政府の内情は、日本人以上に複雑だった。清の光緒帝は、1887年から親政を始めていたが、依然として重要国務には西太后が関与した。そして、直隷総督・北洋大臣の李鴻章が重要な発言力をもっていた。李鴻章は、日本との開戦回避に動いた。西太后も同じ。主戦論は、光緒帝と若い側近たちが唱えた。
 李鴻章が2300人の兵士と武器を牙山(朝鮮)に送るという情報に接し、7月19日、日本政府と大本営は対清開戦を決定した。しかし、この段階でも、明治天皇や伊藤首相は清との妥協の可能性を探っていた。
 7月25日、豊島付近で日本の連合艦隊が清海軍と遭遇し、戦闘が始まった。豊島沖開戦である。
 宣戦布告あるいは開戦通知の前に日本海軍は清軍艦を攻撃した。その前の7月23日、日本軍が漢城(今のソウル)の朝鮮王宮を攻撃して占領。朝鮮国王を「とりこ」にした。
 後日、不都合な事実は隠され、歴史の書き換えがなされた。王宮占領は、先に射撃をしてきた朝鮮兵に反撃して日本軍が王宮を占領した自衛的・偶発的な事件だとされた。
 7月29日、日本軍が清軍と戦闘するなかで、「死ぬまでラッパを吹きつづけた木口小平(当初は、白神源次郎だった)」の話がつくられた。
 海陸で戦闘が始まると、日清両国とも、宣戦布告に向けて動き出した。
 日本政府部内では、開戦の名目をどうするかで議論続出となり、まとまらなかった。
 ようやく、8月2日に閣議で8月1日に開戦と決まった。
 9月10日の閣議では、それより早く、7月25日を開戦日とすることになった。とすると、7月23日の戦闘は日清戦争ではなくなる。
 「石橋を叩いて渡る」慎重な性格の明治天皇にとって、日清戦争は不本意な戦争だった。清に負けてしまうかもしれないことを、天皇は大いに心配していた。
 「朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」と明治天皇は高言した。相当にストレスがたまっていた。
 広島に大本営が翌4月まで置かれた。明治天皇が出席した大本営の御前会議は、実際に作戦を立案決定する場ではなく、多くは戦況報告を聞く場だった。
 開戦前の明治天皇は対清戦争に消極的だったが、広島では次第に戦争指導に熱心になっていった。心配に反して、日本軍が清軍に勝っていったからです。
 台湾では、日本の領土になることを拒否する地元有力者らが独立を求めた。唐景松は5月25日、台湾民主国総統に就任した。「虎旗」を国旗とする、アジア最初の共和国が生まれた。台湾の抗日軍は激しい戦い、日本軍を悩ませた。そのうえ住民の激しい抵抗と台湾の風土病のマラリアや、赤痢や脚気が蔓延した。このようにして日清戦争の死者の過半は台湾でのものだった。
 10月、日本軍が全面攻撃すると、劉永福はイギリス船で大陸へ逃亡し、台湾民主国は滅亡した。
 1896年春、日本軍が占領していたのは、台湾の西部のみだった。台湾の南部、東部そして原住民の暮らす山岳地帯は未占領だった。山地住民の制圧は1905年ころまでかかった。
 日清戦争に参加した日本軍兵力は25万人に近い。軍人軍属は40万人。そのうち30万人以上が海外で勤務した。そして、死亡したのは1万3千人。その原因は、脚気・赤痢・マラリア・コレラの順に高かった。
清軍の戦力となったのは「勇軍」(郷勇ともいう)と練軍で、総員は35万人だった。
 日清戦争は、閣議決定によって8月1日に始まったとされているが、誤りだ。
 日清戦争は三つの戦争相手国など、相手方地域の異なった戦争の複合戦争だった。
 第一に、日清戦争は朝鮮との戦争、清との戦争、そして台湾の漢族系住民との戦争という三つがあった。
 日清戦争は1894年7月23日の日本軍による朝鮮王宮攻撃に始まった。そして、日清戦争の終期は、1895年3月30日の休戦条約調印、5月の講和条約調印によって法的には終了した。しかし、朝鮮との戦争、そして台湾住民との戦争は1896年4月の大本営の解散でも終結しなかった。
日本にとって、日清戦争はもうかる戦争だった。一方の清は、日本へ支払う賠償金2億両(日本円で3億1100万円)を自力で捻出できず、外債依存の泥沼に陥った。
 そして、日本政府が得たお金(3億円)は、陸海軍の要求を8割まかなうというものだった。清からの賠償金の8割が、その後の日本軍の軍備拡張に充てられた。
 歴史の真実を知ると同時に、日本軍の野蛮な侵略作戦は許せないという気分にもなりました。
(2014年6月刊。860円+税)

日露戦争史(3)

カテゴリー:日本史(明治)

著者  半藤 一利 、 出版  平凡社
 知らないこと、でも、知るべきことがこんなに多いのかと、本書を読みながら思い至りました。「自虐史観」とか、あれこれ言うまえに、歴史の真実を私たちは知るべきです。
 乃木将軍の第三軍が無謀な突撃をくり返したあげく、ようやく旅順要塞司令官のステッセル中将は降伏した。それまでに乃木の第三軍が消費した砲弾は32万発、小銃弾は4800万発。とんでもない消費量だ。
 日本軍は、降伏してきたロシア軍の将兵に対して、戦争が終わるまで日本と敵対行為をしないと宣誓したら、ロシア本国へ直ちに帰還させるとした。
 これって、すごいですよね。第二次大戦の日本では考えられないほどの人情的措置を日本軍はとったのですね。
 この宣誓をしたロシア将兵は、ステッセル以下の将校が441人、下士官兵が229人だった。乃木大将とステッセル中将との降伏式のあとの記念写真は、ステッセル将軍以下の幕僚たちも帯剣し、一同が友人として並んで記念撮影した。
 乃木将軍というのは、こんな気配りまでしたのかと、驚きました。
旅順要塞を陥落させた日本軍に対して、はじめ冷たかった国際世論が次第に日本帝国のほうへ好転しはじめた。
 ところが、陸軍省の参謀本部にいる秀才たちは、手ばなしでは要塞陥落を喜ぶことができなかった。というのも、あまりにも多くの戦死者を出していたから・・・。
 東京の参謀本部は、作戦指導に欠陥のあった第三司令部の全員を内地に帰還させ、総解体したかった。そして、新しい軍司令部を誕生させ、奉天会戦に問いあわせたかった。
 ロシア国内では、「血の日曜日」事件が勃発してしまった。10万人をこえる人々が、皇帝に向かって要請行動にたちあがった。そして、近衛歩兵連隊の兵士たちが小銃を発砲した。
 やがて、全ロシア帝国が革命の「るつぼ」に投げ込まれた。
 バルチック艦隊が極東へ向かっている途上で、旅順艦隊が消滅してしまったことを知らされ、また、旅順要塞の防衛隊も絶望的だと告げられた。
 これではバルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令官は落胆するしかありませんよね・・・。
 ロシア帝国の中枢は、革命の荒波に直面して、バルチック艦隊どころではなかった。こうしてバルチック艦隊は、はるかに遠いアフリカ大陸の外海で、すでに自滅しつつあった。
 陸上での奉天会戦は日ロ両軍あわせて56万人の決戦だった。
 野砲はロシア軍が2倍もの優勢を誇るが、銃砲火力は日本軍が3倍。そして、日本軍は機関銃を国内で増産し、256挺も前線に配備していた。対するロシア軍は56挺。その差5倍。奉天会戦は、圧倒的な銃砲火力と機関銃火力が投入され、この強力な火力の掩護のもとに戦われた一大会戦だった。
 ロシア軍のほうは、クロパトキン総司令官以下、かならずしも意気盛んというわけではなかった。
 1905年(明治38年)の日本の男性人口は2342万人。そのうち兵役にたえる人口は800万人。その4分の1の200万人が兵隊として既に召集されている。労働人口を考えたら、ギリギリ限度の大量の兵力動員だった。しかも、重要なことは、下級将校と曹長、軍曹という下士官クラスの死傷者が4万人となっていること。中隊長、大隊長クラスの将校の死傷者は、残存戦力に甚大な影響を及ぼしている。速成の指揮官は、役に立たないどころか、かえって有害な存在になる。凄惨苛烈、臨機応変にして強靱な判断を指揮官には求められる。それが出来ないと・・・。
 バルチック艦隊の兵員総数の3分の1は予備水兵だった。新兵器も十分に活用することができなかった。バルチック艦隊のほうは、水増しされ、旧式の戦隊等が加わっていた。最高速力が11ノット。これでは、日本側の15.5ノットに比べて、決定的に不利。
バルチック艦隊が、果たして対馬海峡に来るのかどうか、東郷司令官以下、動揺した時期があった。
 「天気晴朗なれども波高し」という電文には、第一弾の奇襲攻撃は不可能かもしれないことを伝えたという意味が込められていた。
 東郷司令官は、ロシアのバルチック艦隊と接近しての射ちあいに賭けた。中小口径砲では日本側が断然有利だから。戦艦の不足を速力と中小口径砲でおぎない、常に戦場で主導権を握る。
 ロジェストウェンスキーは、司令塔に日本側の砲弾が命中し、重傷を負って、意識不明となった。総指揮官が早くも戦闘から離脱してしまった・・・。戦場での運・不運なのです。
 それに対して、戦艦・三笠は30発もの命中弾を受けたが、戦闘力はいぜんとして健在だった。
 人的損害として、ロシア側は戦死者5千人、捕虜6千人。これに対して日本側は戦死者116人、戦傷者580人。
 日本の民草が、有頂天になり、「勝った、勝った」で、天にも昇る気分になったことはやむをえない。しかし、日本陸軍の国内動員能力は完全に涸渇していた。
 だから、ポーツマス条約で賠償を得られないことを知って民草は暴動を起こした。
 日本の国力を知らされず、踊られさてきた「民草」の不満が爆発したわけです。
 日露戦争の全体状況を、よくよく認識することができました。やっぱり、事実を直視すべきです。
(2014年1月刊。1600円+税)

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