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カテゴリー: 日本史(明治)

自由民権運動

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 松沢裕作 、 出版  岩波新書
 自由民権運動とは何だったのか、改めて考えさせられました。それは、幕末そして明治維新の原動力となった動きに当然のことながら連動していたのです。
 そして、「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだという伝説のある板垣退助の実像が浮き彫りにされています。なるほど、そういうことだったのか・・・・、と思わず膝を叩きました。
 1874年(明治7年)1月17日、板垣退助ら8人が、国会の開設を要求する建白書を政府に提出した。これが自由民権運動の始まりとされている。板垣は土佐(高知県)出身の士族であり、かつての政府首脳の一人である。板垣は、民権運動が西日本の士族たちを主たる担い手として始まったことを象徴する人物である。
 戊辰戦争後の高知藩で実権を握ったのは、大政奉還の立役者である後藤象二郎と、戊辰戦争の英雄である板垣退助の連合政権だった。この二人は、いずれも上士出身である。これに対して、国許の高知で実権を握ったのは、下士・郷士をふくむ凱旋した軍人たち。谷干城、片岡健吉らで、藩の軍務局を拠点としていた。東京の板垣・後藤と高知の谷らは対立していた。高知藩において士族・率族の等級制の廃止に抵抗したのが、のちの自由民権運動の指導者になる板垣退助その人だった。
 このころ、板垣は、藩内の人物を家格によって差別する人物であると認識されていた。板垣らの新政府軍と戦った江戸幕府の歩兵隊は、日雇いの肉体労働で生計を立てているように日用層、つまり都市下層民(「破落戸」(ごろつき))の軍隊だった。
 近衛兵として勤務する薩摩や土佐の軍人たちは、戊辰戦争の、また廃藩置県クーデターの勝利者であるにもかかわらず、自分たちの存在意義の危機に直面していた。
 藩を失い、徴兵制によって、その存在意義も失われつつあった士族たちの不安とは、身分制社会の解体によって所属すべき「袋」を失った士族たちの不安であった。
板垣らは「建自書」を提出した自分たちの行動を「反体制」の活動だとは考えていなかった。民選議院の設立というポスト身分制社会の新たな構想を実現するためには、その主体として、知識と意欲をもつ士族集団が生きのび、そして理想の実現のためには、権力の座につかなくてはならない。彼らは、そう考えた。
指導者としての板垣の権威は、戊辰戦争の功績によって支えられていた。その指導下にある立志社は、潜在的な軍隊であるからこそ、存在感をもっていた。
 西南戦争における西郷の敗北と、立志社の蜂起の未発は、政府から見た潜在的な軍隊としての立志社の存在感を失わせることになった。
自由党の指導部は、実力行使に否定的だった。しかし、板垣以下の自由党指導部は「武」の要素を全面的に否定するわけにはいかなかった。なぜなら、暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出するというのは、自由党の存在意義そのものであり、自由党の思想の中核をなしていた。そして、実際に暴力で旧秩序を打ち倒した戊辰戦争の経験があり、その戦争の英雄だった板垣が党首として権威をもち続けたのである。だから、自由党は暴力による新秩序の創設を全面的に否定する論理はもたなかった。だから、自由党の指導部は、急進化した党員を抑えることが出来なかった。
オッペケペーの自由民権運動を改めて多面的に掘り下げるべきだと痛感しました。
(2016年6月刊。820円+税)

日本で初めて労働組合をつくった男

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  牧 民雄 、 出版  同時代社
 今の日本ではストライキという言葉は、まるで死語同然です。ところが、江戸時代が終わって10数年たったばかりの明治の日本で、ストライキが起こり始めました。これも、江戸時代の「オカミ」に盾つく百姓一揆の伝統を受け継いでいたからなのでしょうか・・・。
 日本人が、昔から皆、従順で、モノ言わぬヒツジだったというのは、真っ赤な嘘です。それは江戸時代の一揆の規模・回数をまったく知らない人の言う妄言にすぎません。
 明治19年10月に靴職工のストライキは、日本初だった。この靴職工たちは、士族上りが多く、他の職工とは品性を異にし、気質温和、恥を知る美風があった。
 城(じょう)常太郎は、明治21年9月、25歳のとき、アメリカへ向けて旅だった。常太郎はアメリカはサンフランシスコに定着し、ホテルの客引きをしていた高野房太郎と出会った。
 アメリカで日本人のできる仕事で最も有望なのは、靴工業だった。靴が生活必需品であるアメリカでは、手先の器用な日本人靴工による靴の修理は大好評だった。
 明治22年11月、日本人靴職人14人がアメリカに集団移民した。日本人靴職人は修理費が格安で、納期をきちんと守ったことから顧客が増えた。
 1886年1月、サンフランシスコ市内の靴工は7000人いた。その多くを中国人靴工が占め、白人靴工は2割、1000人ほどだった。しかし、白人靴工の日給手当は2ドル、中国人靴工は1ドルだった。
 明治19年以降、東京や関西の靴工場で、工員たちによる労働争議が頻繁に起こり始めていた。
 明治25年12月、300人もの靴工たちが日比谷公園に集まり、衆議院に向かって堂々のデモ行進を遂行した。日比谷公園は、日本におけるデモ行進の発祥の地なのである。
 弁護士会も安保法制法案の成立反対を叫んで、日比谷公園から国会に向けて何回となくデモ行進をしました。もっとも、今は、パレードと呼ぶことが多いのですが・・・。
 明治20年1月、カリフォルニア市内で、城常太郎の音頭のもと、「加州日本人靴工同盟会」が発足した。白人靴工に対抗するとき、非暴力で相手の怒りを鎮めようとする平和的な道を選んだ。このころサンフランシスコ市内の日本人靴店は20店、靴工は60名いた。
 明治42年になると、会員数327人にまで膨れあがった。日本人靴店も76店あった。当時、ゲルマン人の食料品、フランス人の洗濯屋、イタリア人の魚商、中国人の薬舗、日本人の靴工と言われていた。
 明治29年の末、城常太郎は、ストライキに反対する者たちから袋叩きにあい、重傷を負った。
 明治30年6月、東京・神田の青年会館において職工義友会の主催する演説会が開催された。1200名の聴衆を前に、学歴のない城常太郎が一番に演説した。
労働組合期成会は、明治30年にわずか71名でスタートしたが、翌31年7月には2500人の会員を擁するまでに発展していた。初期の労働運動のピークは明治32年夏だった。
 城常太郎は、その後、中国大陸に渡ったが、明治38年7月に、42歳で肺結核のために死亡した。
明治29年に高野房太郎よりも早く日本に帰国し、日本の労働運動を大きく盛り上げたのが城常太郎だったことを初めて知りました。
 それにしても明治20年代ころのカリフォルニアに日本人靴店がたくさんあったことを知り、目を開かされました。今では、町に靴を修理してくれる店なんて、とんと見かけませんね・・・。
 歴史の掘り起こしは大切だと痛感した本でもありました。
(2015年6月刊。3200円+税)

茅花流しの診療所

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  若倉 雅登 、 出版  青志社
 茅花は「つばな」と読みます。四国は大洲、内子町で油屋の娘としてマサノは生まれた。明治38年、マサノは尋常高等小学校を卒業して上京した。13歳のときである。寄宿舎に入って医学の勉強をはじめた。
 四国の親は月15円を仕送りしてくれたが、生活にまったく余裕はない。それでも、小学校の教師の初任給は10円から15円の時代なので、仕送り15円は大金だった。
 東京女医学校は、医師試験の合格者を輩出するようになった。明治43年にはマサノをはじめとして12人もの女医が誕生した。このときマサノは19歳、最年少だった。
 「東京日日新聞」がマサノについて「未成年の女医者」として報道した。
東京で医師として修業したあと、郷里での開業をせっつく親の願いを断り切れず、大正2年、内子に戻って開業することになった。ところが患者が来ない。ヒマをもてあましていると鉱山事務所が鉱山病院へ招いた。
鉱山病院で医師として診察活動をしていると、鉱山の毒によるのではないかと疑われる症例に直面するようになった。
鉱山病院をやめ、地元に戻り、研修のため上京した。やがて、結婚し、出産したあとマサノは腸チフスにかかってしまった。
マサノの最期の言葉は、「もはや1時間なり」だった。予言どおり、1時間に永眠した。45歳だった。
「大丈夫、心配するな、なんとかなる」、そう言い続けて、マサノは患者に寄り添い続けた。これは、記録には残らない功績である。
四国の片田舎からわずか13歳のときに上京して医学をおさめ、19歳で女医となったあと、田舎に戻って患者に寄り添う医師として活動していた事績がこまやかな筆致で描き出されていて、深く心に残りました。
著者は、私と同世代の現役の眼科医です。素晴らしい本でした。ありがとうございます。
(2016年2月刊。1400円+税)

日露戦争と大韓帝国

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  金 文子 、 出版  高文研
1904年に始まった日露戦争ですが、正確には、いつ、どこで戦争が始まったのか、はっきり知りたいところです。
1897年10月12日、朝鮮第26代国王・高宗は自ら皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。それから1910年8月の「併合条約」によって滅亡するまでの13年間を大韓帝国と呼ぶ。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月23日、日本軍による朝鮮の王宮・景福宮の占領から開始された。
日本は、朝鮮から鉄道敷設権を奪った。これは日露戦争で活用された。また、朝鮮の電話線も日本軍の統制・管理の下に置いた。
1895年10月、日本軍は王宮に侵攻して朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。なぜ、王妃を殺す必要があったのか?
日本に対して電話線の返還と日本軍の撤兵を要求する朝鮮の国権回復運動の中心に王妃がおり、ロシアに接近しようとしていると、日本政府・軍首脳が見ていたから。
王妃(閔妃)殺害事件は、大本営と日本政府の意を受けた特命全権大使(三浦梧楼)が企てた謀略・謀殺事件だった。その結果は、朝鮮国王をロシアの保護下に追い込むことになり、日本はロシアと朝鮮における権益を分けあわなければならなくなった。
日露戦争は、日本のロシアとの戦争であるのみならず、日本が大韓帝国の利権をひとつひとつ奪っていくための侵略戦争であった。
日露戦争は、日清戦争と同じように、日本軍によるソウル占領から開始された。そして、この日本の軍事行動の開始はすぐにはロシアに伝わらないように細工された。つまり、韓国や中国からロシアに通じる電話線は日本軍の諜報員によって切断された。
伊藤博文は、たとえロシアが日本の主張をすべて受けいれたとしても、今、つまりロシアの開戦準備が整わないうちにロシアと戦争しなければならないと率先して主張した。決して伊藤は対露協調論者でも、平和主義者でもない。むしろ、ロシアのほうは当時、日本と戦争までしようとは考えていなかった。
1904年1月、日本の最高首脳部(伊藤、山県、桂、山本、小村)は、ロシアの譲歩が通知される前に開戦しなければならないと合意した。
1904年2月8日、ロシアの小型砲艦「コレーツ」が日本の軍艦を砲撃したことから戦争が始まったというのは正しくない。「コレーツ」には、まったく戦意はなかった。日本軍が水雷を発射したので、「コレーツ」はやむなく応戦しただけ。ところが、日本軍は事実を書きかえてまで、「コレーツ」が先に砲撃したと発表し、これによって世界に誤報が広まった。
日本軍は、旅順と、仁川奇襲作戦を成功させるために、開戦前に日本の通信線を違法に敷設し、ロシアの通信線を違法に切断していた。
日露戦争における日本軍の最初の武力行使は、1904年2月6日未明より開始された第三艦隊による韓国の占領と馬山電信局の占拠であった。しかし、これは公言できることではなかったので、鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠は公刊戦史から消され、なかったことにされた。
「勝った、勝った」とされることの多い日露戦争ですが、実は、日本軍はあとがない状況だったのです。弾薬も人員もなかったのでした。
日露戦争の真実を明らかにした本として一読の価値があります。
(2014年10月刊。4800円+税)

川上音二郎と貞奴

カテゴリー:日本史(明治)

                              (霧山昴)
著者  井上 理恵 、 出版  社会評論社
 オッペケペ節で名高い福岡生まれの川上音二郎について、劇場人としての歩みをたどった本です。
川上音二郎の生まれた年は確定できない。明治維新のときには、4歳か5歳だった。
 川上は、明治の終わり前に、50歳にならずして亡くなった。
川上音二郎は、明治の男、明治の演劇人だった。
川上音二郎は、新時代の政談を演説し、事件を舞台に上げて民衆の絶大な人気を獲得し、海外巡業に行き、その身体で西欧を感じとった最初の演劇人だった。
 明治の半ば、人々の貧しさや不当な扱いを許さない憤りが、暴動につながり、宗教に救いを求めた。宗教劇が流行し、仏教演説会を可能にした。
 明治20年(1887年)に俳優としてデビューしたあと、川上音二郎は一座を組んで社会的事件や政治的内容の芝居を舞台に上げていた、各地で講談、政談を口演しながら滑稽演劇も上演し、壮士上がりの素人たちで一座を組んだ。
川上音二郎は明治26年(1893年)、フランスへ行った。1月に日本を出て日本に帰ってきたのは4月末のこと。40日の船旅なので、パリに滞在していたのは2ヶ月ほどでしかない。
日清戦争が始まったのは1894年(明治27年)のこと。この日清戦争に日本が勝ったのが日本にとって、大きな災いをもたらしました。小さな島国の日本人が中国大陸に住む中国人に優越感をもってしまったのです。
 宣伝戦がうまくいって、日本人の多くが有頂天になってしまいました。日清戦争を舞台で演じると、みていた観客が舞台に上がって清国兵の役者を殴りつけたのでした。
 川上音二郎には反体制の意識はなかった。しかし、権力や権威を利用しつつも、それにこびへつらう気持ちもなかった。
川上音二郎が川上座を開場してから、不入り失敗したというのは間違い。いつも大入り満員だった。
 それでも、川上音二郎は高利貸への返済に追われていた。川上音二郎は、俳優たちとの離合集散を体験しながら、一座を運営して、常に「大入り」を取っていた。
 川上音二郎は、舞台を構成する演出者として能力を発揮した。川上音二郎は、アイデアマンで、構成能力があり、状況把握に長けていた。
 川上音二郎は、衆議院選挙に2回立候補したが、当選できなかった。当時は制限選挙である。この立候補と高利の借金返済のため、川上劇場の維持が困難となり、売却せざるをえなくなった。
 「金色夜叉」で、川上音二郎は高利貸になる貫一の役を演じたが、生身の川上音二郎は高利貸の取立に苦しんでいた。
 演劇人の川上音二郎の半生を丹念に紹介した本として、面白く読みました。
(2015年2月刊。2700円+税)

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