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カテゴリー: 日本史(明治)

ザック担いで、イザベラ・バードを辿る

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 「日本奥地紀行」の旅・研究会 、 出版  あけび書房
名古屋大学ワンダーフォーゲル(ワンゲル)部のOBが明治11年のイギリス女性の東北・北海道旅行の行程をたどってみました。参加者はのべ109人、23泊34日、東北から北海道までをザック担いで歩いたのです。すごい企画ですね。うらやましいです。メンバー表をみると、私たちの団塊世代の少し前の世代のようです。
イザベラ・バードが歩いた明治11年(1878年)というのは、西南戦争が明治10年ですから、その翌年ですし、明治になってまだ10年しかたっていない農村地帯だったので、ほとんど江戸時代そのままだったことでしょう。その街道の多くは今では主要国道になっていますので、そのまま歩いたのでは危険をともないます。そこで、名古屋大学ワンゲル部OBは、時代に取り残された峠道を丹念に拾って歩いたのです。
大内宿は、今も江戸時代へタイムスリップできることで有名です。私もぜひ行ってみたいと考えています。イザベラ・バードが泊まった「問屋本陣」が今も残っていて、土産物屋になっているとのこと。築300年以上だそうです。
イザベラ・バードが休憩した茶屋で、水しか飲まなかったところ、お金を受けとろうと、しなかったという話も紹介されています。「律義で正直」な日本人がいたのですね・・・。
マタギの郷(小国町)では、熊肉がキロ1万円以上で売られているとのこと。高級和牛並みの値段です。熊皮は7万円から10万円もします。すごい高値です。
イザベラ・バードが東洋のアルカディアと命名したのは米沢平野。ここは台風も地震もなく、雪さえ我慢すれば非常に住みやすいところ」、とは地元の人の言葉。
イザベラ・バードは明治11年当時、47歳の独身の「おばさん」でした。そして、日本には合計5回やって来ています。1904年に72歳でイギリスで亡くなりました。
同伴者の伊藤鶴吉は18歳で、実践的な英語力がありました。英米の公使館でボーイとして働いたことがあったからです。とても有能な通訳・随行者だったようです。
マンガでイザベラ・バードを紹介している本があるようですね。ぜひ読んでみましょう。
(2017年9月刊。2200円+税)

西郷隆盛

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 家近 良樹 、 出版  ミネルヴァ書房
2018年のNHKの大河ドラマで主人公として取り上げられる西郷隆盛の実像に迫った本です。なんと本文だけで550頁もある大著です。それだけの分量をもってしてもまだまだ十分に西郷隆盛なる偉人を十分に分析しきれていないのではないかという感想をもちました。
著者は本書の最後で、次のように西郷像をまとめています。
たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても見事に演じきれるだけの力量のある千両役者だったが、その反面、律義で繊細な神経の持ち主だった。そして、そのぶん、苦悩にみちた人生を歩み続け、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。
西郷は、多情多感ともいえるほど情感の豊かな人物で、人の好き嫌いも激しく、しばしば敵と味方を峻別し、敵を非常に憎むこともある人物だった。つまり、西郷は完全無欠な神のような人物ではなく、人間臭く親しみのもてる人物だった。西郷は人を激しく憎むことができるほど他人と深く関われたぶん、愛されることも多かった。
幕末の上野戦争、つまり上野での彰義隊との戦争で西郷は作戦の陣頭指揮をとった。事前に十分な準備をしていたことから大勝利を収めた。このとき、従軍看護婦が活躍したが、西郷はその処遇について細かく指示した。また、爆薬を運搬する臨時雇いの軍夫の給金を7日文ごとにきちんと支払うよう指示したり、こまごまと具体的に指示している。
このように西郷の実際は、のほほんとした無頓着な人物ではなかった。
それに続く戊辰(ぼしん)戦争において薩摩藩の仇敵ともいうべき庄内藩が降伏、開城したあと、西郷は残酷な仕返しを禁じ、寛大で平和的に処遇した。西郷は、相手が白旗を掲げれば許すという考え方の持ち主だった。
この寛大な処遇が西郷の指示によるものだと知った庄内藩の人々は、西郷に対して敬愛の念を抱き続けた。明治3年には、旧藩主が70人を連れて鹿児島に行き、数ヶ月間も兵学の実習を受け、西郷に教えを乞うた。
西郷隆盛は若いころは、180センチの長身だったが、やせてスマートでもあった。太ったのはストレスによるものだった。
西郷は、若いころ、はじめは赤裸々に自分の感情を相手にぶつけていたが、次第に本心を心の奥深くにしまって対応することが再上洛後は格段に多くなった。西郷は計算高い男だった。西郷は苦しい状況下になればなるほど、めげることなく強気の姿勢に徹した。
そして、冷静な現状分析から対策を講じた。西郷は策略家としての本性を発揮した。西郷は、事前に対策を綿密に立てるのがすこぶる好きな人物だった。そして、それは常識的な判断の下になされた。自分のところに集まってきた各種の情報を客観的に理詰めに分析し、そのうえで相手の意表に出るのを得意とした。
廃藩置県は日本史上でも指折りの転換点だったが、これも西郷の積極的な同意によって初めて実施が可能になったものである。
では、なぜ西郷は十分な準備もなく西南戦争を始めてしまったのか・・・。そして、途中で止めなかったのか・・・。大いに疑問です。
西郷隆盛には5人もの子どもがいたようです。その子孫は今も健在なのでしょうか・・・。弟の西郷従道のほうは子孫がいると思いますが、隆盛の直系の子孫がいるとは聞いたことがありません。どなたか教えてください。西郷隆盛の実像に迫った興味深い本です。
(2017年8月刊。4000円+税)

南方熊楠

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 松居 竜五 、 出版  慶應義塾大学出版会
私は、恥ずかしながら、この人の名前が久しく読めませんでした。みなかた・くまぐす、と読みます。
江戸時代の末に和歌山で生まれ(1867年5月18日生)、明治10年に10歳、明治20年に20歳と、明治とともに歳(とし)をとった人物。15歳から19歳まで東京に学び、19歳のとき渡米して、25歳までアメリカにいた。それからロンドンへ行き、33歳までの8年間、大英博物館へ通った。
そのあと33歳から日本に滞在し、主として和歌山で研究に没頭した。
少年時代の熊楠の知的好奇心を受けとめたのが『和漢三才図会』であった。この本は、いわば江戸時代の百科国鑑だった。
15歳から16歳にかけて、熊楠は東京で一人暮らしをしていた。東京大学予備門に入るための受験勉強をした。和歌山の実家は、このころビール製造で金もうけしていて、熊楠へ潤沢な学資を送金していた。
予備門のころの熊楠は、本を読んではいたものの、試験の成績はよろしくなかった・・・。
熊楠は、数学が、よほど苦手だった。そして、アメリカへの留学を決意する。その理由のひとつに徴兵忌避がある。
そりゃあ、大変な勇気がいったことでしょうね。
人間の赤ん坊は、放ったらかしにされると、防御反応から物理的な成長まで止まってしまいます。それはともかく、熊楠は兵役が免除される長男ではなかった。ここから、熊楠のアメリカ行きが具体化したのだと、この本の著者は推測しています。
アメリカでは白人による人種差別を目撃し、非白人として差別を受ける体験もしたようです。そして、キューバにも3ヶ月ほど滞在しています。
そして、日清戦争(1894年)の始まる2年前の1892年9月に、ニューヨークを船で出発し、9月26日にはロンドンに到着しています。やがて大英博物館で熊楠は仕事を始めます。ロンドンから日本に戻ったとき、熊楠は33歳だった。
熊楠の論文で引用される文献は、フランス語、英語、イタリア語、ドイツ語となっていた。
知の巨人を論じるには、その前提として必読文献だと思いました。
(2016年12月刊。4500円+税)

異郷に散った若い命

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 高瀬 豊二 、 出版  オリオン舎
5月半ば群馬県にある富岡製糸場を見学してきました。世界遺産に登録されて見学者が急増したとのことでした。よく晴れた日曜日でしたが、大勢の小学生が教師に引率されて見学に来ていました。
広大な富岡製糸場の建物はよく保存されていて、一見の価値があります。一部の工場建屋では大がかりな復旧工事が進行中です。
官営富岡製糸場は、明治5年秋、フランス人指導者の下に開業した。欧米に比べてはるかに遅れていた日本の産業革命の夜明けを華やかに先端を切った画期的な工場だった。
ここで働く工女は、寄宿工女371人のうちの148人(40%)が士族出身者だった。
フランス人が赤いワインを飲むのを見て、若い娘を集めて生血を飲むのだと誤解して、応募者が少なかったという話が伝わっている。しかし、この話は疑問だ。フランスをふくめて外国人を知らない人が多い日本人が、ワインを外国人を飲むのを見たというはずはない。むしろ、これは、明治6年の徴兵令と、「血税一揆」ほうが関連しているのではないか・・・。
工女を出身別にみると、はじめは地元の群馬県出身者が多数を占めている。これに続いて、滋賀、長野、埼玉、東京、岐阜、愛知と続いている。明治14年ころからは、愛知、岐阜、大分など西南方面の人が増えている。
工女の死亡者は、明治9年から13年のあいだに集中し、明治13年の1年間に15人が亡くなっている。そして、死亡者は若い。最年少は、なんと9歳10ヶ月。最多が22歳までの17人で、次に20歳までの16人となっている。
富岡製糸所の募集要項は15歳から30歳までとなっていた。
9歳から10歳の少女たちが働いたということは小学生の年齢の工女たちがいたということです。むごいことですね。
有名な「ああ、野麦峠」は、岐阜県高山方面から長野県岡谷市の製糸工場に働きに来ていた工女が病気になって故郷に帰っていく(帰らされる)話です。
この本は墓石と過去帳で亡くなった女工たちの氏名となった女工たちの氏名と享年を明らかにしています。
日本の産業を底辺で支えて、人知れず若くして病死した女工たちの顕賞碑です。実に意義のある作業だと思いました。
官営富岡製糸所は明治26年に三井銀行の経営の移り、明治31年には工女230人のストライキがあった。そのあとの明治35年原合名会社に経営が移った。その後、片倉工業に移り、現在は、市営の施設となっている(ようです)。
私は生糸が出来る過程がようやく分かりました。今では全自動で出来るなんて、すごいことですね。
(2014年7月刊。926円+税)

果てなき旅(上)

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(霧山昴)
著者 日向 康 、 出版  福音館
田中正造の伝記です。田中正造は足尾銅山鉱毒被害事件を根絶するために、現職の代議士でありながら天皇に直訴した義人として高い評価を得ています。
本書(上巻)は、田中正造34歳までの苦難の歩みを描いています。綿密な裏付け調査で読ませます。
上巻あとがきを読むと、田中正造については、まだ解明されていないところも多々あるようで、本筋からはずれたと著者が考えたところには触れていないようです。
田中正造の明治44年(1911年)8月28日の日記は日本魂(やまとだましい)を書いています。
「国家の半面は存するも、半面は空虚なり」としています。日露戦争(1904年)のあとの言葉として、重い意味があります。
田中正造は、日清戦争についても領土拡張のための戦いになるのには反対しました。
田中正造は、殺人事件の容疑者として逮捕され、拷問を受けました。もちろん、まだ監獄法もない当時のことです。ですから、よく生き延びたものです。
なぜ、無実の殺人事件の犯人とされたのか、田中正造は地方政治権力の内部抗争の犠牲者のようです。それにしても、ひどい拷問でしたから、よくぞ生き延びたものです。
田中正造伝の本書を、ながく「積ん読」状態にしていたのを掘り起こして読んだものです。
大佛次郎賞を受賞しています。
(1989年3月刊。1650円+税

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