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カテゴリー: 日本史(明治)

自由民権創成史(上)

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店
 明治の初め(7年、8年ころ)、新聞の発行部数は、「日日」が223万部、「報知」206万部、「朝野」55万部、「曙」80万部、「真事誌」53万部となっている。新聞史上の戦国時代だった。すごい部数ですね。今はどの新聞も大激減し、みんな青息吐息の状況です。
新聞の絶大な威力に脅威を感じた太政官政府は、本腰を入れて対応しはじめた。
 「真事誌」が目の上のコブとなっていたことから、政府は編集者のブラックを内国人でないとして編集にあたられないようにした。明治8年6月、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が制定・公布され、内務省の所管となった。そして、「曙」、「朝野」、「報知」の各編集長が、禁獄2ヶ月とか罰金20円などに処せられた。
 明治5年、民事訴訟の代理人として代言人を制度化した。刑事訴訟の弁護が認められるのは明治15年1月の治罪法施行のあと。
 福沢諭吉も代言人制度には強い関心をもっていて、塾内に代言社を組織した。
明治8年5月から、大審院以下の裁判所制度が行政と分離して確立しはじめるなかで、全国の代言人の数は増加していった。
 当初は、裁判所の許可さえあれば、誰でも代言人をつとめることができた。しかし、明治9年2月、代言人規則を制定し、代言人試験に合格したものだけに資格を付与することにした。明治9年から、年に数回の試験が実施された。
幕府を倒すのに力があったのは頼(らい)山陽で、今は福沢諭吉だ。そう言われるほど、福沢諭吉の影響力は絶大だった。
 太政官政府は、王政復古と廃藩置県という二大変革を断行することによって、近世天皇、朝廷制度を確固として支え続けてきた将軍制度、そして大名制度を結果的に廃棄してしまった。
 明治8年6月、第1回の地方官会議が木戸孝允の議長のもとで開会した。この開催前に、公選民会を既に開催しているところがあった。ただし、福岡県にはなかった。
国会設立が先か、地方民会が先か、こんな論争があり、刃傷沙汰まで発生した。
 国会開設運動の中心には士族民権的色彩の強いものと、反華士族の立場を明確にした平民民権的なものとが混淆(こんこう)していた。
 士族の廃藩処分に対する思いは複雑だった。家禄を支給されつづけている士族たちは、数年前までの支配階級としての身分意識・自尊心を抱きつつ、自らの社会的存在意義を示す必要を痛感せざるをえない。
彼らにとって、対外危機は絶好の機会となる。士族の不満を外に転換させるための台湾出兵決定は、明治7年2月のこと。
 百姓・町人の立場からは、士族がその識を失ったあとも家禄が支給され続けていること自体が問題だった。すなわち、士族は人民保護の役割が消滅したと同時に、士族の兵役義務も存在しなくなった。
 士族以外の平民が民選議院の主体にならなくては、国政の根本的変化を惹起させることは不可能だというのが、平民民権論だった。華士族の家禄泰還こそが平民の辛苦を除去する方法とするのが平民民権論の特徴の一つだった。
 民選議院設立建白そのものが日本全国に衝撃を与え、全国の農民に新しい視野と斬新な展望を与える起爆剤となった。
 明治初めのころの激動する日本の実情を生き生きと紹介している本でもあります。
(2024年10月刊。3800円+税)

幸徳秋水伝

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 栗原 康 、 出版 夜光社
 無政府主義者宣言というサブタイトルがついた本です。幸徳秋水はアナーキストとして活動していて、官憲ににらまれ、ついに大逆事件で捕まり、刑死させられました。
高知県に生まれ育つなかで自由民権運動に触れ、東京に出て中江兆民の書生をし、万朝報(よろずちょうほう)で記者をつとめます。平民社で活動したあと、アメリカに渡って見聞を広め、日本に戻って足尾銅山の鉱毒事件に関わって田中正造翁とも結びつくのでした。
 足尾銅山で従業員が暴動を起こしたのは、1907年2月4日のこと。古河鉱業も経営する足尾銅山には8千人以上の坑夫たちが働いていた。強圧的に働かされていた坑夫たちが怒りを暴発させ、事務所や会社役員宅に放火し、略奪していった。
 ついに軍隊が出動。高崎連隊3個中隊、300人が到着して、600人以上を逮捕。うち182人が起訴された。会社の被害は28万円、今の9億3千万円にあたる。
 このとき、幸徳秋水は35歳で、アメリカから帰国したばかりだった。「平民新聞」を発刊して宣伝していた。
 幸徳秋水は、高知県の四万十市で1871年11月5日に生まれた。本名は伝次郎。父は薬種業、酒業をいとなむ商人。14歳のとき、高知市に出て勉強し、さらに東京へ出た。東京では自由民権運動が再燃していて、それに関わるうちに東京を追放された。伝次郎はまだ16歳。
 いったん郷里に戻り、再び東京に出た。そして中江兆民の書生(学僕)となる。中江兆民は24歳のとき、フランスに渡って、パリ・コミューンに遭遇した。
 19歳の伝次郎は東京で英語を勉強した。
 「万朝報」は、1895年に発行部数6万6千部もあった。そこで、片山潜などの社会主義者と出会った。このころ秋水は教育の「無償化」を呼びかけていた。
 ところが、この「万朝報」が1903年10月、突然日露開戦論を打ち出した。戦争に反対したら、「非国民」のレッテルを貼られてしまう。秋水は、「万朝報」をやめた。このとき31歳。
 平民社をつくって活動するようになった。片山潜や木下尚江、安部磯雄などが同志。
1903年11月、秋水たちは、週刊「平民新聞」を発刊した。平民社の3本柱は、「平民主義」、「社会主義」、「平和主義」だ。
日露戦争が1904年に始まると、ラジオの代わりに新聞が大いに売れるようになった。
「天子、金持ち、大地主。人の血を吸う、ダニがおる」
1909年10月初め、「ぼくと一緒に天皇を殺しませんか」と誘ったら、即答で「賛成」。同年11月3日、爆弾実験が成功した。同年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文は安重根よりピストルで暗殺された。
1910年6月1日、秋水は警察隊に捕まった。平沼騏一郎は、大逆事件でアナキストを大量に殺戮(さつりく)した。その功績が認められて、平沼は異例の大出世をとげてゆく。
平沼は、なんとしても大がかりな暗殺計画があったことにしたい。一大事件をフレームアップ(でっちあげ)して、社会主義者の血の雨を降らせる決意だった。
1911年1月18日、大逆事件の判決は、24人を死刑、残る2人は懲役11年と8年。そして、判決からわずか6日後の1月24日の午前7時10分、死刑が執行された。
450頁もの厚さの本に、一風変わった文体で、幸徳秋水の一生が語られていきます。読みやすくもあり、分かりにくいところもある伝記ですが、幸徳秋水の人柄は、よく伝わってくる本でした。
(2024年9月刊。3080円)

西南戦争

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 小川原 正道 、 出版 中公新書
 かの乃木希典(まれすけ)は西南戦争に参加(従軍)し、西郷率いる薩軍に連隊旗を奪われたことを終生恥ずかしく思っていたと聞きました。田原坂の激戦の最中に奪われた…。でも、事実は違うようです。
 乃木希典は当時27歳で、歩兵第十四連隊長心得。乃木の第十四連隊が連隊旗を奪われたのは田原坂の戦いの前、それより北側の木葉(このは)の戦いのときでした。乃木は乗馬を撃たれて落馬し、負傷しました。
 田原坂の戦いのとき、政府軍のなかに津田三蔵が金沢の第十七連隊にいました。来日したロシアの皇帝に切りかかって大問題となった巡査の津田三蔵です。
 田原坂を政府軍が陥落させたあとも激戦が続いており、植木での戦闘で、乃木は再び負傷しています。久留米に政府軍の病院があったので、乃木は久留米の病院で療養しています。
西南戦争は、明治10(1877)年2月から9月にかけての7ヶ月間たたかわれた、近代日本最大かつ日本史上最後の内戦。
 薩摩軍は鹿児島を出発するとき、1万3000人。九州各地から参加があり、また鹿児島県で徴募した兵士が加わって、総兵力は3万人をこえた。対する政府軍は6万人余り。
薩軍が上京を目ざすには大義名分が必要です。それは西郷隆盛の暗殺計画が発覚したので、それを政府に問い正すということ。しかし、それだけではちょっと足りないのではないか…。西郷も悩んだようです。しかし、結局、西郷は私学校党の面々を抑えることができなかったのです。
 すると、西郷隆盛が生きていることは絶対不可欠の条件だった。なので、西郷隆盛には常時、護衛が数十人単位でついていた。西郷隆盛は兵士や市民の前に顔を出すことはなく、ずっと奥のほうにいて、犬と一緒にウサギ狩りなどをしていたという。英雄を温存する、まさしく秘密主義に貫かれていたのでした。
 西郷隆盛と一緒に薩軍のトップにいた人のなかには、アメリカ帰りもいたのですね。そして、彼らは、政府を倒し刷新する必要があるとして薩軍に参加し、あたら生命を喪ったのでした。実にもったいない話です。
西南戦争が西郷隆盛の自刃で終了したあと、長崎に設けられた九州臨時裁判所で裁判が行われた。首謀者クラスは斬罪で22人、大隊長が懲役10年で31人などで、449人は無罪、そして4万349人は免罪となった。鹿児島県令だった大山綱良も斬罪となった。
 まだ西南戦争が終結する前の8月21日から11月末まで、東京の上野公園では第1回の内国勧業博覧会が開催されて、にぎわっていたのです。それほど、政府側には余裕があったとも考えられます。
そして、大久保利通は明治11年5月14日、紀尾井町で暗殺されてしまった。
西郷従道は隆盛の実弟でしたが、政府内に残り、元老(けんろう)の一人となった。大山厳も隆盛の従弟(イトコ)。
 明治22年に、西郷隆盛は名誉回復し、正三位を贈られた。民衆から希望を託される英雄を野に放ち続けておくのは明治政府にとって「体裁」が悪かったから…。
 上野公園に銅像が建立された。軍服姿ではなく、単衣(ひとえ)に脇差、犬を連れた姿の西郷像。
西南戦争をさっと通読できる手頃な新書です。
(2019年3月刊。820円+税)

西南戦争のリアル、田原坂

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 新泉社
 1877(明治10)年2月14日、西郷隆盛の率いる薩摩軍8万人が降りしきる雪のなか鹿児島を出発した。それから7カ月後の9月24日、鹿児島城山で西郷隆盛は自刃して西南戦争は終結した。
 政府軍は8万人、両軍あわせて13万人が正面から対決した。
 抜刀隊も活躍したが、小銃や大砲を主とする近代戦であり、1万4千人もの青壮年が命を落とした。使用された小銃は16種類以上、大砲も10種類以上があった。アメリカの南北戦争(シビル・ウォー)が終結したあとなので、あまった銃や大砲が日本に大量に入ってきた。
 おもに使われたスナイドル銃は後発施条銃。大砲は四斤(よんきん)山砲(さんぽう)や一三ドイム臼砲(きゅうほう)、二〇ドイム臼砲がおもに使用された。
 政府軍の使った戦費は4157万円、これは国家予算の7割に匹敵する。
乃木希典少佐の率いる一四連隊が薩摩軍に敗れ、軍旗を奪われてたうえに負傷したのは2月22日、23日の向坂の戦いであって、田原坂の戦いではない。
 田原坂の戦いは3月4日から20日まで17日間に及んだ。薩摩軍は、その前、熊本城を包囲して総攻撃したが、落とせず、持久戦となり、主力を北上させて田原坂で政府軍を迎え撃った。
 政府軍が熊本城にたどり着くコースは3本あった。南関から豊前街道で山鹿に至る山鹿口、高瀬(玉名市)から三池往還を木葉(このは)から田原坂に至る、高瀬から吉次往還で吉次峠に至る。山鹿路は坂があり、難路とされていた。同じく吉次峠も道幅の狭い、険しい難路だった。山鹿道と吉次峠越えは熊本まで数十ヶ所の難所があるのに対し、田原坂は田原坂さえ抜けば熊本城まで向坂の険が一つあるだけなので、政府軍は田原坂を目ざした。
 田原坂の戦いで、政府軍はのべ8万人を動員し、戦死者1700人、死傷者3000人を数えた。これは政府軍の全戦死者6843人の25%を占める。1日あたり、100人の戦死者を出した。対する薩摩軍のほうは記録がなく、配置換えもあって詳細は不明で、数千人規模と考えられている。田原坂が激戦となったのは、第一に地形があり、その二に薩摩軍の将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魄(きはく)があったことによる。
 田原坂の地形は、険しい坂道でトンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上守りやすく攻めがたい地勢。薩摩軍は私学校党の精鋭をここにそろえ、死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヶ所に築いた。
 「薩摩軍は重要地点に陣地を点々とおびただしく連ねて築き、互いに連携して戦い、死を賭して要所を占めている」
 政府軍の第二大隊第四中隊は164人いたのが18人へ激減し、もはや中隊の体をなさなかった。
田原坂の決戦では両軍の陣地がわずか20メートルの近さだった。薩摩軍の抜刀攻撃も効果を上げた。政府軍は射撃の名手35人で別働狙撃隊をつくって戦場に投入したが、1週間でほぼ全滅した。さらに東京警視庁抜刀隊を編成・投入して、ようやく戦況打開の糸口をつかんだ。
 薩摩軍は政府軍の士官を狙って指揮命令系統を遮断した。そこで士官は徽章(きしょう)を隠し、外套(がいとう)も下士のものを用いるようにした。
 このとき薩摩軍が苦手としたのは、一に雨、二に大砲、三に赤帽といわれる。17日間の戦いのうち6日間は雨が降り、最終日の20日は大雨だった。赤帽とは近衛兵のこと。士族出身者も多く、士気は高かった。田原坂の戦いをはじめ、西南戦争で大活躍したのに、戦後、相応の処遇を受けていないという不満が、後日、竹橋事件を起こすことになったのでした。
 私は田原坂に3回は行っています。資料館も見学しました。もちろん高台にあるわけですが、今も森のなかにありますので、現地に行って全貌を実感するのは、少し難しいところです。そこが広々として開けている関ヶ原古戦場と違います。大変リアルな田原坂の戦いの紹介記です。
(2021年12月刊。1760円)

鍋島閑叟と江藤新平

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 毛利 敏彦 、 出版 明治維新史研究会
 幕末のころ、佐賀藩は鉄製大砲の鋳造に成功し、長崎砲台に備え付けた。
 江戸幕府も品川の沖合に砲台をつくって大砲を並べることにした。それで、佐賀藩に200門を至急つくるよう注文した。一度に200門は無理なので、佐賀藩はまず50門を納入した。つまり、江戸湾品川台場に備え付けられた大砲は佐賀藩が製造した鉄製の大砲(アームストロング砲)だったのです。
 そして、明治維新を迎え、鍋島閑叟は岩倉具視とともに大納言になった。つまり、明治新政府は、岩倉・鍋島連立政権だった。
 この鍋島は岩倉と個人的にも親しく、岩倉は二人の子を鍋島に預けて教育してもらった。鍋島は長崎に宣教師のフルベッキに英語学校で教えてもらっていたので、岩倉の長男・次男も、そこで勉強している。
 ところが、鍋島閑叟は病気のため明治4(1871)年に58歳で亡くなった。
 このとき、葬儀委員長になったのは江藤新平。候補者のなかで身分は一番下だったのに、閑叟がもっとも信任していたことから選ばれたのでした。
 そして、岩倉も閑叟を通じて江藤新平を深く信頼していたのです。
 明治新政府で江藤新平は学校制度について、国民皆教育を打ち出し、また、初代司法卿として、行政と司法の分離、裁判所の設置、検事と弁護士制度の新設、さらには日本人の人権のための司法を目ざした。このような流れを大久保利通は江藤新平を抹殺することによっておし止めようとした。
 なーるほど、まったく知らない話のオンパレードでした。
(2005年9月刊。非売品)

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