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カテゴリー: 司法

続・獄窓記

カテゴリー:司法

著者:山本譲司、出版社:ポプラ社
 国会議員から囚人になった433日間の日々を綴った『獄窓記』から4年。
 これは本のオビに書かれているフレーズです。なるほど、そうでした。『獄窓記』は、私も読みましたが、胸うつ体験記でした。この本は、その続編として、前の『獄窓記』を書くに至る経緯と、その反響の大きさをかなり大胆に、あからさまに描いています。ただ、PFI刑務所を手放しで礼賛しているような記述は、本当にそうだろうかと私にはひっかかるものがありました。刑務所の民営化は、企業にとって(ゼネコンも動いています)単なるもうかる投資先が増えたということになってしまわないだろうか、と心配します。
 知的障害者は、決して苦しみや悲しみに無頓着なわけではない。他人からの冷笑・憐憫・無視あるいは健常者でない自分の存在、そのすべてを鋭敏に感じとっている。ところが、自らの思いを外に伝えることがきわめて苦手な人たちだ。結局、彼らは、悲哀や憤怒の気持ちを表現することもなく、何ごともじっと耐え忍んで生きている。きっと心の中では、もだえ苦しんでいるに違いない。
 いやあ、そういうことなんですか・・・。ここらあたりが実体験のない私には理解しづらいところです。
 そんな一人が、刑務所の一大イベントである観桜会のとき、いきなり『花』を高唱した。「泣きなさーい、笑いなーさーい」と歌いだした。そして、彼は、ボク、死ぬまでここで暮らしてもいい。外は怖いから、というのです。世の中に対して、恐怖心を抱いているわけです。はい、なんとなく、それって分かりますよね。
 日本のセーフティーネットは、非常に脆(もろ)い。毎日、たくさんの人たちが、福祉とつながることもなく、ネットからこぼれ落ちてしまっている。社会の中で居場所を失った人たちが、やっと司法という網に引っかかり、獄中で保護されている。これが日本社会の現実だ。いま、刑務所の一部が福祉施設の代替施設と化してしまっている。
 いえいえ、先日、拘置所でも同じだと聞きました。高齢のため、介護や福祉の対象となるべき人々が拘置所にまで押し寄せてきているので、職員は福祉・介護の勉強をしているというのです。強いもの、お金をもったものがまかり通る社会は、弱い者を拘置所・拘禁施設に追いやっているわけです。
 全受刑者のうち、その帰りを配偶者が待っていてくれる者は、1割でしかない。服役前に離縁したケースが3割、服役あるいは出所後の離婚も多い。ふむふむ、きっとそうだろうと、私も思います。
 著者は、早稲田大学を出て、26歳で東京都議会議員に当選。以後の4回の選挙はすべてトップ当選。蹉跌を味わうことのない人生だった。それが2001年6月、刑務所に入り、2002年8月に仮出所となった。
 服役中は、毎日、夜の訪れが楽しみだった。夢の中で妻子と会うことに、大きな期待と愉楽を覚えていた。実際、夢の中に妻や息子がひんぱんに現れた。ところが、出所したあとは違った。毎晩のように悪夢にうなされた。刑務所に連れ戻される夢など。そして、寝汗をかいた頭に浮かんでくるのは、かつての支援者たちの顔。その誰もが軽蔑にみちた眼で見ている・・・。
 なるほど、そういうことなんでしょうね。ここらあたりは体験者でないと分かりにくいところですね。
 国会議員のとき、霞ヶ関の官僚組織からは、日々、大量の情報が寄せられていた。ところが、今ふり返ってみると、国会は、かえって本質が見えにくい場所となっていた。たとえると、高速道路を走りながら、車外の光景を眺めていたようなもの。多くの見識を得たつもりになっていても、実は何も分かっていなかった。ところが、刑務所での生活は、「生」への実感があった。
 服役した直後、先輩の受刑者は著者にこうさとした。
 刑務所の中で生活していくうえでの、もっとも大事な心構えを教えてあげよう。それは、自分が人間であることを忘れること。それに、この世の中に『人権』という言葉があることを忘れることだ。
 うへーっ、そ、そうなんですか・・・。
 日本の警察の留置場は代用監獄と呼ばれている。今や、ダイヨーカンゴクとも呼ばれ、日本の司法の後進性を世界にアピールしている不明な存在だ。トルコやハンガリーでも同じような仕組みがあったが、人権侵害の恐れが高いということで、10年前に廃止された。うむむ、日本では、残念ながら、警察の留置場に最大23日間も入れられるというシステムは当分、変わりそうもありません。
 日本は、対「テロ」戦争の狂奔するアメリカなんかよりヨーロッパに学ぶべきところが多々ありますね。
 現在、3万人の新しい受刑者がいるなかで、その4人に1人は知的障害者と認定されるIQ70以下の人である。
 ええーっ、そうなんですか。それは知りませんでした。これでは、福祉の充実が必要なわけです。
 ところが、これらの知的障害者の多くは、ちょっと見では分からない。
 うーん、これは困りましたね。
 そして、刑務所から出た人の再犯率は5割をこえている。矯正教育というのは、口でいうほど簡単なものではない。やはり、社会がもっとあたたかく「前科者」を受け入れ、仕事と家庭を保障しなければいけないということです。目には目を、人を殺した奴は死刑にしろ、などという応報刑思想では社会の安全はたもてません。
(2008年2月刊。1600円+税)

よみがえれ少年院の少女たち

カテゴリー:司法

著者:中森孜郎、名執雅子、出版社:かもがわ出版
 この本を読むと素直な気持ちになって、すごく感動しました。少年院で、こんな素晴らしい人間教育が何十年にもわたって営々となされていることを知り、その地道な粘り強い努力に対して心から敬意を表したいと思います。人事院総裁章を受けたということですが、このような地道な取り組みは、もっと世の中に知られていいと思いました。知らなかったのは恐らく私だけではないと思いますので、ここで声を大にして紹介したいと思います。
 仙台市にある青葉女子学園では、24年間にわたって表現教育が続いている。朝日新聞の天声人語でも取り上げた(2007年1月6日)。
 女子少年院は、全国に9ヶ所ある。その一つである青葉女子学園では、毎年春になると、創作オペレッタの準備に取りかかる。これは、すべて手作りの音楽劇である。まず、教官が漢字1字のテーマを与える。2006年は「今」だった。これをもとに、20人の少女たちが手分けして脚本や歌をつくる。すごいですね、自分たちでイメージをふくらませていって、すべて手づくりです。
 少年院に収容された少年は、その多くが幼いころから家庭内や親子の間に葛藤があるなかで育ち、学校では学習につまづき、いじめや不登校の問題にさらされ、非行に至る。ようやく見つけた不良仲間との居場所も決して安定できる場所ではなく、人に対する信頼も、自分に対するプラスの評価もないまま、絶望的な気持ちで少年院に強制的に収容されてくる。とくに少女の場合は、性的な被害体験など、女子特有の傷つき方をしていて、心身ともに疲弊して入院してくることも多い。ちなみに、少年院に送られる割合は家庭裁判所の扱う少年保護事件のうち3%程度。
 少年院に来た少女たちに共通する3つの問題点は、第1に嫌なことでも我慢してやりとげることが苦手なこと(自己統制力の未熟さ)、第2にルールを守って生活したり、集団の中で自分の役割を責任もって果たすという姿勢に乏しい(規範意識の欠如)、第3に親や周囲から愛情を受けてきた実感に乏しく、人一倍受け入れてほしい、認めてほしいという気持ちが強い(愛情欲求不満の高さ)。
 このような少女たちが大人へ示す反応・行動は、何を訊いても「分からない」「別に」などの「拒否」、どんなことにもへ理屈や難くせをつけて受け入れない「反発」、受け入れてもらうための作り笑顔や必死の「迎合」、ときには自分に好意的に接してくれる大人を試すための「裏切り」。
 うむむ、なるほど、なーるほど、これってなかなか扱いが難しいですよね。
 問題は、そこで、どうするか、です。青葉女子学園では、創作オペレッタに取り組んでいます。このオペレッタは、題材自体を少女たちが創作するという特徴があります。そして、それに少年院の全員が何らかの形で関わるのです。テーマは、漢字一文字で指導者が設定します。
 翼、道、時、光、樹、河、風、旅、響、星、窓、緑、灯、橋、鏡、手、空、輝、今、声。これが今までのテーマです。うーん、な、なーるほど。
 脚本は、全部、手書き。あえてパソコンはつかわない。これは、自分たちでつくった作品であることを実感させるため。歌も少女たちが作詞・作曲する。これまでに20回で277曲の歌がつくられた。
 ひゃあ、すごい、すごーい、ですね。
 上演時間は40〜50分間。配役も背景(舞台)づくりも、みな少女たちがする。
 このほか、青葉女子学園では身体をほぐす体操、和太鼓、詩の朗読などにも取り組んでいます。「春を呼ぶ太鼓と朗読の会」を毎年3月、家族にも来てもらって開いています。
 青葉女子学園を退院した少女が出院したあと5年内に再び犯罪・非行をして収容された率は4.5%だそうです。すごいことです。大変な苦労が学園の内外にあると思いますが、ぜひ今後とも続けてほしいと思います。
 この本を、少年付添事件を担当する弁護士すべてに読んでほしいと思いました。
(2008年3月刊。2200円+税)

冤罪弁護士

カテゴリー:司法

著者:今村 核、出版社:旬報社
 弁護士歴16年の中堅弁護士が自分の手がけた冤罪事件を語っています。無実の人に対して裁判所が無罪を宣告するのがいかに大変なことか、いえ、裁判官の目を開かせて勇気をもって無罪判決を出させることがどんなに大変なことなのか、よーく伝わってくる本です。裁判官不信になってしまいそうな本でもあります。でも、先の名古屋高裁判決を出した勇気ある裁判官、そして私も知っている良心的な裁判官は何人もいます。となると、弁護士としては、いかに裁判官のもっている(眠れる)良心を呼び覚まし、事実と向きあわせ、力をふりしぼって無罪判決を書く気にさせる主張と立証、そして弁論の工夫が求められているということになります。
 第1のケースは仮眠者狙いの事件です。まったく無関係の地下鉄乗客が犯人として捕まりました。凶器注目効果という現象がある。これは、目撃者が犯人にナイフやピストルなどの凶器を示されると、その方に注意が行き、人の識別が困難となる。また、あるところで見た人物のイメージをまったく違う出来事と融合させてしまうことを無意識的転移という。
 写真面割台帳のつくり方には工夫がいる。英米では、写真面割ではなくラインアップが行われる。ラインアップの構成については、目撃者があらかじめ言語化していた特徴点(たとえば、やせて、背が高く、金髪の男)をすべて備えた人物だけでラインアップを構成しなければならない。写真面割台帳は、その点に配慮がなければ、公正とはいえない。
 やってもいない者が罪を認めて自白するはずがない。しかも、犯行状況を詳しく自白しているのだから犯人に決まっている。
 これは市民の常識ですよね。でもでも、虚偽自白は昔から数多くあります。なぜ犯人でもない人が虚偽の自白をするのか?
 心理学者は、死刑になるかもしれないというのは、あくまで将来の可能性にすぎず、現在の取り調べの苦しみと比べて、はるかに遠く感じられる。もし罪を犯していれば、死刑というのは生々しい現実感をもって迫ってくるが、無実の者には現実感がもてないものだと解説する。
 うむむ、な、なるほど、ですね・・・。しかし、自白は、自分に不利な嘘などつくはずがないという思い込みや、直観に訴える力などのため、過度に信頼されがちで、誤判の原因となる。
 痴漢冤罪が最近いくつも起きています。そのなかの一つは映画『それでもボクはやっていない』(周防正行監督)になりました。
 その一つに、被害にあった女性が「勃起した陰茎をお尻に押しつけられたことが暖かさで分かった」と供述したケースがありました。このときには、男性が陰茎に薬を注射して強制勃起させて実験し、「暖かさ」が分からないことを立証したといいます。このケースでは、そのため、幸い一審も二審も無罪となりました。それはそうですよね。その「暖かさ」なんて、肉体的なものではなく、単なる心情のレベルに過ぎませんよ。
 ところが、いくつかの無罪判決が出たあと、迷惑防止条例の法定刑は6月以下の懲役、60万円以下の罰金に引き上げられた。強制わいせつ罪による起訴も増え、検察官の求刑は重くなった。2000年夏以降、裁判所の無罪判決はなく、しかも判決が増えた。
 うひゃあ、もし、それが冤罪事件だったら、大変なことですよね。
 著者はいくつも無罪判決を獲得したようですが。私自身はこれまで35年間の弁護士生活のなかで2件しか経験がありません。そのうち1件は、公選法違反(戸別訪問罪)で、戸別訪問を禁止する公選法事態が違憲だから無罪とするというもので、明快な判断でした。残念なことに2審では逆転有罪となり、最高裁でも負けて有罪(罰金刑)が確定しました。
 もう1件は被害者の法廷での供述がくるくる変遷するので信用性がないということで無罪となりました。恐喝罪でしたが、一審で確定しました。
 裁判員裁判が始まったとき、市民をどれだけ説得できるか、弁護士の力量が一段と問われることになります。
 サボテンが一斉に純白の花を咲かせてくれました。数えてみると、11本もあります。細長いトランペット形をしていて、いつも南の空に向かって斜めに突き出して咲きます。サボテンの花が咲くと、身体中のあちこちに子サボテンをかかえるようになり、やがて親サボテンは枯れていきます。花を咲かせたらすぐ終わりではありませんが、やがて世代交代をしていくことを意味しています。今のサボテンたちは、少なくとも3代目です。
 縁側に、もらった鉢植えの朝顔を置いています。背が高くならないようにした朝顔です。毎朝、目のさめるような赤い花を次々に咲かせてくれます。夏の近さを感じます。
(2008年1月刊。1600円+税)

冤罪司法の砦、ある医師の挑戦

カテゴリー:司法

著者:石田文之祐、出版社:現代人文社
 贈収賄事件で有罪となった医師が司法制度を激しく弾劾した本です。
 日本の裁判は、とても裁判といえるものではない。少なくとも、欧米諸国がとっくの昔に到達した近代司法に遠く及ばない。これが著者の結論です。
 事件は、国立大学の医局を主宰する教授に対して著者の営む民間病院への医師派遣を要請し、その見返りに月10万円を医局に寄付したことが教授個人への贈収賄とされたというものです。教授は公務員であり、お金が動いたことには争いがありません。
 民間病院の理事長である著者は、あくまでも医局への寄付だったという認識(主張)です。最高裁は、法令上は根拠のない、医局に属する医師を派遣する行為は職務密接関連行為と認定して贈賄性ありとし、有罪にしました。これは、ロッキード事件で首相の行為を職務密接関連行為と認定したのと同じ論法です。
 これについて、医局医師の派遣行為にまで拡大することは、処罰範囲をいたずらに拡大するもので、罪刑法定主義に反する。土屋公献元日弁連会長はこのように批判しています。
 司法の世界は、まさに惨状であり、信じられない怠惰・蒙昧・不正義の世界だ。
 被告人が法廷でしゃべったことを裁判官は信用できない、虚偽だという。しかし、取調中の供述調書には、被告人の署名があるとはいえ、それはあくまでも検察官の作文であり、文責は検察官にある。もちろん、供述調書作成の共同作業者としての責任が被告人にもある。しかし、妥協や迎合も当然考えられてよい。しかも、長い勾留という異常な抑圧状態のもとで、まったく虚偽だと意識しつつも、署名捺印せざるをえないときもある。つまり、供述調書には、被疑者の供述がそのまま記述されてはいない。ところが、裁判官は、取調中の検察官作成の供述調書は信用できても、法廷での被告人本人の発言は信用できないという。なぜか?
 勾留42日間の中でとられた検察官調書を全面的に評価し、5年間、1人の被告人が誠実に、できる限り正確に、と心がけて公判で話したことを信用できないという裁判官とは、一体どんな人種だろう。彼らも日本人なのか?
 外国に比べてはるかに長い勾留は、日本の司法が人質司法と呼ばれる所以の一つだ。これは、適性手続に対する検察と裁判所の無知と無理解、法令無視か歪曲の結果であり、専門職としての責任感と使命感の欠如、すなわち堕落が原因だ。
 判決文を読めば分かるとおり、被告人が公判廷で述べることに裁判官は聞く耳をもたない。もっぱら供述調書に依存する。法令を守る頭脳と精神がない。
 著者は、取り調べを受けているとき、検察官に対して黙秘権はあるのかと質した。それに対する検察官の答えは、黙秘権はあるが、捜査に協力しないということになって、取り調べが長引くだけだ。というものだった。
 このような黙秘権を否定する検察官の発言を弁護人は無視した。裁判官も重大な憲法違反だと認識しなかった。この点、法曹三者は、みな一蓮托生のなれないだ。日本の司法は生きていない。
 検察と裁判所は、市民の厄介者でしかない。有罪と冤罪とのふり分けができないのであれば、厄介者以外の何者だというのか。市民の名誉を汚し、ウソを並べ立てて正義を台なしにし、市民の人生を破壊し、場合によっては汚名を着せて生命さえ奪っている。彼らを早く撲滅しなければならない。彼らこそ、人の世の悪の極みである。
 ここまで言われると、35年間、司法の世界で生きてきた私は身の縮む思いがします。なるほど、大いに反省すべきなのですが・・・。
 1日15分だけ認められる接見のとき、弁護人は、できるだけ本当のことをしゃべってくださいと言うのみだった。被疑者はできるだけ真実を言いたいが、検察官の思いこみと期待は、逆である。供述調書の作成作業は、まさに検察官と被疑者との闘いでもある。
 裁判官の有罪主義は、眼に見えないもっとも難儀な心の問題である。検察官に不利益な決定をすることは、一般的にいって、裁判官にかなりの勇気を必要とする。
 日本は、検察にとって、天国とも楽園とも言われる所以である。
 うむむ、法曹三者に対する厳しい指弾のオンパレードです。これで裁判員裁判になったら、どうなるのだろうかと、ちょっと論点はずれますが、つい心配になりました。
(2007年12月刊。1600円+税)

新司法試験合格者から学ぶ勉強法

カテゴリー:司法

著者:19年度合格者16人、出版社:法学書院
 新司法試験は、全4日(休憩日を入れると5日)の長丁場である。肉体的・精神的な疲労はかなりのもの。そこで、まずは長丁場の試験に耐えうるだけの体力、精神力が必要となる。
 新司法試験は苛酷な試験である。すべての試験が終わったとき、精魂尽き果てて、しばらくは席から立ち上がることもできなかった。この本試験に向けて、知力だけでなく、気力・体力が充実するよう、しっかり自己管理をしなければいけない。
 新司法試験は、4日間のうちに22.5時間もの長時間の着席を強いられる。
 新司法試験は、大変苛酷な試験である。毎日、長時間、問題を解かなくてはいけない。本当にきつい。新司法試験は、精神力も点数にかなり影響する試験である。試験前からストレスをためすぎたり、試験中に緊張しすぎたりして力を発揮できないということは避けなくてはいけない。ストレス解消法は重要だ。直前期は、異常なストレス状態になるし、試験当日のストレスと緊張具合は尋常ではない。
 うむむ、これはやはり大変な試験ですよね。
 新司法試験は、基本判例の事案をしっかりおさえたうえで、どのような事実に着目してその結果を導いたか、ということを勉強することが今まで以上に強く求められている。答案のスタイルとしては、このような基本判例があるが、その事案と比べて本件事案とは、ここが違う。もしくは同じである。また、このような特殊性もある。したがって、基本判例と違う結論、もしくは同じ結論になるという形で書けるのがベストである。なーるほど、ですね。
 新司法試験は、正しい方向で、一定量の努力を積み重ねた人が、高い確率で受かる試験だ。旧試験のときは、択一の点数がもちこされないこと、論文の総合点が低いことから、最後は、運の要素が強く、いわゆる合格順番待ちと言われる人が相当数存在した。新司法試験が択一の点数がもちこされ、論文の総合点も素点で800点と幅が大きく増えたので、旧司法試験に比べて、結果が順当な実力を反映する試験になった。
 法科大学院の授業では、法的な思考過程が訓練された。大量の判例を読むことは、問題点を素早く的確に理解することに役立った。期末試験は、論文試験の格好の訓練の場だった。
 私が35年前に受けた司法試験のときと同じく、我妻栄の教科書を基本書としてあげた受験生がいるのを知って、驚きました。さすがに『ダットサン』ではありませんでしたが・・・。私は『ダットサン』を6回読んで合格しました。また団藤の『刑法綱要』を一日で読み切れるようになったとき、合格しました。これと同じようなことを書いている合格者がいました。試験問題は変わっても、受験勉強のすすめ方のポイントは昔も今も変わらないという気がしてなりません。それは一言でいうと集中力です。集中して問題文に没頭し、基本的な定義をふまえたうえで、論点をおさえた文章を展開するということです。
 新司法試験合格者の質を心配する人は多いのですが、やる気さえあれば(他人とまじわるのが不得手だと困りますが)、弁護士として役に立つ存在になれると私は体験を通じて確信しています。
(2008年2月刊。1200円+税)

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