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カテゴリー: 司法

労働法はぼくらの味方!

カテゴリー:司法

著者 笹山 尚人、 出版 岩波ジュニア新書
 いやあ、実によくできたテキストです。若い人たち、パートで働き、派遣切りにあって泣いている人たちにぜひぜひ読んでほしいと思いました。ストーリーがあります。それ自体も無理なく読ませます。そして、労働法がすーっと入ってきて理解できます。若手というか中堅というべきか、弁護士による数多くの実体験に基づいた、労働基本権の解説がなされています。こんな分かりやすい本が書けるなんて、とても素晴らしいことです。
 ジュニア新書ということでひっかからず、大人も弁護士も読んでほしいと思います。弁護士にとっては、どうやったら難しい権利を何も知らない人に分かりやすく伝えるか、その見本がここにあります。
 ハンバーガーショップに高校2年生の真吾君がアルバイトを始めます。自給800円です。この店で正社員なのは店長だけで、あとは全員がアルバイト。ところが、身内の不幸があっても代わりの人が見つからないからアルバイトなのに休みがとれない。店のお金がなくなったら、アルバイトをふくめて全員の連帯責任として、給料から天引きで弁償させられる。店の売り上げ不振のため、賃金カットをする。
 ひどい話ですが、現実によくある話です。これって、みんな法律違反なのです。
 パートタイム労働者に労働条件を示すときには、第一に昇給の有無、第二に賞与の有無、第三に退職金の有無を明確に告知しなければいけない。
 うへーっ、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。ゴメンナサイ!
 そして、店長が労働法上の管理監督者にあたるかどうかも問題となります。例の、名ばかり店長という問題点です。
 そして、派遣と業務請負の違いも説明されています。要するに、仕事をしている現場での指揮を誰から受けるかによって違ってきます。今の世の中、あまりにも脱法行為が横行しすぎです。
 労働者の権利を守る上で決定的に大切なのは、労働組合です。残念なことに、日本の労働組合の力は悲しいほどありませんね。昔、総評という存在がありましたが、今の「連合」はほとんど力がありません。派遣切りの問題でも少し動いているという程度でしかないのがとても残念です。企業内組合の連合体から来る限界ということでしょうか。
 私は、若い人たちが労働者に入って、仲間と団体行動をともにして連帯感を深めつつ、少しずつ要求実現していくという日本になってほしいと心から願っています。
 
(2009年2月刊。780円+税)

アメリカ人が見た裁判員制度

カテゴリー:司法

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 平凡社新書
 陪審制度と裁判員制度を一緒にするのは、陪審制度に対していささか「失礼」なことだ。陪審制度は、個人を公権力から守る最後の砦である。これに対して、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度でしかない。
 ううむ、なるほど、そういう見方もあるのですか……。この本は日本の大学で教えているアメリカ人弁護士の書いた本です。
 日本の法律は、まず、お役所のためにある。アメリカ的考えによると、法律とは市民による市民のためのルールである。このルールにのっとって行動している限り、公権力の介入は受けないし、公権力が介入してきても、そのためのルールに従わなければならない。
 ところが、日本の法律は、まずは国民を公権力に屈服させるためにある。ふむふむ、なかなかに鋭い指摘です。
裁判官は事実を科学的に検証して究明するようなトレーニングは受けていない。重大なことは専門家に任せようという考えには、民主主義の終焉が内在している。
 陪審は、評決にあたって理由を示す必要はなく、評決の内容について責任を取らされることもない。この原則は、陪審にすごいパワーを与えている。それは、法律を無視するパワーだ。うーん、ズバリ、こう言われると、考えさせられます。
 裁判員制度についてのPRパンフレットには、裁判員があたかも裁判の「主役」であるかのように書かれている。しかし、実のところ与えられている権限や決定プロセスにおける影響力の度合からすると、裁判員は裁判官に服従する「脇役」になることしか期待されていない。
 裁判員裁判ははたして誰のためのものなのか? その答えは、裁判官のための制度である、ということになる。いま出来上がった裁判員裁判は、裁判官にとってかなり有利なものである。
 なぜなら、裁判員制度は、裁判に対する批判をなくすためにあるから。司法制度に対する批判回避が裁判員制度の一つの目論見である。裁判員制度は、司法が国民の威を最大限に借りながら、最小限の影響力しか国民に付与しない制度である。今までにあった司法制度への批判を排除しながら、今までどおりの裁判の「正しい」結果、つまり警察が逮捕して取り調べ、検察が確信を持って起訴した被告人が何らかの罰を受ける結果、を実現するための制度である。
 しかし、このように言ったからと言って、著者が裁判員制度に反対しているのではありません。むしろ、逆に、うまく機能してほしい、日本における国民の司法参加がシンボリックなものに終わらなければよいと考えているのです。
 法曹の中で、裁判員制度の行方について一番の決め手になるのは弁護士だろう。
 日本では、いったんお役所を敵に回せば、アメリカより怖い。それも、お役所が「悪い」からではなく、99%善意と良識のある人たちが「正しいこと」をやっているつもりだからこそ怖いのだ。
 うむむ、この本には日本の弁護士として耳の痛いことが満載です。でも、いよいよ5月から始まる裁判員制度について、単に「ぶっつぶせ」などと叫んでいるだけでなく、被告人との十分なコミュニケーションをとって、裁判員裁判の法廷で市民を強く惹きつける弁論をやりきらなければならない時代が到来したのです。すごく胸のワクワクしてくる時代に、いま、私たちは生きています。そう考えると、この世の中にも楽しいことがたくさんあることに気づかされます。
あさ、雨戸を開けると、ウグイスのさわやかな鳴き声がすぐ近くに聞こえます。軽やかな澄んだ声に春を感じます。黄水仙が庭のあちこちに鮮やかな黄色の花を咲かして眼が現れる思いです。
 隣家のハクモクレンが今を盛りにたくさんの純白の花を咲かせていて、あれ、これってどこかで似た光景を見たぞ、と思いました。そうです。ベルサイユ宮殿の鏡の間のシャンデリアをちょうどさかさまにしたような、あでやかさです。花にはいろんなものを連想させ、思い出させてくれる楽しみもあります。
(2008年11月刊。720円+税)

人を殺すとはどういうことか

カテゴリー:司法

著者 美達 大和、 出版 新潮社 
 大変重たいテーマを真正面から考えようとしている本です。いろいろ考えさせられました。
 著者は、2件の殺人を犯し(2人の男性を殺害した)、無期懲役刑に処せられ、長期LB級刑務所に収容されています。むしろ本人は死刑を望んでいたので、刑務所から出たいという希望は持っていないといいます。暴力団にも入った人間ではありますが、幼いころから大変賢くて、父親から将来を大いに嘱望されていたようです。この本に書かれている文章も理路整然としており、いかにも知的で、すごいなあという感想をもちました。
 長期刑務所というのは、残刑期が8年以上ある者が服役する刑務所のこと。罪が重く犯罪傾向がすすんでいるものはB級刑務所に収容されるが、そのなかでも長期の期間となるものを収容するものはLB級と呼ばれる。Lはロングのこと。LB級の刑務所は全国に5か所しかない。
 著者は、昭和34年生まれ。在日1世の父と日本人の母の間の一人っ子として、大事に育てられました。金融業を営んでいた父親は裕福であり、自宅には高級外車があり、小学校送迎用のキャデラックまで専属運転手がついていたそうです。そして、小学校時代からずっと成績優秀だったのです。ところが、高校を中退してから、営業関係の仕事をするようになり、21歳のときに金融業を始めました。
32歳で逮捕されるまで、著者は月に単行本を100~200冊、週刊誌を20誌、月刊誌を60~80誌も読んでいたそうです。いやあ、これには、さすがの私もまいりましたね。私も多読乱読ではちょっとひけをとらないと自負しているのですが、単行本は最高時で年に700冊、今は500冊程度ですし、週刊誌はゼロ、月刊誌となると10冊以下だと思います。やはり、上には上がいるものです。
 著者は、自分には男らしさが欠けていたことに法廷で初めて思い至ったのでした。
男らしさというのは、広い心で相手を思いやることや相手の立場や事情、権利を尊重し守るという寛大な精神と温かさが不可欠だった。
 受刑者が集まる場では、反省や悔いについて語るのは、自分をよく見せようとしているやつだ、おかしなやつだ、変人だ、というような空気がある。
 ううむ、なるほど、これではいかんな、いけないぞ、これって……、と思いました。そんな価値観を逆転してもらわないといけませんよね。
 人の生命を奪うということは、生命だけでなく、過去の記憶や未来の希望もすべて破壊しつくすということである。獄という字は、獣や犬がものを言うと書くが、実際に刑務所内に生活してみると、まさにそのとおりであった。正常な感覚を持っている人間は本当に少ない。
 前非を悔い、真っ当に生きようと模索している収容者は、ほんのわずかしかいない。残る大半は、自分の愚行にも人生にも一切の責任を見出すことなく、自分の生まれてきた幸運や運命に対して目を閉ざしたままである。終生、犯罪者として愧(は)じることもなく、社会に寄生していくことを受け入れている。
 受刑者には、もっと悔いたり反省したりしている人がいるだろうと思っていたが、実際に刑務所に入ってみると、そんな考えはまったく吹き飛ばされてしまった。
 受刑者は感情を失ったように無感動だったり、共感性がなかったりする人が大半である。大半の殺人犯は、ふだんはおとなしいが、倫理観については見事なほど欠落している。初めからない人、服役するうちに消えた人、悪い仲間に流され失った人、怒りの情動でそのときのみ喪失した人とさまざまだが、元来ないか、それに等しい状態である。
 LB級刑務所は、教育をまったく受け入れる余地のない受刑者がほとんどで、懲罰という意義も弱くなり、悪党ランドになっている。
 ここでは犯罪行為について雑多な情報が交換され、受刑者はいながらにして犯罪力の強化に努められる。正常な人がここでは異常とみなされ、良い子ぶりやがってと批判されるような大変なところである。
 うひゃあ、これはすごいですね。これが本当の実情だとしたら、刑務所の矯正教育なんて、まったく絵空事でしかありません。これって、昔から変わらないのでしょうか……。
 刑務所のなかの状況を改めて考えさせられる真面目な本でした。
 先日、仏検(準一級)に久しぶりに合格したことを報告しました。同じ封筒に口頭試問の結果(点数)が入っているのを見つけました。合格基準22点のところ、得点25点でした。やれやれ、です。いま『カルメン』を毎朝聴いています。カルメンとホセの恋物語をフランス語で聴いて、書いています。頭の中が若返ります。
(2009年2月刊。1400円+税)

弁護士ムッチーの事件簿

カテゴリー:司法

著者 宮田 睦奥雄、 出版 夢企画大地
 愛知県の春日井市に法律事務所を構えている弁護士による、取り扱った事件の顛末記です。大変面白く、また、大いに勉強にもなりました。
 春日井市には地方裁判所の支部はなく、簡易裁判所しかない。したがって、ほとんどの訴訟事件は名古屋まで出かけることになる。弁護士にとっては大変不便ではあるけれど、依頼者の身近にあり、敷居の低い事務所をめざして、あえてこの地に事務所を構えてもう25年になる。いやはや、これってたいしたものですよ。なかなか出来ることではありません。
 法律事務所「友の会」というのをつくった。会員になると、初回の法律相談は無料という特典が受け、会員数は500人をこえる。「友の会」は、コンサートや芝居、講演会、そしてハイキングや山登り、小旅行、ゴルフコンペなどもしている。そして、「友の会」会報を年に4回発行している。そこに宮田弁護士が「私の事件簿」を連載してきたもののなかから、今回の本ができあがった。すごいですね、大したものです。
 相続のとき、特別縁故者として相続財産をもらうため、本来の相続人に相続放棄をお願いしたという話も出てきます。すると、本来の相続人からこころよく「協力します」と言ってもらえたのでした。この話を私の所に来た相談者に紹介すると、目をまん丸くして「そんなことがあるのですか。信じられません」と目をむいて驚いていました。
 宣誓供述書という方式で重要証人の証言を残しておくという方法があることを思い出しました。公証人が供述書の作成者にその記載が真実であることを宣誓させたうえで、その供述書に根拠をあたえるもので、証拠保全の手段の一つです。私は、まだ使ったことがありません。
 読むと、ほんわか元気の出てくるあったかい本です。ムッチーこと宮田先生、これからも元気にがんばってください。
(2008年8月刊。2000円+税)

名もない顔もない司法

カテゴリー:司法

著者 ダニエル・H・フット、 出版 NTT出版
 はじめに出てくる椅子と靴の話が私にとって衝撃的でした。アメリカの最高裁法廷の写真をよく見ると、そこに並んでいる椅子は、その大きさと形が微妙に違っているのです。つまり、日本の最高裁の法廷(これは、私も2度、現物をこの目で見たことがあります)には同じ規格の椅子しかありません。もちろん高裁以下の地方裁判所でもこれは同じことです。ところが、アメリカでは裁判官が自分の好みで、好きなように高さも形も選べるのです。
 靴の話は、なんと、日本の最高裁判事は、専用車に乗るばかりで歩くことがまったくないので、10年間に買い求めた靴が一足だけだったという、とても信じられない話なのです。
 このように、日本の裁判所では、裁判官は名も顔もなく、誰が事件を担当しようと判決は均一であるという考えが根強い。
 日本の裁判所に対し、自民党がその政治的意向を直接伝えることは決してないが、最高裁の事務総局は自民党の政治的意向をよく理解している。事務総局は、配置転換や昇進の制度を用い、自民党の意向に従う裁判官に利益を与え、その意向に反する裁判官に不利益を与えることによって、自民党の無言の命令を実現する。その結果、この動機づけの枠組みが裁判官に対して政治的圧力をかけることになる。いや、まったく、そのとおりでしょう。最高裁はあれこれ弁明するでしょうが、事実その通りなのですから、動かし難い真実です。
 日本で弁護士が裁判官になりたがらない理由が、アメリカとの比較で明らかにされています。
日本の裁判官は目立たない態度を取ることが期待され、実際にも目立たない。アメリカでは裁判官は人の注目をあびる職業である。裁判官が目立ち、一般市民がそれを認めていることが、アメリカの裁判官に与えられている栄誉を日本よりも実体のあるものにしている。これに対して、アメリカでは大規模な法律事務所に属する弁護士は、巨大なマシンの歯車の一つにすぎない。弁護士は、上司やほかの弁護士から常に監視されている。そして、アメリカの弁護士はノルマを常に意識し、報酬請求時間についてのプレッシャーを常に受けている。アメリカの弁護士は、仕事の態度や服装に至るまで監視され、年単位で評価されている。
 ところが、アメリカの裁判官は、自分以外に上司のいない自由な立場にある。ふむふむ、なるほどですね。
同じように、日本の弁護士は大きな自由を持っている。これに対して、日本の裁判官は巨大な組織の一員である。裁判官は年次評定され、それが昇進、配転などで大きな意味を持っている。日本の裁判官の自由は、日本の弁護士と比べて制約されている。うむむ、そうなんですよね。
下級裁判官の再任審査に国民の意思を反映させる手続が出来たといっても、その透明性が実現されているとは言いにくい。
この点は、私も少しばかり関与していますので、まったく同感だと声を大にして叫びたいと思います。裁判所はいまだに法曹三者と一部の「有力市民」の声を聞けば十分という考えであり、ユーザーである市民の声を広く聞こうという姿勢がきわめて弱いのが実情です。
たとえば、どの裁判官が毎年ある再任審査の対象になったかという基本的な事実さえ裁判所は一般公開していません。裁判所の再任を希望したのに拒否されてしまったら、それはプライバシー保護の対象として明らかにすべきではないというのがその理由です。とんでもない言い分です。私は、裁判所や弁護士会のホームページにおいて、10年ごとの再任審査対象となった裁判官の氏名と所属裁判所、おもな判決の要旨が公開されるべきだと考えています。
 再任審査にあたっての議事録も簡単すぎて、誰が何と言ったのかもわかりません。なぜ、その裁判官が再任を拒否されたのかも分かりません。これでは、裁判に対する国民の信頼が高まるはずもありません。
アメリカでは毎年500万人のアメリカ人が陪審員選任のために呼び出されて裁判員にやってくる。そのうち100万人が実際に陪審員として選任される。これに対して、裁判員裁判では、日本人の最大3万人ほどが裁判員として関与するのみ。これでは少なすぎる。ううむ、そ、そうなんですけど……。
裁判員裁判について、こんなわずらわしい手続に読んでほしくない、人を裁きたくない、嫌だという人が少なくありません。でも、民主主義というのは面倒なことから逃げたらいけないということでしょ。昔は選挙権だって、フツーの市民にはなかったのです。バカな市民に選挙権なんか与えたら、とんでもない国会議員が生まれてメチャクチャな政治がおこなわれることになる、そう言って反対した人たちがいました。
国の主人公として、さばく立場に立つことは権利でもあり義務でもあるのです。どうぞみなさん、ぜひぜひ裁判員としての呼び出し状がきたら、なんとしても裁判所に来て下さいね。そして、市民感覚を裁判に活かしてください。論理に強い裁判官も、事実には弱いのです。裁判員裁判はぜひ成功させたいと思います。
(2007年1月刊。1800円+税)

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