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カテゴリー: 司法

裁判員制度と報道

カテゴリー:司法

著者 土屋 美明、 出版 花伝社
 ジャーナリストの立場で、一貫して裁判員制度に関わってきた著者が、自戒の念をこめて報道の在り方について整理し問題提起しています。次々と出版していく著者のバイタリティーには改めて感銘を受けました。
 国民が司法に参加する意味は主として三つある。第一に、国民の間に主権者としての意識が育っていくこと。第二に、自ら犯罪を裁くという体験を通じて国民に法的な意識が高まることが期待できること。第三に、これまでプロの法曹によって動かされてきた司法に国民の常識・感覚が生かされ、司法が国民に身近な存在に変わること。
 アメリカの新聞社では、経営権と編集権は区別され、経営者は編集に口出しできない慣行がある。しかし、日本では編集権は経営権に従属している。取締役会など、経営管理者の意向に従わなければならない構造ができている。それで、日本には自由なジャーナリストとしての職業観が育たず、また、現場記者の発言権が弱い状況を生み出している。
 日本には、EUから強く廃止を求められている記者クラブという制度があり、その結果、日本の新聞はどれをを読んでも変わり映えのしない記事が載っていて、画一性が強すぎる。記者クラブも最近は、かなり開放度がすすんだとは思いますが…。
 そして、メディア・スクラム(集団的過熱取材)という現象がある。大きな事件や事故が起きると、その当事者や関係者のもとへ多数のメディアが殺到し、それらの人々のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう。そうなんです。しかも、一過性の集中豪雨型の報道です。後追いの報道がサッパリありません。
 アメリカには、国民の中に、刑事裁判は常に正しいとは限らず、不公正なものでもあり得るという一種の皮膚感覚がある。アメリカの陪審制度は、国家権力は時に市民的自由を侵す危険性があるという裁判への不信感を背景にもっている。では、日本では、どうか?
 マスコミは、事件についての加害者報道に関し、前科・前歴は抑制的に扱う、事件や疑惑との極めて密接な関連性、読者の理解に不可欠で報道すべき特段の事情がある、必要最小限度の範囲という条件を課している。
 具体的には、情報の出所を示す。弁護側への取材につとめ、その言い分を報道し、できるだけ対等な報道を心がける。被疑者・弁護側の言い分を安易に批判・弾劾しない。しかし、弁護士のなかにも、情報提供に消極的な姿勢を見せる人がかなりいる。ただ、これには法律改正によって、開示証拠の目的外使用を処罰する規定が置かれたことも影響している。
 著者は、メディアも『真相解明幻想』から卒業することを提唱しています。
刑事事件の捜査・裁判は、刑事訴訟法のルールに従い、その限りで被疑者・被告人の犯行を立証する手続にすぎない。刑事裁判には、もともと限界がある。捜査当局による真相解明に期待しすぎると、かえって検察主導の司法を容認することになりかねない。かといって、裁判官の訴訟指揮による真相解明を期待するのも、被告人の起訴事実の有無を判断するという刑事訴訟法本来の趣旨から少し外れてしまう。真相解明は、刑事事件の法廷とは別の場で行うものと考えるべきではないか。
 著者の最後の指摘が私には強く印象に残りました。ともあれ、マスコミ報道の洪水のなかで、市民参加型の裁判員裁判がやがて実際にスタートします。私は、ぜひ成功させ、刑事手続きの画期的改善につなげていきたいと考えています。たとえば、被疑者段階の取り調べ過程を全部、録画するのです。これによって、弁護人は無用の争点にしばられることが少なくなると思います。司法改革が全面的改悪だというのは、いくらなんでも大げさすぎると私は考えています。
(2009年5月刊。2000円+税)

平和的生存権と生存権がつながる日

カテゴリー:司法

著者 毛利 正道、 出版 合同出版
 著者は私と同世代の長野の弁護士です。平和運動に挺身し、ブログなどでも積極的に情報を発信しています。そんな著者の熱意にこたえたいと思って、この本を紹介します。
 2008年4月17日。名古屋高等裁判所が自衛隊のイラク派兵を憲法違反だと断罪したとき、その法廷に著者は代理人席ではなく、当事者としていたのです。さぞかし感動・感激の一瞬だったろうと思います。
 名古屋高裁判決の画期的な意義が、著者自身の言葉で実に分かりやすく語られています。著者の父は寺の住職でしたが、応召して中国戦線に軍曹として従軍しました。しかし、帰国してからは「何人もの人を死なせてきた」というくらいで、ほとんど戦争の実像を語らなかったようです。それだけ重い荷物だったのでしょう。
 いま、子どもたちが18歳になると、自衛隊への入隊を勧誘するハガキがどっと送られてくる。就職難ですから、自衛隊にでも入ろうかと思う子どもも多いようです。
 一般の自衛隊員の自殺率は38.6(10万人あたりの自殺者数)であり、イラク帰還自衛隊員の自殺率は、その2.2倍となっている。自衛隊員の自殺率は、男性公務員の1.3倍、アメリカ兵の3.1倍である。
 アメリカでは自殺率は意外に低いが、実数で見ると年間3万人なので、日本と同じ自殺者数となっている。ちなみに、アメリカには肥満が原因による死者が年間40万人もいる。アメリカで肥満は貧困の象徴なのである。
 名古屋高裁判決は次のような憲法判断を示しました。
 現在、イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は、政府と同じ憲法解釈に立ち、イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止したイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反し、かつ、憲法9条1項に違反する活動を含んでいる。そうなんです。まったく、そのとおりです。そして、原告になった人々について、次のように温かい目で見ています。
 そこに込められた切実な思いは、平和憲法下の日本国民として共感すべき部分が多く含まれているということができ、決して間接民主制下における政治的敗者の個人的な憤慨、不快感または挫折感等にすぎないなどと評価されるべきものではない。
 著者は、この判決の価値として、立法行政府の重要施策に正面から司法判断を加えたことにあるとしていますが、まったく同感です。これまで三権分立という建前が、ほとんど生かされることのない司法の消極的な姿勢は、なんのために司法があるのかという疑問を広く抱かせてきましたが、名古屋高裁判決は、それを大きく打ち破ったのです。
 そして、この判断は、単なる「傍論」だとして軽んじていけないことは言うまでもありません。当時の福田康夫首相の談話は、根本的に間違っています。
 クレジット・サラ金被害者の九州ブロック交流集会が長崎でありましたので出かけてきました。この集会は、年に一回、「しっかり学び、元気に生きよう」をモットーとして、九州各県をまわりながら開かれていますが、今年で22回目です。初めのころは50人ほどのこじんまりした集会でしたが、いまでは300人もの人が参加する大集会となっています。長崎氏の田上市長が来賓挨拶してくれました。
 長崎の原弁護士は、これまでの2回の長崎集会では現地実行委員会の中心人物としてになってきてくれましたが、今回は弁護士会長として来賓挨拶をしました。
 パネルディスカッションのなかで、五島市の消費相談の課長さんたちのDVDが紹介され、女装までしての寸劇が演じられました。その熱演ぶりは大受けでした。
 懇親会のとき、久しぶりに堀江ひとみさんにお会いしました。前の長崎集会のときには、ういういしい市会議員としての参加でしたが、今回はたくましさを感じる堂々たる県会議員としての参加です。その活躍ぶりは新聞でもよく拝見していました。美人のほまれ高い堀江さんに再会できたうれしさから、思わず2度も握手を求めてしまいました。
 
(2009年3月刊。1500円+税)

国策捜査

カテゴリー:司法

著者 青木 理、 出版 金曜日
 特捜検察が捜査に乗り出して世を騒がせた事件を「国策捜査」と冷笑的に評することが珍しくなくなってきた。
 今も多くの人は特捜検察に「巨悪摘発」の期待を寄せ、新聞やテレビをはじめとする大手メディアも、その捜査に喝采を浴びせる。その結果、特捜検察による捜査は「絶対正義」かのような装いをまとい、冷静な分析・批判はかき消されがちだ。しかし、その捜査も内実を一皮めくってみれば、実のところ矛盾と不公平が渦を巻いている。
 近年の裁判は、検察捜査をただ追認するだけだ。検察の動きを冷静に分析し報道してチェック機能の一端を果たすべきメディアの惨状は語るまでもない。もともと捜査当局べったりの習性に染まった日本の大手メディアは、特捜検察が動き出すや否や、その尻馬に乗ってターゲットを一方的に糾弾し、ときに狂乱ともいえるような報道を繰り広げ、世論を煽る。
 宗像紀夫氏(元東京地検特捜部長)は、次のように書いている。
 「犯罪捜査は、もちろん人格的に優れた、そして十分な経験を積んだものが行うべき仕事だと思われるが、現実にはそうではない。経験も浅く、人を説得する十分な技術もない者が、ただ相手を怒鳴りつけて力で相手をねじ伏せるというケースも少なくない。参考人を調べるときも、逮捕できるんだと脅して捜査官側の意向にそう供述を求め、体験もしていない、記憶に反する内容の調書が作成されたという報告もしばしば聞かれる。嘆かわしいことだ」
 結局、供述調書というのは捜査側の作った作文である。それを読んでいる限りは非常につじつまが合う、すきのないものになっている。キレイに書いた作文は、素直に頭に入ってくる。
 検察は嘘をつかないが、被告人は嘘をつくと考えるのが、現在の刑事司法である。
 弁護人が取り調べ中に会えるのは、一日に何分間というようなわずかな時間でしかない。そのときに無味乾燥な事件の話しかできない。ところが、検事のほうは朝から晩まで連日、取り調べしてさまざま話をする。外界と遮断された人間は、近くにいる人間にだんだんと情が移っていくものだ。すると、検事の方が自分の良き理解者のように思えてくるようになる。これも取り調べのテクニックの一つなのである。
 日本の刑事司法の問題点を「国策捜査」の被害にあったと訴える有名人の人たちの体験談をもとにしていますので、その真偽はともかくとしても、訴える力があり、共感を呼びます。
 秋田に行ってきました。
 夕方、川反という一番の夜の街を歩きました。よさそうな郷土料理店がないかなと思いながらぐるっと回ったのです。夜が早かったせいもあるのでしょうか、あまり人通りもなく、客引きの男女が目立ちます。
 一件の小料理店の玄関の雰囲気が良かったので、ついふらふらと入りました。テーブルに座って料理を注文すると、なんだか前にきたことのある店のような気がします。メニューに書かれている店の名前に見覚えがあります。美味しい秋田料理をいくつも単品で注文しました。
 ハタハタのすしは絶品でした。そして、ガッコです。こりこりとした歯ごたえがあり、塩味もほどほどで下になじみます。そうです。やっぱりここは、20年以上も前に秋田の弁護士に連れられて入った有名な店でした。ホテルに帰ってガイドブックを見てみると、そこにもちゃんと載っていました。店の名前は「お多福」と言います。偶然の一致でした。 
(2008年5月刊。1500円+税)

民事訴訟・執行・破産の近現代史

カテゴリー:司法

著者 園尾 隆司、 出版 弘文堂
 本書は、法律実務家(現職の裁判官)による法律実務家(とりわけ弁護士)のための日本近現代民事法制史である。
 著者が冒頭にこのように喝破していますが、まさにそのとおりです。ほとんど類書はないと思いますし、何より体系的な法制史であり、また、いま活動している私たちの実務にも大いに役立つ内容となっています。私など、いやあ、そういうことだったのかと、何度もうなずいてしまったことでした。
 アメリカに留学した経験があり、最高裁の事務総局に在職中に何回となく民事関連の立法に関与した著者ならではの豊富な経験に裏打ちされていますので、とても実践的な内容です。この本に書かれていることの一部が判例タイムズで連載されていましたが、それはほんの一部でしかなく、全体を知るためには、この本は必読文献です。
 日本法制史で近現代を語るためには、明治から出発することはできません。江戸時代の法制度は明治時代にしっかりと生きており、それが今日なお尾を引いているのです。私も、江戸時代の法制史を少しだけですが勉強したことがありますので、その点は実感としてよく分かります。江戸時代の法制度というのは、信じられないことかもしれませんが、今の日本にも生きている部分があるのです。著者は次のように言っています。
 明治初期の裁判を理解するには、まず、江戸時代の裁判がどうであったかを知る必要がある。江戸時代の裁判についての正確な知識は、明治以降の裁判手続を理解する上で不可欠なのである。
 江戸時代の裁判制度そして裁判手続は完成度の高いものであったため、明治政府は明治初めには徳川幕府の法令をそのまま借用して国家統治を図っていた。明治政府が新しく法体系を整備をしたあとも、現在に至るまで、江戸時代の法制度と裁判手続は、さまざまな形で影響を及ぼしつづけている。
 江戸時代には、困難・重要事件は、幕府評定所の評議によって決定しており、評定所は将軍の直轄機関であるがために、最高位の意思決定をすることができた。裁判機関の最終判断は、他の行政機関の判断に優先した。
 ところが、明治政府においては、裁判機関の判断が他の行政機関の判断に優先することはなかった。そこで、明治政府は、江戸時代の判例を法源として認めながら、明治以降の判例には法源としての効力を認めなかった。
 静岡県にある徳川幕府による葵文庫を引き継いだ国書館には、2100冊の洋書がある。そのうち、もっとも多いのはフランス語の本、次いで、オランダ語の本、その次が英語の本である。
 ええーっ、なんでフランス語が断トツに多いんでしょうか。オー、ラ、ラーです。不思議ですし、フランス語を勉強している身としてはうれしい限りです。
 明治はじめまで、司法省の西欧情報はフランスに偏っていた。
江戸時代の民事訴訟は、刑事訴訟と区別されておらず、同一の手続で運営されていた。訴訟手続きでは刑事訴訟は優位であり、民事訴訟の過程で刑罰に触れる事実が出てくると、職権で刑事訴訟に移行する。
 明治政府(司法省)は、明治8年、勧解制度を創設した。訴訟になる前に勧解(和解、つまり話し合い)を推奨した。その結果、明治10年には申立件数が年間60万件を超えた。明治16年には、なんと100万件を超えてしまった。ところが、明治19年に勧解吏が創設されると、急激に減り、明治23年には年30万件台となった。いやあ、それにしても、当時の人口(3300万人くらいでしょうか?)を考えても信じられないほどの多さですね。
 資料篇を除いた本分だけでも310頁もあり、微に入り細をうがった内容であり、とても為になる法制史となっています。ただ、私にはいくつかの点でひっかかりましたので、次にそれを紹介します。
まず、村役人については、藩の指名によると断言されています。私も最近まで当然そうだろうと思っていましたが、村役人については、全国的にも公選制であったところが多いようです。
 江戸の庶民が訴訟好きだったかという点について、著者は「軽々に結論付けることはできない」として、消極に解しているように思われます。しかし、私は日本人は十七条憲法の昔から、案外、訴訟好きだったのではないかなと、35年以上の弁護士経験を通じても実感しています。著者の文献目録には登場していませんが、『世事見聞録』などを読むと、それがよく伝わってきます。少なくとも、昔から日本人は裁判が嫌いだったという俗説は成り立たないことを認めてほしかったと思いました。そして、この関係では、あとで佐賀の乱を起こして刑死させられた江藤新平が、国家賠償請求訴訟を認めたことから行政訴訟が増えたということも聞いていますので、その点についても触れてほしかったと思います。明治政府は裁判件数が急増したことへの対処策として、貼用印紙額を大幅に引き上げたといいます。裁判の原告になるには、多額の印紙をはらなくてはいけないことが今の日本で訴訟を抑制することになっていると思います。
分散(今の自己破産)の濫用があったかどうかについても、著者は「考えにくい」としています。しかし、井原西鶴の本に紹介されているような濫用事例は、やはりあったのではないかと私は現代における体験もふまえて、考えています。
 いずれにしても、大変な力作です。明日の実務にすぐに役立つ本ではありませんが、実務をすすめる上で、考えるヒントが満載の本だということは間違いありません。少々、値は張りますが、大いに一読の価値のある本です。
 日曜日に梅の実ちぎりをしました。紅梅の方にはまったく見が付いていませんでしたが、白梅はたくさん緑みどりした実がなっていました。一つ一つ手でもいでいったのですが、緑葉の陰に隠れるようにしていますので、取りこぼしがあったかもれません。たちまち小さなザル一杯になりました。あとで数えてみると、60個もありました。これで梅ジュースを作ります。たっぷりのハチミツにつけると、美味しいジュースになります。
 隣にスモークツリーが輝くばかりの赤い葉と花をつけています。フワフワとしていて、まるで煙というかもや(スモーク)が木にかかったようです。
 ヤマボウシが白い花をつけ、新緑の中に存在を誇示しています。
(2009年4月刊。6000円+税)

ロイヤー・メンタリング

カテゴリー:司法

著者 マラン・ダーショウィッツ、 出版 日本評論社
 ハーバード・ロースクールの現役の教授ですが、なんと28歳で終身的地位を持つ教授に就任したというのです。もちろん、これは同校始まって以来、最年少です。
 同時に、数々の著名人の弁護人としても活躍しています。誘拐されたあと自らもテロリストになったパトリシア・ハースト、ジャンク・ボンド王マイケル・ミルケン、キリスト教テレビ伝道者ジミー・バッカー、元ヘビー・ウェイト級ボクシング・チャンピオンのマイク・タイソン、元フットボール・スターのO・J・シンプソンなどです。
 弁護士活動の半分は、プロ・ボノ活動を実践しているそうですから、本当に大したものです。
 著者は、アンビュランス・チェイサー(救急車の追っかけ弁護士)は、決して悪いことはないとしています。私も、なるほど、そうなのかと、反省させられました。
 保険会社に有利な和解を成立させるために救急車を追いかけている保険会社の査定係と渡り合う一般の弁護士が嫌われる合理的な理由はない。むしろ、彼らは、一般市民が大企業と対等に戦うため、不公平な土俵を平にする役目を果たしている。
 そして、弁護士が広告を出して「訴訟を煽っている」と世間が非難するのもおかしいと批判します。
 訴訟が増えることは大企業にとってはよくないことかもしれないが、社会にとっては良いこと、とりわけ力のないものが力のあるものに対して訴訟するのは良いことだ。
 訴訟が多いことを非難するのは、金持ち、権力者、他人を搾取する者にとっては非難に値するものであっても、貧乏人や権力を持たないもの、被害者にとっては不利になる。
 このような非難は、訴訟が多くなることによって失うものが多い企業が組織したものである。
 ふむふむ、なるほど、なるほど、たしかにそう言えますよね。
 著者は、アメリカの裁判官に対しても大変きびしい見方をしています。アメリカでは、裁判官が今ある地位につけたのは、政党政治にうまく関わって来たからだ。
 ゴアとブッシュの選挙で、連邦最高裁の裁判官はゴアに勝たせたくないために、判例をねじまげた。
 古くは、ナチスによるユダヤ人虐殺の事実を告げられたユダヤ人のフランクフルター判事は、ルーズベルトにとても信用してもらえそうもない報告をして、自分の信用に傷がつくのを恐れて、真実を告げるのを拒んだ。うーん、そういうことがあったのですか……。
 アメリカの裁判官も、より高い地位に昇りたいと考えている。ほとんどの裁判官は、政党や政治家に忠誠をつくすことで裁判官になる。裁判官というのは、そもそも政治的な存在である。なーるほど、そうなんですね。
 弁護士についてのアドバイスも、とてもシビアです。
 誰にでも好かれるケーキのような弁護士になってはいけない。対峙主義の制度で働く弁護士であるにもかかわらず、もし誰からも好かれるというときには、その弁護士のしていることは、どこかが間違っている。
 弁護士は、仕事を愛しすぎてはいけないし、法律を愛してもいけない。法律は道具であり、仕組みであり、知識の集合体にすぎないからである。
 一流の法廷弁護士のほとんどが、一流のロースクールの卒業生ではない。事件は、準備段階で勝ち負けが決まる。一生懸命に働く以外にはないのだ。
 この本で、アメリカでは被告人に証言させないことが原則だという理由をはじめて理解できました。陪審員が、被告人の証言が信用できるかどうかばかりに気をとられて、他の証言の信用性の検討がおろそかになってしまうからだというわけです。これまた、なるほどと思いました。
 大変、実践的に勉強になる本でした。とりわけ若手弁護士の皆さんに一読することを強くお勧めします。
 
(2008年1月刊。1900円+税)

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