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カテゴリー: 人間

単純な脳、複雑な「私」

カテゴリー:人間

著者 池谷 裕二、 出版 朝日出版社
 日本の高校で、高校生相手に話をした内容が本になっていますので、大変分かりやすく、しかも興味深い内容が満載です。うへーっ、脳って、こういうものなんだ。人間って、こういう存在だったのか……、と目からウロコの数々です。さあ、読んでみましょう。
 人間は、長時間接しているほど好きになってくる。これは脳の性質による。社内結婚が多いのは、そのため。何度も会っていると、もうそれだけで好きになってしまう性質が脳にある。なーるほど、ですね。だましの手口として、足しげく通っているうちに、甘い話に断りきれなくさせるというのがあります。
 恋愛関係にあるのか自信がないとき、周囲から反対されると、緊張してドキドキしてしまう。ところが、このドキドキ感を脳は相手がより魅力的なのだからこうなるんだと間違ってラベルづけしてしまい、どんどん好きになっていく。うむむ、だから本心で反対したいときには、表面上は反対せずに放っておいたほうがいいのですね。
 直感は意外と正しい。というのは、直感は学習、つまり本人の努力の賜物(たまもの)だから。直感は訓練によって身につく。経験に裏付けられていない勘は、直感ではない。
 大人になっても、成長する脳部位が2つある。一つは前頭葉で、もう一つは基底核である。直感は、年齢とともに成長していくのである。
 記憶というのは、覚えていると意識できること、「これは私が覚えている内容」というものばかりではなく、もう一つのタイプもある。
 たくわえた情報は、それ単体で思い出されるのではなく、そこに付帯された情報によって影響を受け、記憶そのものがすり替わってしまう。つまり、人間の記憶というのは都合よく捻じ曲げられてしまうものなのだ。情報は、きちんと保管され、正確に読み出されるというより、記憶は積極的に再構築されるものなのである。とりわけ、思い出すときに再構築される。
 記憶は、生まれては変わり、生まれては変わる。この行程を繰り返して行って、どんどんと変化していく。だから、「見た」という感覚というものは、怪しいものでしかない。そうなんですよね。私も、大学時代、紛争の最前線にいたことは間違いないのですが、たとえば寮食堂で開かれていた代議員大会が全共闘の集団に襲われたとき、寮食堂の中に代議員としていて襲われたのか、外にいて救援活動をしていたのか、今なお自分の体験が思い出せません。今のところ、内側にいて襲われたことにしているのですが……。ちなみにこのとき、かの有名な舛添要一大臣は中にいて、10人の代表団のメンバーに立候補したのですが見事に落選しました。これは記録が残っていますので間違いありません。彼は当時から右翼的行動をしていて、学生のなかに支持を集めることができませんでした。
 感情と行動はどちらが変えやすいか。既成事実を変えるのは大変だが、心の方は容易に変えられる。だから、脳は感情を行動に整合するよう変化させてしまう。
 むひょう。そうなんですね。そんなことまでするのですか……。
 脳は、現に起きてしまった行動や状態を、自分に納得のいくような形で、うまく理由づけして説明してしまう。現状に合わせて都合よく説明するのが脳の働きである。ええっ……。
 人間って生き物は、主観経験の原因や根拠を無意識のうちにいつも探索している。ぼくらは本当は自分が道化師にすぎないことを知らないまま生活している。根拠もないくせに妙に自分の信念に自信をもって生きている。
 脳は、ノイズから生まれる秩序をエネルギー源として用いているため、外部供給として必要なエネルギー量はわずか1日400キロカロリーで済む。電力量に換算すると、20ワットという驚くべき少量のエネルギーである。
 脳、そして人間を知り、考えさせられる本です。
 
(2009年6月刊。1700円+税)

「流れる臓器」血液の科学

カテゴリー:人間

著者 中竹 俊彦、 出版 講談社ブルーバック新書
 血液は体外に置くと15分間以内に自然に凝固する。出血を最小限に食い止める防御能力である。
 赤血球には細胞内に核や顆粒がなく、自然に変形することができる。
 血小板は、いち早く損なわれた場所を見つけ出し、多数の血小板が集まってケガの表面を覆って、出血を防ぐ。血液が自然に固まる現象(凝固)と、出血が止まる現象(止血)とは、似ているけれど異なるもの。止血は、血小板の働きによる。凝固とは、血漿に含まれる多くの凝固因子がいくつもの反応段階を滝のように下って進むメカニズムである。
 ヒトの血液量(重さ)は、体重の7.7%。私のように体重が65キロある人間では、5キロもの血液が体内を循環していることになります。重さからすると、最大級の臓器であり、まさに「流れる臓器」といえる。
 心臓は握りこぶしほどの大きさであり、一回の振動で80グラム(ミリットル)の血液を送り出す。コーヒーカップ半分ほどの量である。しかし、これを1分間に72回も繰り返しているから、1時間で5.5リットル、1日にすると8千リットル、つまり8トンにもなる。こんな動きを平均80年間も休みなく続けられるポンプを人間は今も作ることが出来ない。人間の身体中の血液は1分間ですべて入れ替わっている。
 首の長いキリンは、最高血圧は200~300ミリもある。キリンの首の付け根にワンダーネットという血管の塊があり、一時的にそこに血液をためて血圧が高まるのを防いでいる。
 人間は汗をかくことが唯一の積極的な体温冷却法である。そのため、水分が不足した状態が続くと十分に放熱できず、ついには熱射病となって意識を失い、倒れてしまう。
 血液中の脂肪分は、タンパク質のカプセルに入った状態(リポタンパク)で循環しているので、脂肪分のために血液がベタベタになることはない。サラサラとかドロドロとか言う言葉は、広告宣伝のための無理な表現にすぎない。
 健康な血流も、液体として見ると、もともと自力では血管内を流れることのできないほど、ドロリとしている。むしろ、サラサラ流れたら、そっちのほうがよほど不健康な状態である。
 血液型の自己申告は、医療現場ではまったくあてにしていない。
 血液型性格判断は、全くのウソであり、それに科学的な根拠のないことはすでに十二分に明らかになっている。A型とかAB型とかで一喜一憂する必要などないと、つくづく思います。まあ、スナックなどで場を持たせるための話題にはなるのでしょうが。
 コレステロールは、なくてはならない大切な栄養素である。いくつかのホルモンの原料になるし、細胞膜の重要な成分でもある。そして、コレステロール値が低すぎると、うつ病になりやすく、むしろ脳卒中やガンのリスクが増えて死亡率が高くなる傾向にある。実は、先日の人間ドッグでコレステロール値が高いという指摘を受けました。あまり心配ないことのようで、安心しました。
 
(2009年2月刊。820円+税)

ゆびさきの宇宙

カテゴリー:人間

著者 生井 久美子、 出版 岩波書店
 表紙裏に書かれている文章を紹介します。
 目が見えず、耳も聞こえない。ヘレン・ケラーと同じような障害をもつ東大教授・福島 智。羽をもがれるようにして、光と音を失って育つ。3歳で目に異常が見つかり、4歳で右眼を摘出。9歳で左の視力も失う。14歳で右耳、そして18歳ですべての音も奪われ、盲ろう者となる。
 無音漆黒の世界にたった一人。地球からひきはがされ、果てしない宇宙に放り出されたような孤独と不安。それを救ったのが母の考案した指点字と指点字通訳の実践だった。盲ろう者として初めて大学に進学。いくつものバリアを突破してきた。そして、恋も結婚も……。でも、生きること自体が戦いだ。
 いやはや、すさまじい戦いです。私など、ついつい尻ごみしたくなるような障害に、ユーモアたっぷりに挑戦してきたひとがいるのです。人間の能力に限界ってないんだな。心の底から、そのことを確信させてくれる、いつのまにか元気の湧き出る本です。最近ちょっとくたびれたな。そんなときのあなたにぴったりの本です。
さあ、頁をひらいてみましょう。堅苦しさを感じたり、息詰まる思いをさせることのほとんどない本です。ああ、本当に大変な人だな。それでも、なんだ、私なんかとちっとも変らないんだな。そんな思いにしばしば駆られます。
 指点字とは、6つの点で表す点字の仕組みを応用して、盲ろう者の両手の人さし指、中指、薬指の計6本の指先の手の甲側に指先でポンポンと打つもの。本のうしろに図解もありますが、馴れるまでは大変そうです。
 盲ろうの人は、世界に人口1万人に1人の割合以上はいる。日本にも2万人ほどいると推定されている。盲ろうは、感覚器における全身性障害である。盲ろうは、限りなく情報が削り取られた状態である。盲ろう者は、内部で戦場体験をしている。
 弱視のときには、もっと視力が落ちるかもしれない、そのストレスを感じる。しかし、全盲になったら、これ以上悪くなりようがないと心が安定して、明るい人間になる。
 そういうものなんですかね、人間って……。
 自殺を考えたことはない。あわてなくても、いずれ、みんな死ぬんだから。
 いやあ、すごい達観です。これを、まさしく悟りを開いた境地というのでしょうね。
 夫婦げんかも指点字でする。妻は指点字で夫に不満をぶつける。夫は口で言い返す。しかも、口八丁。白を黒と言いくるめることだってできる。妻は泣きながら指点字で応戦する。しかし、その声は夫には聞こえない。指がもつれる。もつれると夫は読みとれなくなり、お互いにイライラして感情的になる。
 うひゃあ、夫婦げんかも手をつなぎながらやるのですね。すごいですよ。
 福島智は、2005年3月、適応障害と診断された。25年間の盲ろうという極限状態のストレスの蓄積からだ。なるほど、そうなんですね。フツーの人だからなったのですね。
 福島が右手をほおに当てるロダンの考える人のポーズをとるときには、誰も僕に指点字を打つなというサインだ。通訳を受けていても、オレが発言するんだというときには、指を丸めて他者の発言を受け付けないポーズをする。
 福島の公式の場での次のスピーチは、笑わせます。こんなことを堂々と言えるなんて、いやはや、なんともたいしたものです。
 9歳で失明し、18歳で聴力を失って、全盲ろうになった。9年ごとに何かを失って……。27歳でビールの飲み過ぎで腹が出てスマートさを、36歳で髪が薄くなってきて若さを失って。でも、45歳で博士号を得て、これからは何かを得ていく人生になるのかなと思っている……。
 福島は、2001年に東大教授となった。2008年5月、学術博士号をとった。福島研究室は、駒場の東大第二キャンパス3号館の5階にある。
 福島が文献の引用箇所を決めるには、全体を読まなくてはいけない。点字は、斜め読み、速読、ざっと内容を掴むことができない。パソコンも一度に一行しか指では読めない。
 点字と指点字をつかう福島にとって、指は目であり耳。過酷な作業のため、腱鞘炎に苦しんだ。うむむ、大変なんですね。速読、いのち。そんな私には、とても想像すらできません。
 障害者の問題は、社会の本当の豊かさの実態を示すショーウィンドウである。
 まさにそのとおりだと思います。
 
 先週は大雨となり、カラ梅雨にはならなかったようです。雨上がりの朝、ウグイスが澄んだ音色の鳴き声を響かせてくれます。もう一種の小鳥は、さらに甲高く清澄な歌をさえずってくれるのです。オオルリかなと思うのですがはっきりしません。
 アガパンサスの青い花にマルハナバチが頭からもぐりこみ、丸くお尻を見せるのがとてもかわいらしいんです。同じようにグラジオラスの花にも頭を突っ込んでいます。
(2009年4月刊。1800円+税)

老後も進化する脳

カテゴリー:人間

著者 リータ・レーヴィ・モンタルチーニ、 出版 朝日新聞出版
 著者はなんと、1909年生まれ。ええっ、100歳ではありませんか。はじめ目を疑いました。ムッソリーニの反ユダヤ人政策のためにタリアを脱出し、ベルギーそしてアメリカに渡って研究を続けた脳神経の研究家(女性)です。1986年に、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。そして、2001年からはイタリア上院の終身議員なのです。
 そんな著者の紡ぎ出す言葉ですから、千釣の重みがあります。
人生でもっとも恐るべき悲哀の時期と見なされている老年期を、いかにして生涯でもっとも晴れやかな、それまでに劣らず実り多き時期にするのか。
人生ゲームに賭けられたものは大きい。人生ゲームにおいて最大の価値をもつ札とは、自らの知的・心理的活動を巧みに運用する能力であり、それは一生、ことに老年期において一層ものを言うようになる。
 理屈では、人類のすべての個体にその切り札が備わっていることになるのだが、それを活用できる条件に恵まれているのは、ほんのわずかな人々にすぎない。
 人は、60歳、また70歳を超すと、毎年10万単位で脳細胞を失っていると考えられる。この莫大な損失は、老年期の創造的活動などとうてい不可能と考えたくなるほど、ドラマチックに感じられるかもしれない。しかし、脳を構成する神経細胞数がどれほど天文学的数字であるかを思えば、実は、たいした数ではない。すなわち、人間の脳は年齢(とし)をとるにしたがって、一部のニューロンを失い、生化学的に変質するのは事実である。しかし、それにもかかわらず、その変化は多くの個体において、認識能力や想像力の減退をほとんどもたらさない。
 人間には死の自覚がある。しかし、それにもちゃんとした対抗手段が存在する。私たちには、とてつもない脳の能力があることを自覚すればいいのだ。この能力は、他の器官とは異なり、いくら使い続けても消耗しない。それどころか、さらに強化され、それまでの人生を営んできた活動の渦の中では発揮しそびれた素質を改めて輝かせてくれるのである。
 還暦の年齢になり、この10年間をいかに充実したものにするか真剣に考えている私ですが、この本に出会って、脳こそ疲れを知らず、消耗することもなく、絶えず発展していける存在であることを改めて認識し、自信を持って次に足を踏み出すことができそうです。
 蛇(じゃ)踊りを体験しました。見ていると感嘆そうですが、やってみると意外に難しいことがわかりました。
 解説によると、龍の尻尾がぴくぴくと動いているのは、龍がいらついていることをあらわしているとのこと。龍の身体がくねくね回るとき、こんがらがらないようにする秘訣があるのですね。
 トランペットよりずい分と細長いチャルメラは、物悲しげな甲高い音をたて、ジャランジャランと銅鑼が叩かれるなか、龍が玉を求めてくねくねと踊るのは勇壮なものです。いい体験をさせてもらいました。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

動的平衡

カテゴリー:人間

著者 福岡 伸一、 出版 木楽舎
 各紙の書評で取り上げられ、注目していた本です。うむむ、なるほど、そうなのか……。うんうん、唸りながら読みました。期待にたがわず、実に面白い、というか興味深い本です。人間って、いったいどういう存在なんだろう、と悩んでいるひとに、特におすすめします。
 食べて、寝て、排泄して、人間の身体なんて、まるで管(くだ)みたいなものじゃないか。そんな疑問を持っているひとには、その悩みを解決するヒントが盛りだくさんの本です。
 生命現象は、絶え間ない分子の交換の上に成り立っている。つまり、動的な分子の平衡状態の上に、生物は存在している。
 食べ物にふくまれる分子が、またたく間に身体の構成部分となり、また次の瞬間には、それは身体の外へ抜け出していく。そのような分子の流れこそが生きていることなのだ。
 ヒトの身体を構成している分子は、次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは脳細胞といえども例外ではない。記憶物質なんていうものは脳には存在しえない。分子レベルで記憶する物質的基盤は、脳のどこにもない。あるのは、絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体としてゆるい秩序を持つ分子の「淀み」である。
 人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、想起した瞬間に作り出されている何ものか、なのである。つまり、過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。
 タンパク質の新陳代謝速度が体内時計の秒針なのである。そして人間の新陳代謝速度は、加齢とともに確実に遅くなる。体内時計は徐々にゆっくりと回る。しかし、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気づかない。タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間は、いつでも同じスピードで過ぎていく。つまり、年をとると一年が早く過ぎるのは、「分母が大きくなるから」ではない。実際の時間の経過に、自分の生命の回転速度がついていけないということなのだ。
 うむむ、なんだか、なんだか、小難しくてよく分かりません。でも、また、なんとなく分かる気もしてくる指摘なのです。
 生命体は、口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する。これが消化である。タンパク質は、消化酵素によって、その構成単位、つまりアミノ酸まで分解されてから吸収される。タンパク質はアミノ酸にまで分解され、アミノ酸だけが特別な輸送機構によって消化管壁を通過し、初めて「体内」に入る。体内にはいったアミノ酸は、血流に乗って全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなたんぱく質に再合成され、新たな情報=意味を紡ぎ出す。
このように、生命活動とはアミノ酸というアルファベットによる不断の並べ替え(アナグラム)であるといってよい。
私たちが食べたものは、口から入って胃や腸に達するが、この時点では、まだ本当の意味では体内に入ったわけではない。まだ、身体の「外側」にある。体内にいつ入るかというと、消化管内で消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったとき。
 食べ物とは、エネルギー源であるというより、むしろ情報源なのである。だから、身体の中の特定のたんぱく質を補うために、外部の特定のタンパク質を摂取するというのは、まったく無意味な行為なのである。
 消化管内は、食べた食品タンパク質と、これを解体しようとする消化酵素が、ほぼ等量、グシャグシャに混じり合ったカオス状態にある。そして、消化酵素もまたタンパク質なので、最終的に消化酵素は消化酵素自身も消化し、アミノ酸になる。それらは、再び消化管壁から吸収される。消化管内でひとたびアミノ酸にまで分解されると、それはもともと食品タンパク質だったのか、消化酵素だったのか見分けはつかない。つまり、人間は食べ物とともに、自分自身をも食べているのだ。
 ふむふむ、難しい生命の神秘が、実に分かりやすく(でしょうね)解き明かされています。読んで絶対に損をすることはない本だと私も思いました。
 
(2009年3月刊。1524円+税)

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