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カテゴリー: 中国

流(りゅう)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者  東山 彰良 、 出版  講談社
 著者は台湾に生まれ、9歳のときから日本に移り住んでいます。
 著者が台湾で生まれたとき、私は大学2年生で、東京にいました。大学紛争に突入した年のことです。
 この本の主人公は、著者よりひとまわり上の世代、すなわち父親の歩みを追っています。
 1975年4月、蒋介石総統がなくなったとき、主人公は高等中学校(日本の高校です)の2年生、17歳だった。
 反共教育を学校で徹底してたたき込まれていたから、共産党は殲滅すべき憎き悪であり、毛沢東の頭には角が生えていると信じこんでいた。
 そして、主人公の祖父がある日、無惨な姿で殺されているのが発見された。物盗りより強盗殺人は考えられず、顔見知りによる犯行説が浮上した。なぜ祖父は殺されたのか。いったい祖父は戦前、どこで何をしていたのか、それが次第に明らかにされていきます。
主人公は軍隊に入らなくてすむよう画策しますが、ついに軍隊に入ります。
 規律や愛国心、厳しい上下関係をたたき込むために、陸軍軍官学校では先輩による後輩いびりが日常的に行われていた。この学校で学ぶのは、絶対服従の精神、ともにいじめを耐え抜いた仲間たちに対する連帯感と帰属意識だ。
 そして、次の世代へと受け継がれるのは、怒りの鉾先を何の恨みもない人たちへとすりかえる、その巧みな自己欺瞞である。進級したら、次は、後輩をいたぶる側にまわる。
日本の防衛大学校でも、実は、ここに書かれているのと同じ理不尽ないじめが確固たる伝統として根付いているそうです。防大のいじめ裁判を担当した弁護士から教えてもらいました。もし、それが本当なら、防衛大学校なんかに私の身内は絶対に行かせたくありません。
 主人公は、腹にめりこむ軍靴や容赦ない平手打ち、えんえんと終わらない腕立て伏せに辟易してしまったことから、半年で自主退学することにした。
なんたる人生のムダづかい。とてもじゃないけれど、耐えられなかった。
今も徴兵制のある韓国では、同じように考えている若者と親世代が多いようですが、なかなか徴兵制は廃止されません。残念です。徴兵制って、柔軟な思考力を型にはめ、自分の頭で考えないように訓練するというのですから、国の発展力がそがれてしまいますよね。
 そして、祖父のいた中国大陸へ主人公は出かけていき、そこで終戦直後に何が起きていたのかを知り、殺人事件の真相にたどり着くのでした。
 圧倒的な筆力によって、ぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。さすが全員一致で直木賞を受賞しただけはある本です。中国大陸の国共内戦、そして台湾独立後の国民党支配に至って、それが安定するまでの歴史状況をふまえた推理小説というべきものでしょうか・・・。
(2015年7月刊。1600円+税)

中国国境・熱戦の跡を歩く

カテゴリー:中国

著者  石井 明 、 出版  岩波書店
 中国が周辺諸国と戦闘した、その現場を足で歩いて調べた貴重な本です。
 1949年、国共内戦の最終段階、中国共産党は台湾解放の準備を急いだ。劉少奇は台湾解放を楽観視していたが、毛沢東のほうは、それほど楽観視してはいなかった。
 実際には、1949年10月に始まった国共内戦では、金門島に向かった人民解放軍9000は全滅した。4000名が戦死し、5000名が捕虜となった。
 この金門島の戦闘については、日本軍の元将校が国民党軍を指導していたようです。
今や、台湾と中国大陸は平和的な共存関係の確立を模索している。
 朝鮮戦争が始まったのは1950年6月25日。中国軍が人民志願軍として参戦したのは、同年10月25日から。そして、1951年4月、中国人民志願軍は、第五次戦役を発動した。ところが、中国軍60軍180師団は壊滅状態になった。全師団1万人のうち7000人を失い、5000人が捕虜となった。60軍をふくむ第三兵団は失踪者1万5000人を出し、あとの停戦交渉で中国軍捕虜の帰還問題が大きな問題となった。
このとき、アメリカ軍は、中国人民志願軍は1週間分の食糧を背負って攻勢をかけてくると読んでいた。そこで、志願軍に付きまとって離れず、志願軍得意の不意打ちなどの運動戦にもち込むのを防ぐ戦術をとって中国軍を圧倒した。
 1969年3月、中国は珍宝島地区でソ連に向けて戦いを起こした。人民解放軍は緻密な事前の準備のうえで、「自衛反撃戦」に出た。
 毛沢東が対外的な危機をつくり出して、中国人民の気持ちを外敵に向けさせて一つに団結させ、そのエネルギーを対内的な政治目標の達成に向けて、方向づける政治手法が認められる。
毛沢東は「反ソ」をつかって、文化大革命による混乱を収拾し、国内の支持を取りつけようとした。中国全土でのデモと抗議集会への参加者は4億人をこえた。これは中国史上、例のない大規模なものだった。「反ソ」の高まりのなかで、「団結の大会」、「勝利の大会」を演出する必要があった。
 長らくアメリカの主要敵とみなしてきた中国には、新たな脅威であるソ連と二正面作戦を戦う力はない。そのため、その後、中国はソ連に対抗するため、アメリカに接近していった。
アメリカのベトナム侵略戦争のとき、中国はベトナムに支援部隊を送っていた。のべ32万人。最多時には17万人を送っていた。高射砲部隊、鉄道建設、通信線の敷設等の任務を担った。中国兵の死者も1100人ほどいた。
 そして、中国は1979年2月、22万5000の戦闘部隊でベトナムに攻め込んだ。10年戦争の始まりだった。中国軍は、1万人以上が戦死した。中国軍に作戦指導の誤りがあった。
 1990年9月、江沢民総書記とグエン・バン・リン書記長が密かに会談し、関係の正常化が図られた。
中国での国共内戦と朝鮮半島での朝鮮戦争の二つは、今なお、最終的に終結していない。
そこで、著者は、この二つの戦争を終結させるために平和を回復したことを確認する二つの平和協定を結ぶことが必要だと提言しています。なるほど、と思いました。
中国という国がどのような国であるか、歴史的にかつ地理的に解明した貴重な基本的文献だと思います。
(2014年8月刊。2400円+税)

人民解放軍と中国政治

カテゴリー:中国

著者  林 載桓 、 出版  名古屋大学出版会
 中国の文化大革命と中国軍(人民解放軍)との関わりについて、大変興味深い分析がなされていて感嘆しながら読みすすめていきました。
毛沢東の最大の目的は、通常の独裁者と同じく権力の維持、つまり政治的存続だった。死ぬまで「挑戦不可能な権威」として毛沢東は君臨し続けたが、かといって国内外に競争相手のいない安泰な状況が保証されていたわけでもない。毛沢東は意思決定過程への支配力を保持することに格別の注意を払っていた。
 毛沢東は、権力の維持とともに、あるいは、それを通じて中国社会の全面的変革を図ろうとした。
 毛沢東は過度な抑圧によって大衆を政治から遊離させることを決して望ましく思わなかった。単なる服従ではなく、社会の積極的な協力にもとづいた統治を好んでいた。スターリン流のテロと人殺しは、毛沢東にとって、あくまで最後の手段だった。
 1969年に発生した中国とソ連の武力衝突、珍宝島事件は、中国側の周到な「仕掛け」の結果だった。対外的に「適切な」危機をつくり出し、国内動員の挺子にしようとする毛沢東の政治的意図が色濃く反映されていた。
 戦備体制の構築の大前提として、各地で派閥闘争の即刻の解消、とりわけ「武闘」の無条件停止が求められ、同時に軍内部の団結、軍政団結、軍民団結の強化が強く訴えられていた。なかでも、駐留部隊に対する大衆団体の攻撃・批判の厳禁、違反行為に対する厳しい処分が強調された。
 文化大革命による社会の混乱を収拾するため、中国とソ連の「武力衝突」が利用されたというのです・・・。
 林彪勢力の組織基盤の強化には、毛沢東が直接に関与していた。そして、林彪勢力が政権を簒奪する「陰謀」を企図していたとか、その影響力が「膨脹」していたという実態は疑わしい。では、なぜ、林彪は排除されなければならなかったのか・・・?
 毛沢東の林彪勢力への攻勢は、現に実在する脅威を対象としたというよりは、将来の情勢変化に対する一種の予防策としての性格を帯びていた。林彪事件は、独裁者による後継者の否定に、その本質がある。
林彪の突然の死は、毛沢東にしてもほとんど予期できなかった出来事だった。毛沢東は、林彪を「消滅」させようとまでは思っていなかった。
 この林彪事件のもたらした衝撃により、毛沢東は、国政全般で一定の妥協を迫られた。毛沢東は林彪を「極左」ではなく「極右」批判とした。「極左」批判の高まりが文革の全面否定につながることを恐れたのだろう。
毛沢東は、人民解放軍を自らのイデオロギーの宣伝と実践に忠実な組織にすべく、直接の軍統制を妨げる制度的、人格的爽雑物を取り除くことに細心の注意を払ってきた。それは、制度的には、軍を党の党勢から切り離すことを意味し、その過程で党と軍にまたがる、あるいは国家と軍をつなぐ制度的立場にあった多くの軍幹部が犠牲になった。前者の典型は羅瑞卿であり、後者は楊成武である。
 1973年12月の八大軍区司令員の相互移動は、政治における解放軍の影響力の縮小を最大の課題としていた。同時に、毛沢東は鄧小平の政治局と中央軍委入りの、総参謀長への任命を公表した。
 1975年に、省指導部における軍人の割合は一気に20%台へ減少した。
1979年2月から3月までの中国のベトナム侵攻作戦は中国軍の惨敗で終了した。
 中越戦争は、大規模な軍事動員とは対照的に、国内ではほとんど宣伝されず、およそ秘密裏に行われた戦争だった。人民解放軍(中国軍)は、適切な戦術を通じて、大規模な兵力を運用できなかった。
 ランソンをめぐる戦闘では、ベトナムの一個連隊が中国側の2個軍を相手に1週間も抗戦に成功している。中国軍は、とても効率的な作戦が行える状態ではなかった。その原因は、解放軍による統治活動の長期化にあった。
 鄧小平は、それにもかかわらず、権力の維持と強化に成功した。それは、対ベトナム戦争の遂行を軍改革の「プロセス」のなかに明確に位置づけることに成功したからである。
 中国軍を毛沢東は思うように操っていたこと、しかし同時に必ずしも思うようには中国軍が動かなかったことが明らかにされています。複雑・怪奇な中国政治の断面を鋭く分析している本として、中国軍と文化大革命との関わりに関心のある人には強く一読をおすすめします。
(2014年11月刊。5500円+税)

日本人の値段

カテゴリー:中国

著者  谷崎 光 、 出版  小学館
 日本人の技術者が中国へ数千人ほど渡って、中国企業で技術指導している実情をレポートしている本です。
 韓国では年俸5000万円というように高給だけど、スキルと情報だけを取り出したら日本人技術者は、使い捨てされる。これに対して、中国は、もう少し長いスパンで見る。
 中国企業で働く日本人の車のエンジニアで年俸3600万円(200万元)という人は少なくない。多いのは2700万円(150万元)ほど。ただし、これに加えて、高級マンションが用意され、通訳と送迎がつく。年に数回の日本への帰国費用も会社が負担する。
 設計図や断面図を見て、ここで問題が発生すると分かるようになるまでには何十年もかかる。成功体験は意味がなく、不具合をどれだけ経験しているかが、エンジニアのレベルを決める。こういう技術者を中国企業は求めているのです。
 日本人は、みんなで力をあわせて開発することにはバツグンに強い。
日本のエンジニアは、信頼性に命をかけている。中国人の安全意識は極端に低い。車の品質由来による日常の事故は、圧倒的に中国産の車が多い。
 中国の金持ちは、中国の純国産車には乗らない。国家のリーダーの乗る国産高級車(紅旗)も、エンジンとトランスミッションは日本製である。外観は中国製だが、中身は日本製というのは、北京の地下鉄や高速鉄道のように、けっこう多い。ちなみに、日本車では、日産のほうがトヨタより人気があり、売上げも多い。
 中国で高級車に乗っているのは、一党独裁を最大限に利用して、大バクチを打って巨額のお金をつかんだ人々である。中国の金持ちは、日本車の客に合わせたような従順な感じを嫌う。だから日本車は選ばない。
 中国の会社は、どこでも全部門に不正のチームがはりめぐらされている。
 中国のあらゆる組織、あらゆるお金とモノとサービスが動くところ、不正のないところはない。低価格の部品へのすり替え、製品の横流し、処分品の横領、仕入れ先からのバックマージンなど以外に、サービスセンターなら修理費のごまかし、製品の消耗品の転売、おまけの販売など、さまざまな手口がある。
 日本の企業には、必ず基礎研究と開発研究の両方がある。これに対して、中国の研究所は、買ってきたものをバラして単に設計する場所でしかない。
 ところが、家電のような身近なものでも、分解して研究し、そのまま再現できるかというと、そうではない。同じものを安定した品質で何万個もつくるのは難しい。開発は、技術のない中国には、不可能なのである。そこで、技術者の引き抜きに走る。一番安上がりである。
 技術とは、設計図や一つの工程の特殊な作業だけではなく、総合力が必要であり、それが生産技術なのだ。日本は、これが強い。
 中国へ進出している日本企業は、2012年時点で1万4000社以上。
 中国の企業にいる日本人技術者は3000人以上。そして、中国からの日本人技術者への求人は増える一方なのである。
 中国で暮らしていると、モノの品質の良し悪しを決めるのは、最後は素材だということが、良く分かる。優秀な部品をつくる素材の基礎技術は買えない。
 日本人技術者は、相手に合わせて、うまく調節できるから、中国企業から非常に評判がいい。柔軟な日本人は、実はタフなのかもしれない。
 日本の中小企業は、たしかに中国から撤退している。しかし、大企業は引くに引けない。日系の企業数は減っているが、一社あたりの社員数は増えている。
 中国において日本人技術者がひっぱりだこだという実情を知ると同時に、その理由も分かりました。いろいろ勉強になる本です。
(2014年12月刊。1300円+税)
 東京は有楽町の映画館で「ミルカ」をみてきました。2時間半の長大作ですが、映像にひきずり込まれ、あっという間でした。
 インド映画につきものの歌と踊りはほとんどありません。どうやら監督が嫌いのようです。
 1960年のローマオリンピック。陸上競技400メートル。インド代表のミルカはトップを走っていたのに、ゴール寸前で後ろを振り返ったため、4位になってしまった。なぜ、うしろを振り返ったのか。その謎が映画の進行とともに解明されていきます。
 ミルカは、ミーク教徒です。頭の上で、長く伸びる髪を丸くまとめているのが、ちょんまげのようでユーモラスです。日本にもミーク教徒が2000人ほどいて、寺院も東京と神戸にあるとのこと。
 インドからパキスタンが分離・独立したときの悲劇がかかわっています。
 ミルカの子ども時代の少年も可愛いらしいのですが、大人のミルカ役はなんと本職は高名な映画監督だというのです。その鍛え抜かれた肉体美には圧倒されます。
 人生を考えるうえで参考になる映画でもあり、大いに一見に値しますので、機会があればぜひご覧ください。

台湾現代史

カテゴリー:中国

著者  何 義麟  、 出版  平凡社
 事件は1947年2月末から3月中旬にかけて起こりました。日本の敗戦により日本の台湾統治が終了した後に、中国本土から国民党の蒋介石軍がわたってきたことによります。国民党が中国本土で共産党軍に敗退して大挙渡来し、台湾を支配しはじめたのです。
 ヤミ煙草の取り締まり中に起きた発砲事件をきっかけとする反国民党政府勢力による政治暴動が台湾全島に広がった。
 政府側は、はじめこそ交渉をすすめる姿勢だったが、大陸からの増援部隊が到着すると、台湾人に対する無差別虐殺をふくむ過酷な弾圧を行い、抵抗を完全に鎮圧した。
 2.28事件の犠牲者は1万8000人から2万8000人の間にのぼるとみられるが、10万人という説もある。しかし、問題の核心は犠牲者の多くが台湾人の有能な知的エリートであったこと。この事件によって台湾会社のエリート層が壊滅的な打撃を受けたばかりではなく、一般の台湾人の精神も、政治に対する恐怖心を深く刻みこまれた。
 そして、戦前からの台湾出身者である「本省人」と、戦後に中国本土から渡ってきた「外省人」との深刻な対立が生まれた。この2.28事件をめぐる台湾社会の対立は、いまもなお解消されていない。
 1945年の日本敗戦当時、台湾には40万人ほどの日本人がいた。日本統治の50年間で、台湾の人口は300万人が600万人へと倍増した。1949年ごろ、国民党が国共内戦に敗れたため、150万人の大陸住民が台湾に移住してきた。
 1946年末の台湾全体の失業者は30万人から40万人いた。戦後になって台湾に来た中国の軍隊は法律を守らず、さまざまな治安問題を引き起こし、台湾社会に大きな脅威を与えた。外省人が台湾の法治社会を破壊したというイメージがった。台湾人の外省人に対する反感の基本的な理由は、外省人の法治観念の欠如にあった。
 3月8日、基隆(ルーキン)で国府軍による武力掃討が始まった。戦艦が大砲で沿岸に撃ち込み、機関銃で町中の市民を掃射した。一週間続いた武力掃討の過程では、無差別の虐殺や誤殺が繰り広げられた。そして、より深刻な問題は、指名手配の有無を問わず、多くの医師や弁護士、参議会議員などの著名人が失踪したことである。彼らは秘密裏に処刑されたとみられる。
 国民党政府は、厳しい住民監視体制の下で、共産党スパイの取り締まりを行い、1949年から1960年までの10年間に100件の反乱グループを摘発し、2000人を処刑、8000人に無期から10年までの懲役刑を課した。このうち、本当に共産党員だったのは1割以下の900人以下で、残り9000人は冤罪だった。すなわち、「赤狩り」に名をかりた白色テロであった。 
共産党員と目された人々の氏名が銃殺刑の実施前に新聞に掲載され、駅前の掲示板などでも発表された。これは、国民党政府による「見せしめ」という手段を使った政治教育であった。
 1950年6月、元台湾省行政長官の陳儀までも、反逆罪で銃殺された。弾圧の元凶と目された陳儀の銃殺によって、台湾住民を懐柔しようという意図が見えていた。
 2.28事件については、今なお共産党の陰謀によるものであり、再検証する必要などないという当局の意向が働いている。
台湾社会の複雑な内情を知ることができる本です。
(2014年9月刊。2800円+税)

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