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カテゴリー: 中国

鄭和、世界航海史上の先駆者

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 寺田 隆信 、 出版 清水書院
15世紀のはじめ、明の鄭和は、当時の世界最大の船隊を率いて、東南アジアからアフリカ東海岸にまで航海した。その航海は、1405年から1433年までの29年間に7回、訪問国は30数ヶ国。バスコ・ダ・ガマがインドに達したのは1498年なので60年も早い。
鄭和の航海は軍事行動というのではなく、主目的は通商にあった。明帝国の政治使節であり、通商代表だった。政府ないし宮廷直営の貿易を行うための活動だった。鄭和が来たことで、明帝国に国王みずからやってきた国が4ヶ国、使節を派遣した国は34ヶ国にのぼる。
ただし、鄭和を送り出した明の永楽帝そして宣宗が亡くなると、明帝国は対外進出が消極的になり、国力も衰えてしまった。そのため諸外国からの朝貢も自然に消滅していった。
シルクロードといっても、実は陸上よりも海路の方が、はるかに輸送力がいい。商船1隻はラクダ2000頭に匹敵した。朝貢貿易は、朝貢国に莫大な利益をもたらした。一度、入貢すると、元本の5倍か6倍ほどの利益が得られた。
成祖永楽帝は内政よりも対外政策に非常な積極性を発揮した。鄭和は宦官(かんがん)だった。宦官は、本来、皇帝個人の家庭生活に奉仕すべき存在。鄭和の大船団は、2万7千人以上の乗員を乗せた62隻から成っていた。船は大きいものでは船長150メートル、船幅62メートル。これは、発掘された船の装備から、決して誇大な数字ではないとされている。
鄭和はイスラム教徒だった。明の中国では、イスラム教徒が弾圧されたり、迫害されたことはなかった。なので、多くのイスラム教徒が鄭和の大船団に参加していた。
鄭和の船団は、中国に珍しい動物を連れて帰国した。キリン、ラクダ、ダチョウ、シマウマ、アラビア鳥など。そのなかでとくに注目を集めたのは、キリンだった。日本にキリンが来たのは明治40(1907)年なので、中国のほうが500年も早かった。
鄭和の後に続く航海者がいなかったこと、明帝国が対外進出に国力をさけなくなったことなどから、この偉大な先駆者は、今も、あまり評価されていないのが残念。
実は、この鄭和の大船団について、どんな構成だったのか、船団に女性が本当に乗っていたのか(女性も乗っていたようなのです)、もっと詳しく知りたかったのですが、そこは残念ながら書かれていませんでした。
(2017年8月刊。税込1980円)

ウィグル大虐殺からの生還

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 グルバハール・ハイティワジ 、 出版 河出書房新社
中国の西方に新疆ウィグル自治区があります。ウルムチ、そしてトルファンには、私も一度だけ行ったことがあります。シルクロードの旅でした。トルファンは、まさしく炎熱砂漠地帯です。羊を目の前で殺してくれ、その羊肉をみなで美味しくいただきました。ウィグル族の抵抗運動が激化する前のことです。
ウィグル人は、スンニ派のイスラム教徒で、その文化は中国ではなく、トルコに起源がある。ウィグルの分離独立を目ざす運動があって、中国政府は厳しく弾圧している。街のいたるところに顔認証カメラと警官が配置されている。そして、2017年に再教育収容所が開設された。ここにのべ100万人ものウィグル人が入れられた。
新疆には、1200ヶ所もの再教育収容所があり、1ヶ所あたり250人から880人が入っている。収容所では、授業で暗記を強制され、グロテスクな軍隊風の行進をし、木製かセメント製の寝床で眠る前に、まず人格を奪われる。汚れたつなぎと布製の黒い上靴を身につけると、女性収容者はみな似かよった存在となる。そして、その瞬間から、名前ではなく、通し番号で呼ばれる。心が弱っていく。服従することによって、自分の好みや感情を押し殺す。
収容所のシステムは、生活に結びついていたものを次々に奪うことで、収容者の個性を消し去る。共産党をたたえる同じ言葉を何度もくり返す。プロパガンダづけになりながら、同じ熱心さで自分の再教育に励み、しだいに自分のアイデンティティを失っていく。みんなが一様に壊れていき、しまいには、肉体的にも精神的にも似たり寄ったりになる。無気力で、何も感じない。中身がからっぽの亡霊だ。人間ではなく、死者同然。
収容所では、まぶしい蛍光灯に照らされ、似たような授業、食事、行進の練習を続けさせられるうちに、時間の感覚がなくなっていく。
著者は、警官の暴力の前に屈してしまいました。心にもない「自白」をするほどまでに屈したのです。罪を認めるのが早ければ早いほど、ここから早く出られる、と聞かされていた。疲れ果てた末、その言葉を信じた。
その役割を受け入れたのは、無意味な再教育にしたがう境遇のなかで、ほかの出口は何もなかった。警察はきわめて巧みに人をあやつる。精神をしなわせて、無敵の盾のように使うことで、真実を決して忘れずにすんだ。
1949年に中華人民共和国が建国された。人民解放軍が新疆に進駐した。同時に漢民族の入植が本格化した。1949年にウィグル人は76%だったが、今や、ウィグル人と漢人は、40%台と拮抗している。
新疆では、「三、六、九の規則」したがって行動(申告)しなければならない。他人の訪問があったら住民は30時間以内に、地区委員会に知らせ、地区委員会は6時間以内に地元の警察署に知らせ、警察署は9時間以内にその訪問者の連絡先をファイルに保存するという決まりのこと。いやあ、すごいですね。こうやって人々の生活は隅々まで厳しく監視されているのです。
フランスからウソの名目で呼び戻され、収容所に閉じ込められたウィグル人女性が、自らの体験を実名で語った貴重なレポートです。
(2021年10月刊。税込2550円)

中国共産党、その百年

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 石川 禎浩 、 出版 筑摩書房
2021年に結党100年を迎えた中国共産党は、今9200万人の党員を擁する超巨大政権党である。結党からわずか30年足らずで中国(中華人民共和国)を建国し、70年以上にわたって中国を統治してきて現在に至っている。
中国共産党については、先日もこのコーナーで紹介しましたが、本書も一般向けの通史とは思えないほど良質であり、また大変読みやすいものです。
1945年8月の時点で、中国戦線は膠着(こうちゃく)状態にあり、日本軍が敗北するとは思えなかった。毛沢東も、この8月上旬の時点で、日本の降伏まであと1年ほどかかるだろうと見ていた。つまり、8月15日の日本降伏の知らせは突然やってきたのだった。そして、毛沢東は国民党軍との内戦を決意して、指令を出していた。ところが、スターリンがそれに待ったをかけた。
スターリンは、ソ連の在東北権益を保証してくれる蒋介石の国民党を選択した。その代わり、中国共産党に対しては、東北部への転進を認め、旧日本軍の武器弾薬を共産党側に引き渡した。このことによって、共産党は東北に広大な地域政権を樹立することができた。これによって、ようやくスターリンのソ連は中国共産党を認めることになった。
人民共和国建国当時の共産党員は450万人。内戦開始期から4倍に急増していた。そして、党員の4分の1は25歳以下という若い世代だった。ちなみに、当時の平均寿命は35歳でしかなかった。戦火のすさまじさですよね、きっと…。
指導者のほうも若い。毛沢東55歳、劉少奇50歳、周恩来51歳、鄧小平45歳だった。
中国(人民共和国)の建国のとき、共産党は旧来の六法全書を廃止し、体系ある法典をもっていなかった。刑事法の分野であるのは「反革命処罰条例」と「汚職処罰条例」の二つのみ。
中国建国(1949年)からまもなく、12月に毛沢東(56歳)は列車でモスクワに向かった。北京に戻ったのは翌年(1950)3月。新しい国家が誕生し、まだ国民党軍との内戦も続いているなかで、国家の最高指導者である毛沢東が3ヶ月も中国を離れたというのは、異例のこと。まったく同感です。
中国は国家運営について、経験豊富なソ連の専門家の派遣を要請しています。
ところが、帰国して3ヶ月後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。毛沢東の知らないところでスターリンがGoサインを金日成に送って始まった。周恩来らは、このとき参戦に反対したようです。
毛沢東は朝鮮戦争に、中国軍が義勇兵として参戦し、それなりの成果をあげたとして権威をより一層高めた。
毛沢東は、自ら暴君になったというより、暴君となることを支持された。
鄧小平は胡耀邦と趙紫陽の二人を天まで高く持ち上げていたが、あとになって、この二人を権力の舞台から引きずりおろした。
今や、2010年には、中国のGDPは日本を抜いて、「世界2位」になっている。
大変興味深い分析がオンパレードとなっている本です。ご一読ください。
(2022年2月刊。税込1980円)
 日曜日の午後、チューリップが終わりましたので、最後に咲いている1本のみ残して、全部堀りあげました。今はフェンスに色とりどりのクレマチスが咲き誇っています。赤紫色、白色、赤い筋の入った花、いろいろです。
 チューリップを掘りあげたあとには、いつもヒマワリを植えています。今度、昨年のヒマワリのタネをとっていますので、まくつもりです。
 ジャガイモの地上部分が元気よく茂っています。問題は地中なんですが…。
 庭に出ると、もう風薫る季節になったことを実感させてくれます。

明の太祖・朱元璋

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 檀上 寛 、 出版 ちくま学芸文庫
明の太祖(朱元璋)は、一人で聖賢と豪傑と盗賊の性格をかね備えていた。
歴代の皇帝中、明の太祖は漢の高祖・劉邦と並んで最下層の出身。
元末の反乱軍の中から身を起こし、当初は盗賊まがいの活動をし、やがて地方政権を樹立すると、一方の豪傑となり、皇帝となってからは諸々の制度を制定して聖賢の働きをした。
洪武(朱元璋)は複雑怪奇な性格の持ち主だった、だからこそ、元末の争覇戦に勝ち抜き、強大な専制国家の創設に成功した。
中国では宋代に皇帝独裁体制が成立し、明の初めに朱元璋によって最終的に確立した。そのため、10万人以上の官僚・地主等を粛清し、機構の大改革を断行し、皇帝一身に権力を集中させなければならなかった。
この本を読んで面白かったのは、皇帝となった朱元璋の地位が必ずしも強固ではなく、絶対的な権力を握って官僚たちを統制していたのではないとされているところです。朱元璋は皇帝として各集団の利害調整をしつつ、そのバランスの上で皇帝の地位を維持しているのが実情だった、というのです。
官僚は、その地位を利用して不正蓄財に務め、国家建設など眼中になかった。官僚と地主の癒着は相変わらずひどく、改善の兆しを見せず、腐敗は蔓延する一方だった。
明国の建国に功のあった功臣たちは、時間の経過とともに傲慢となり、かつて鉄の規律を誤った朱軍団の面影はすでに消え失せていた。大半の功臣は、おのれの地位を盾に傍若無人にふるまい、それがまた新たな社会問題になっていた。
朱元璋は、科挙を廃止した。科挙がわずか3年で廃止されたのは、合格者の「質」に問題があった。文詞のみに長じて、何の役にも立たない若造ばかりが合格していた。
また、科挙を廃止することで、南人層の官界への進出に歯止めをかけようとした。
朱元璋直属のスパイは検校(けんこう)と呼ばれていた。政界内部には、朱元璋の機嫌をとって出世を企むような不逞の輩が目立つようになってきた…。功臣・官僚を摘発するため、弾圧の嵐が吹き荒れていたころ、功臣・官僚を摘発するため、多くの監察官が動員された。
元璋のおこした文字の獄は、元璋個人の恣意性にもとづく。朱元璋は、自分の出自への強いコンプレックスがあった。
朱元璋にとってもっとも気がかりなのは、後継者の皇太子のことだった。
朱元璋の晩年は、まことに寂しいものだった。最愛の妻と皇太子に続き、第二子、第三子を失った。戦友の大半が死に、今いる者は朱元璋の顔色をうかがうようなものばかり。
結局、永楽帝が皇帝となるまで、大波乱があった。
いやあ、独裁者というのは、いつの世も後継者については大変な苦労を余儀なくされるようですね。
(2020年9月刊。税込1320円)

中国共産党の歴史(3)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 高橋 信夫 、 出版 慶応義塾大学出版会
毛沢東が1958年に始めた大躍進、人民公社は表向きの華々しい成果とは逆に、実は、深刻な飢餓をもたらした。水利建設と鉄鋼生産に農村労働力の多くが奪われたため、食糧は豊作だったのに、収穫すべき人間がいないため、結果として食糧不足を招いた。
そこで、1959年7月から始まった廬山(ろざん)会議で、国防部長の彭徳懐が大躍進を遠回しに批判した。これに賛同する者もいたので、毛沢東は、自分に対する重大な挑戦と受けとめ、大々的な反撃に出た。その結果、大躍進の行き過ぎを是正する動きは全部吹きとばされ、300万人もの党員が「右傾機会主義分子」として打倒された。
実体のない「大躍進」は、達成できないと「右傾機会主義者」のレッテルを貼られて打倒されるかもしれないとの恐怖にもとづいて偽造された高い「生産額」に支えられていた。そして、大量の工業設備や先進的技術を取り入れて豊かな工業国になるためには、農村から徴発した食糧を輸出するしかなかった。
その結果、大躍進にもっとも積極的な姿勢を示した地方が、もっとも深刻な飢餓に直面することになった。河南省信陽地区では、総人口の4分の1にあたる100万人が餓死した。
ところが、毛沢東は食糧の絶対的不足を認めようとせず、富農による穀物隠匿のせいだと依然として思い込んでいた。
1960年11月、食糧不足を解決するための努力がようやく始まった。公共食堂の廃止、自留地、家庭内副業の拡大が認められた。そして、農業労働力を確保するため、都市住民が農村に強制的に移住させられた。1961年に1000万人、1962年に2000万人と、合計3000万人もの都市住民が農村に移住した。
毛沢東は大躍進が失敗だったとは決して認めなかった。ただ、おざなりの自己批判をしただけだった。国防部長の村彪は、「過ちは毛主席の指示に忠実に従わなかったから生じた」と発言したのを、毛沢東は称賛した。
ただ、毛沢東の権威は失墜した。そして1962年夏以降、毛沢東は反撃を開始した。文化大革命の始まりだ。
このとき、劉小奇らは毛沢東とたたかう意志はまったくなかった。「君」を諫めることすらしなかった。たたかう意志と戦略をもっていたのは毛沢東だけだった。
毛沢東の背に乗って権力を拡大しようとする人々と、彼らの背に乗って「階級闘争」を展開しようとする毛沢東がいた。誰も毛沢東という暴走列車を止める者はいなかった。
毛沢東は1964年に72歳。このころの毛沢東の精神状態はどうみても尋常ではなかった。気まぐれ、かんしゃく、虚言を繰り返した。党内でもっとも信頼するに足る人々を信用せず、信頼すべきでない人々を信じた。
毛沢東による文化大革命の悲惨は言葉で言い表せないほどひどいものがあり、中国をズタズタにしてしまったのです。
最後までぎっしり内容の濃い340頁の本です。強く一読をおすすめします。
(2021年7月刊。税込2970円)

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