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カテゴリー: ヨーロッパ

ヒトラー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 芝 健介 、 出版 岩波新書
私と同世代(団塊世代)の大学教授によるヒトラー論です。私もそれなりにヒトラーについて書かれた本は読んできたつもりですが、この新書には知らなかったことも多く書かれていて、その評価など、目を見開いて考えさせられることの多い本でした。さすがはナチス・ドイツ研究の第一人者と言われている学者だけのことはあります。
ヒトラーが実際に何をやったのか少しでも知った人ならヒトラーの再評価なんて絶対に考えられませんが、ヒトラーは悪い面だけでなく、良い面もあったという「バランス感覚」の乗りで考えている人が、今日ではドイツも含むヨーロッパでも日本でも少なくないとのこと。本当に歴史教育の大切さを実感させられます。
ヒトラーは人間の姿をした悪魔(サタン)の化身だ。条約を破って戦争を遂行し、民間人の女性や子どもを傷つけないと確約しながら、今やヨーロッパ中に何千という巨大な墓穴を掘り、ゲスターポ(秘密国家警察)による何百万という犠牲者たちの遺体をそこに埋めている。
これは11歳のユダヤ人少年が1943年9月に日記に書いていた文章。この少年は隠れ家を襲われ、絶滅収容所に送られる寸前、青酸カリを飲んで自殺した。
ヒトラーは生粋のドイツ人ではなく、オーストリア生まれのオーストリア人。ヒトラーは、1032年になったようやくドイツ国籍をとった。ドイツではプロテスタントが圧倒的だが、ヒトラー自身はカトリック教徒のままだった。ヒトラーの父アロイスは、婚外子であり、父方の祖父が誰なのか、今も不明のまま。
ヒトラーの名前は、実は、その前はミックグルーバーという、「下品で野暮ったい」苗字だったのを、父がヒトラーに改姓してくれた。
ヒトラーには、怠惰な生活スタイル、誇大妄想狂、規律に欠け、計画的に物事が進められない傾向がある。ヒトラーは首相になってから、討議をしだいに開かなくなっていたが、これも青年期以来の怠惰な生活スタイルによっているのではないか…。
ヒトラーは、十分な食糧と衣類と宿舎を提供してくれる場として、軍隊に入った。軍隊では、上等兵となり、連隊司令部つき伝令兵になった。これは前線の兵士に比べたら、より安全だった。
ヒトラーの演説の声は、ちょっとくぐもった調子のしゃべり方なのだが、よく聞きとれる声で、合点のいく気のきいたことを誰にもわかる生き生きした言葉で言いあらわす才能に恵まれている。これはヒトラーの演説を実際に聞いたジャーナリストの評価だった。
ヒトラーの演説が集会の呼び物になった。党の財政も左右した。
ヒトラーはミュンヘン一揆に失敗したあと逃亡し、一時、身を隠していたが、ついに逮捕され、裁判にかけられた。ヒトラーは、当初は沈黙し、食事も拒否した。しかし、裁判官はヒトラーに同情的で、ヒトラーが法廷で何時間にもわたって自分の政治的見解を披露するのが認められるという異例の厚遇だった。そのうえ、反逆罪なので、本来なら死刑判決しかなかったはずが、禁固5年という異常に軽い判決が宣告された。これはヒトラーが執行猶予中の身であったことも考慮すれば、まったくありえないほど軽い判決だった。なので、著者は、この判決の違法性は明白だと強調しています。
ヒトラーは要塞監獄に入れられたが、ヒトラー35歳の誕生日は、監獄なで盛大な祝賀パーティーが開かれた。いやはや信じられません。
ミュンヘン一揆前のナチス党の党員は5万5000人(1923.11)だったのが、一揆後は5千人ほどとなり、1926年に3万人超、1927年に6万人近くになった。
ヒトラーの個人的大スキャンダルとして、1931年9月に、同居中の若い(23歳)女性がヒトラー所有の拳銃で胸をうち抜いて自殺したことが紹介されています。ヒトラーは、交際相手の女性として20歳も若い女性をいつも選んでいたことも知りました。最後に結婚して共に死んだエーファ・ブラウンもヒトラーより23歳も若かった。
1932年7月の国会選挙で、ナチ党は230議席、得票率37.4%を占めた。
ブルジョア中道政党は、ナチスに支持基盤を奪われ消滅状態になった。他方、共産党は77議席から89議席(14.6%)と着実に上昇した。
1932年11月の選挙で、ナチ党は大敗した。ナチ党は、第一党の地位は保ったが、34議席を失い196議席となり(得票率33.1%)、ブルジョア政党が少し回復した。
また、社会党は12議席を失って121議席(20.4%)、共産党は12議席を増やして100議席(16.9%)の大台に乗せた。とりわけ、交通スト真最中の首都ベルリンで共産党は45万票(37.7%)を獲得し、第一党を占めた。
1932年12月、ドイツ国会はナチスの指示により、無期休会に入った。もちろん、社会党も共産党もこれに反対した。
そして、1933年1月にヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に任命した。ヒトラーは首相になると、直ちに「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を発し、集会・出版の自由を制限した。また、政府転覆計画の阻止を口実として、ベルリンの共産党本部の家宅捜索を強行した。そのうえ、国会議事堂が炎上したことから、共産党員を一斉検挙し、社民党をはじめナチスの政敵2万5千人以上の身柄が拘束された。
3月5日、そのような状況下で国会選挙があり、ナチスは550万票ほど票を伸ばしたが、ナチ党単独では過半数をとれず、社民党が120議席(18.3%)と健闘した。さらに、ヒトラー政府は共産党の議席剥奪を宣言し、強制的に国会から排除した。
そして、3月に授権法(全権委任法)を制定し、政府が国会にかわって法律を制定できること、憲法に反してもよいこととされた。社民党は反対したが、賛成441、反対94で授権法は可決した。
憲法違反の法律を政府が国会にかけることなく制定できるというわけですから、まさに独裁国家です。ヒトラーの権力掌握過程は、私たち日本人も教訓として学んでおく必要があると思いました。
(2021年10月刊。税込1276円)

小説・ムッソリーニ(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 アントニオ・スクラーティ 、 河出書房新社
ヒットラーについては最近の中公新書をふくめて何冊も評伝を読みましたが、イタリアのファシスト党のドゥーチェ(総統)のムッソリーニについては初めて読みました。ただ、小説と銘うっていますし、「ファシズムの側から反ファシズムを描いた小説」ということなので、イタリアの戦前・戦後の歴史に詳しくないと、なかなか没入できない本です。それでも、なんとかガマンして読みすすめていくうちに、ファシズムというのは、むき出しの暴力をともなうものだということがよく分かりました。
私の大学生のころ、全共闘という学生集団があり、暴力肯定でむき出しの暴力を行使し、大学を支配下におこうとしました。東大では、その野望は結局、挫折しましたが、全国の大学のいくつかで暴力支配が実現してしまいました。その暴力支配は、絶えず内ゲバをともない、多くの死傷者を出しました。今でも全共闘を賛美する人が少なくありませんが、暴力肯定論は浅間山荘における日本赤軍の大量殺人に行きつくものだという真摯な反省が欠けていると私は考えています。
ムッソリーニは、ファシストになる前は、労働者を大切にしようと主張する社会主義者の新聞『アヴァンティ―』の主幹として活躍していた。知りませんでした。
ムッソリーニは、梅毒に冒されていたものの、屈強な体格の持ち主だった。
ムッソリーニは、プロレタリアート(労働者)の精神を把握し、解読することにかけて、その右に出る者はいないと仲間たちは公言していた。
ムッソリーニは、真摯で熱烈な絶対的中立論者だったのに、ほんの数週間のうちに真摯で熱烈な参戦論者に転向した。それで、ムッソリーニは社会党から除名され、プロレタリアートの兵隊を失った。
手錠、牢獄、それでも足りないときは腹に打ちこまれる銃弾。民衆のために用意されているのはいつもそれだけ。そして、暴力の担い手は、ブルジョワ、地主、企業家だ。広場に集まった群衆は、暴力の犠牲者となることにかけては、もはや熟練の域に達している。
この上巻は1919年に始まり、1921年までのイタリアの状況を活写しています。
1920年12月、フェッラーラ県のエステンセ城前の戦闘で3人のファシストが社会主義者に殺された。この戦闘はファシストが仕掛けたものだったが、社会主義者の側も防衛のために爆弾を持ち込んでいて、それが警察に摘発されていたことから、ファシストは、社会主義者に責任を押しつけることに成功した。
1921年当時のイタリアでは、暴力について、尽きることなく議論していた。政治闘争に暴力を持ち込むなという点について、ムッソリーニの主張は明快だ。
ファシストは、そうせざるをえない場合においてのみ、暴力を行使する。ファシストは、そうするよう強いられた場合にかぎり、破壊し、粉砕し、放火する。それがすべてだ。
ファシストの暴力は騎士道精神にもとづいたもの。暴力は、個人的な復讐という性質ではなく、国家の防衛としての性質を有する。
どこでも、警察を軍が盾(たて)となって、ファシストの敵の労働者協会の拠点を蹂躙するファシストを援護した。警察権力はもう、投獄をちらつかせファシストを脅すようなことはしなかった。それどころか、ファシストは、軍の車に同乗し、120丁の小銃と3ケースの手りゅう弾を提供されていた。
社会主義者が真摯に武装解除するのであれば、そのときこそ、ファシストもまた武器を捨てるだろう。ファシストにとって、暴力とは異議申立であって、むごたらしく、だが不可避な営みとして、この一種の内戦を受け入れている。ムッソリーニは、このように語った。
いまや、ポレジネ地方の哀れな農村では、夜中に誰かが戸を叩き、「警察だ」という声が聞こえたなら、それは死刑執行を意味すると認識されている。
ファシズムとは、行き過ぎること。ファシストたちは、週末になると、近隣の農村に出かけていき、労働者会館、組合事務所、そして赤の役場を襲撃する。殴り、破壊し、広場で旗を焼いた。
ファシズムとは、教会ではなく訓練場であり、政党ではなく運動であり、綱領ではなく情熱である。ファシズムとは、新しい力である。暴力のスペクトルのなかに光の性質を正しく浮かび上がらせる。無差別殺人とは、ファシストではない者たちが、アナーキスト、共産主義者が行使する、暗がりのなかの暴力だ。ファシズムの暴力は光だ。
わずか2.3ヶ月のうちに、9つの労働評議会、1つの生活協同組合、19の農村同盟が破滅させられた。社会主義勢力の瓦解は、とどまるところを知らなかった。いまや各地で、農村の大衆は赤旗をおろし、ファシストの組合に加入していた。
農村運動の指導者たちは、すさまじい速度で進行する崩壊を前にして、なすすべもなく立ちつくしていた。そして、次のように呼びかけた。
「家から出てはいけない。挑発に応じてはいけない。沈黙すること。臆病にふるまうことは、ときとして英雄的な行為なのだ」
ひまし油の利用。ファシストの脅しに屈しない社会主義者を見つけると、その口にじょうごを突っ込み、通じ薬に用いられるひまし油を1リットル、無理やり胃に流し込む。そして、車のボンネットに縛りつける。それで屁をひり、糞をもらす姿を、村中の住人にさらすのだ。ひまし油を飲まされた人間は、殉難者になる資格を喪失する。恥辱が同情を吹き払ってしまうからだ。公衆の面前で糞をもらした人間に、崇拝の念を抱く者はいない。嘲笑にはすぐれて教育的な効果がある。その効き目は長く続き、人格の形成に影響を与える。排泄物は血よりも広く、国家の未来に拡散していく。
いやあ、これはひどい。ひどすぎます。こんなファシストの蛮行は絶対に許せません。
暴力が渦を巻き、新たな犠牲者の血が流され、家屋に火がつけられた。ファシズムは、暴力的であることをやめるやいなや、そのあらゆる邪悪な特権を、そのあらゆる力を失うだろう。
ファシズムの本質がよくよく分かる本です。
(2021年8月刊。税込3135円)

中世の写本ができるまで

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 クリストファー・デ・ハメル 、 出版 白水社
古代の写本は、もちろんパピルス。エジプト産の葦(あし)を原料としている。パピルスは製造費が安く、巻物の書写材には適していたが、冊子の形態にとじられたテキストには不向きだった。
紙は中国で2世紀に発明された。これが千年もかけてゆっくりとアラブ世界を経由して西洋に到達した。13世紀にスペインとイタリアに本格的な製紙場ができ、フランスには14世紀(1340年ころ)、ドイツでも1490年までに普及した。イングランドはさらに遅く、15世紀後半。
印刷術の発明は1450年ころのこと。それまでは写本である。1100年ころまでは大部分の書物は修道士が手がけ、1200年以降は、ほとんどが修道院から離れて独自に製作されるようになった。
洋皮紙は動物の皮からつくられる。成長した牛の皮は分厚くて、使えない。子牛または若い雄牛の皮を原料としている。
洋皮紙をつくるのは手間ひまのかかる込み入った工程だ。動物の原皮を、石灰水の入った木か石の水槽に3日ないし10日間浸けて(冬場はもっと長い)、1日に何度か木の棒で水槽をよくかき混ぜる。そのあと、持参した弓形のナイフで毛をこすり取る。脱毛したあとの生皮はさらに2日間も水に浸け、ようやく木枠に張り伸ばす。洋皮紙は並はずれて耐久性に富み、保存状態がよければ、千年ないしそれ以上も長持ちする。これに対して、中世の紙は亜麻のぼろ布からつくられていた。
写本とは、手で書かれたもの。ガチョウの風切羽のうちから、羽根ペンをつくる。これがもっとも筆写に適していた。羽根ペンは、ペン先にインクをつけながら使う。
製本するのは書籍商。書籍商は、写本制作の注文を受け、折丁をその町の複数の写本画家にふり分ける。
中世につくられた写本は、いまなお数万冊が現存している。
洋皮紙が誕生するまで、また、そのつくり方がたくさんの現物の写真とともに詳しく紹介されていて、目を見開かされました。
(2021年8月刊。税込4950円)

シルクロードとローマ帝国の興亡

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 井上 文則 、 出版 文春新書
ローマ帝国にとって、シルクロード交易のメインルートは陸路ではなく、海路だった。海のシルクロードが活躍していた。
いやあ、これには驚きました。もちろん陸路のシルクロードがあったことは間違いありません。しかし、大規模交易は陸路ではなく、海路だったというのです。ローマからインドへ行くのにも、陸路ではなく海路のほうが大規模交易に向いていた。なるほど、そうなんですね…。
交易品のリスト。布類とガラス器、金属、金属加工品、ローマの貨幣(金・銀・銅)、ブドー酒、オリーブ油など…。ガラス器はローマ帝国の特産品だった。ブドー(葡萄)酒もローマ帝国を代表する輸出品だった。当時の葡萄酒は今のワインとはかなり異なっていて、アルコール度は高く、たいてい水で割って飲み、蜂蜜や香料を加えていた。
地中海で揺れていた珊瑚も輸出品だった。乳香は、樹木の樹液の塊で、半透明の乳白色をしていた。加熱すると、香気を発する薬種としても用いられた。没薬は、同じく樹木の樹液が固まったもので、色は黄赤褐色。絹はぜいたくの象徴であり、価格は非常に高かった。
ローマ帝国は交易について、25%もの高額の関税をかけていたので、交易が盛んになればなるほど、関税収入が増え、帝国はもうかる仕組みになっていた。
ローマ帝国の国家予算は、軍事費が6~7億セステルティウスだったので、関税収入が4億セステルティウスだと、軍事費の大半がまかなえたことになる。
ローマ帝国の繁栄とは、都市の繁栄にほかならなかった。そして、都市の自治に関わる役職は無給でしかなかった。
ローマ帝国は、紅海に艦隊も配備していた。
ローマのシルクロード交易は、1世紀の後半にピークを達し、五賢帝時代の始まる5世紀末には早くも衰退しはじめていた。
中国人がローマ帝国について、「大秦国」と呼んだのは、「多くの中国人にとって、山の向こうに自分たちと同じような世界があると信じていたが、そのローマ人は背が高いと聞いて、背の高い自分たちと同じ中国人の国」という意味で「大秦国」と呼んでいた。
このころ、西方は東方より貧しかった。東方の諸地域は古くから文明が栄えていた。
ホント、世の中は知らないことだらけですね。
(2021年8月刊。税込935円)

私はイスラム教徒でフェミニスト

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(霧山昴)
著者 ナディア・エル・ブガ 、 出版 白水社
それは、二人だけで楽しむ大人のゲーム。子どもたちの目の届かないところ、二人だけの世界で、自分たちのセクシュアリティをつくりあげていく。このゲームに敗者はいない。そう、夫婦のセックスのことです。
厳格なムスリムと同じように、正統派のユダヤ教徒も肌に触れることを性的な行為とみなしているので、男女のあいだでは握手をしない。
出産するときに多くの血を流すのでユダヤ教徒では、生理中と同じように出産後の女性もまた不浄とみなされる。男の子を生んだら7日間、女の子なら14日間は一切の性交渉が禁じられる。正統派ユダヤ教徒は、シーツに開けた穴からしか性関係を結ばない。ええーっ、ウソでしょ、そんな…、信じられません。
著者はフランスで活動しているイスラム教徒の女性です。助産師で、セクソローグで、ラジオのパーソナリティーで、2人の子をもつ母親でもあります。
イスラム教徒は、イスラムの名において女性がおとしめられ、過小評価され、抑圧され、服従させられている。著者は、このことを厳しく批判しています。
神のメッセージは明快で、精神的な自由と社会的な解放を結びつけると説き、この点でなんら男女を区別していない。精神面で、イスラムのメッセージでは男女をまったく区別していない。女性たちは自分の場所を取り戻すのに、父親や夫、兄に許可を求める必要など、まったくないのだ。コーランは、明確に一夫一妻が理想だとしている。
著者の仕事は、女性たちの選択に寄りそうこと。もちろん、イスラムの教義を敬う。けれど、教義は硬直したものではない。解釈があっての教義だ。
イスラムにおいて、女性の性欲、興奮、快楽は認められているだけでなく、好ましいものとみなされている。男性は、相手が満たされているかどうかに気を配らなければならない。
セックスは、要は楽しむこと。これが著者の考え。
イスラムの女性がスカーフを被るのは、イスラムの教義にとっても信仰にとっても、それほど重要な位置を占めているものではない。著者がスカーフを被っているのは、自分の意思によるもので、被らされているのではない。自分の意思で選択しただけのこと。スカーフは、信仰の道具の一つなのだ。
若者に向けてラジオで性のことを率直に語るイスラム教徒の女性であり、セクソローグ(性科学医)の本です。いったい日本にもセクソローグって存在しているのでしょうか…。
大胆かつ有益な、よりよい生き方を示す大切な本だと思いました。
(2021年9月刊。税込2420円)

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